http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/628.html
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(回答先: 孫文の正体(太田述正コラム) 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 5 月 07 日 11:36:36)
太田述正コラム#0228(2004.1.13)<孫文(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955605.html
太田述正コラム#0229(2004.1.14)<孫文(その2)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955604.html
太田述正コラム#0230(2004.1.15)<孫文(その3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955603.html
太田述正コラム#0234(2004.1.19)<孫文(その4)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955599.html
1 「国父」孫文
孫文と近代トルコの「国父」のケマル・アタチュルク(1881??1938年)とは好一対の存在です。
両者とも、領域保全のためには軍事力の強化が必要で、そのためには欧州化(近代化)が必要だとし、欧州化はあくまでも領域保全という目的達成のための手段の手段に過ぎないのであって、それ自体が目的ではない、と考えていた点で共通しています。
孫文については、彼が1924年に神戸で行った、いわゆる大アジア主義演説の中の、「東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道であります。王道は仁義道徳を主張するものであり、覇道は功利強権を主張するものであります。仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、功利強権は洋銃大砲を以て人を圧追するものであります。・・斯くの如き好個の基礎を持って居る我々が、なお欧州の科学を学ぼうとする所以は工業を発達させ、武器を改良しようと欲するが為に外なりません。・・我々はそれを学んで自衛を講じようとするのであります。」(http://www.yorozubp.com/asiaism/asiasunwen.htm。1月12日アクセス)というくだりが明瞭にそのことを物語っています。(ケマル・アタチュルクについては、コラム#164参照。)
このような考えの持ち主であった孫文とアタチュルクは、どちらも欧州(欧米)、就中アングロサクソンの価値観の核心である自由主義(人権)には全く関心を示しませんでした。
孫文とアタチュルクが、それぞれその目的としたところの領域保全の範囲を画する「民族」を新たに作り出さなければならなかった、という点でも二人は共通しています。(支那の「民族」問題については、別途論じたい。)
イデオロギーの点では、アタチュルクは世俗主義の徹底を図り、死後このアタチュルク流世俗主義がケマリズムというイデオロギーに転化したのに対し、孫文は生前からイデオロギーの構築に努めました。
孫文らによって東京で中国革命同盟会が結成された1905年、孫文は、民族主義、民権主義、民生主義からなる三民主義なるイデオロギーを打ち出します。
民族主義とは満州族支配からの解放を指し、民生主義とは民衆の生存に必要な衣食住の確保を指し、民権主義は民主主義を指していました。
民権主義にあっては欧米の民主主義の三権分立ではなく、五権分立・・行政院、立法院、司法院、考試院、監察院(=executive, legislative, judicial, examination(civil service), censorate yuans)の分立・・が提唱されました(http://iseken.hp.infoseek.co.jp/sanmin.html。1月13日アクセス)。考試院は漢以来の官僚制ないしは隋以来の科挙制度の復活であり、監察院は、明の太祖、洪武帝(Emperor Hong Wu。1328??1398年)が初めて設けた同名の機関の復活でした(http://www.wsu.edu:8080/~dee/MODCHINA/SUN.HTM。1月12日アクセス)。
孫文が、このような欧米と支那の制度を寄せ集めた、三権分立制ならぬ五権分立制を提唱したところにも、彼の欧米理解の浅薄さが現れています。
第一次世界大戦中にロシアでボルシェビキ革命が起こると、コミンテルンのエージェント達が支那に派遣され、孫文に民主主義独裁の考え方を吹き込み、1919年に孫文らは中国国民党を結成します。そして孫文は、1921年に創設されたばかりであった中国共産党の支持母体である農民や工場労働者を中国国民党に取り込むねらいで、1923年、共産党員が国民党員になることを認め、その見返りとして、国民党はソ連に軍事顧問、武器弾薬等の支援を受けることとなりました(http://www.time.com/time/asia/asia/magazine/1999/990823/sun_yat_sen1.html。1月12日アクセス)。
これが上海での孫文・ヨッフェ共同宣言(ヨッフェはソ連の極東代表)であり、翌1924年には第一次国共合作が成立します。
(この結果できた単一民主主義独裁前衛政党が、1927年に、朱徳、賀龍らが蒋介石による北伐の途中で起こした南昌蜂起によって、ファシズム政党である中国国民党とマルクス・レーニン主義政党である中国共産党に分かれる、と考えるといいのです。)
この頃、孫文の三民主義も民主主義独裁的な内容へと大きく変化します。
民族主義は、反帝国主義にもとづく民族の解放・独立や世界の被圧迫民族との連帯を意味するものとなり、民生主義は土地改革と重要産業の国有化を意味するものとなりました(http://www.tabiken.com/history/doc/H/H196C100.HTM。1月13日アクセス)。
また民権主義は、(軍を掌握した上意下達の前衛党による)独裁的支配の段階、次に(前衛党による、地方自治のみを認めた)政治指導の段階、そして最終的に完全な民主制の段階へ、という三段階革命論(前掲ワシントン州立(WS)大学のサイト及びTime誌のサイト)という、アジア初の民主主義独裁の理論へと変貌を遂げたのです。
国民党が1928年に支那の政権をとると、孫文の五権分立制が採用され、また、孫文の民主主義独裁の理論も蒋介石によって自分の独裁的統治を正当化する理論として援用されることになり(前掲WS大学のサイト)、他方で孫文の民主主義独裁の理論は、共産党によっても毛沢東の新民主主義論(前衛党の指導の下で広範な統一戦線によって推進され,帝国主義,封建主義の支配を覆すことを目的とする新民主主義革命と、その後の社会主義革命の二段階論)に形を変えて受け継がれることになります(前掲tabikenサイト及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/J/J248C200.HTM(1月13日アクセス))。
2 孫文と日本
まずは、ざっと日本に関わる孫文の言動を追って見ましょう。
「いま日本の軍国主義者がその侵略政策を中国に強行しようとしても、目覚めた中国は全力でこれを拒否するし、列強もまた日本の独占を許す者でない」(孫文が、1919年に発した「国際共同発展中国実業計画」より。『孫文傳』鈴江言一著(岩波書店 昭和47年第八刷)より。http://www.h5.dion.ne.jp/~mikawak/kyouikushiryou/sonbun.htm(1月12日アクセス)より孫孫引き)
「われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である。」(1923年に孫文がある日本人に語った言葉。田中正明「アジア独立への道」展転社、1991年61頁(http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog043.html(1月12日アクセス)より孫引き)。
「我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。・・我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(1924年の大アジア主義演説。萬晩報(yorozubp)前掲)
孫文が北京で死亡する直前、萱野長知という日本人が病床に呼ばれ、孫文は「犬養先生、頭山先生は、お元気か」と聞き、更に「わしが神戸でのこした演説は日本人にひびいたか、どうか?」と問うた(biglobe前掲)。
そして孫文は、「余の力を国民革命に致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求めるにあり。四十年の経験を積んで、この目的に到達せんと欲するには、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我に対する民族と連合して共同奮闘すべきことを知る。現在、革命なほ未だ成功せず」という遺書を残して59年の生涯を閉じた(dion前掲)。
いかがでしたか。
全く孫文の言うとおりだ、「戦前」の日本人は間違っていた、と相当多くの方がお感じになったのではないでしょうか。
実際、敗戦直後にあの石原莞爾が次のように言っています。
「日本人は<大アジア主義演説での孫文>の忠言に耳を藉さなかったのみか、支那事変勃発後も、自称大亜細亜主義者すら覇道の犬たる行為を反省せず、ついに今日の結果を招いたのである」(「石原莞爾選集7 新日本の建設」(たまいらぼ)の戦後論述集のなかの「新日本の建設」208頁。 http://www.asyura2.com/2us0310/dispute14/msg/121.html(1月12日アクセス)より孫引き)と。
しかし、支那事変を拡大して行ったことへの批判は正しいとしても、石原のこのような総括の仕方は誤りであり、石原の知性の限界を示すものです。(拙著「防衛庁再生宣言」においても、敗戦後の石原の吉田ドクトリンへの「改心」を揶揄した(同著236 頁)ところです。)
なぜならば、孫文の言う「東洋王道の干城」(大アジア主義演説より)たれとは、日本に「英米を覇者とする白人の帝国主義の被害者たる亜細亜民族を連ね、更に白人中の被害者側に居る露西亜、独逸と結び、世界的に思想を根拠とする解放戦争を演出せんとする」孫文(「大アジア主義演説」に感銘を受けた中野正剛が、仮名で1925年に書いた「孫文君の去来と亜細亜運動」という雑誌論文より。松本前掲131頁)らに組せよと迫るものだったからです。
すなわち、孫文は一貫して日本に対し、自由・民主主義のアングロサクソン文明との連携をやめ、全体主義の欧州文明側に組するように迫り続けた、ということです。
孫文の呼びかけを謝絶した圧倒的多数の「戦前」の日本人は、正しかったのです。
孫文の呼びかけに対し、これを最初に明確に拒否した日本人が頭山満(1855??1944年)でした。
その頭山は、孫文が死ぬ直前まで犬飼毅とともに口にした、「亡命時代に自分をかばってくれた日本人」(大アジア主義演説より)の一人でした。
一体、1877年に玄洋社を創設し、国家主義、膨張主義、右翼の重鎮と称される頭山がどうして孫文を庇護し、やがて孫文と見解を異にするに至ったのでしょうか。
まず、頭山ら、「戦前」の正統派「右翼」の源は自由民権運動だということを理解する必要があります。例えば、中江兆民(1847??1901年)と頭山満は親友であり、中江の生前の二人の考え方は殆ど同じでした(松本健一「竹内好「日本のアジア主義」精読」岩波現代文庫68頁)。
その頭山の一番弟子が内田良平(1874??1937年)であり、1901年に黒竜会を創設するとともに、著書「露西亜亡国論」を上梓(発禁処分を受ける)し、その中で「極端なる民族は極端なる革命を要す。彼が革命は、少なくともフランス革命以上の鮮血を流さざるべからず」とボルシェビキ革命を予言するとともに、「吾人にして万一正義のために蛮露と戦うて倒れたりとせんか、後世の史家は、必ずや書していわん、二十世紀の劈頭に日本民族なるものありて、不幸なる巨億の蛮人を救済せんがために健気にも仁義の師を興し、終に健闘して強敵の滅ぼすところなると。これ名誉の敗亡なり。」と対露主戦論を唱えました(松本前掲72頁)。
その翌年の1902年には、実態は対露同盟であるところの日英同盟が締結されます。
内田が悲痛な思いで待ち望んだ日露戦争は、その二年後に始まり、幸いにも日本が辛勝するのですが、この戦争は、既に憲法を持ち、自由・民主主義確立への道を着々と歩んでいた日本が、全体主義のロシアから日本、ひいては世界を守るとともに、ロシア民衆を解放するためのものだ、と内田を始めとする当時の日本の自由・民主主義者達はとらえていたのです。
この日露戦争の結果、日本は韓国と満州に権益を獲得することになります。しかしそれはあくまでも、依然としてあなどれない全体主義ロシアに備えるためのものと認識されていました。
内田が朝鮮人の李容九とともに日韓合邦論を推進したり(http://seisantou-k.hp.infoseek.co.jp/iyongu03.htm。1月14日アクセス)、頭山が支那の革命を夢見る孫文を支援したりしたのも、自由・民主主義理念をいただく改革政権を朝鮮半島と支那で樹立した上で、これらの政権と日本が提携し、全体主義ロシアに共同であたるためでした。
第一次世界大戦中の1915年、日本は「対華21カ条要求」を袁世凱政権につきつけ、受諾させるのですが、この要求は、やはりロシアの脅威に備えるため、日本の支那における権益の維持拡大、及び混乱期に入っていた支那の保護国化、を意図したものであり、これまた当時の日本の自由・民主主義者達の期待に答えるものでした。
例えば、大正デモクラシーの旗手たる吉野作造は、「対華21カ条要求」は「帝国の立場から見れば、大体に於て最少限度の要求である」(「日支交渉論」。http://www.human.mie-u.ac.jp/~sakuradani/sk20030624.pdf(1月14日アクセス)より孫引き)と述べています。
その後孫文は、(内田が予言した通りの血なまぐさいボルシェビキ革命の結果生誕した)ロシアの後継国家たる全体主義ソ連と提携する動きを見せます。(ようやく自由・民主主義が確立しつつあった)日本の自由・民主主義者達は、この頃から日本が、ロシアと支那とが合体した巨大な全体主義勢力の脅威に晒される、という悪夢にうなされ始めるのです。
こういう時、1921年に日英同盟が解消されてしまいます。
以上の経緯からすれば、1924年に孫文が「大アジア主義演説」を行う直前、神戸で頭山と会い、「対華21カ条要求」廃止に尽力して欲しいと要請したのに対し、頭山が「満蒙地方・・に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずるが如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう」とにべもなくはねつけた(松本前掲114??115頁)のは当然のことだったのです。
3 支那はいかなる路線を採択すべきだったのか
清崩壊後の支那はいかなる路線を採択すべきだったのか、ここで改めて考えて見ましょう。
(1) 自由・民主主義路線
孫文の同志であった宋教仁(Song Jiaoren。1883??1913年)は、英国や日本を範例とする、自由・民主主義に立脚した議院内閣制を1911年の辛亥革命直後の支那・・最初の中華民国臨時大総統は孫文でしたが、すぐ北洋軍閥を率いる袁世凱(Yuan Shikai。1859??1916年)にとってかわられます・・にただちに樹立しようとしました。
しかし第一に、支那には英・日に見られるような「多元主義と寛容の精神」が存在せず、支那が英・日のように、「社会・政治の基本構造(edifice)の安定を揺り動かすことなく、最も抜本的な革命を発動(affect)すること」ができる社会(コラム#84及び#223参照)でもないことはやむなしとしても、第二に、支那では津田の言葉を借りれば「社会組織が散漫で人の生活に於ける社会連帯の観念が無く、従つて社会意識が発達しなかった」のであり「民族意識国家意識・・<が>弱かった、或は無かった」(コラム#233)だけでなく、第三に、当時の支那民衆の教育レベルは低すぎました。
これを一言で言えば、当時の支那は魯迅のあの阿Qの世界(「阿Q正伝」『魯迅選集』(岩波文庫1935年)に収録)だったということです。
そんなところで、自由・民主主義に立脚した議院内閣制が機能するはずがなかったのです。
1912年に宋教仁は国民党(孫文が後につくった中国国民党とは別)を結成、翌1913年には総選挙を実施し、国民党は第一党になります。そして支那で初めて議会が開かれました(http://www.cctv.com/english/TouchChina/China20th/20020820/100065.html。1月19日アクセス)。しかし、宋は袁の放った刺客に殺されてしまい、宋一人を失っただけで、自由・民主主義路線は頓挫してしまうのです(http://www.cctv.com/english/TouchChina/China20th/20020910/100336.html。1月19日)。
(2) 帝政復活路線
1913年に正式に大総統になっていた袁世凱は、宋の路線が非現実的であることを知っていました。彼が追求したのは帝制復活路線(易姓革命路線)であり、これは支那の伝統に即しているだけに成功する可能性がありました。そもそも、袁世凱に帝政を勧めたのは、米コロンビア大学教授フランク・グッドナウだといいます(横山宏章「孫文と袁世凱――中華統合の夢」岩波書店1996年(http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000402Sonbunto.htm(1月12日アクセス)が要約)から示唆を得た)。
袁は、1915年に日本の21カ条要求を受け入れ、同じ年に帝政を実施しますが、21カ条要求受け入れに対する反発もあり、帝政に反対する蜂起が支那各地で起こり、やむなく翌1916年、帝政を取り消し、失意のうちに死去してしまいます(http://www.tabiken.com/history/doc/C/C149R100.HTM。1月19日アクセス)。
(3) 民主主義独裁路線
生き残ったのは、袁世凱と同じく、宋教仁の路線が非現実的であることを知っていた孫文でした(横山がらみの前掲)。そして彼が1919年に採択したのが民主主義独裁路線だったのです(コラム#228)。
興味深いのは、支那の「革命」初期に宋教仁らに協力した北一輝(1883??1937年)が、米国かぶれでまだ腰の定まっていなかった頃の彼の記憶の中の孫文について、1921年に、「孫逸仙君<は>1911年の革命においては全く局外者なり」(北一輝「支那革命外史 抄」中公文庫2001年(原著は1921年)59頁)、「孫君の理想は・・最初より錯誤し、支那の要求するところは孫君の与えんとするところと全く別種のものな・・り」(同23頁)と批判した上で、「国家民族主義は、・・支那に・・て革命の科学的理解とならざるを得ず」(同31頁)、「この武断政策による<支那の>統一は当然に中華民国を軍国主義の上に築くものなり」(同158頁)と民主主義独裁路線の採択を推奨していることです。孫文が既にその路線を採択していたのに気づかなかったのはご愛嬌ですが、北の預言者としての冴えを感じさせます。(北は、将来の中ソ対立まで予見しています(同160頁)。吉野作造は、北のこの本を「創作した講談本」と酷評したといいます(前掲「支那革命外史 抄」の宮崎学氏による後書きの173頁より)が、これは秀才吉野には野人北の冴えを感得する能力がなかったということでしょう。)
まことに孫文のこの路線は「現実的」でした。民主主義独裁路線は支那の住民に諸手を挙げて歓迎され、やがてこの路線は、蒋介石のファシズム路線と毛沢東のマルクス・レーニン主義路線に分かれて行くわけです。そして、その双方から、支那の住民は恐るべき被害を受けることになります。
(4) 日本との提携路線
最後に登場したのは、汪兆銘(Wang Zhao ming。1883?1944年。汪精衛ともいう)に代表される路線です。
汪は、「中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出してい<る>・・。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動している・・。<これは>謀略<だ>」(上坂冬子「我は苦難の道を行く・上」講談社1999年 246頁)という認識を持っていました。
ところが1936年の西安事件の結果、蒋は第二次国共合作に同意してしまいます(コラム#178、#187)。
そこで1939年、「我は苦難の道を行く」(上坂前掲タイトル)と記した書簡を送って蒋と袂を分かった汪は、日本と示し合わせて南京政府を樹立します。そして、軍事・外交こそ日本頼みでしたが、行政、治安、経済、教育施策に意欲的に取り組み、困難な状況下で多大の成果をあげます(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/official/doctor/d2000_34.html。アクセス)。
しかし、米国によって追い詰められた日本は、1941年にやむなく対米開戦してしまいます。
その時汪は「この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではありません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。同生共死ということです。」(小山武夫「私の見た中国大陸五十年」行政問題研究所1986年83頁(http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog140.html(より孫引き))と語り、自らと自らの路線の運命を読みきり、覚悟を決めるのです。
コリン・ロスは、1939年に「東アジアに居住する<日中>両民族の連合もしくは友好協力関係が実現される事態となれば、東アジア地域は世界最強勢力となるだろう。」(ロス前掲287頁)、「30年前の朝鮮<と>5年前の「満州国」・・は、今日の占領下の中国と非常によく似ていた。しかしその間に朝鮮、あるいは満州在住の日本人に対する感情は大いに改善された。同様のことが<占領下の中国>でも・・<まず>華北<で>起こるであろう。・・<このようにして、東アジアにおける>近未来は日本人<のものになる。>しかし遠い未来は中国人に属するであろう」(190頁)と予言しています。
この予言は、当時の東アジアへの米国の恣意的な介入(コラム#221)さえなければ、恐らく実現していたことでしょう。
米国が犯したこの深刻な過ちは、米国にとって、第一の原罪である黒人差別(コラム#225)と並ぶ第二の原罪と言ってもいいでしょう。そのどちらも、背景には米国の建国者たるアングロサクソンのアングロサクソン至上主義があるのです。
マクナマラ(コラム#213)ら以外の米国人は、一体いつになったらこの第二の原罪を直視するのでしょうか。
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