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大晦日に掛け取りに払うような借財はないが、「文債」なるものがある。
今年最後のそれはボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力』の書評であり、これが終われば、とりあえず課されたすべての仕事を私は真摯かつ誠実に履行したことになる。
掃除は終わったし、年賀状も投函し終えたし、会いに来る人もいないし、会わねばならぬ人もいない。気楽な年の瀬である。
朝寝をして寝床の中で町田康『おっさんは世界の奴隷か』を読む。終日『ディアスポラの力』を読み、風呂に入り、一盞を傾けたのち『福翁自伝』の続きを読了。まことに痛快。明治の人の書き物を読んでいるうちに、明治人の「啖呵」の気合いに身体がなじんできた。
福沢諭吉という人はなかなかに気象の激しい人で、とにかく不合理なものが嫌い、威張るやつが嫌い、性根の卑しいなやつが嫌いで、ばりばり怒ってばかりいる。しかし、だからといって人を低くし自分を高くするというところがないのが爽やかである。
彰義隊のいくさで江戸中が大騒ぎのときも、忠義ぶるでもなく、時流に乗り遅れまいとするでもなく、飄々としている。
なにしろ江戸中が火の海になるかというときに手狭になったからと塾の普請をするのである。八百八町こんなときに普請をする家なんか一軒もない。大工も左官も仕事がなくて困っていたので大喜びで、手間賃もずいぶんと安い。
朋友が忠告に来て、こんなときに普請なんか止めなさいと言うと諭吉はこう答える。
「ソリャそうでない、いま僕が新たに普請するから可笑しいように見えるけれど、去年普請しておいたらドウする。いよいよ戦争になって逃げる時に、その家を担いで行かれるものでない。なるほど今戦争になれば焼けるかも知れない、また焼けないかも知れない、仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくない」(『福翁自伝』、岩波書店、1978年、191頁)
もうすぐ戦争だという騒ぎの中で諭吉が堂々と普請をしているので、近所の人たちはお城詰めで事情に通じている福沢のところがああしてのんびりしているんだから、きっとこの辺は大丈夫なのだろうと勝手に忖度して、立ち退きを止めたそうである。
そういいながら、諭吉はちゃんと逃げ支度はしている。
弾が飛んできたら、家の庭に穴を掘ろうか、土蔵の縁の下に潜ろうかといろいろ思案した末に、近所の紀州藩の屋敷の庭に手頃な場所を見つける。
「ここが宜かろう、罷り間違っていよいよドンドン遣るようにならば、ここへ逃げて来よう」と腹を決め、伝馬船を5,6日貸し切って、もしものときは一家で船に乗って、海から紀州屋敷の庭に逃げ込もうときちきち段取りをしている。
戦争がなんぼのもんじゃと肚は据わっているのだが、逃げ支度もきちんと調えておくというあたり合理性は諭吉ならではの味である。
いざ上野で戦闘が始まったときも、別段あわてふためくでもなく、平気で塾をやっている。
「明治元年の五月、上野で大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んでくる気遣はないというので、丁度あのとき私は英書で経済の講義をしていました。」(202頁)
戊辰戦争の間も諭吉は平然と塾を続ける。徳川の学校はもちろんつぶれてしまっている。維新政府は戦争に忙しくて学校どころではない。「日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかり」(203頁)
戦乱のさなかに授業をするという「超然」ぶりと、そこで講じているのが「経済」、商売の骨法であるという「リアリスト」ぶりの矛盾のうちに私はよく福沢が体現しえたある種の良質な武士的メンタリティを見るのである。
同じことは諭吉が攘夷家たちから「洋夷の学」を講じる人間と見なされて暗殺の対象になっていた時期に一度として夜間の外出をしなかったという気遣いからも伺える。
「およそ維新前文久二、三年から維新後明治六、七年のころまで、十二、三年の間が最も物騒な世の中で、この間、私は東京に居て夜分は決して外出せず、余儀なく旅行するときは姓名を偽り、荷物にも福沢と記さず、コソコソしているその有様は、欠落者が人目を忍び、泥坊が逃げてまわるような風で、誠に面白くない。」(218頁)
しかし、実際に朋友手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者の故をもって長州人に斬殺され、国学者塙二郎は不臣なりと首を刎ねられた。洋学者でありかつ公然たる開国論者である諭吉も何度か間一髪のところで暗殺者から逃れているのであるのだから、この警戒は当然のことである。
あまり知られていないが諭吉は居合の心得があった。
若いときからずいぶん好きで、大阪の緒方塾のときも熱心に稽古を続けていた。
しかし、幕末に人々が急に武張ってきたら、嫌気がさして不意に止めてしまう。「居合刀はすっかり奥にしまい込んで、刀なんぞは生まれてから挟すばかりで抜いたこともなければ抜く法も知らぬというような顔をして」(162頁)過ごしたのである。
幕末の騒動の頃、学者たちまでが護身のために長い刀を佩くようになった風を見て、諭吉は刀をあらかた売り払ってしまう。佩刀している二本も長刀は鞘だけ長刀で中身は脇差、脇差の方は鰹節小刀である。
その頃、友人の高畠五郎を訪れると床の間に長大な刀が飾ってある。そんなものを飾るなばかばかしいと諭吉が言う。第一君には抜けまい。高畠はむろん抜けはしないと答えると、諭吉は庭に出てその四尺ばかりの長刀で居合の形を遣ってみせてから「抜ける者は疾くに刀を売ってしまったのに、抜けない者が飾っておくとは間違いではないか」と小言を言うのである。(228頁)
居合をやったことのない人にはぴんと来ないかも知れないが、四尺の刀を抜くというのは半端な武芸ではない。
私の居合刀は二尺五寸五分、真剣は江戸時代のものだが、これが二尺四寸。
身長175センチの私でも二尺六寸となると抜くのにいささか手こずる。三尺を超えたら、まず私程度の身体能力では居合の形は遣えないであろう。
だいたい武道具店のカタログには居合刀は二尺六寸までしか載っていない。
当今の居合は抜刀と剣尖の速度を競う傾向があるので、選手はできるだけ短く軽い刀を選ぼうとする。長く重い刀を抜く技術の重要性を私は一度も聴いたことがない。
しかし、本来の居合のかんどころは重く長い刀を操ることのできる高度の身体運用にある。
勝小吉には『夢酔独言』の他に『平子龍先生遺事』という逸文がある。小吉が師事した平山行蔵という武芸者の言行録である。
小吉がはじめて会ったときはすでに老齢であったが、八尺五寸の木刀を遣い、七貫余の鉞を片手で振り、差料はどれも三尺八寸。
小兵の行蔵が座っている図像が残されているが、刀の柄が腕の長さとほぼ同じ。鐺はぴんと跳ね上がったまま紙の外に消えている。
行蔵の道場には看板が掛かっていて「他流仕合勝手次第なり。飛道具矢玉にても苦しからず」と大書してあったそうである。
だんだん話が逸脱してゆくが、この人の軍学の師匠が山田茂平という御仁で、「或る時、男は男根ある故に女色に溺れ、志を立てざりと、男根を切られけり」というハードコアな人だったそうであるから弟子筋に破格な人が輩出するのも納得である。
何の話をしていたのだっけ。
そうそう、長刀を遣うことの困難さについてであった。
その平山行蔵の差料が三尺八寸。福沢諭吉は「四尺ばかり」を抜いたということから諭吉の武術家としての技量のたしかさは推察しうるのである。
閑話休題(というかもともと「話」なんかないのであるが)。
『福翁自伝』を読み終えたら、身体が「明治のリズム」になじんできてしまったので、明治の人の書き物が読みたくてたまらなくなり、そのあとさらに一盞を加えて、成島柳北『読売雑譚集』を書架から取り出す。
これは柳北お得意の人を茶にするようなエッセイ集であり、その風味は町田康の『ザ・テイスト・オブ苦虫』に通じるところがある。酔っぱらって読んでいても障りがない。
中に「龍鳳の夜壺」なる一編がある。
柳北はこの手の知っていても何の役にも立たない故事来歴については底なしに博識である。
明に李傑という名臣がいた。その夫人某は美にして賢なれども、少時より遺溺(ねせうべん)の病があった。夜中夢に官女二人が現れて龍鳳のかたちをした溺器(しびん)を捧げ持って出てくると必ず失禁した。つねに同一の夢にして少しも異ならず。
李公もこれは困ったと思いつつも、それ以外はたいそうよくできた細君であったので、破鏡にもならず仲睦まじく過ごした。
あるとき李公が皇太子の婚礼の儀に夫人とともに参内することになった。宮中にて夫人にわかに便意を催し、顰蹙するのを皇后が見とがめて意を問うた。
「夫人已むを得ず、ありのままに申されしかば、二個の官女に命じ、夫人を奥に伴ひ、やがて龍鳳を画きし溺器を出だしたり。其器は勿論二人の女も、少き時より毎夜見し夢の中と少しも異ならざりしかば、夫人は痛く心に驚きしが、其れよりは遺溺の病ひは全く失せて、再び夢も見ざりしと。」
ラカンやユングが知ったらたいそう喜びそうな話ではあるが。
http://blog.tatsuru.com/2008/12/31_1211.php
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