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『人権民報』と新島繁について難波英夫の言及部分メモ。
この年*1には六月二十五日に朝鮮戦争が起り、この朝鮮戦争の前後を通じて、共産党、進歩的な活動的な労働組合に対して、ひどい弾圧があったのであります。そういう中で布施先生は国民の人権を守るという意識を高めることが第一である、こういう弾圧に対して闘うためには、それをとりまく国民全体の自覚が大事だということで、『人権民報』の創刊*2に一番に参加されて、今だから申すのでありますが、布施辰治・松本治一郎・馬島|の三氏がその発行の費用を負担して下さったのであります。そして、それからしばらくの間は毎月欠損続きのこの新聞の発行の資金を相当豊富に出していただいたのであります。『人権民報』は当時『アカハタ』が停刊になって、いわゆる「継続紙」が次々と発禁になっている中で、先生の推薦された新島繁編集長が、何んと申しますか、非常な適切な編集ぶりで、いつも危機を切り抜け、あの弾圧の中でずっと正確に発行を続けて来たのでありました。従って学者や文化人の間に大いに注目され、今も古い本を見ますと、『人権民報』に載った先生や、新島さんや、わたしたちが書いたものが、いろいろなところに引用されているのを発見するのであります。
(難波英夫)
(1965年9月18日「弾圧に抗して人権を守った故布施辰治氏をしのぶ夕」における講演要旨より)
『救援運動物語』 日本国民救援会 1966年8月15日発行
弾圧時代がはじまり、救援会が加盟団体も減っていって弱体化したときに、わたしは松本治一郎、布施辰治、馬島|という人たちに一肌脱いでもらって、救援会を中心に自由法曹団、部落解放同盟、その他の団体もひっくるめた人権擁護組織、すなわち人権擁護団体協議会を作った。ちょっとボールドウィンの人権運動に対抗する気持ちもあった。頭だけの組織で、この三人にお金の工面もしてもらい、「人権民報」というのを昭和二十六年に発行した。この新聞はあとで救援会の機関紙ということになって、発行部数は一、二万だったと思うが、あのときはもっと出たような記憶がある。したがって相当な役割を果した、とくに松川運動の困難なころの役割は大きい。
編集長が新島繁さんで、鈴木安蔵さんはじめ協力者が多く、人権問題、婦人問題、差別問題などを、どんどん取り上げる。わたしはわたしで三鷹や松川のことを書く。わりあいと人々の間にすうっと入りやすく、人気も出てきた。
難波英夫『一社会運動家の回想』白石書店1974年2月28日発行
関連記事「山上の岩」2012年1月14日
*1:1950年
*2:1951年6月25日
http://d.hatena.ne.jp/yukunoki-a/20120117/p1
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