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<観感楽学>
一月二十四日は幸徳秋水没後(死刑)百年になります。明治天皇暗殺を企図したとするこの「大逆事件」は全くのデッチあげでした。秋水は、初期の社会主義思想家で、日露戦争前の開戦世論に抗して、「非戦論」を展開した人でした▼大審院は、二十六人を短期間の非公開裁判で裁き、一九一一年一月十八日、二十四人に死刑判決を下し、同二十四日に十二人の死刑を執行しました▼処刑された中に神戸の草花屋で店員をしていたことがあり、秋水に傾倒していた古河力作がいます。また、死刑から大赦で無期になった中に「神戸平民クラブ」の岡林寅松と小松丑治がいます。二人は「平民新聞」の読者でした▼大逆事件の後、社会主義運動は「冬の時代」に入ります。日本が日清・日露戦争をへて「軍事大国」になる一方で、労働者・農民の貧困化が労農運動と社会主義思想を広げつつありました。その抑圧を大逆事件は目的にしていたのです▼近年になって、犠牲者を出した高知県中村市と和歌山県新宮市及び本宮町の議会が彼らの名誉回復と顕彰を決議しています。大逆事件を見直すことで、過去の誤りを正すとともに、今日の社会進歩を考えたいものです。 (Ts)
(2011年1月16日付「兵庫民報」掲載)
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昨年末、12月25日の午後1時30分から、三宮の神戸市立勤労会館で「『大逆事件から百年』兵庫県のつどい〜神戸の犠牲者に思いを馳せて」が開かれた。
主催諸団体を代表して藤木洋子・国民救援会兵庫県本部会長が「大逆事件百年に寄せて」と題して挨拶。その後、上野祐一良・兵庫歴史教育者協議会会長による「大逆事件の概要と歴史的背景」と、戸崎曽太郎・治安維持法犠牲者国賠同盟副会長による「大逆事件と神戸〜二人の犠牲者」の二つの報告があった。
そのほかに記念講演として一海知義・神戸大学名誉教授の「幸徳秋水の漢詩評釈」も予定されていたが、先生の体調がすぐれないため、残念にも中止となった。
<参照>
幸徳秋水の「絶筆」
http://www.city.shimanto.lg.jp/syuusui/doc/zeppitsu.html
一つめの報告は余りにも内容が広範囲に渡るため紹介は省略して、二つめの報告についてだけ簡単に触れておく。
大赦で無期懲役に減刑されて刑死を免れた岡林寅松と小松丑治の二人は、20年4カ月の獄中生活の後、1930年に仮出獄。岡林は妻とは離別、父と子には死別していたため、大阪に出て社会大衆党関係者が経営する病院で働いた後、病院が戦災にあったため郷里の高知に帰る。戦後合法化された共産党の演説会に参加するなどしていたが、1948年秋に72歳で衰弱死した。
もう一人の小松丑治の方は、生活上の苦難を乗り越え丑治の出獄を待っていた妻に迎えられ、1945年秋69歳で栄養失調で亡くなる。出獄時に大阪朝日新聞が「幸徳事件の無期囚出獄 二十年振りに妻と再会」のインタビュー記事を掲載。この中で丑治に「何のためにやられたのか本当はよくわからない」と語らせるなど、記者は丑治に同情的である。
妻ハルは、ハルの持ち込む鶏卵を買い取るなど生活を支援してくれた多聞教会(日本キリスト教団)との縁でクリスチャンとなり、教団伝道所が運営する「明石愛老園」(明石市魚住町錦が丘2丁目)で1967年3月25日に亡くなっている。
(*写真は現在の「明石愛老園」)
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