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日本リーダーパワー史(231)
<明治の新聞が報道した伊藤博文への弔辞>
●『歴代宰相ナンバーワンの伊藤博文を弔う』
「1909年(明治42)11月4日付 毎日電報(毎日新聞の前身)」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
春畝老公(伊藤公)を弔うー朝比奈知泉
〔明治42年11月4日 毎日電報〕
<朝比奈知泉は明治25年から東京日日新聞(毎日の前身)主幹であったが、
37年東日を辞した。名文家として知られ、毎日電報の乞いに応じ弔文を書いた>
明治天皇陛下の盛徳、大業至れり尽せり、なんぞ草葬の卑言を竣(ま)たん。ただこれを翼賛し、これを輔導したる功臣に至っては、これを先にして三条、岩倉両公あり、木戸、大久保二氏あり、これを後にしては伊藤、山県の二公あり。
先なるもの多くは苦労の艱末だ酬いず、国家の運、未だ知るべからざるの日に倒れ、後なるものその遺緒を継ぎ、先縦を追い、時勢のようやくなすべきに逢い、国力のまた作すべきに際し、一再の奮励以って雄強を東亜に示し、以って勢力を宇内に張り、大使遺受の一邦として、諸大国の班に伍するに至る。
しかして班列わずかに成りて、富力未だ実せず。単に大使を遭受するの邦として、土耳其(トルコ)西班牙(スペイン)両国を距る遠からざるの命数に居り、
更に平和の蓄積に努力して、米国とともに新進大国の面目を完くする所以を謀るの、まさに急なるの時に方(あた)り、にわかに帝国唯一の先導を喪う。
朝野震かん、挙げてその喪に赴くもの偶然ならざるなり。
何を以って唯一の先導という。山県有朋公もとより文勲に富むといえども、その出身は武人にして、また軍事を以って終始するを以って畢生の心事とするもの、しかしてその年齢はすでに藤公に過ぐ。
これに次ぐの元老に至りては、松方正義、井上馨、大山厳の三氏ありといえども、大山公はつとに武事の一辺に隠れ、松方、井上の二侯に至ってはその老齢はるかに山県公にもすぐ。国家の事まさに守成に急にして、富力養成の最も切なるに於いて、卒然文臣を以って節を放したる最年少の元老を喪う。帝国の挙げて悲哀を発するもの、豊にその故なしとせんや。
しかれども顧みて藤公の一身よりこれをいえば、今日の興亡はむしろその本意とこそいうべけれ。公の先輩木戸、大久保両氏のごとき、維新の大業はわずかに成りたるも、内国の秩序未だことごとく整備せざるの日にたおれ、その遺緒は幸いに公のごとき有数の継述者その人ありたるも、その魂夢安からず、空しく九原に入りたるは、遺憾果していくばくなりしぞ。
公に至っては内に憲法の制定、公布ありて、公窮からその起草の任に当り、第一回の枢密院、貴族院議長となり、初次を首(はじ)めとして三たび内閣総理大臣の職を奉じ、帝国の威力、韓の八道に及ぶに至りては第一次の統監となり、以って韓の内政を董督し、韓事は条緒に就き、殿陸の上啓沃の臣を思わるるや、公重ねて枢府に入り、議長の要職を帯びたるも、公の国事におう掌せらるる、一日も安居するを好まず、露清両邦の重臣と相見えて、大いに将来平和の保持に努めんとし、ハルピンの一会、ついに露の蔵相と手を握りて困歎を致したるのみ、韓奴の毒弾たちまち公の命運を終う。
公が最後の所思を全くするを得ず、北京に入ることなくして止みたるは、公に於いてもとより遺憾とする所なるべきも、帝国の基礎すでに立ち、大政運用の方向また定まる。今後の計は継承自らその人あるべし、公それ瞑目して可なり。
公朝に在る日久しく、人臣いっさいの栄位隆爵ほとんど極尽に達し、その逝くや国葬を賜い、併せて一日の廃朝を仰せ出ださる。公の先緒を継ぎて、継述の功を全くしたる明治唯一の勲臣たるを賞でたまいしのこととはいえ、公死して余栄ありと謂うべし。
公が一生の事業は、もとより片言隻語の以って尽し得べき所にあらざるも、その首勲をいえば、憲政制定の外、主として外事に関す。しかも公の外務に宰たりしは、わずかに一時兼任の場合のみ、また一奇というべし。内治の功に至りては、自治制度の施設、兵備の更始改善、山県公の賛じょ最も多し。
しかして憲法の起草は公目から僚員を率いて欧洲に遊び、研究、開明したるの結果に出で、当時欧洲に於いて国法学ようやく進歩を積みたる折とて、また必ずしも孟的斯鳩(モンテスキュー)その人の謬を襲わず。
天皇統治の我が邦に適用せらるべき準則を得て、プロイセン国憲法のごとく木を以って竹に接ぎたるの失体なきを得たるもの、欧洲学理の講明与りて力ありたりといえども、公が大隈、板垣両伯等の或いは延に内奏し、或いは外に論議したる憲法の理義を究め、英国皇室の迎擁推戴によりて世襲せらるると、国体の基本を異にする我が邦とを同一視して、いたずらに彼を取りて我に擬せんとするの非なるを認めたるによらずんばあらず。
公は初め政党を無用とするの論者なりしも、後いずれの国にも議院を設くれば、必ずこれに陪生するものたるを見、政友会をそう設して憲政を利導せんとし、後再び廷に立つに及び、その親信とする西園寺侯をして代わりて首宰たらしめ、以って今日同会の盛運を見たり。
民間政党の統御、公必ずしもその所長とせず、しかれどもれき然たる大団の運動善く一糸素れず、以って興隆を致したるもの、豊に公創始の力によらずとせんや。
公の外政に力を致したるや一日の故にあらず。しかして井上、大隈両伯条約を急遽に改正せんとして成らざりし後を受け、陸奥伯を挙げてこれに一任し、ついによく功を奏し、今や当時の新条約またまさに改正の時期に瀕(のぞ)めり。しかして公が外事に於ける多く幾粒のだとうだ豆を喫したるもの、またまさしく帝国外政の料理に成功したる一因たるを疑わず。
公は列国が馬関砲撃の後、高杉晋作氏の藩侯の使節として英艦に赴かれたる時、これを副(たす)けたるを始めとし、外交の幾徴を学び、後岩倉大使に副として欧米列国に派遣せられ、両度とも全権の信任状あるや否やを問われ、岩公の時はまず米国に於いてのことなれば、公急ぎ帰朝して信任状を得、これを岩公に致したる苦き経験の功効は、たちまち日清戦後、張蔭桓来朝の時に現われ、張をして適正の信票なきがため空しく帰らしめしこととなりぬ。
後李鴻章来たるに付きては、予め照復を費し、信任状の事一も欠失なきを確かめて始めて来朝したり。これ一さ談といえども、また以って公の外事に通暁せる、いたずらに口耳相属するの間に得たる知識にあらざるを見るべし。
公の帝室に於けるは、ただに憲法及び皇室典範の制定、起草に任じたるのみに止まらず、帝室制度調査局を総裁して、皇族婚嫁、葬祭、陵墓等いっさいの令規を定むるに当り、多く自から研査する憲法及び皇室典範に於けるがごとくならざりしといえども、副総裁たりし伊東子以下を督して、数年ならず全功を挙げしめたるは、また公が大体を見て統事を致したるの功と謂うべし。
公また韓の太子を輔導するの任にあたり、これを視ること子のごとく、善く扶液、振励し、太子また公に親こんし、真に師父を以ってこれを視、公の薨去を聞きて遊戯を廃し、食膳に疎なりしとは、また以って公の遺徳を想望すべし。公の韓太子における将来帝国付属の土に暮せしなる徒者を成すを以って目的とし、纏密(てんみつ)の用意を以って任に当り、一に我が陛下の始めて属国に臨ませらるる叡慮の探きに副わんことを努めたるに、今やすなわち亡し、哀しいかな。
公は貨利に淡く、邸第を美にするを好まず、世の上流者の往々耽溺する弄花の戯のごとき、かつてこれを知らず。鳥尾子の世に在るや、かつて予に語りて日くー伊藤はど金儲けを知らぬ男はない、赤坂の邸(やしき)も小田原の別荘も伊皿子の荘も、皆買った価より損して売った、ただ儲かったのは三菱に売った高輪の邸ばかりだが、アレは十歳翁が買うといたで、伊藤自身で買ったのではないと。真にしかり、公の貨財に淡なる、この一事を以って知るべし。
往年予、公に従って箱根湯本に在り。一日公、玉簾瀑布の側らなる稲葉子の別業に遊ぶ。予、故大河内輝剛翁とまた追随す。楼上距大の法螺貝(ほらがい)あり、予、翁とこもごもこれを吹くことを試むるも鳴らず、公傍らに看て微笑するものやや久し。輝剛翁は吹笛の名人なり、予の鳴らすあたわざるも、翁は善く吹き鳴らさんと心に期したるも、頬を膨らす事百端、
つねに一声を発するあたわず。公ドレ己に仮せといわれLに、翁も手を止めて貝を公に進らせたり。公、息を静むるよと見えしが、たちまち貝を口にして一吹するに、プの音出で一座震わんばかりなり。
予、翁と謂って公に問うて、公が法螺を吹かるると云えば、いかなる大法螺でも世間は承知するならん、この真神の洞螺貝を吹かるると聞くに至っては、現に見もし聞きもしたる予等の外は、誰も得て信ずまじといいたるに、公は笑みて、そは予が身分を知らざるもののいうことなれ、予は足軽の家に生れ、当時螺吹は家の常役なり、予も少時これを後生大事と心得てこれを学びたり、予の吹き得るも君等の吹かざるもただ当然のみと。
予は翁を顧みて感歎止まざるもの、これを久しくしたり。公が位人臣を窮めたる今日の現状のみを知って、その出処進退の繁を忘れたるもの、読みて以って公の平昔を窺うに足らん。
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