http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/571.html
Tweet |
(回答先: 足利義満と金 (八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 17:22:02)
http://www.rekishi.info/library/yagiri/
=転載開始=
足利氏と明国の秘密
足利義満は、「日本国王臣源道義」と書いた国書を送り、さながら明国に仕えるが
ごとき形だった。
その後の将軍義教の時においても、
『満済準后日記』という藤原師冬(もろふゆ)の子で、義満の猶子(ゆうし)として
三宝院二十五代目の座主となり、その当時、黒衣の宰相とよばれていた人の日記をみ
てみると、永享六年(1434)五月十二日の条には、
「唐朝書(明国書)を明人が捧げ持ってきたら、机の上において貰って、わが方は全
員礼服に身をかためその前に整列して、まず汚れを払うために御焼香をしてから三拝。
将軍は跪(ひざ)まずき膝行して、その書面を頂かせて貰うのが、応永九年九月に義
満公が、明国の勅使を迎えたときの作法であった」
とのべられてあり、翌六月三日の欄には、
「将軍義教公は明史を迎えられるのに、階(きざはし)の下までにじり降り、そこか
ら拝礼しつつ膝行するのはやめにしたいと仰せられたが、明国使は、それでは宣宗宣
徳帝に対して不敬であると、いくら頼んでも言下に斥け承知しなかった」旨の記載が
あり、「六月五日」の当日の条では、
「公卿は四足門に平伏、楽人は総門で演奏。明国使は中外門より殿上人に迎えられて
入り、将軍は曲録(椅子)をすすめ、己れはその前に座って焼香、つづけて二拝して
から明国書を頂けり」
と、その明使接待の情景がでているが、足利氏はなぜ明国への追従外交にあけくれ
していたのだろうか。散々に交渉したあげくが、三拝する処をニ拝にまけて貰ったき
りで、足利義教もいやいやながら膝で這って明の使者に近より、香をあげて拝むなど、
今では想像もつかぬ事だが本当らしい。
これでは史家のとく、
「足利義満は明国との通商の益を得るため、やむなく文字の上だけで臣下と名のった
にすぎぬ。つまり現代風に解釈するならば、名を棄て実を取ったのである」
といった説とは余りにも、裏肚に違いすぎるようである。
しかし、そうはいっても、足利時代に明国から攻めこまれかけたり、または、その
以前から日本が占領されていて属国扱いされていたという証拠もない。となるとこれ
は、足利氏だけにしぼってみて、何か明国と特殊関係があって、文字通り頭の上がら
ぬような義理があり、足利氏は代々そのために、天に陽があるごとく明国へは義理は
つくさねばならぬと、室町御所の主であり、そして、
「征夷大将軍」とよぶ当時の最高権力者の身が、いざりのように這って明国の使に拝
謁を賜っていたのではあるまいかとさえ、どうしても勘ぐりたくなるのを押さえよう
がない。
となると、この問題は足利義教の頃や、義満の代より遡って、どうしてもその始祖
まで考究してみなくてはならぬし、また足利氏というものを根本的に洗う必要もでて
くる。
さて、そこで妙なことは、足利氏たるや、「源」を名のって、代々等持院で火葬を
いとなんでいるが、どうもそれは治安上の政治的配慮からの処置ではないかとも思わ
れる点がある。
という理由は足利義兼が、その子義氏に三河吉良の庄を譲って、のちの吉良氏(吉
良上野介の先祖)を立てさせたとき、
「この笹竜胆の白旗は源家重代の旗というが‥‥足利家には不用の長物。しかし其方
は遠国へゆくのだから、もしもの用心に呉れてやる。万一の際にこの旗を立てれば、
思いがけず味方する者が現われ来って、危うき場合にても助かるであろう」と渡した
という話がある。
だから足利氏にしろ吉良氏にしろ、その分家の今川氏といえ、いくら表向きは「源
のなんとか」と取り繕っていても実際は違うようである。足利尊氏側近の武将の書い
たものといわれる『梅松論』の中でも、これはそれとなく、
「大友氏が足利氏に準じて『源姓』を称するのは、もともと中原在にて、藤原氏の大
友の荘を相続したる者なれば、これはその系図を故意に、源頼朝の落胤などと作りし
ゆえの牽強付会なり。○○同様に源にあらざればなり」となっている。但し○○の欠
字の一行は、群書類従本には入っていなく、慶長本のみである。
さてそういう眼でみると足利氏には変なところが多い。
足利高氏が摂津で敗北し、都落ちして西下するとき、
「忠節もっとも神妙なる相従い奉る船は三百余艘、播磨の灘に並びたり」と出ている
が、その数行前の『梅松論』の記述たるや、
「これまで供奉仕りてきし一方の大将の内、七、八人は引き返さんとす。この輩はみ
な関東の武将にて、これまで歴戦の功績をたてし者らなるが、しかりといえども御方
(高氏)敗北とあってはやむなく、いつしか旗をまき冑をぬき、笠印(足利方の)を
とり、みな部下を率いて、とぼとぼと戻りゆく有様。その心中こそ哀れなりけれ」
なのである。これをみると播磨灘には足利氏をエスコートする海軍が三百余艘きて
待っていたが、何故か上陸して戦わず‥‥そこまで足利氏の伴をしてついてきた、関
東を主な出身とする陸軍兵は、(乗船して西国へ行くのは困る)と、取って返して捕
虜になりに戻って行ったというのである。
「関東の将兵は船に馴れていないから、のったら船酔いして困るからだろう」
という味方もあろうが、これまでの戦功を無にして、それまでの足利方から離れて
いったのは、その海軍が、彼らにしてみると馴染めぬ軍勢で構成されていたのではあ
るまいか、といった疑問も生じてくるのは無理だろうか。
というのは、これより半世紀前の元寇はよく知られているものの、この南北朝時代
の日本へも、朝鮮半島から何度も兵船を連らねて来攻のあった事が、日本史で伏せら
れているせいではなかろうか。
『高麗紀』という朝鮮史料には、これは、はっきりと、
「慶尚道海師元帥朴蔵、水師営金宗衍、壱岐対馬を占領のため軍船三百差しむけ、歴
戦の末、わが国の勝利となる」とでている。
といって、これまでの日本史には足利高氏の時代に、朝鮮からの来攻が有った事は
勝った負けたは別にして何も出ていない。
が、もう一度、この間のことを振返ってみると、
「足利高氏西下、鎮西(九州)へおもむき、すぐ西国より攻め上る」
まるでシーソーゲームのように、足利氏というのは、負けるとさっさと艦隊に収容
されて西下し、すぐにまた勢いをもり返しては海路をとり、京へ攻めこむというのを
何度もくり返している。
だから西国から九州までは足利氏の地盤のような気もするが、すぐ兵を何千何万と
集めて短時日に戻ってくるというのはあまりに可笑しすぎる。
足利高氏が死んだのが1358年(正平十三年)で、その三十三年後の1392年
七月に、高麗王は李成桂に滅ぼされ、朝鮮国となるのだが‥‥もしも足利高氏をバッ
クアップしていた西南海上の幻の艦隊が高麗の慶尚道艦隊だったと仮定するのなら、
その七年後の、
「応永の乱」の勃発したすじも、成程と判り得る。勿論、日本史では、
「中国地方六州と防長ニ州の八ヵ国を領する大内義弘は、その前々年金閣寺造営を手
伝えと命令されてもきかず、前年八月に朝鮮より朴敦元が国史としてきたとき義弘の
挙動が、どうも怪しかったと管領畠山基国が云いふらしたのを憤って叛乱せしもの」
というが、大内氏は淋聖太子系といわれながら、漢族との繋がりがある。だから新
興朝鮮の使が、大内氏へ打診にきたのは、旧高麗国水軍が足利氏の庇護をうけ、瀬戸
内海に匿れているのをなんとか取り締まらせようと、この年に即位したばかりの明の
建文帝の意志を通しにきたものとみるべきであろう。『応永記』や『足利治乱記』に
よれば、その戦況は、
「堺の町の十六町四方に井楼四十八をたて、矢倉千七百二十五個所を急造し五千の兵
で守らしめた」
と伝わっているが、山口県の大内義弘が泉州堺にたてこもったというのも、当時こ
こが明国との港になっていて、向こうからすぐ応援にくるものと、それを計算に入れ
ての事だろう。
しかし、このとき援軍は来ず、当てがはずれて大内氏は敗死したが、応永二十六年
(1419)六月二十日には、北鮮韃靼(だったん)兵一万七千二百八十五人が、李
従茂の率いる二百二十七艘の艦隊に分乗して日本へ来襲した。
『看門御記(かんもんぎょき)』(伏見宮貞成(さだふさ)親王さま日記)によれば、
「唐人襲来、既に薩摩の地にとりつき国人と合戦を始めているが、唐人の中には鬼の
ごとき者も混じっていて、人力では攻め難いのに、次々と増えてきて八万艘にも及ぶ
由が御所へ注進されてきている」とでている。
かつて、源氏を倒した北条時代に元寇があって、その北条を倒した後の足利義持の
時代ですら、またも襲われたというのは、
「足利氏も北条氏同様に、非源氏系、つまりツングース北鮮系民族ではなかったこと」
を、これは意味するのではあるまいか。
なにしろ足利高氏の頃は、さも本当らしく、
「自分らは、源族だ」と高麗船団を利用し手伝わせていたが、その高麗が滅ぼされ新
興の朝鮮になると、時勢は一変して、
(どうも怪しい)と使節が調べにきたりしている内に、大内氏の叛乱がすべてを明ら
かにしてしまった。そこで、足利氏としては、もう明国へ頭が上がらなくなってしま
い、その討伐を恐れるの余り、臣従して、焼香をしたり三拝九拝して明使を迎えるよ
うな態度をとったのだろう。
「神軍奇瑞」といった願文をあげてはいたが、当時の足利体制は元寇の時のように、
また神風が吹くといた偶然性はあてにせず、ただもう堅実に、
「長い物にはまかれろ」と、いいなりになって向こうを刺戟しないように、懸命の努
力をしていたように思われる。追従外交どころの騒ぎではなかったらしい。
八幡(ばはん)船はでっちあげ
「応仁の乱」の終り頃に全国的に起きた土一揆、徳政一揆の暴動によって室町時代は
最後を遂げたものとされている。が、
『宣胤卿記』(中御門宣裔の文明十二年からの日記)に、
「当時政道これすべて、御台(みだい)の御沙汰なり」とでてくる日野富子夫人が、
内裏修繕を名目にして京へ入る七道に関所をもうけ、各地から京へ入ってくる物資に
税をかけ、人間にさえ通行税をかけたのが、「物価値上り」の元兇とみられている。
それゆえ、いわゆる打ちこわしに集まった生活難の暴徒が、文明十二年(1480)
九月に東寺へひとまず集まり、そこから北白川へ群がり出て、そこへバリケードを築
き今でいう解放区をもうけ、
「七道」の衆とよばれた関所番人と一つになり、牛車を仆して片っ端から火をつけて
廻って、掠奪をほしい儘にしたため、なんとも収拾がつかなくなり、
「戦国時代」にと、やがて移ってゆくとされているが、
「足白」または「足軽」といわれたり、一条兼良の日記には、「悪党」と書かれてい
たこれらの暴徒は、いったいどんな人間だったのだろうか‥‥
それに「徳政一揆」というのはモラトリアムだから、原則として、
「借金のある側が、その棒引きや延期を求める」ものなのである。
だが、よく考えてみると貧しい難民や百姓はいくら借りたくても貸してくれる所が
あるわけはない。つまり庶民が借金できたり、信用がないのに棒引きにする程、借財
できるなどとは常識的には考えられない。だから、これは年貢を先取りしてきた荘園
の支配人みたいなのが、
「先に何年分か取り上げたのは応仁の乱での物入りの為じゃった‥‥あの分は徳政と
して棒引きにし、今年からまた新規に納めろや」と布令したゆえ騒ぎになったのでは
なかろうか。徳政とは民に徳でなく、足利体制に得だったのと逆にも想える。
足利義昭まで十五代も続いた足利体制なのだが、それ迄なんとか支えてこられたの
が、実力というより、その実どうも明国の後楯だったらしい事に気づくと、これ迄は
なんでもなく見過ごされ教えられてきた事も怪しくなってくる。
『満済准后日記』の正長元年(1428)九月二十二日の条に、
「今川上総守(憲政)が駿河へ下り候うの用意をされているが、関東の大名の中には
<白旗一揆>の徒も混じっていることゆえ、お気をつけなされ、もし戦などに使う事
があっても、それらは使い棄てにて苦しくないものであるとの、注意を受けられた」
旨の記載がある。
この<白旗一揆の徒>という呼称は、足利体制下における、
「原住系の民の別所連中と、今ではそれに合流している源氏の末裔。そして、かつて
足利勢に逆らった楠木党や新田党の徒輩」をさす。
源平合戦の昔から、彼らは事あるごとに、
「白旗」をたてて、わいわいやっていたから、一揆とそれを軽くいなして呼んだので
あろう。
さて明国に臣従の形をとっていた足利氏は、仏教をもっての人心教化方策として、
片っ端から、ナミアミダとやらせていた。
処が白旗党余類の中でも騎馬民族系は、それに対抗して韓(から)神さまを信仰し、
白頭山でも偲ぶのか、加賀の白山さまを各地に勧請。それより古いヤバダイ系や八は
た系は、土俗八幡の祠を作り、その辺りに、シャクテイ女神に仕えるごとく、男性の
ものに似た陽石を並べ、これを「道祖神」としてまつった。
もちろん地域別に、ビシャモン、フクロクジュといった七福神を信仰の対象とする
部族もいた。
だから鎌倉中期に一遍上人がひらいた浄土宗の一派である時宗は、そうした異教徒
を有難い仏教へ転向させるため、室町時代になっても布教して廻り、これを当時の言
葉で、
「はちひらき」といった。土着の日本原住系の民に、当て字は色々とあるが、八、鉢、
蜂、羽地、といった蔑称があったからである。
もちろん、これに対する異説としては、松下見林の著などによれば、
「異民何も知らざるをもって、渡航の華人これに呆れて、ぱあなりと八の字を与う。
これ一ニ三四の八の音が、ぱあなればなり。しかるに負け惜しみなるか、八は末広が
りにて縁起よき文字なりなどという。しかれども<忘八>などというごとく華国にて
は、これ蔑みの語なるを知らぬもののいいなるべし」などというのもある。
山中にとじこめられていた別所者の彼らが、インディアンなみに山頂で煙の交信を
するのを、「蜂煙」、「蜂火」と書いて「のろし」、また彼らの決起を、これ「蜂起」
というのも、意味があるのである。
さて、『今昔物語』の中などには、
「いぶせき小屋に迷い来りつるものか。あな恐し餌取りの住み屋にや」などと出てく
るが、それまで山奥にいた「八」たちも、応仁の乱の人手不足から、人買いの手で集
められてきた。
山中を駆け廻って獣のごとく生きてきた者達ゆえ、足どりが軽いから「足軽」とか、
陽やけして黒いが足の裏だけは人間なみに白いから「足白」の蔑称がつけられた。つ
まり応仁の乱で集めてこられた中で、辛うじて生き残った者も、戦後になると簡単に
追い払われてしまったため、食ってゆけず、
「やってこまそ」と仕方なく、徒党をくんで始めた一揆が、京周辺から全国的に波及
したのである。
つまり、裸一貫の連中が借金できたり、信用貸しで物が買えるわけもないから、モ
ラトリアムの徳政一揆というのは間違いで、彼らは徳政反対の一揆に参加したのであ
る。
さて、それ迄にも、そうした原住系が足利体制側に仕えて、なんとか働かせて貰お
うとすると、今でいえば洗脳だが、当時のことゆえ、
(中味よりも人は見かけが肝心だ)と、まずその頭を坊さんなみに、くるくる坊主に
させてしまってから、その名も、「何々阿弥」と抹香臭く改名させたものである。
しかし、うっかり武器など携行させ、造反されては厄介だからと用心し、彼らには、
「生花」「茶湯」「謡曲」といった仕事を課した。今日いわゆる芸事の始祖の名がみ
な「本阿弥」とか「光阿弥」といったようになっているのはこの為なので、日本の文
化は原住民製である。
また足利時代の謎の一つは、なんといっても和寇である。
「南北朝争乱に志を得ない不逞の徒が一葦の軽舟に乗じ、北は朝鮮海峡から南はアモ
イ台湾の南支那海沿岸まで掠奪せり」
といった事になっていて、明国の『籌海図編』の永楽二年(1404)の条に、
「日本首(王)先に款を納め、わが国辺境を犯せし二十余人の擒を献ず」
つまり足利政権は明国の命令で、それらしい二十余の首を斬って直ちに献擒した、
という向こう側の記録である。だから日本の歴史家は、南支那沿岸まで、
「八幡大菩薩」の旗をたてた小舟が荒しに行ったものと考えて、これを昔から今日ま
で誰一人として疑う者すらいない。
しかし焼玉エンジンやモーターのなかった時代なのである。そこまで交替で漕いで
いったとでも考えているのだろうか。
いくら人力で漕いでも、南支那海と日本との間は、冬は向こうへ吹いてゆく季節風
があるから、その黒汐にのってゆけるが、これが逆の季節ではなんともなるものでは
ない。
だから常識的に十二月から二月まで吹く、その季節風に送られて南支那海へ行った
ものであるなら、彼らとて生身ゆえ、何か着ていないと風邪をひく。処が絵では、
「赤褌一本のみな裸体の儘である。
そこで、もし裸のままで行けたものとみるなら、それは風向きから考えても、逆の
方角、つまり南支那海に面したベトナムか、マレー半島を考えねばならない。また、
「八幡船」と書いて、「バハン船」と読ませるのも、呉音でも漢音でもない。これも
変である。
しかし、もし世界地図が手許にあれば、マレー半島つまり現在のマレーシア連邦を
みればよい。今でも南支那海に面している州の名は、
「バハン」なのである。そして四百年前の『バタビヤ日誌』の地図でみれば、マレー
シア連邦全部が、「バハン土候国」なのである。
命名の由来は、オランダが同地を占領するまで、つまり足利時代から徳川初期の頃
まで、そこはポルトガル人のバハン公爵家が、ベンハーの丘で統治をしていたという
のである。
だからポルトガル人が、バハンから南支那海を襲わせていたのが、
「バハン船」で、明国もそれをよく知っていたが、ポルトガルは恐いから、なんでも
いいなりになる日本へ文句をつけてきて、足利政権は白旗党を捕え、その首をとって
送っていたのだろう。
なにしろ、ああいう小舟は捕鯨船のキャッチャーボートみたいなもので、すぐ後方
に母艦がいて飲料水や食物をつみ、また収穫した掠奪船をすぐ積み取ってやらねば仕
事にならぬから、ポルトガルの軍艦もバハンからずっと同行していたのであろう。
とはいうものの、世界中どこへ行っても、己れの国が平気で泥棒をしたと認めてい
るような国は、まああるまい。しかも間違えて‥‥
まして「海国日本」などといわれながら、海流、潮流や貿易風、季節風を、もうす
こし小学校でも詳しく教えておけば、とうの昔に、八幡船の謎はとけていた筈である。
日本人の常識や判断が非科学的だと非難されるのも、こうした点からでもあろうか。
=転載終了=
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。