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歴史まがいにご注意 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/569.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 18 日 22:03:24: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/rekishimagai.htm

=転載開始=

誰の言葉か忘れたが、愚民教育は三つのSだと言う。スポーツ、セックス、スクリーンである。誠に現代の日本にピッタリで言い得て妙である。ここではスクリーン、即ちテレビの公害?について論じてみたい。

日本人というのは、かって陽の当たる場所にいた京で勢力のあった一握りの者の他は庶民と呼ばれてきた被征服者の子孫が国民の70から80%を占めている。アメリカ等では白人がどんどん入ってきて一見それと解る有色人の原住民インデアンを、民主主義であると一世紀も立たぬ内にあらかた殺してしまった。だが日本列島では入ってきたのも当時は弁髪していたが黄色人種。百済の母国を失って自分らのナラ王朝を倒されて、新興勢力に帰順降伏し、傭兵となって忠義を尽くさんとしたのも黄色人種。

彼らに蕃族として討伐されていた日本原住民もエケセの古代民も、アマの王朝系や蘇民将来系も同じく黄色人種。それにアメリカにはバファロと呼ぶ野生牛が群がっていた。だから新入白人も食料には困らなかった。しかし日本列島では違った。種もみをあてがわれ食料供出用の「編戸の民」として原住民は圧迫され続けだが、生存は許されてきた。が、幕末までは居住地や職業は先祖代々から限定されていた。

現代の如く勝手に本籍を移したり、他へ転出するが如きは「逃散」の重罪で死刑にされた。また親が百姓なら倅も百姓、親が大工なら倅も大工、といったように、頼朝御判物の区分により職業も決まっていた。そして歴史を暗記物として教え込むような義務教育の学校は、幕末まで無かったから、「わしらは宗旨違いだ」位の処で、あまり詮索などしなかつた日本原住民の子孫共が、否応なしに学校へ通わされ、そこで歴史を覚えさせられる段になって疑問を抱きだした。

日本は世界有数の歴史関係書籍消費国なのはこの訳である。(向こうよりの偉い人が大陸の文字によって、自分らこそ未開の開発途上国だった列島の始祖である)とする歴史では、いくら丸暗記して覚え込めと教わっても、すんなりゆかない。

成人してくると疑問が色濃くなってきて、明確でないが(学校歴史と自分らのは違うのではないか?)となって、歴史関係書を読み漁る事にもなる。「野史」と呼ぶのが日本に在る。しかし、京の公家の歴史に対して、地家の歴史なら良いのだが、残念ながらそうではない。文字を信用して造語された、史実、史料、史伝等に幻惑された類が多い。

さて、今やテレビは一家に二台三台の時代だが、時代劇という奴にはほとほと困惑させられる。時代考証何某とまで出ているから本当なのだろうと、通史俗史にのっかるのが視聴率につながるからと、全くの嘘ばかりである。ポカンと観ていると面白いのだろうが、人間が生きていくのに一番大切な判断力、批判精神や懐疑心が喪失してしまう。その点、以前放映していた劇画からの「浮浪雲」は、チョンマゲの主人公が巻煙草を煙管で吸つたりしていて、ハチャメチャで結構だが、同じ局の「暴れん坊将軍」になると、尾張の徳川宗春が八代将軍吉宗と張り合う内容だけに困る。

八代将軍候補にあがったのは宗春の兄継友の方で、将軍が紀州の吉宗に決定すると急死してしまう。それゆえ既に奥州梁川三万石へ養子に行っていた宗春が戻つて家督を継いだ。兄の死が毒殺ではないかと疑って城中に居るより、尾張に居るときには、野外へ鷹狩りと称して出歩くことが多かったせいか「何、これなる石か゛瀬の川原で対陣して、松平元康の軍と権現様の手勢が戦をし、相手が強くて負けて逃げ込んだゆえ、あれなる山を権現山というか」と、次々と松平勢と権現様(家康)の合戦の遺跡を見つけだし、負けて逃げるときに、酒井忠次が世話になった木こりへ手渡した白扇なども検分した。

各地の古老を呼んで聞き取りもした。尾張宗春にとっては家康直系の曾祖父にあたる。だから「徳川の世もすでに八代目である。創業の頃には三河松平入道の血脈と言った方が恰好が良かっただろうが、今となっては赤手徒拳の世良田次郎三郎が田楽狭間で、今川方の優れた鉄砲を持って行った織田信長の引きあげた後へ行き、その残りの武具甲冑を遺骸から剥がして完全武装し、浜松の酒井や伊勢の榊原、渥美の大久保、伊賀の服部らと兵を集め、やがて天下平定を成したのは立派なことで今更隠すこともあるまい」と、

書物奉行堀田恒山の名で「章善院目録」と後に呼ばれる一冊を木刷りで刊行してのけた。権威だけが天下の政道と心得ていた能史大岡忠相によって、直ぐさま江戸表から、「徳川家祖先のことをみだりに書くべからず。また、刊行者の奥付に著者と発行者を明記のこと」と世界最初の出版統制令が発布され、尾張宗春は閉門。また何か書くかもしれぬと紙と名の付くものは便所の紙まで支給厳禁されて生涯監禁された。

宗春の子らはみんな次々と早死にさせられ血脈は絶たれてしまい、以降尾張の殿様は一橋家と田安家から交互に送り込まれ幕末まで続いていたのが真相である。「愛知県史」や「名古屋史」にも明白にされている。その他にも水戸黄門も、竹矢来を張り巡らされて、常陸太田で生涯閉じこめの憂き目にあつていた水戸光圀の実像も知らず「アッハッハッ」と高笑いしながら日本各地を廻って歩くのも、高視聴率ゆえやむなしと、立川文庫のテレビ版が次々とシリーズを重ね、娯楽物だからと問題にもしない見解は、金儲けの土地開発のため、各地の古墳や遺跡が取り壊され潰されて消滅してゆくのと何ら変わりがない。それどころか映像の誤ったイメージが何千万もの人々に垂れ流されているだけに、その害はもっと甚だしいと言えよう。

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さつま芋だって種類がある。(農林1号)と(金時)ではまるで違う。日本歴史とて同様、書く人間によって全然相反する。だが人間の場合バイは在ってもノーリンはなく、これを作別銘柄に分類すると「神信仰系」の原住系と「仏信心系」の外来系に分かれて今日まで続いている。が、共存共栄なんかしてきた訳ではない。原住系は圧迫され、歴史に残された限りでは圧倒的に外来系の独壇場である。これは勝者は己に都合良く歴史を改変出来る特権をもつからである。しかも外来系は、仏教と一緒に漢字や平仮名まで持ち込みである。そして歴史とは、それらの発表具象の力を借り、記録の型に於いて伝承される物なのだ。文字がなくて口伝に頼るとアイヌのユーカラみたいな物になってしまう。

さて今日、「この日本の歴史」の基盤をなすのは(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀 日本文徳天皇実録、日本三代実録)を基幹となし、それに(律、令義解、類聚三代格、延喜式、尊卑文脈)をもつて、根本史料と定められている。だがしかしである。これが出来上がった西暦720年の年代に於いて、こうした漢字を駆使して書くことの出来たライターははたして何処産の人間だろう。

当時、真備や仲麿が留学していたから、唐へ勉強に行っていた学究が、帰朝してから書いた物と言うのが通説になっている。しかし真言天台の密教にしても、開祖と呼ぶのは4人のインド人やセイロン人、それを唐訳したという唐人の計7人で、日本人は一人も入っていない。これは延暦寺でも高野山でも公然の話で、「大乗寺社寺雑事記」等にははっきりと、鹿園院(京の相国寺鹿苑院)に関し、「天竺人来る、住持となる」と文明18年の条には出ている。つまり神様のノリトというのは聞いていても判るが、お経というのは呪文を唱えて居るみたいに、文字でなければさっぱり判らないのは、このわけなんだろう。そして雑事記には、「天竺人は二条通りと三条坊門烏丸の間にある唐人屋敷に居住している。昨日死んだ西忍入道も幼名はムスルといい、後に天次といつたもので、こうした立野に固まっている連中は昔からの風習で<平氏>の姓を賜っている」と堂々と出ている。

これを見ると季節風に乗ってアラビア姓の名をもつ者たちが、日本へ渡ってきて、京の二条から三条にかかる烏丸の租界に居住し、立野に土地をもち小作人に耕させて彼らは平氏と名乗っていたことが判る。つまり、人間はその母国語からは抜けきれないもので、これは湯川秀樹の如きノーベル賞的頭脳でさえ米語ではすらすらと論文が書けぬ事を考えてほしい。タイトルに日本という文字がついてはいるが、それでメイド・イン・ジャパンとは断定できない。何しろ今日でもイタリアで堂々と米国西部劇が作られる程である。さて、その670年後でさえも、漢字はまだ一般には暗号同然だつた例証がある。

『宇喜多家譜』に「朝鮮王淋聖移住しての裔」と明記されている児島高徳が、延暦寺をも頼られた時の帝の行在所へ潜入しそこえ堂々と桜の幹を削て「天勾践をむなしゅうするなかれ」と書いてきたエピソードだ。もし漢字が一般化していたのなら、そんなアジテートはすぐ抹消される筈である。だが警護の侍なんかには読めはしないから安全暗号として通用したのだと考えられはしないか。当時は「たみ、百姓」と分けて呼び、民と百姓は別個の種族であることを例証している。そして「士、農、工、商」といった順序を作って、彼らを働かせるための恰好をつけていた。

もちろん「土百姓」と言う言葉は今日書くような「土百姓」ではない。百姓に土や泥がつくのは当たり前のことで、これは「奴百姓」だったのである。
さて、私は以前、「弥次喜多道中記は明治維新のバイブルだった」を掲示板にUPしましたがその中で「明治維新の一方の原動力は百姓達の世直し運動だつた」と書きましが、このこともここに記しておきます。

1837年に、先ず大陸系の住民の多い土佐藩に於いて(天保庄屋同盟)が結成された。その起草された(同盟談話条々52条)に「一天四海の内、棟梁は唯一。受け継ぐ処は三段にて、これを合わせて四等というべし。総主は天皇尊(すめらみこと)、御代官は将軍、御組頭は大名、小頭は百姓の庄屋なり」と明言している。つまり、南国土佐の百姓は、武士や商工業者を認めていない。そして百姓を指揮監督している自分らこそ、新興ブルジョワジーの座を確保すべきだという庄屋のイデオロギーをここに明白に打ち出している。

そして、その為には「邪魔者は消せ、打倒サムライ」つまり神徒系の排撃が、村の寺の人別帳(戸口簿)で拘束された仏教系百姓の革命のスローガンになったのである。だから今日、鎧を着て血刀を揮い、大和で激戦をした天誅組の吉村寅太郎などは士分と間違えているが、彼はれっきとした百姓である。鍬を握る手で刀を振り回したのである。そして寅太郎の出身は土佐高岡群柚原村の庄屋の倅である。1862年4月の<吉村寅太郎文書>によると、彼は伏見挙兵の暴動に参加する理由として家父に対し「諸侯と里正(庄屋の意味)は先駆けすべきが理なり」と当時はっきりと書き送っている。何故、南国土佐の百姓がかくも革命先鋭分子であったかというと、これには他に比較を見ない特殊事情があった。長くなるのでここは割愛します。

さて、人は口を利くとき、物を書くとき、自信のあることは、こんな判りきったことをと内心では照れるからして、洒落のめしたり時におとぼけをする。しかし、嘘とか、いい加減な話しだと何とかして相手に信じ込ませようとムキになって、まことしやかに、これでもか、これでもかと説得しようとさも尤もらしく真面目ぶる。これは人間心理の一面である。私たちが読まされる物には、えてしてこれが多い。

昔のパスカルの頃は「人間は考える葦であった」そうだが、段々暮し難くなると今では生活を考えるだけで精一杯で、他まで頭が廻らなくなるらしい。だから信用できそうな立場の人間や、活字になったものは、その葭、葦など考えずその儘に鵜呑みにして勘違いをしがちである。

だから日本では相当の学識者や碩学と云われる人でも、こと、日本歴史となると文部省お仕着せの学校歴史から抜けきれないで居る。非常に残念なことである。そこで世に史料と云われるものを考えてみたい。19世紀に入り、美濃武儀川べりの紙すきに、枠取りという作法が考案され量産が進み、従来きわめて高価だった美濃紙が暴落した。そして、やや時を同じゅうして「ばれん刷り」という新しい印刷技術が開発された。
といつても今日でいえば幼稚なものだが、版行を起こした木版に、行燈に溜まった煤の油煙をつけ、それに紙をのせ、竹皮で包んだばれんで圧して、複写する方法だが、水蝋を塗る技術か゛考案され、大量印刷が可能になった。

ここにおいて従来は官版と称せられる物が主であったのに利益追求の民間出版業が起こった。それに現代と違って発行部数は何百という時代である。だから特に歴史関係のものなどは、さも昔の物と思わせるような前時代の年号を販売上殊更つけた。初めから古本として高く売りつけようとの、逞しい商魂である。また刷って並べさえすれば、珍しい物好きに書物は飛ぶように売れたらしいから、何でもかんでも木版印刷して売る時代となった。

だから今日我々が史料のごとく錯覚して信用する大半は、年号がどうであれ、この文政出版ブームの頃の産物が殆どである。しかしこの鑑別法は簡単である。用紙を透かして見て「こうぞ」がホモナイズされているすき紙の物は、たとえ年号がどうであれ、これは幕末ものであるし、こうぞの固まりが混じっている物は石臼でひかれる前の古紙である。古い寺などに「鎌倉時代の住職の日記です」などと、厳かに桐箱に入っているのがあり、見せてもらうと、この鑑別法で一発である。古くて、由緒ある寺だという権威づけのための物が多く、遠くから出かけていって泣かされる事が多い。

有名な宮本武蔵を例に引いてみよう。

現代の研究家は奥付の年号に頼るから、<海上物語>は武蔵の死後26年目の寛文6年だとか、本多忠刻が二階から招く千姫に誘われ、その荒のため腎虚で死んだのに武蔵が関係があるとでている<古老茶話>(1662)や、後年小笠原の家老で知られている造酒之助が貧しい馬子だったという<丹治峯均筆記>や、正徳2年に武蔵が125歳で千葉の行徳で死んだという<関八州名墓誌>神明流開祖と出ている<甲子夜話><睡余子録><事実譚>といったものを例証として、古くから武蔵は知名だという。だがそうした武蔵がこしらえものであることは、版本に用いた紙質で一目瞭然なことは前述した通りである。年号は商売人が誤魔化しても、用紙が文化後の物ですぐ看破出来る筈なのである。

さて出版ブームになると器用に何でもこなせるライターが必要になってくる。これは今も昔も変わりがない。小浜藩士150石とりの伴信友が、病気を理由に致仕し、ライター業に専心したのは文政4年(1821)からという。これから彼は書きも書いたり著書本300。編集本150。校訂として名を入れた物250種という大ベストセラー作家になった。現在、こういったことを頭に入れて歴史物を読めば、その作者の器量が判断出来るし、なにより、高い金を出して愚にもつかない通俗時代小説など買わなくてすむのです。 こうした間違いや誤魔化しの歴史だから、数え上げればきりがないが、そのうちの一つ「倭寇」についてつぎに記してこの項を終わります。

徳川時代の大奥ものには忠義な乳母として春日の局が出てくる。が、あれは何だろう。明治大正の講談本ならば「春日の局は家光の乳母」でも良かったろうか゛、現在に於いては、慶長十九年二月二十五日付の『家康公遺文』がすでに明白にされていて、その中に「右は神君大御所駿府御安座のみぎり、二世将軍秀忠公之御台所へ進められ候御書を、これを拝写したものゆえ、忝なくも拝誦すへきものなり」とあり、秀忠公御長男竹千代君、御腹、春日局。同  御次男、国松君御腹御台所。はっきりと春日局と家光が母子であることは立証されている。これは江戸時代にあっては、紅葉山文庫に極秘に蔵れていたのが明治になって放出され、同四十四年に活字本に複刻版が出たが、講談で説くごとく、何もただ単に乳人だけの存在なら乳離れしたら御暇が出るのが当然である。

何しろ『寛政十二年・鳴海史料』に在るように、「鳴海刑部六代目、同兵庫賢信の代にあり、時の政所春日御局より上野天海僧正をもって、御考判御遺被下候。よって賢信これを畏み奉りしところ、御局さま改め土井堪三郎利勝さま初め御家老を呼びつけ、新銭鋳造の儀を仰せ付けられ候」と、時の老中一同を集めて寛永通宝の発行を命じたり、当時の小田原城主稲葉美濃守の「貞享三丙寅九月十四日付提出・春日局譜略」に「寛永二十年九月に春日局罹病するや、家光公は三度自宅の代官町へ御渡。家綱公も二度出御見舞われ、千代姫様初め、尾、紀、水の御三家もしばしば自ら見舞いの駕をつけ、京よりは東福門院並びに帝の勅使として右衛門佐の局が下向」といった具合になるのを、調べてみて単なる乳母にしては奇異と思わないのだろうか。

『吉川家文書』には「天正十一年、当時備後福山にいた十五代将軍足利義昭が、宿敵信長の死を機会に勢力挽回のために、その春日局をもって上洛させ、毛利家の待遇悪しと宣伝し難儀している」旨の記載がある。つまり春日局とは、「将軍家の側室にて御所へ拝謁できる身分の女の官名」ということになる故事来歴を、歴史家は浅学にして知らなかった事になる。なにしろ日本の歴史家どもは、かって大正昭和にかけても「勤皇の志士だ天誅を加えてくれる」と書き殴って暴力を賛歌し二・二六や五・一五を起こしてくれ、「われ皇国の礎にならん」と殉忠報国ムードをかきたて国民を戦争に追いやって殺してくれた。だから今日改めて春日局を書くのなら誰も彼もが、テレビのようなあんな非現実的な、やりてばばあ的な扱いを安易にするより、

★彼女が将軍の側室なら、当時の征夷大将軍は家康である。三代家光は秀忠の子でなければ家康の子と言うことになる。では何故あえて家光を三代将軍にしたのか。この時から神徒の徳川家が仏教徒に変貌したこの謎は?

★何故彼女は、当時豊前に隠居していた細川忠興を、亡父斉藤内蔵介の盟友なりと称して、秀吉でさえ惜しがって小西行長と加藤清正に折半してしか与えなかった肥沃の土地肥後五十四万国を細川一人にそっくり与えたのか?
   (当時は外様大名の取り潰し旋風が吹き荒れていたのに)

★細川忠興は、俗説ではガラシャ夫人ことお玉を熱愛していたと言うが、(彼女は明智光秀の娘である)彼女の産んだ長子与一郎こと細川忠隆は北野へ追放、次子与五郎は殺し、別腹の第三子忠利に家督を継がせた謎。

★この時代、西は女帝で東福門院、東は春日局が<女にあらざれば人にあらず>とまで公言していたのが、その死後途端に大奥の女中三千六百余人が暇を出され、やがてその半世紀後からは、<女は三界に家なし>式の女性受難時代を招いた。こうした謎の解明にその労を向ければ、現代の世相からして、多くの女性に賛同を得られると思うのだが。才女といわれる優れた人が今は多いだけに、同姓の歴史に対して不勉強が惜しまれてならない。

『正説倭寇』

「元史」の成徳8年の条の「定海に倭寇を防がしむ」や日本の南北朝時代にあたる至正23年8月の条の「倭人蓬州に攻め来たり宋将討って破れぬ」と南支那沿岸の記述が見られる。しかしそれと朝鮮半島の李成桂王朝が、足利義満に対して抗議してきた侵攻とは違うのではなかろうか。

日本史に八幡船と称して、南支那海を荒らしまわったと在り、自国の先祖達がまるで海賊を働いたように、子供達を教育しているこの国は誠に情けない国である。だから韓国や中国から国家を構成する根幹とも言うべき自国の歴史にケチをつけられ、経済的思惑ばかりが先行して、あわてて釈明のための特使を派遣したりしている。日本はもうこんな虚妄の歴史から脱却し、4〜5っの複合民族であるとはっきり国民に知らしむべきである。
さて俗に八幡船と称して南シナ海を荒らし回ったのは、対岸のマレーシア、つまり当時ポルトガル領だつたバハンからで、この時の日本人というのは何もバハンくんだりまで出向いて、自分たちの意志で略奪をした訳ではない。ポルトガルが日本人を奴隷として連行し、略奪に向かわせていたらしい事実がある。私はリスボンのリルケ絵巻の陳列して在る、ジェロニモ修道院の隣の海事博物館の壁画の中に、褐色赤褌姿の奴隷が沖の母艦とも言うべき大型帆船から、小舟で突撃していく絵が現存するのをこの目で見てきている。

日本の学校教科書のマレーシアの地図でも、南支那海に面しているのはバハン州と出ている。小舟に立って乗っていけるのは、近くに基地か母船があるからである。遠くから、まして日本からでは、あんなに沢山の人間が乗っていては、眠るスペースもない。略奪した戦利品を積む余地もない。第一、裸で彼らが活動出来たという事は、亜熱帯気候の彼の地でも、気候は春から夏である。  となれば、海洋気象学上、この時期の海流は南東であり逆となる。だからあんな小さな手漕ぎの小舟でバハンへ等行ける筈はない。

高麗の恭順王が遍昭の子に王位を譲り、元国の代理戦争で又も日本へ侵攻を企てたのに対して、高麗海軍は反対して3百からの船団が脱走した。彼らは壱岐対馬から日本列島に来て水や食料補給を受けていたから、日本人も乗せていただろう。つまり「高麗史」に出てくる倭寇とは、海軍が祖国を遍昭の勢力から奪い返そうとしたことへの反証である。元を倒して取って代わった明からの援助で、陸軍の李成桂がクーデターに成功し、漢陽を京城として朝鮮を建国してからは、あくまでも帰順せぬ海軍船団は賊視して近寄れば撃ち払った。もちろんその以前から叛徒とされていた連中は、高麗王時代から略奪したり、李王朝になっても反抗し、日本から捕らえてきたり、金で購ってきた者らを先頭に立てていたから倭寇と呼んだのである。

つまり、好戦的でも野蛮でもないが、勇敢な日本人がまっ先かけて突進したのだ。ただそうしなければ殺されてしまう奴隷の悲しさで、そうさせられただけである。誰彼の区別なく、命令されればそれに従順によく従うのが古来よりの日本人の美徳でもあり、欠点でもある。北欧のバイキングや英国の海賊は、国家権力がバックアップした本物の海賊行為である。      

とは言え、誤認された歴史により、自国民を盗賊扱いするような吾が日本国は誠にお寒い国である。ロクに歴史もないアフリカの新興国でさえ、国民意識高揚のためまっ先に歴史を教えている現実。国民が真に国を愛するためには、真実の歴史教育に取り組むことが、最重要課題である。

この倭寇と関連して「降倭」というのがある。日本で出土された物は何でも日本製、日本から出兵したのは皆日本人であるという短絡思考がある。が、次の一文もこれはそうしたわけではないとするところの現実的な裏書きといえる生きた証拠である。

韓国慶尚北道友鹿洞は大邱から南へ一時間の村落である。現在でも七十余戸の村落が、1592年の豊臣秀吉の壬辰倭乱、日本で言う文禄の役の時に、小西行長の軍勢の子孫か住みついている土地である。「沙也可の一党」であると彼らは自称して、六代目が書き残したと伝わる「慕可堂文集」すらも現存する。戦国時代末期、安土城を普請したのは岡部又佐であるが、この岡部に徒弟奉公して大工として腕を磨いたのが加藤清正で、今でも熊本城は清正の築城として有名である。
清正の虎退治などは後年のフイクションだが、清正は当時大工、築城技術者として有名で秀吉に重用されたらしい。だから秀吉は文禄の役の時、清正を設営部隊、つまり工兵部隊として朝鮮に派遣。堺から兵庫県に住み着いていた朝鮮人たちを沢山部下に持っていた小西行長らに統率させて先陣部隊として出陣させた。ところが、小西部隊の朝鮮人兵は、久しぶりに故国の土を踏んだものだから、すっかりハメをはずしてしまう。釜山から前進するにつれ、銃器弾薬を携帯したまま糧米まで奪ってみんな同胞の元へ逃げ込んでしまった。「先祖の沙也可らは、東方儀礼の国の朝鮮に憧れていたので秀吉を憎み、我が国へ入ってきてからは空に向けて鉄砲を発射し格好を付け、次々と朝鮮軍に投降。

今度は勝手知ったる吾が陣地とばかり、自分らが先頭に立って、日本軍へ奇襲をかけ撃退してのけ、朝鮮の女子供を守ったのである」と子孫は誇りに
している。だから、小西部隊は同胞ゆえ当然だし、秀吉は明国突入が目的で朝鮮半島は通過するだけの作戦だっので、工兵隊だけの清正のごときは降倭、即ち日本兵に攻められると防戦できず、蔚山城に入って芋がらや壁土まで食って餓死寸前まで追い込まれ、辛うじて救出されている有様である。ただ通り抜けるだけゆえ、言葉の通ずる同国人が良かろうと朝鮮人を先発させたのは、秀吉の重大な作戦ミスである。

(秀吉の野望は自分が日本国の天皇になることで、その為、京都に己の新御所として聚楽第を建てた。そしてそれまでの藤原氏に繋がる大陸勢力を一掃して、中国へ帰ってもらうため、北京を占領し、時の天皇を移し、北京周辺五カ国を五摂家に分け与える計画だったらしい。何も朝鮮や中国を占領する気はなく、ただひたすら大陸勢力の追い出しが目的である。だから、六世紀以来の大陸勢力を一掃して日本が完全に独立できたのはこの時なのだが、秀吉の急死により野望達成はならず。歴史にIFはないが、想えば面白い歴史展開になったようだ)秀吉の死後、大阪夏の陣の時後藤又兵衛は神戸三の宮で朝鮮の高梁酒を飲んでいるし、千姫救出の坂崎出羽守も朝鮮人だった程ゆえ、関西には当時から朝鮮半島から来ている者が多かったということである。それゆえ韓を征するには韓人をもってあてようとの計画が、裏目に出てしまったのが勇敢だった降倭の人々の真相である。

次に現代の徳川史観では、反徳川の立場をとった石田三成の評価は低いが、大明国討ち入りの日本における後方補給、兵站の総指揮、さらに秀吉の突然の死による終戦処理を一手に引きう受けたのが三成である。当時としては立派な武将であつたことが窺われる。韓国人は文禄の役の時、日本人が悪逆非道の限りを尽くしたように言うが、秀吉の突然の死により、半島に取り残された日本兵がどうなったかは常識で考えて見ればよく分ろうものである。虐殺されたのは日本兵の方なのである。
〓〓〓終わり〓〓〓 

☆引用参考文献☆ 唐六典・二水記・建武式目追加・六国史・一代要記・類聚国史
八切裏がえ史・野史辞典・不可思議な国ジャポネ(コインブラ大学歴史学博士オロラ
ケント)・日本奴隷史(阿部弘蔵)その他。

=転載終了=  

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コメント
 
01. 2011年11月07日 11:48:27: 5nPePzbV5g
五月晴男様

最初は、八切先生の

「近世ヨーロッパの魔女狩りで殺された犠牲者は5,000万人で

 犠牲者の大半はアブナイ女どもだったので大賛成、

 出典元は、ローマ教皇庁とプロテスタント派双方の、公式発表文書に

 それぞれ戦果として、お互いに2,500万人と記されてるから」を

 読んだ時は、政府発表を鵜呑みにするしか能のないトンデモない人、

 学際的発送が弱い人が歴史を論じるな、と思ったものでした。


 しかし、最近になって知人の紹介で、八切先生の魔女狩り犠牲者説は

 荒唐無稽とは呼べないのではないか?と思う資料に出くわしましたので
 
 ご参考になさって下さいますと幸いなるかなです。


 マイケル・ホフマン著『奴隷にされた白人達』、で検索なされると出ます。

 http://www.j-netusa.com/literary.html です。確か。


 


02. フシギ空間 2011年11月13日 20:49:37: OmtZW.QhVGmO2 : YpDTOfxdkQ
01氏 魔女狩りがほとんど廃れた1700年頃のヨーロッパの人口が1億1千万人程度のようですから、
いくら三百年程度続いていたとはいえ、魔女狩りで殺された犠牲者5000万人は
荒唐無稽でしょうね。

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