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明治維新の裏話 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/568.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 18 日 21:44:58: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 地上げの元祖・勝海舟 (八切幕末史) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 20:12:26)

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meiji.htm

=転載開始=

紹介者・注)文中「私」とあるのは八切先生の事で、原文は大変読みずらい為、かなりの長文だが若干編集しておいたことを、ここに明記しておきます。読むと判るが、明治維新の一方の原動力であった西国大名達や武士側の思想が、よく解るし、明治の元勲等と祭り上げているが、美化された幕末史、偽造の日本史の一端が判ろうというものである。
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私の恩師権籐成卿編著の「八隣通聘考」の下巻に、「朱雀朝九年己亥(西暦939)十二月、平將門反し、関東奥羽大いに乱る。十年庚午に誅に伏す。同十一年辛丑、首は都に来る。これ純友、將門と相応じ、四国、九州を騒乱せしため」とあるのを、不審に思って権籐先生門下の綱島正興に尋ねてみました。師弟関係厳しい当時のことゆえ、権籐先生に遠慮して声を落として教えてくれた。それによると、

「將門伝説は講釈本みたいな小説のはしりで、頼山陽の戯作芝居で比叡山上の場での二人のやりとりが、反体制そのもので当時大評判になった。そこで一般大衆動員には皇大神宮の版木を何十も作って、各地で御札ふりをして、ええじゃないかと踊り狂わせたが、大名達は徳川家に睨まれ改易されては大変だと、各藩の上士連中は明治革命にはすこぶる臆病だった。これではならないと、薩長を味方に付けるため”討幕は恐ろしくはない。以前にも権勢に対して叛乱し失敗はしたものの、前例もあるのだ”と、京の儒学者で頼山陽の遺児頼三樹三郎が、当時はもう木版本は僅かしかなく、江戸府内で売り尽くされていたから、やむなく次々と勿体を付け、ずっと古い年号を附記させ筆写し、これを討幕用テキストとして、腰の重い各藩へ何部ずつか送らせたものなのだと、品川弥二郎が講演したのを権籐先生も聞いていたので知って居られるのだ」

と、密かに話してくれた事がある。

そして同書の下巻の前半六十二頁に

「我れ独り、旧習例に依り、趙宗高麗の使聘を拒斥す。摂間の権いたずらに高く、州郡彫幣を極む、という第二節の小採題標題をよく読めば、幕末まで大名は、反徳川だと睨まれたら御家取り潰しになると各藩は、戦々恐々としていた旧習例を、つまり上士階級の頑迷さが根強く、いくら遊説しに行っても効果が亡く、そこで筆写本の<將門記>を読ませて東北以外は、皆薩長側になって討幕勢力の結集が出来たのだ、という裏話が出ているからちゃんと読まなければいけません」

と諭されたものです。

「ええじゃないか」の御札ふりを各地でさせた木梨精一郎は、上野戦争の時に千代田城にいた大村益次郎の代理として、長州人だが西郷隆盛の先遣参謀を勤めていたが、英国公使のパークスに事前に了解を取りに行ったのは有名だが、「將門記」を古い年号で次々と筆写させ、各藩へ届けたのは、頼美樹三郎の意志をついで、何百もの筆写本を筆の立つ志士たちに手分けして書かせたのは、吉田松陰の遺言によるもので、門下の白井小助といわれる。

白井は初め、長州藩家老浦靱負の家来だったが、文久三年七月一日付けで五人扶持恩米十石で長州の直臣となった。これは吉田松陰の推挙という。馬関戦争の後で高杉晋作の奇兵隊が創立された際、松陰門下の白井が送りこまれて高杉に見込まれ隊長となった。

安政元年、松陰がアメリカ艦で渡米せんとした時の送別会が、江戸京橋の酒楼伊勢本で催された時、集まった七名の内にも在江戸の門下白井小助もいた。そして小助は吉田松陰に、「如何なる方法をもっても箱根以西の諸藩を見方にせねばならぬ」と、後事を託された。

(紹介者・補記)
松陰はこの以前にも長崎で、露艦に乗船しようとして、失敗している。安政元年に金子重輔と米艦にて密航を企て失敗し幕府に捕われ、伝馬町の牢から萩の野山獄に護送され、獄中の松陰に衣類を密かに差し入れた。この一件が藩に知られ、当時は未だ幕府を怖れていた長州藩重役の激怒をかい、藩より白井は過料の処分を受けている。

昭和十三年、日光書院牧野謙次郎著「維新伝疑史話」に次のようにある。三浦梧棲陸軍中將は、山口県平生町郊外に飯山塾を開き、在野のまま後学の青年を教育している白井小助こと改名素介が、時たま出京しても下谷の求昌寺に泊まったり、嘉納治五郎の講道館にしか寄宿せぬのを戒め『後輩の山県狂介や伊藤俊輔、井上聞多も今は大臣である。

白井先生の旧幕時代の裏話は酔余の雑談とは思うが穏やかでないし、先生の大業(將門記を古い年号で松下村塾でも筆写させ、各藩主を西軍に組みさせた功労のこと)は、恐れ多くも、至尊もその功大なりと認めておわす』と、山県や伊藤博文、井上馨らが松陰門下の大先輩として白井を遇しはした。

それでもせめて出京の時は顔だけでも出しておくべきだし、何とか官途に就くべきだとも忠告した。しかし白井は、至尊の御名が出ると忽ち座をすべりおり下座にて平伏し、「草野の賤民礼を知らず、誠に恐れ入り奉る」と大御心に対し奉って拝礼をしていた。

権籐成卿の実父権籐直(号は松門)は医師で、久留米藩に籍があったが、縁あって明治十八年、十八歳で東京の二松学舎に入学の時、白井を頼って権籐直は、当時の農商務大輔、品川弥次郎に保証人に成って貰った。
また、山県や大隈重信の許へも出入りしていた。だから権籐成卿は白井の口から直接聞いたのか、品川弥次郎の講演を聴きにいってこの事を聞いていたものと思われる。

尚、討幕の際の裏話を松下門下生き残りの白井は、他にも色々な事を詳しく知っていたので、それをよく吹聴していて、明治の大官は押込み強盗をやった事もあるから、後ろ暗い過去を喋られて皆は迷惑していた。それでも明治三十年に白井が死ぬと、痛い所を握られていた煙たい存在の白井がいなくなりほっとしたのだろう、「友人白井小助こと素助君死亡」と、東京日々新聞上に葬儀広告を出した。
これは当時二度首相を務めていた山県有朋が掲載させて、友人総代として己が名を筆頭に出していた。
これは「明治新聞編年誌」にはっきり出ている。

頼三樹三郎が口火を切って始めた將門記筆写は、吉田松陰に引き継がれ、松陰も処刑されてしまい白井小助が後を引き受け、一藩に何部も書き写しを届けて、御一新の際には西国大名を一人残らず西軍につけたものの、三樹三郎や松陰が次々と刑死しているだけに、いくら勧められても立身し官員になって出世する気持ちになれず、世捨て人のようになっていた。
(紹介者私見・男とはこういう生き方をするべきではないか?)そして酒を呑み酔うと、

「あいつらは今は維新の元勲だと勲章をぶら下げ、俄か華族になってふんぞり返っているが、昔は酒を呑む金がなくなると黒っぽい手拭いで頬かむりして町家へ押し込み、御用金にするのだと銭箱を持ち出して逃げた。なにしろ呑みたいし女を抱きたいが、みんな生まれが良くないからやることも下司だった。俺も付いていって銀を一掴み貰った事もある」

と、当時の悪さをした連中の名を遠慮なくあげて、口角泡を飛ばして話しをしてから涙を流しつつ、「死んだ者貧乏と言うが、頼三樹三郎や吉田松陰先生も、維新の緒口だけ開いて先に死んでいった.......」
つまり明治になって生き残っているのは、役立たずの詰まらん輩ばかりだとまで言い切っている。選挙と同じで戦争もねじ回しが充分されていて始めて火蓋を切るのが終盤戦での決戦になる。なにも上海から買い付けてきた新硝石で東軍に勝てたんじゃない。
その前に何百部も筆写し、箱根以西の大名家へ、領主用、上士用と何部ずつも、秘かに差し入れして読ませた為と、

「徳川家に逆らって御家取潰しになったら家中一統が困る......といった考え方は違う。ずっと飼い慣らされてきた犬みたいな習性にすぎん。自分から新皇と名乗り勇ましく戦ったという將門伝記をよく読んで頂ければ、力が全てで勝ってしまえばそれでよいのだと判っていただける筈です。と次々に遊説して廻ったのが功を奏して、箱根以西は西軍に加担しなかった大名は居なかったではないか。根回しが行き届いていたからだ。それを松陰先生に言われて完全にやり遂げたのがこの白井小助なんだ」

深酒がたたって今言う肺気腫になって吐血して死ぬ最期まで、維新は己が散布した筆写本のせいであると言い切り、明治の元勲山県有朋も彼にかかると糞味噌だったそうである。「將門伝説」は西暦九三九年の架空のでっちあげの天慶の乱の話しだとしても、それを題材にした売講子やデロレン祭文語りらの種本の筆写が、明治維新の世直しに大いに役だったことになったのである。

(紹介者・補記)

「白洲正子自伝」にも、白洲正子は「祖父の樺山資紀から『我々は維新の元勲だとか何とか世間では言っているが、本当に偉い人達はみんな早くに死んでしまった。残ったのはカスばかりだ』とある。また、鹿島昇氏はその著作「裏切られた三人の天皇」の中で、
「維新の元勲などと言っても、大酒のみの無能者で、彼らは共謀して孝明天皇、その子睦仁、徳川家茂までも暗殺している」
と彼らの悪事を暴露し、糾弾している。この説は非常に重大な問題を含んでいる。ともあれ、何れにしろ日本は歴史を美化し過ぎる。汚い物は見たくない、厭なことは聞きたくない、この心理は理解出来無くはない。しかし、この国は一日も早く”真実の歴史の回復”が急務ではなかろうか。

この一文を記すに当たり、吉田松陰関係の史料を調べてみた。吉田松陰関係の資料は非常に豊富である。彼の著作や日記、書簡、詩歌など集大成した吉田松陰全集は十二冊も刊行されており、五百字詰四百頁にも及ぶ浩瀚なものである。その他にも明治以来松陰を主人公にして書かれた書物は、まさに汗牛充棟、数え切れない。今回松陰関係の参考文献は以下の通り。
白井小助に関する記述も少なかったし、残念ながらこうした裏話を記述した物は無かった。
山口県教育会編「吉田松陰全集」・日本の名著「吉田松陰」・真田幸隆「吉田松陰」杉田幸三「安政の大獄」・徳永真一郎「吉田松陰」・古川薫「吉田松陰とその門下」・木俣秋水「外史・吉田松陰」


                    ●●●●ええじゃないか。とは何だったのか●●●●

【紹介者・補記】
この「ええじゃないか」の事は現在の文部省検定高校教科書に載っている。当時の錦絵の写真も「豊饒御蔭参之図」として出ている。それによると、「ええじゃないか」とかけ声を掛けてはやしながら踊り歩く民衆運動は、空から舞い降りる「大神宮」などのお札、仏像、貨幣などによってさらに激しさを増したという。これだけである。しかし幕末革命の紛れもない大衆運動だったこの民衆の行動は一体何だったのか。八切史観では次のように解明する。

天明八年、老中筆頭松平定信が、本所吉祥院歓喜天に願文をあげた。「なにとぞ米穀の融通よくなり下々の難儀が起きず、世の中が静かに治まりますよう。定信の命はもとより妻の命を捧げ心願仕候」といった内容の物であった。

これは前の田沼意次の高度成長インフレ政策のひずみで、諸物価が高騰し、江戸や大阪のような都会でも、打ち壊しといって現在の「交番」にあたる自身番の詰所が各所で放火破壊され、町民が暴徒化した結果である。結局この鎮圧は町奉行や御先手方の機動隊出動ではかえって火に油を注ぐ結果となったので、男女七歳以上に、「米二合五勺、豆二合五勺、銀三両二分」ずつのお救いを出して鎮圧させた。
しかしそれも一時しのぎで、物価の激しい値上げに収入が追いつかない一般大衆の困窮は烈しく、革命前夜の有様となった。
(主食の米麦さえ沢山とれて、出回りが良くなれば他の諸物価も押さえられよう)今と違って単純な経済機構の時代だったゆえ、その考慮から松平定信はその妻於市の方の命までかけ、男女抱合つまり陰陽合一歓喜の神様へ願文を捧げ拝んだのである。つまりまだ十八世紀の政治技術では「苦しい時の神頼み」しかなかったのだろう。が、現実にはもとより何ら効果はなかった。物価はまるで競争のように値上がりした。

そこで現在の主婦連なら大しゃもじでも担ぎ出すところだが、当時のかみさん連中は(松平定信の妻の名が於市だったから)それにひっかけて、各広場に集まって「しんぼ、こうだい寺は何で気がそれた、おいち毛まんじゅで気がそれた、おいちめめっちょは舐めたらしょっぱい」声を合わせ反体制の風刺踊りをした。この「しんぼ」は実際には彼女らは「ち」と発音。
「こうだい寺」は、本所吉祥院へ定信が願をかけるときの取持ちが、興台寺という説と「葛西幸大寺の満水和尚」が、願文の橋渡しをしたからとの二説がある。女は女に酷いと言うが、定信夫人於市にしても誰にでも舐めさせた訳でもなかろうに、この唄では風刺より、もはや卑猥である。さて、この「しんぼ踊り」が間もなく「歌は世に連れ世は歌に連れ」と、御一新の「ええじゃないか踊り」に変貌する。

「ええじゃないか、ええじゃないか。 かわらけ同志がはち合うて、双方にけがなきゃ、ええじゃないか」

これはしんぼ踊りの歌詞のごとく見れば、そのものズバリ過ぎるが、この場合の、「かわらけ」とは土師部の子孫で捕方役人や牢番人、番太郎をやっていた棒衆。いわゆる八部衆への隠語(どろぼうと呼ばれていた二股膏薬の連中)なのである。だから、「御用」「御用」と追いかけ回す彼らと、「浮浪」と呼ばれた脱藩浪士や郷士といった連中は、その血統がやはり土師部と同じ原住系八の民の末裔だから、何も判らずそそのかされ、おだてられて上洛してきたのも多かったから、
(もとを正せば、同じ種族ゆえ、衝突しても怪我をしないようにしたらええのや)といった風刺がこれには入っている。
さて、風刺という視点から大衆運動を考察したが、錦絵の中に描かれている、皇大神宮やおかげ参り、について考察してみよう。

近松門左衛門の浄瑠璃に「この世に神も仏もないものか」と、神と仏を一緒くたにしている。また、講談や浪花節では「神仏に祈願して」等と心安く使われてもいる。だが「さわらぬ神に祟りなし」の言葉が残っているように、明治になるまでの神は、迷い出てこぬように封じ込めにした対象で、拝むのは仏の方だけで、神はお払いと称して祟りをせぬように、その怨念を榊の葉でお払いしてのける存在で、今とはまるで違ったものだったのである。

新羅造りの社(やしろ)に隷属した高麗系を象徴するのが、今の白木造りの社前の狛犬で、その名残を「皇大神宮」としている。これは桓武帝の時に蕃族として討伐された新羅人たちの怨念を封じ込めたのが社である。一方「宮」も差別の対象にされていたのである。
判りやすく言えば社は四つの民の神様であり、宮は八つの民の分類に入るのである。つまり品川弥次郎作と伝承されている処の、「宮さん宮さん、おんまの前にヒラヒラするのはなんじゃいな」の宮さんは、弥次とよばれていた八つのこと。おんまは言わずと知れた馬、つまり四つなのである。

(紹介者・補記)
ちなみに十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は弥次、喜多道中記として有名だが、あれは滑稽本の体裁をとっているが、維新革命への啓蒙書なのである。当時貸本屋では引っぱりだこで読まれたという。文字の有るのが読んで聴かせ、耳で聞くと良く理解できるのだが、ヤジは八つの民、キタは四つの民。即ち、徳川体制に疎外された庶民の古代海人族の末裔である拝火教徒と、その後から日本列島へ渡ってきた騎馬民族、庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へ行き、アマの大神と、二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈ったという風刺物なのである。

つまり作者の意図が、世直しを求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表であるヤジとキタが道中で一度も女に触れずだったのはごく当然であって、読む側も本当は何が書かれているか、そこは心得ていたものだろう。滑稽本と決めてしまったのは何も判らぬ田舎者の薩長人が、東京政府を作ってからなのである。

御家大事でビビっている大名を白井小助指図の將門記の書き写しで、うまく開戦前に啓蒙開発出来たものの、人口の八割を占める彼らの大衆動員がなくては民衆と乖離した革命などは有り得ないのである。今では信じられぬ事だが、幕末までのお伊勢様は「北条まん子様の宮」と思いこまれていた。この当時の無銭旅行である「オカゲ詣り」は「お庇げ詣り」ではなく、本当は日影の民とされた連中、陰の民の「お陰詣り」だったのである。道中では同宗、同族の越後屋や鴻池などの大店がシンパとしての資金援助があったから彼らは旅行が出来たのである。

「お札ふり」と称し「伊勢皇大神宮」の御札の版木を沢山彫って、それぞれに持たせ、宿場々々で上からまき、四つや八つの大衆動員に役立たせ、「ええじゃないか、ええじゃないか」と北条まん子様が蘇って世変わりするのだと男は白粉をつけ女のべべを着る。女は反対に男姿で練り歩き、宮の札だから祟りがあってはと怖れて、お払いに町の年寄りが地酒の樽を持ち出して振舞ったから、彼や彼女は振舞酒に酔っぱらって、宿場全体をデスコみたいにしてしまった。が、この大衆動員は大成功。

それゆえ街道の庶民に示す感謝の歌が、まさかヤジさんヤジさんの呼びかけではまずいから「宮さん宮さん」と呼びかけを変えて行進歌にし、東海道を礼をのべつつ、西軍は勝ち誇って下っていった。

(紹介者・補記)
日本人は何かと言えば直ぐに紅白に分かれたがる。紅白歌合戦や運動会も然り。
というのは無理もないことで、これは民族の色なのである。源氏は白。平家は赤。大陸よりの仏教系は黒と決まっていたからである。だから維新戦争の時薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのもおおいに訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭に立てて進み、平氏系の多い名古屋あたりは赤を先発とし、源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのである。
というのは、彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長には、偽金造りといい、大衆利用といい、頭のよく廻る悪知恵者揃いが居たものだと感心させられる。

結局薩長は彼らを巧妙に利用して維新成就はした。そして太政官と並んで神祇省を設置し彼らの労に報いた。八と四つの民は、「やっと差別から解放される、わが世の春が来た!!」と歓んだのもつかの間、全国の仏教勢力は金のない東京政府に膨大な政治献金をし、勢力巻き返しを計った。そして裏切った薩長は彼らの叛乱を恐れ、表向き移民といえば聞こえは良いが、内実は棄民政策で報いた。
女は性業婦としてサンダカンやベンゲネットへ、他は樺太や北米、ブラジルと数百万を海外へ放り出した。結局部落解放はかけ声だけで、差別問題は現在にその影を落としている。「明日が来るを信じて」一身を捨てた名もなき草莽の
無念さに想いを馳せれば、維新の元勲等ではなく、彼らにこそ一菊の花をそえて
その御霊安かれと祈るべきだろう。

さて吉田松陰の「討賊始末記」の本は詳しく私の「吉田松陰」にもでている。
長門大津の川尻浦山王宮があり、宮番で堂守り幸吉は妻登波の他に両親と年頃の娘四人と、ひっそり居付き部落にいた処、食い詰め者の浪人枯木竜之進が目をつけ
「宿場女郎では銭を取られる。しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから儲かる」と、忍び込んで先ず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳、十七歳、十五歳から未だ子供の十四歳の末娘まで順繰りに犯してから、後のことを考えて、「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入っていない者らゆえ、あやめても人殺しにはならぬ」と娘達を斬殺して逃亡。所用で留守をしていた嫁登波は戻ってきて一家斬殺に仰天。それから十年がかりで、ようやく仇討ちを遂げた登波を松下村塾に泊めて、稀らしい仇討ちの話を聞き筆記した際、門下の高杉晋作や久坂義助が、門人一同を代表して、

「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊まりさせるのは塾の汚れとなります」と、登波を追い出し、塾を清めお祓いをしようと申し出たところ、「何を言う。宮の者や社のつるそめ神人を非人としたのは、徳川綱吉の神仏混合令からの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別思想か情けない」と、登波の十年を超す苦労を労り、素足で山野を駆け回っていたので、あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり、休ませ、身体が本復するまで塾で休ませたのは藩命で野山獄へ入れられる1ヶ月程前の事であった。松陰が「討賊始末記」に詳細書き残してくれたから、幕末になってもまだ宮とか、宮の者といった存在が非差別対象にされていた事がよく判る。

<<終わり>> 
 
【引用参考文献】
八切止夫著「日本古代史」「サンカの歴史」「論考・八切史観」
        「日本の特殊部落発生史」

=転載終了=  

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