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(回答先: 足利義満と金 (八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 17:22:02)
標記は下記に依ります。
http://www.v-museum.pref.shimane.jp/special/vol06/history/index.html
http://www.v-museum.pref.shimane.jp/special/vol06/history/history2.html
=転載開始=
16世紀に発見され、開発が進められた石見銀山。世界や国内にどのような影響を与え、またどのような軌跡をたどったのでしょうか。
■石見銀山はなぜ16世紀に開発されたのか
16世紀に石見銀山の開発が始まった背景には、東アジアでの銀の需要の高まりがありました。
○中国の銀の需要
当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
○日本では
一方、日本の周防の国に大内氏という大名がいました。 大内氏は博多の商人と結び、中国と貿易を独占的に行っていました。 その商人の中に神谷寿禎という人物がいて、彼は中国で銀の需要があることを耳にしていました。
当時、中国との貿易(日明貿易)では、銅が主要な輸出品でした。 寿禎はその銅を鷺銅山(島根県出雲市 出雲大社の近くの銅山)で購入するために日本海を航海していましたが、その途中はるか南の山が輝くのを見つけました。
驚いた寿禎が船頭にたずねたところ、それは銀峯山(仙ノ山)という名で、かつて多くの銀が産出されたことを聞きました。そして寿禎は技術者を引き連れて、1526年に仙ノ山で銀鉱石の採掘を行いました。
当初採掘された鉱石は博多あるいは朝鮮半島に送って製錬していました。しかしコストがかかるため、寿禎は1533年に宗丹・慶寿という2人の技術者を博多から招き、灰吹法という製錬方法を導入しました。 灰吹法の導入によって銀山の産銀量は大幅に増加し、やがてこの技術は佐渡や生野など各地の鉱山に伝えられ、日本の鉱山技術に一大変革をもたらしました。
17世紀前半になると日本での銀生産は年間20万sにのぼり、世界の銀生産量の3分の1に相当しました。
■石見銀山と世界の関わり
16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国でしたが、灰吹法の導入後、銀の輸出国になりました。 一方ヨーロッパでは15世紀、コロンブスやバスコ・ダ・ガマによる新大陸発見で大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国による海外進出が活発化していました。
○ポルトガルのアジア進出
ポルトガルは香辛料を求め東南アジアに進出し、さらに中国にも通商を求めましたが実現しませんでした。 そのためポルトガルは正式な貿易ではなく、中国南部の商人と密貿易を行いました。 彼らは中国・朝鮮・東南アジアなど、多民族からなる密貿易集団で「後期倭寇」と呼ばれました。後期倭寇は海賊行為も行う武装集団で、ポルトガルもそれに参加しました。
やがてポルトガル人は、石見銀を始めとする日本銀のことを知り、1543年種子島に訪れ、日本に鉄砲を伝えます。
○銀の世界的流通と日本銀
ポルトガル人が種子島へ上陸してからは、ポルトガルのアジア貿易は日本銀を中心に三角貿易を展開するようになります。
@まず、中国で安い生糸を購入します。
A生糸を日本に持ち込んで、銀と交換します。
B日本の銀をもとに、中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を買いつけます。
Cそれをヨーロッパに持ち帰り、大きな利益を得ました。
■ヨーロッパで紹介された石見銀山
1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教を伝えました。 ザビエルはインドにいるロドリゲス神父に宛てた手紙の中で「カスチリア(スペイン)人は日本をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいます」と紹介しました。
また、1595年にベルギーで作成された「テイセラ日本図」には石見銀山が表記されています。
さらにイギリス商館長リチャードコックスの日記には「ソーマ銀」という日本銀についての記述がありますが、これはかつて石見銀山は邇摩郡佐摩村にあり「佐摩銀山」と呼ばれていたからだと考えられています。
■戦国時代の石見銀山
石見銀山の開発が始まった頃の日本は各地の戦国大名が戦いを繰り返していた時代です。
国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。
銀山の採掘が行われた仙ノ山の真向かいに位置する要害山は、石見銀山を見張るには格好の場所であったため、ここに山吹城が築かれました。そして山吹城を舞台に争奪戦が行われ、銀山の領有はめまぐるしく変わりました。
初め周防国の大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。
1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めました。
1600年の関ヶ原の戦い後、銀山は徳川家康の支配下となります。
■江戸時代の石見銀山
○幕府による銀山の直轄化
徳川家康は1603年に江戸に幕府を開き、全国の都市や鉱山、森林資源など重要な箇所を直轄地(天領)としました。 石見銀山も貨幣の原料を確保するために直轄地となり、他に佐渡や生野の鉱山もありました。 直轄地には奉行所(のちに代官所)を設け、幕府から派遣された奉行・代官が支配を行いました。
○初代奉行大久保長安
石見銀山の初代奉行には大久保長安が任命され、銀山の支配にあたりました。 長安は個々の間歩経営を奉行所に直接管理させて新しい生産の仕組みを築きました。また最先端の技術を導入するなど積極的な政策によって、この江戸時代初期にシルバーラッシュがもたらされました。
○江戸時代の支配体制
銀山は当初奉行によって支配されましたが、江戸幕府の機構改革に伴って、柘植伝兵衛の頃(1675〜1682)からは代官支配に移行しました。
一般の直轄地は代官とその部下の手附・手代という役人によって支配されますが、鉱山や山林など特別な業務を行う代官所ではそのことに詳しい者を役人に採用することができました。 その役人を地役人といいます。
石見銀山の代官所の地役人は、地元石見出身者の他、遠く大和・武蔵・甲斐などの出身者もいました。 これは初代奉行大久保長安が、他の支配する地域から優秀な人材を呼び寄せ、その人がそのまま定住したからです。
また逆に、石見銀山の鉱山技術に精通した地役人は各地の鉱山(佐渡・足尾など)に派遣され、そこで開発や経営にたずさわりました。
○井戸平左衛門
井戸平左衛門は享保16年(1731)に第19代大森代官となりました。翌享保17年(1732)は享保の大飢饉といわれる凶作にみまわれた年でした。 井戸平左衛門は飢えに苦しんだ領民を救うため、年貢を免除したり、自らの財産や裕福な農民から募ったお金を資金として米を購入しました。さらに幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて飢えた人々に米を与えました。
また、サツマイモの栽培は他の作物と比べて労力もいらず多収穫で肥料も少なくて済むことを知り、 当時薩摩国以外への持ち出しは禁止だった甘藷(サツマイモ)を、苦労していちはやく石見へ持ち帰りました。 このおかげで石見銀山領では餓死者がいなかったといわれます。
井戸平左衛門は享保18年(1733)に亡くなり、代官勤務は1年8ヶ月とわずかな間でしたが、この地方では今に至るまで「いも代官」「芋どのさん」と呼ばれ慕われています。大森町には井戸平左衛門を祀った井戸神社があります。
○武士と商人
江戸時代には、武士は城下町に住むことが義務付けられていましたが、大森には城がありませんでした。そのため地役人の多くは代官所の近くに住みました。大森の町は代官所の役人や熊谷家などの商人が結びついていました。
■銀産量の推移
江戸時代初期にピークを迎えた銀産量は次第に減少していきます。良鉱が乏しくなる一方、さらに良鉱を求めて深く掘り進みますが、排水など多くの経費もかかり、採算に合わない間歩は休山となりました。幕末頃の銀産量は年間約100貫(約375s)に満たない状況でした。
■近代の石見銀山
明治維新後しばらくは江戸時代と同じ状況で経営が行われましたが、1873年「日本坑法」の施行で、近代的な法制度のもとで銀山の開発が行われるようになりました。
1887年、大坂の藤田組が経営に着手し、1896年には当時20万円という巨額の資金を投入して清水谷製錬所を建設しましたが、成果が上がらずわずか1年で操業が停止されました。
そして1923年に休山となりました。
=転載終了=
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