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サンカ2 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/562.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 16:20:09: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: サンカ (八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 21:08:08)

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/sankaseikatu.htm

=転載開始=

   書くはじめに

 孔子や孟子が遊説して廻った春秋時代は、紀元前六百年にあたる。そこで重慶へたてこもり徹底抗戦を叫びだした蒋介石に対しバビロニア王朝を祖とし、紀元は二千六百年と荒木貞男が定め国民唱歌にまで唱わせた。今は故意にシュメールと呼ばせるが、スメラ山脈の並ぶ今のアブダビ海沿岸は、当時はスメルと呼称[ラテン語読みで『スメル』だそうです]。用紙不足の時代ではあったが、映画でユダヤ人が赤黒く塗ってインディアンとなって悪役。イラン人もターバンをまき顔を隠した悪役に仕立てられていたので、巻末に参考に少し援用させて戴いた私の旧恩師の「知識民族としてのスメル民族」の本も、日本出版協会承認で刊行できたのである。アラビア語の活字がないのでローマ字方式で並べておられるが、私がベイルートへ行っていた時は、うろ覚えのサンカ語で日常会話は通用。約二年いまのイランのヤスドでも話が通じたものである。

 という事は日本列島は裏日本へベーリング海流で渡ってきた騎馬民族。壱岐対馬経由の弁髪大陸人より早く西南アジア経由でアラブから黒潮で瀬戸内海を抜けてゆく途中、這い上がって最初の日本人となった者が、七世紀に進駐軍に制圧されるまで大多数だったらしい。
 十世紀に日本海から渡ってきてトウ[唐=藤]勢力に追われた契丹人に指導されるまで、彼らは所謂古代海人族で、山に追われても川畔にセブリを張っていたのもオアシス思考らしい。


    序説 前もって書く

 自分の事を書くのは私小説では当り前のことだが、かつて「青春遺書」や五作ほどは書いた覚えもあり原著も残ってはいるが、若かった前の筆名での三十五年も前の事でしかない。
 歴史小説を書きだしてからは、信長の青少年時代とくに「英雄誕生」には、己が自殺未遂の数々や私の生母との繋がりを、その侭で投影しきった。だからなまなましいのだ。


 若い時はそうでもないが、私ぐらいの年齢になると、過去は他の人に話しても判りそうもない。出鱈目きわまる圧迫も<塩尻百巻>[天野信景著。八切氏の復刻刊行版あり]の前の序説に書いた後も、日本セメントがエタパイを乗っ取る為に創立者を追い出した真相を法廷で明白にしようとして、相手方の顧問弁護士がヤメ検なので罠にかけられ、先輩の当時の小倉警視総監の許へ掛合いにも行った。

 しかし、巧妙にまんまとはめられてしまった。そうした挫折が、この世には真実などというものがはたしてあるかと、自殺するみたいに没頭しすぎ、昭和四十七年からの流行作家時代の印税稿料もみな調査費につぎ込んでしまった。昔の耶止説夫の名で出したベストセラーの入金で購わされた渋谷神南や千葉君津の土地の五億円までつぎこみ、<野史辞典>と<庶民史辞典>をどうにか、この世に残し得た。前人未到の八切史観をどうにか送り出した。

 私が二十歳ぐらいの時に、「文学建設」を主宰していた故海音寺潮五郎は、「史実」「史伝」といった冠詞を流行させたが、北畠親房の「神皇正統記」に桓武帝の一切の国史を焚書すと明記され、北条時宗の対外政策の為の国史禁焚も有名だが、もはや日本にては、本当の「史実」や「史伝」などというのは、後年に作られた当時の権威に迎合したものの他は何も残されていないのである。次々の時代に、時の権力者におもねったものが筆写され更に直されて、また都合よく次々書き変えられたものだけが、今度は活字本として出されている。

 はっきり言って明治時代に、売りやすいように「実録」という冠句をつけた講談と同じものが、歴史では困る創作ばかりだが、それを独自な史観などともち上げる。 なにしろ調べても調べなくとも稿料は同じゆえ、「駿府記」には明白に、高台院ことねねが約束の三万石をと何度も交渉に来るのを、うるさい婆めと家康がうるさがり、半額の一万五千石にしたのに千石だけイロをつけたような明白な事さえ誰も読まぬのか書いている者は一人もいぬ。

 さて、参考資料も二十年前から集めはしたものの、書く私の側の頭の中に全部が揃っていて、順に出してゆくのでもなく、また読者の方でも順番にというようには入手はできぬから、順序がこんがらかってしまう。これは致し方とてないかもしれぬが、
なにしろ八切史観は順番に読んでいってもらわない事には混乱する。はじめの「八切裏返し史セット」の五冊は、ただ判ってもらいたいため、進駐軍は墨染めの衣を着た宣教師の僧を送り込み、日本原住民を洗脳したので、それに対抗する地家としての中国語でいう「不信」つまりブシンとされる奴隷武士団が対抗するのを白と黒の戦いに書いた。二者選一の書き方は説得力があるので今まで六十万の人に読んでいただけた。

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が、である。新羅系を白木作りの社とし隷属した高麗系をコマ犬として入口におく神社はカラ神様。日本の庶民の殆どを占める平民つまり平氏は、スメラ山脈のあるアブダビ海より、首都スサよりヤサカ河の上のGIONを奉じて終結させられ、ヤバンことマレーシアのニコパルへ、MIKOTOと古代アラブ語でよぶ耕作奴隷に送られ途中で黒潮に逃げたのが、古平氏の夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条一族。

 大進駐して天皇から上皇まで隠岐や佐渡へ配流し土牢へ生涯入れ、藤原の公家は斬首したから、北条政子ことサンカ人の女上位での女神だったらしいが、今では不敬罪ゆえ決してサンカ人は、この話は絶対に秘密にして話などせぬ。さて、神は明治以降は、アラヒトガミに天皇をしたので、神とは拝むものといった世に変った。しかし、神社と違って白木作りではなくて紅殻塗りの宮や堂が実に多い。昔は夷也とか異也とか書かれていたのが、戦国時代以降は「稲荷」の当て字に変わって川柳の中にさえ、「江戸名物、三河屋イナリに犬の糞」と徳川時代には増えて各町にある。


 稲の御守りなら田圃にあるべきなのに、私の仕事場の日本橋には今も銀杏稲荷、権太郎稲荷と町内にひしめきあっている。そこで第三弾として、白と黒との争いの中に、平[家]の民族カラーの紅を加え、「しょうもん伝説」がテレビ放映されたのを汐に、日本海からどんどん入ってきたが、藤原氏の先祖である唐を滅ぼした契丹ゆえ、公家は彼らを忌んで[同じ]大陸系なのに、賎民として東北へ追ったのが契丹日本人だった。これが判らぬ林陸朗あたりの国学院歴史派は、将門を同和地区に結び付けるのは論外と目下裁判中。判らぬではつける薬もない。

 「源平藤橘」という太田亮の姓氏辞典のもっともらしいインチキさは、源=元 平=ペイルシヤ 藤=唐 橘=契丹とは、各書に詳述して、<天の古代史研究>[八切氏の著書]までを完了した。なにしろ郭将軍こと日本名藤原鎌足が初め二千、後からも二千の鉄武器をもった進駐軍の権勢を率い、築城石の供出命令や漢字使用の命令から、すべて当て字だらけでよく判らぬ。

 ところが、これで庶民はいいつもりだったが、純血日本人の女達が進駐軍の弁髪人の混血児を次々と産まされる前に伴って逃げた純日本人のサンカ人も明白にせねばならない事になった。
「一犬嘘を吠え万犬それを伝う」というが、サンカつまり山海族ぐらい誤解されている例は滅多にない。何故かといえば、サンカ人は絶対に自分の事を用心して他人へは口外せぬから、謎に包まれた侭で秘密とされてきて、おかみは蔑視して弱小民族みたいにされる。
 自分こそ唯一の研究者であると言い残して他界した故三角寛先生は、「滅びゆくサンカ」と、その著書にもはっきりと書いている。 内務省警保局傘下の民族融和事業会によって実体を把握しようとして、各地に箕作組合を結成させ、セブリ数の申告をさせて統計をばとった。

 もちろん、たてまえ申告ゆえ、実数の百分の一にも満たぬ数字だが、オカミは満足をした。つまり、明治大正から昭和初期にかけても何も判らず、アイヌや琉球よりも僅少にみたのだ。
 
 ところがとんでもない話で、隠れ柳生の埋草はテレビだが、北条期から下克上の戦国時代へかけてのトケコミ。高成度[高度経済成長]と呼ばれる故池田のアメリカ公害産業の下請け時代から、河川や湖沼の水が呑めなく、したがってセブリが張れなくなった時から一斉に都市へトケコミした。

 だから表面的にはサンカ人間は全滅したごとく見えるが、純血日本人どうしの子供は、成績さえよければ、オオモトさまは原始無政府主義ゆえ、ホンゲとよばれる各戸よりの上納金を人頭税のごとくせず、代々にわたり公平に保管利殖し、分配金が育英用にと送られる。交通遺児になっても母子家庭になっても、ざっと五兆円を越すという溜めては利殖してきた資金がシノガラには給付されている。絶対権力反対体制で、弁髪人やオンモン人[朝鮮系]の子種は蔑み、自分らの純血種を減らさぬため、欲望のためでなく日夜これ女上位にて努力する。

 結婚三組に離婚一組の割合だというが、シノガラの純日本人は死別するまでは連れ添い、子供を作るため死ねば探してきてツナガリが再婚させる。上原謙さんは七十こして子供を作ったが、九十歳で子供作りした者さえもいる。
 
 なんせ、絶対他人に何も口外はせず誰とも打ち解けようとせず、黙々と産めよ増やせよとの使命感をもって汗している彼らは、いつかは日本列島は従順きわまる奴隷的な一般日本人の群れを出産力で追い抜いていき、真の単一民族にする日がやってくると想われる。それゆえ、源平藤橘の四民族の他に、私の体験が入るので書き難く渋りはしたが、思い切って知られざる彼らの実態を説きたいが、私が祖母にきかされた晩年の話の中には、絶対に口外すべきではない事があるのかもしれぬと、それを気に病んで、この序説を書いている。觝触するような個所があったら謹んで御詫びする。

 「見ぬもの清し」で、セブリが今では殆ど見られなくなったので、彼らは全滅したものと「オカミ」と自称する検事さえも豪語しているが、本当はシノガラの育英資金で東大を出ている人が多いのは間違いないらしい。最近は負けじと共産党も真似をしている話をきく。
 さて、月給袋の封を切らせずまるごと出させる女房がいるという。これがツナガリによる結婚なら間違いないが、うっかり結婚ならば相手はその血をひいているサンカ系女性。
 なにしろ私の祖母みたいに二世紀たってもホンゲをツナガリに納めていたくらいで、私はその孫にあたる。だから各自がよく調べていけば、サンカ人間つまり純日本種に繋がっているかもしれぬ。

 となると、何食わぬ顔で会社勤めしている人にもトケコミは多い。彼らが人口の半分を占めた時からは、本当に日本は世変りをするだろう事は判り得るといえる。 マンションやアパート等でも、隣どうしでも全く口をきかぬ人が多くなったのは、トケコミが都市集中化の一つの現象とみられぬ事はない。なにしろ、日本歴史なるものは、「華族は皇室の藩屏にして」の明治設定で、徳川家達公爵家が華族会長となり、各大学の歴史教授の学士会がその傘下に入ってから、村岡素一郎の「史疑徳川家康」がサンカ出身を発表するや、警保局に対して弾圧をさせ、青山堂より「松平記」を三百部刊行させて配布したのは、私の「徳川史料集成」[日本シェル出版)に入っているが、庇護をうけている史学会東大閥が、これを第一級史料に指定した。だから近世に近い徳川期の真実の解明はタブー化した。
 
 元禄まで通用の含金量の多い大小判を使用禁止し、銀本意制の京へ送りし堺の中村内蔵介に銅を倍以上混入の元禄小判金造りを吉良上野介に采配させた柳沢吉保は、隠居すると申し出る彼が抜刀するよう徴発させ、失敗すると、浪士に「再就職」の甘言で以って討入りも匿されている。


      サンカは反体制集団

 「前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ生活者を求めて、その実生活を探求し、その実態を知る以外に研究の方法がなかった。
しかも、それを探求するには危険の伴う事が多々であった。研究は、昭和三年から同三十六年まで、三十三年間に及んだが、まだ満足すべきものとはいえない。その間には、日支事変や大東亜戦争があったために、セブリの実態は急変して、神代からの生態を持続してきた珍重なセブリの実態は、日に日に行作遷流(ぎょうさせんる)に押し流されて消滅しつつある現状である。

 したがって、サンカの実態も、私の生涯と共に絶滅して、私の死後においては、まったく記録することが不可能となることで、ここに三十三年間に得た資料を記録して、後世の論及に供する事とした」と、三角寛先生は昭和四十年十一月三十日刊行の朝日新聞社の「サンカの社会」の第一章の序論篇の冒頭に述べている。だが如何だろうかと、他社刊行の三冊をも共に読んでみて考える。

 故人とは直接には二回だが、山水楼で菊池寛の給仕役みたいな恰好だが会食もし、たしか四回は話しているので批判したり論難する気はない。しかし、人生座や文芸座を経営している遺族が、再版はおろか、他の何社よりの復
刻についても、どの本についても謝絶。そのため定価千四百円の本が今では三万円を越え、近く五万円の呼び声さえ古本業界には出ているときく。
 
 これは死後五十年たっても二等親か、その遺産相続したと称する者が、著作権法を楯にとって出版不能の額の要求をなし絶版にする怖れがある。著作権放棄の補遺のつもりで書くので三角寛の研究について、とやかく言う気は、まったくのところが、さらさらない点を前もってことわっておく。 

 私と彼との違いは、朝日新聞社のサツ廻りの新聞記者で、すべて研究の緒口から解明一切が「警視庁探索課大塚巡査部長からだった」と当人が書き残しているように、弾圧する側にあったので、古代史や民族学の素養もなく、警察情報から研究に着手し、のち内務省警保局傘下の「民族融和事業会」といった官制団体に関係してからも、そのオカミの肩書きで大威張りに調査した体制的研究であるのに反し、私の場合は、まったく立場を異にしているのである。

 それに、三角寛は、神奈川県から関東地方だけを研究対象にしているのに対し、私のは、愛知県から三重県といった「八」の本場の東海地方なのである。だから三角の研究は東、私のは西と思って読んでいただければ、それでよいのではないかと思う。
 それに、彼の方は昭和に入ってからであり、私のは大正時代。また、彼のは警官同行のオカミの側の徹底調査。私の場合は仲間の一員みたいな立場ゆえ、その点、事が食い違っている。
 「天の古代史研究」で従順きわまる日本原住民の成立を書いたから、その反対の徹底的反体制の彼らを今度は書いてみたいと想ったからである。記憶が鮮明なうちに、サンカ説は三角の独壇場ではないという事を、バビロニア語とサンカ言葉との対象表をつけて後学の参考に資したいと思うので、書き下しをするのである。私は律義で愚かだが、記憶力だけは取り柄である。

 「天の古代史研究」の前著で、西暦663年の白村江の敗戦で九州へまず進駐してきた郭務宗が、男っけなしの御所へ入り、各地に築城命令を出したり施政を代り執り行った。
 
 今の金大中の全羅南道の百済人が新興唐によって滅ぼされかけ、祖国救援に日本原住民を捕えられるだけ集めて二万七千。宮廷の百済系男子はみな将軍となり将校となって壱岐対馬から渡って逆攻したものの、それまで彼らは、今日でも用いられているような、「クダラぬやつ[クダラでない‥‥つまらぬ]」「クダラぬ事を言うな」と、日本原住民を非人扱いの奴隷として酷使していたので、いくら親方が金大中の御先祖で、将軍や将校だけは頑張っても、戦奴の原住民共はあまり戦意が高揚せず、あっさり負けてしまったのかもしれない。

 紙幣の想像画となっている藤原鎌足なる存在は、この時点の郭将軍ではないか?‥‥ことによったら人口僅かな時代に、男どもがみな向こうへ連れてゆかれて戻ってきていなくて、御所も女ばかりだったから居座ってロボットのような方を表面には立て、自分は闇将軍となって国政一切を指揮していたか、事によると占領軍の第一人者というので日本の国首になっていた疑いすらも今となってみれば推定される。なにしろ武力で次々と命令を出しているからである。
 
 しかし、戦奴として徴兵され連れてゆかれた侭戻ってこないのは二万七千でも、山に隠れ海中の島に身を潜めて隠れていた日本原住民は、その当時の事ゆえ十倍か、もっと多くて二十倍の余ぐらいはいたとみられる。つまり散らばっていても五十万人ぐらいの人口である。
 
 クダラ王国朝の時でも苛めぬかれてきていたが、今度は青竜刀を持った郭将軍の進駐である。「捕まったら殺される」と、隠れていた連中が今でいうレジスタンスで、青竹の先を焼いた竹槍や弓矢をもって奇襲を各地で弁髪進駐軍にしかけていたのが七世紀の実際の有様だったろう。

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 そこで郭将軍は全国に「進駐軍の命令により」と巨石の運搬を命じ、大野城、金田城、それに高安城まで、判っているだけで14ヵ所に築城。井戸を掘らせ食糧や塩類などをしまいこませた。
 面白いのは日本歴史で郭将軍が築城用の積石の供出命を布令した項目は、三省堂歴史年表にも出ているが、これは日本軍が進駐軍撃退の為の本土防衛のものと頭から決めつけている。
(各地のレジスタンスから身を守る為の退避用の城とはせず、あくまで日本の抗戦の為だ)として、よって郭将軍は二千名の追加を朝鮮半島から呼んで、アフガニスタンゲリラのような彼らと戦ったものの、あまりにも日本軍が勇ましくて戦に利あらずして九州より引上げた。

となっているからこそ、往年の本土防衛の功を認められ、最近の事だが、残っている金田城の遺跡などは国の重要文化財に指定されはしたが、当時の中国の華主席から礼などこなかった。「一枚の紙にも表と裏がある」というが、歴史も同じ事だろう。朝鮮半島を悉く占領し、壱岐対馬から九州へ入り、御所に本陣を敷き、百済美人をずらりと周囲にはべらし、「テンホウ、テンホウ」と連発している郭将軍らが、いくら竹槍隊が蜂起してきたからといって、追加軍まで呼んで九州各地から京以西の治安維持を完全にしてのけた彼らが、縄文日本人に怖れをなして、すごすごと戻っていくような阿呆らしい事が現実にまさかあるだろうか。


 郭将軍は応援に呼んだ二千の合計四千の鉄戈や青竜刀をもった弁髪軍によって、くまなく各地の原住民討伐を敢行。八母音を使う海人族は魚もとるし塩も作る。雲南経由で漂着した連中は焼畑や水田もできるから、彼らにアワ・コウリャン・米まで耕作させて食糧確保の奴隷とした。これが「アマ」とか「アメ」の「天」のつく民族で、現代の庶民の先祖様だった。 しかし彼らの中にも、いくら追討されても屈せずに頑張り抜き、降参しない連中もいた。が、郭将軍が一番てこずったのは、遊牧民族として裏日本へ、ベーリング寒流から押し渡ってきた騎馬民族の徒輩だった。彼らは桑を植えて蚕を飼う事もせず、土を耕して土毛と当時は呼ばれた農作物を作ろうともせず、放浪して廻っていて仕方がなく、彼らの降参後、女は開戸とか皆戸とよばれる進駐軍慰安所へ収容したが、男は役立たずゆえ捕らえて、初めは陸墓の副葬品として扱った。

 のち、外敵侵入の際に防人として血税を払わせるように利用の道がついたので、埴輪とよぶ素焼きを作らせ身代わりに土中に埋めさせた。そして、彼らは生かして仕え国のためと九州とか東北へ防人として出発させはしたが戦奴である。外国のように将校や下士官との間に友情など生れよう筈とてはなく、人間の楯みたいに伴われているのを諦めてしまって、「今日よりかえりみなくて大君の御楯となりて、出でたつシコ(飼戸の子)の身、われは」と、騎馬系の民族ゆえ馬を飼わされていた彼らは賎の身ゆえと、皆が皆揃って行ったわけではない。

 今でいうなら、「徴兵反対」「戦争は厭だ」といったプラカードをもってデモをやることはできないから、海から山へと逃げ廻って拒んだものもいたし、武具を持たされたのを誘帯して集団で脱走した反体制の者らも意外に、その当時はきわめて多かったらしい。
 所謂従順な奴隷になるのを拒否して、他の原住民の如く「長いものには捲かれろ」と弁髪人の毛髪の長い将校の命令に忠実に従おうとはせず、かえって渡された武器でもって逆襲をかけた連中である。 もちろん郭将軍の部下は戦奴を使って追いかけ廻し、捕らえると見せしめの為に吊るした。しかし、脱走した中には運よく木の上に登って身を匿したり、谷底でうまく追手をまいて逃げまくった者らもいた。

 徹底的に反体制の人間が、こうして奴隷になるのを嫌って独立してしまった集団が、次々とサンカとなって山野を彷徨しだした。元来、彼らは沿海州や羅津方面からベーリング寒流で日本海を渡ってきた先祖を持っているから、パオと呼ぶ天幕生活をした。さて、表日本へ怒涛の如く流れ込んできて、太平洋へ抜けていく黒潮暖流から日本列島に這い上がって住み着いた者等は、今の静岡・愛知・三重・滋賀あたりに、皆かたまって助け合っていたゆえ、貧弱な縄文器の石斧、石槍でも何十何万人と集団化していたゆえ討伐を防げ得たらしい。

 しかし、今の千葉県の仁右衛門島の蘇鉄や団扇椰子の茂っている対岸の安房の小湊あたりに這い上がった連中は難儀したものらしい。なにしろ近くに多賀城とよぶ(中華)城がある。単身で来ている弁髪兵の連中は、てんでに欲望のために女を捜しに手分けして、毎日の如く鉄剣を振り廻して巡回をしたのは、<続日本紀>の中にさえ堂々と記録されている。

 つまり、捕えられ素直に華城の中へつれてこられて慰安所へ収容。初めは将校専用。その後は一般兵用になるのだが、その内に華城の兵の警備がひろがってくると、城内へ次々と連行されるのは若い娘か美人だけに限られるようになる。
<野史辞典>や<庶民日本史辞典>にあるように、皆戸、海渡、開戸、垣内といった地名をつけられたタウンというのは、弁髪人兵がくるたびに女は集まって、それぞれ女隠の戸をひろげねばならぬが、その代り他の日は家事労働でもできるという仕組みだが、夫がいても占領軍を拒めば「野心を抱く女」として遠くへ連れてゆかれ、奴隷市場へ売られてしまう羽目になってしまう。
占領軍にしてみれば、原住民は被占領民で、みな奴隷だったから当然である。そこで命懸けで、かつての日本赤軍の永田房子らみたいに、榛名山系を越えて逃げ込んだのが、裏日本から追われて隠れていた連中と、逃げる者どうしで共に一緒になるようになった。

 サンカというと三角が山の字に蜂の巣の窩をあててしまったのを、当人も後になって悔いているが、決して山者つまり騎馬民族の血を引くだけの存在ではなく、逃亡者達の反体制集団。
 といって、何十何百と固まってしまっては、いくら隠れて逃げまわっても中華兵に見咎められる惧れがある。それゆえ、せいぜい二十人あまりの一団となって行動し、移動する時には連絡のため「界石」とよぶ、次の落着く先を人目につかぬよう埋めて残し、何日かで立ち去って行くのである。
 行動範囲というか縄張りが二ヶ国から三ヶ国に限られていたので、東北サンカが箱根を越したのはアテルイの原住民大進駐軍の時ぐらいで、せいぜい来たのは茨城あたりまでなので「イタコの伊太郎ちょっとみなれば」の潮来と、下北半島の恐山のイタコが同じサンカだったぐらいは地名で判る。

 なにしろ三角寛説では、日本人化の民族のような考察がされているが、とんでもない話で、彼らこそ日本人中の純粋血族で、完全に今もその血を伝えているのである。というのは、従順に仕方なく奴(ぬ)とされ、奈良時代には百済人に七世紀後半からは奴隷とされていた庶民の女は、すべて進駐軍の慰安婦とされ、共に黄色人種ゆえ一見しては判らぬが、混血児を産まされてきている。
 これは「野史辞典」の庭子の項目に詳細に出ているように、女を全て召し上げられて、男共は生涯単身で、「先住民」つまり「賎」から言源をとったセンズリでザーメンを垂れ流していたにすぎない。つまり、そうして原住民の男達の血は残らぬように混血児だけにして単一民族化しようとしたのは明治まで一般では慣行されていた。

 だから松前藩もコシヤマイン蜂起後はアイヌの血を絶やす為に、女は人妻であれ少女でも和人用にと徴用し、男だけは離島へ隔離して強制労働させて、血を伝えぬように別れさせ粛清を謀ったのである。「白山神信仰」のオシラ様の御神体が男女一対となっているのも、なんとかして原住民どうしの男と女が一緒に暮せる世の中が来るようにというので、その悲願を込めて祀ったもの。
 ところが、「白山島」と幕末まで呼ばれた今の新潟では「白」を上につける神社や御堂はみな古いものは毘を旗にしたイワカメシイ女武者。江戸期のものは黄と黒の楯縞を着た女人が馬の背に跨るもので、明治からの義務教育で「韓信の股くぐり」が修身の教科書で教えこまれたので、上杉於虎が父の名を継ぎ景虎、将軍家の名を貰って輝虎。その死後には、姉阿亀の子の喜平次景勝が跡目を継ぎ、男系相続の徳川期では「兼信」と、男女兼用の戒名をつけ、それを甲陽軍鑑の今の講談師のはしりが、武田信虎をやはり戒名の信玄で、張扇を叩いたから、それへの対抗上か、語り口を合わせるために、もっともらしく「謙信」にしてしまったのが本当のところ。

だが、学校で「韓信」を教えこまれ、明治三十年代に頭山満指導の桃中軒雲右衛門の「銘々伝」に「神崎与五郎の馬方の股くぐり」が広まったので、謙信と韓信がごっちゃになってしまい、「股くぐり姫」などと新潟は御神体を呼ぶ。死せる子はみめよかりきで、女は死ぬと美人にしたがるが、おそらく於虎はブスな大女でアバタだらけゆえ、いつも頭巾をしていたのだろうが、加賀の一向宗道場の坊主の率いる軍勢にいつも苛められていたから、女将として対抗したのは、現世では人外の者でも仏果によって来世は常人となると原住民を煽動して攻め込んで来る彼らに、女上位の体制を示して畏怖させねば、とても打ち払う事ができなかったからだろう。 

サンカ集団として春日山の鉢形城で天下に怖れられた上杉於虎は、上京のたびに時の将軍足利公方の奥方の許に滞在している。
 もし通俗歴史でいうごとく男だったら、足利将軍家が、女は他にいくらでもいるからと、御台所を滞在中は提供していた事になるが、まさか戦国時代の初めでも、室町御所の権威というか見得がある。将軍家が妻御台所を在京中は貸している筈はない。
ということは、紛れもなくケンシンと俗称される者は女体だったせいだろう。富士山頂に木花咲耶姫を祀ったり、裏日本ではきわめて女上位であったのは、今もモンゴルでは、長男が嫁取りすれば、弟共は我慢ならぬ時に御裾分けしてもらっていて、よって女に対しては頭の上がらなかった慣習が裏日本へ入ってきたモンゴール系の慣習であったからである。

それゆえ表日本の静岡あたりには、「姫街道」といって娘達を集団で連続的に市場へ運ぶ名称が今も残っているが、裏日本には全くそうした地名は残っていない。男共がみな必死になって女人を守ってきたからである。
 さて、サンカが日本の純血民族であるというのは、その妻や娘を占領軍に渡して己が命乞いをなさず、日本原住民の中で彼らだけが女と逃げ、同じ先住日本人の子孫を育て、その血脈を今に伝えているからである。この大切な事を、警察情報をもとに先入観とした三角寛は、人類学、言語学の基礎教養がなかったので、オカミの指示通りに考究してゆき誤ったのである。娼にされぬ純な女と伴っての逃避行ゆえ、さぞかし追われ追われて苦労したろうが、
彼らの間の子は純日本[原住]系である。そして、その子らも純血を今日まで混血せぬように保ってきている。

 「天の古代日本民族の研究」で太田竜も、やはり日本人は朝鮮や中国の男どもの落とし種の混血児によって成立しているから、統治者にしては何よりの優秀な奴隷と決めてかかっている。
 それゆえ三角説のような人外サンカ説。つまり日本人とは全く種族の違う人種みたいな論説が、唯一のものとして後世に伝わってしまってはとんでもない誤解を招く事になりかねない。 

それゆえ私は今まで書きたくなくて触れないようにしていた記憶を現世への名残りの著述の一つとして書き、ついでに古代バビロニア語とサンカ言葉との類似点をも、彼らが紀元前三世紀から先住日本人だった証明に付け加えて後学の為の参考にする。
 もちろん三角寛先生は、天下の朝日新聞をバックに、官僚機構の警察権力や、後には民族事業協和会によって集められた資料をもとにして統計的にも完成されたようなものである。
 それに対して私のサンカものは、なんらオカミの力を借りる事もなく、ただ一人で彼らと何ヶ月も同居して、足が遅いのでおぶわれて暮した。当時のサンカ生活の内側からのものゆえ比較にならぬくらい程度は落ちると思うが、反体制集団の彼らの実体はつかんでいる。

    散家がサンカか

これを書くと私小説になってしまう。だから山口氏でも血族を書くのに母方の脇屋を女郎屋だったとか秘密めかして書いてもいない。やはり書きにくいのだろう。私でも、これを書くのには渋った。できうる事なら誤解されぬよう書きたくはなかった。
 私の母はフサと万葉仮名で書く名を持った女性だった。昔の女学校を出た年に、今は亡き矢留節夫、それから何年かたって私を産み、その亡兄の名を冠せていたが、二人も子を産んだ女とは見えぬくらい若々しく、いつも着飾って外出ばかりしていた。
 だから、私は祖母といつも一緒で、「バアサン子は三文安‥‥」などと、いつも近所の子供にからかわれていたものだ。祖母は世間並な桃太郎の話などはしてくれなかった。桃太郎の絵本を友達から借りてきて眺めていると祖母は怖い顔をして、「わしらの頭に角が生えているか‥‥」と怒って取り上げてしまい、自分で借りた家へ返しに持っていき、
「‥‥変なもん、子供に見せんでちょう」と大声で文句を言って帰ってきた事がある。詳しくは教えてくれなかったが、善玉と悪玉が逆になっとるとだけはぶつぶつ言っていた。 

「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していたと、<野史辞典>に書くまでは、桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子で、当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた原住民討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話だと納得できるようになったのは、私としては祖母の亡くなる後年の話だった。

当時は、(まさか幼時から一般庶民の洗脳教育に、そんな童話の絵本が広まっている)とは知る筈もないから、祖母は臍曲がりだと思っていた。 当時、祖父は名古屋市中区神楽坂町という目ぬき通りに、不動貯蓄銀行というのをやっていて、岐阜の芸妓上がりのおツルさんと、南呉服町で「ひさご」を経営していたオクニさんの外妾が二人いて滅多に夜は戻ってこなかった。
 
 といって、祖母より彼女達の方が綺麗とか愛らしいという事はなかった。これが不思議で、
「おじいちゃんは、どうして帰ってこんのやろ」と、中働きの婆にきいた事がある。すると、「ここの大奥様は上に跨りゃあすから、重とうて身体の自由がきかんとぼやいとるぎゃあ」と教えてくれた。つまり、顔はまずくても芸妓上がりの二人は、今いう正常位か下に横たわって相手の思うままなのに、祖母は反対に上から取っ組んでゆくので祖父は厭がって戻ってこない。

 だから祖母は、一人寝でなかなか眠れぬせいか、私を側へ寝かせては色々と話をしてくれたのだ。言い伝えの伝承話だろうが、彼女の口にかかると豊臣秀吉もサンカの一人だった。「弟の弾正たらいうのが薮塚にいて、その伜の虎之助が安土城を拵えた岡部又左の許へ弟子入りしたというのは、居付き(今では五木)サンカとなって暮していた証拠。

 また秀吉の妹の子の福島市松だって、後には正則とかいう大名になりゃあたが、親父様が桶のタガ作り、つまり今言やあす箕直しだで、やっぱし居付きサンカ。となると、秀吉のお婆様は気が強いも道理、サンカ女だぎゃあ‥‥近頃はオカミが変わってサーベルが追っかけやぁすが、秀吉かてサンカで、あん頃は大名というか殿様は、みんな
そうだったんじゃがなも」

 誇りをもってというか、自信慢々とした寝物語を欲望発散のためにくり返し聞かされたものである。私は幼くて判らなくなって途中でいつも寝ついていた。サンカが屯しているところを「ヤワタの薮知らず」というくらいだから、薮塚の弾
正の伜の加藤清正がその出身で、今も熊本に残っている清正堤などはサンカ工事で堅固なのは有名である。
 
 福島正則がササラ衆の箕作りや竹のタガを編んでいたのは「宿六列伝」にも詳しく書いたが、清正も他の本に書いてある。彼が長い兜をかぶっていたのは、サンカは夫婦で一セブリとなって分離しているが、何か集会があって多く集まるようになった時には、全体の長にあたる者が、「八方めぐり」と呼ぶ、地面に突き刺す自在鉤を外側から竹で編んだ筒で包み、頭上に乗せ、遠くからでも識別するためで、五セブリを一天人とよぶ団体が、それを中心に拡がる風習がある。
 
 現在加藤清正公愛用の長兜といって、藤の編んだのに黒塗りしたのが遺品として残っているが、好事家の後年の作り物で、本物は弓なりに曲げた四本の青竹を籠のような物でかぶせ、軽くて長かったものであったらしい。と、それに九州へ行くと同和地帯で「豊臣松園」といったように、豊臣を上につけた地区が多いのも、九州ではサンカを特に嫌っていたせいであろう。

 また、これから「秀頼薩摩落ち」の講釈が大坂以西では大正から昭和初期まで流行した。<天の古代史研究>で「世良田事件」の項目に詳述しておいたが、上州世良田庄徳川が、幕末までは神君発祥の地というので畏敬され、近郷八十ヶ村より納米させ、部落の頭目の岩佐満次郎がやがて新田男爵になったのに、徳川公爵家では華族会長様の出身が同和地区では困ると、明治三十年刊にして青山の青山堂より「家康は松平元康の改名が正しい」とする「松平記」を刊行配布。東大をはじめ各大学の教授で組織されていた学士院会は、直ちにこれを確定史料と認定した。 

 そこで近郷の村々では学士様や文学博士が[世良田と徳川家は無関係と]いうのに、これまでよくも村々より飯米をとりあげくさった、と世良田の庄を取り巻いた。新田男爵はロンドンへ留学という恰好で家族もろとも不在だったが、世良田に残っていた三十四名のところへ近村の三千人が石を投げつけ、鍬や鋤をもって押しかけた。そこで近在の鬼石などの部落へ応援を求め一致団結して戦った。
 これが後の水平社運動の始まりだが、村岡素一郎の「史疑徳川家康」によれば、秀吉がサンカなら、世良田二郎三郎、後の家康とても、出自はどっちもどっちでかわりはない事になる。

 サンカなれば秀吉は京を押さえ天下をとり、家康も徳川十五代の祖になれたのだろう。つまり純血の強みがこういうところに出てくるらしい。 日本列島の原住民というのは、紀元前何世紀も前から漂着して住みつき、海流が日本を起点としてはどこへも流れていかないので、仕方なく暮していた人々のもとへ、今日いうところの「古代海人族」、天地水火を拝むアブダビ海方面よりの者が戦火に追われれ入ってきて飛鳥人。

 その後に裏日本から、大きくても木曽駒くらいな馬を筏や小舟に乗せて入ってきた騎馬民族。彼らの中に後に白系ロシア人と呼ばれる沿海州からの白人も混じっていたので、今も秋田美人、新潟美人というように、肌の白い人も多く見かけられる。が、どっちも集団で攻め込んできたわけではない。共存共栄というか、牧草地の多いところを騎馬系は遊牧して廻り、マレーシアのヤバアンや、当時の雲南はベトナムまで延びていたが、そこからの古代海人族は漁や塩も作ったが、今日のベトナム方式の水田耕作もし、騎馬民族から鹿や兎の肉を貰えばお返しに穀物を出して、一緒に相互扶助しあい、それゆえ「豊芦原瑞穂の国」ということになる。

 騎馬系は主として新羅高麗[系]と沿海州の粛慎と呼ばれる後の白系ロシア人ゆえ、彼らが白頭山信仰を持ち込んできて加賀の白山を祖神とし、民族カラーを白とするのが源氏になるのだが、それに対して民族カラーを赤とする後の平氏になる飛鳥人は、生魚を手掴みで食べて日本へ来た海洋族。

 さて、サンカの女は決まって赤ネルの腰巻姿である。という事は、三角寛先生の説く「単一民族の日本人とは全く民族を別にする種族」という解明にはならないのである壱岐対馬から大陸よりの、鉄製武器をもって集団進攻してきた全羅南道の百済人によって討伐された時に、捕虜になってゲットーへ入れられ、騎馬系は飼戸(しこ)として馬飼いの牧夫。海洋系は食物作りの課役奴隷にされた時に、あくまで縄文武器で戦って逃亡した両方のレジスタンス連中が、やがて一つになって、夫婦単位のセブリを営んだものとみるのが至当ではなかろうか。

 サンカの発生について、三角寛先生は、その著の「サンカの定義」の名義考の中では、まず、

サンカの表語は、過去三十三年間における私の随筆ならびに小説等三百余篇の発表で、山窩の概念が既定されている。しかし、これは活字面の構成上、「山の窩(あな)」という表示に美的な響きがあるので、ことさらにこれを使用してきた。山の窩の発音はサンクワである。ところが、当のサンカは穴居生活者ではない。また山中深く隠れ住む生活者でもないので、山を冠する事も窩を当て字する事も実のところは不適当なのである。
 それではサンカとはどういう意味か?


 この言葉の追求には、私自身、三十三年間苦しんできた。それは、サンカは口が堅く、絶対にその実態について語ろうとしないからである。また、彼らの一味のうち、徒渉漂雨泊のセブリ生活者は、自分達の事を、殊更にサンカとは絶対に口外せず、何も言わないからである。しかしながら、彼らの事をサンカまたはサンクワと客観的にこの名称をつけられている事には、何かの理由がある筈である」と序文で述べてから、三角寛先生説では、

「彼らにその理由を訊ねると、まことに不機嫌で、『それは何の事だ?』と横を向いて答えようともしない。そもそも山の窩とは、彼らの真の生態を知らず、想像で深山の山窟にでも棲んでいる生活者であろうと断定して呼称したものだからであろう」とする。また、明治八年二月の島根県令井関盛良時代の羅卒文書に、「山家(さんか)の徒、山窩、浮浪の徒」などとあり、
「山窩(山家)は雲伯石三国辺偶の深山幽谷を占居する」とも記載されてある。おそらく、これが文字に書かれた山窩の、そもそも最初であると思われる。この山窩が、明治から大正にかけて特殊な犯罪捜査家達によって研究され、雄弁会発行の「明治大正犯罪実話」上下二巻となり、彼らはこれを特殊犯罪者の流浪群と誤断した。


 しかも、彼らはこの研究を絶対秘密にして、直属の上司にすら報告せず、隠密や、一般犯罪捜査の手先に「諜者(てふじゃ)」として山に入り込んだのを利用し、彼らの仲間を犯罪者として検挙していた。
 三角寛先生は、
「私がはじめてサンクワの言葉を耳にしたのは、昭和初年の例の『説教強盗』が、夜の帝都北郊の住宅街に出没して、東京市の内外が恐怖に襲われていた頃である。『あの説教強盗はサンカじゃあるまいか?』という風評が立った。『説教強盗』の命名者である私は、その風説を聞き捨てにはできなかった。私はその風評の火元を追求するのに十一日間を費やし、ようやくつきとめた火元は、下谷区萬年町に住んでいた警視廳捜査課勤務の巡査部長大塚大索氏であった。

 大塚氏は窃盗係の老刑事であったので、直接、強力犯の説教強盗の捜査には当たっていなかったが、その出没自在な行動から推理して、『あるいはサンカじゃあるまいか』と口走ったのが事の起りだ」と、当時サツ廻りの新聞記者の三角先生には判明した。 大塚巡査部長は、この萬年町がサンカの居附(ゐつき)地であったので、ここに居を定め、ここを探索の巣として、この特異な、社会に寄生する浮浪者群の中から多くの犯罪者を検挙していたが、この里で捕らえてしまうと来なくなるので、ここを立ち去って次の場所に移ったところで捕らえる事にし、それらの犯罪者をサンカの諜者に密告させていたのである。


 この特異な社会は内側と外側に分かれ、内側がサンカで、寄生浮浪者群はその外側であることを知っていた。(大塚氏は後に警部補になって退職した) では、その内側のサンカの実態は、はたしてどんなものであったか?(つまり内側が本物で、密告者や密偵は寄生虫のような贋者)という事になる。

 大塚老刑事の話によると、
「サンクワといっても、あれは当て推量の名稱で、深く研究して呼稱された訳でもない。また彼らを訊ねてみても満足な返事は誰もしないから知る由もない。彼らは岩洞や穴の中に住んではいないのだから、山窩でない事だけは事実である。あの連中は、箕づくりが生業で、大体が村里や町はずれの林の中や、川べりにと住んでいる。だから、山河者(さんがもの)とでもいう方が適当かも知れない。どうしてあれをサンクワというのか自分でさえも納得していないから、報告書にサンクワという文字を使った事は一度もない」と、三角先生が、はじめて知ったサンクワという名称の知識はこの程度のものであったという。掴んだのは、「その正体が箕つくりである事の事実」だけであったのである。
 農村に生れた者なら、箕つくり、箕直しを知らない者は少ない筈である。三角の生れた大分県竹田地方では、これらの連中を非人と呼んでいる。彼の母などは非民(ひみん)と言っていた。なぜなら、昔から農耕の民を百姓(おおみたから)(世襲私有財産の大遺宝)といった歴史があるが、あの連中は耕作をしないから非民だというのだと聞かされて、なるほどと先生も思った事がある。
 この箕つくりの非民あるいは非人のことを、地方によっては、川徒(かはと)、山徒、またはオゲとかポンズなど、さまざまの方言で呼称されている。地方々々での解釈があるのだが、いずれも、その正体を掴んではいない観念的、客観呼称にすぎないのである。サンクワとは、ただ何となくそんな気がするので、あて推量で、山の穴居者と誤認しているのである。
 
 また、サンクワは、多くが川の畔(ほとり)の林の中に棲むので、サンカ(散家)と呼ぶのが正しいと思うのではあるが、これとて観察概念からする呼称にすぎない。「かのごとく、サンクワとかサンカについて、何かありそうだと考え、色々追求を重ねているうちに、昭和十九年になって、彼らの中に、『ミツのケチの掟』といった厳然たる差別のあることを発見した。これはこの研究の決定的な意義をもつ事になった。この『ケチ』というコトバは、世間でよく云われている処の、『あいつにケチをつけられた』などという、あのケチの事だ。

    ミツクリの一(かみ) フキタカの一 エラギの一

 この三つの系統の差別(ケチ)がそれである。 そのミツのケチとは、三つの差別、即ち三つの區分(ケチ)ということである。(ミツクリの一とは、箕つくり系統の統領の事で、家元とか本家などの意味で総元ともいえる。つまり『夷元』なのに、金とり主義に代わったゆえ刃物をふるって花柳玄舟が抗議をしている。)フキタカの一とは、笛つくりの系統の統領のことだ。この一味は、太古には笛や琴を竹で作っていたのだが、今では竹製の楽器や茶筅などを作っている。また竹三味線も作った。(『四つ』のササラ衆も同じ事をしている)

 エラギの一とは、遊芸者系統の統領の事で、出雲阿国などがその出であった。今も川原芝居や門附けなどが残され、現存する『俵ころばし』『猿廻し』などが、この系統に属する。(弾左衛門支配の四ツの猿飼族も入る)
 このエラギの語は、嗤楽(わらいたのしみ)の事で、笛を吹竹(ふきたか)という古語と併せ考察すると妙味が深い。サンカの語源かもしれない。
 以上の三區分は、その一(かみ)が世襲的に専承されてきたのであるが、大正以後は、その一(かみ)味の上達者が、次代の一を継承している。このミツのケチのカミを彼らはきわめて尊び、セブリのミケ、またはミカと呼んでいる。それが三差(さんけ)、三一(さんか)などと呼ばれ、また三家(みさん)、三家(けさんか)などとも呼ばれたりするが、理解し合う相手なら、どう呼ぼうと咎めだてはされないのである。
 さらに彼らの中には、その上に、

      クズシリ一(かみ) クズコ一 ムレコ一

という三種のカミがいる。クズシリは国知り、クズコは国子(くにこ)、つまり都とか郷のこと。ムレコは群子(むれこ)で、村の事である。それぞれに一人ずつの長がいるので、それを第一人者の一をカミと呼ぶのである。この他に、さらに統率者として、

アヤタチの一(かみ) ミスカシの一 ツキサシの一

の三つの段階の頭領の身分(ケチ)がある。これは、権力の最高者であると三角寛先生は、その著書で説明する。
 アヤタチのアヤとは亂、即ち秩序の亂(みだ)れのあやの事で、タチは断(たち)または裁(たち)を意味する。
 ミスカシは透視を意味し、亂を破る意味が含まれている。
また、ツキサシは突き破る事で、亂脈を引き裂き、突き破る行為を意味する。これが戦国時代に到って利用され、アヤタチを亂破、ミスカシを透破、ツキサシを突破などと漢譯され、忍びの者の組織に利用されているという説すらも伝わっている。
 現存の彼らが數を讀むのに、いち、にい、さん、しい、ごう、と我々と同じ數え方をするにはするが、他人のいない身内同士の時や、何かあらたまった時には、一(かみ)、ニ(つぎ)、三(さん)、四(しい)と讀むのである。
 この一(かみ)という表意記號を、頭(かみ)と意味する彼らは、この数字に、物の肇(はじ)まりと統一を、また指示と統御を信念としていた。ここに特殊さがある。

 ここから出發して、三つの差別(ケチ)、三つの一(かみ)を、サンケ、またはサンカと意発発音してきたのが、いつはなしに外部に漏れて、サンケまたはサンカが山河と解され、山窩と誤られたのである。音表と意表の合意を誤解された結果が山窩であり、山河であると理解されたい。
 
 結論としてサンカは三一(さんかみ)であり、三區別(さんケチ)であり、強いて漢字で書くとすれば、三家である。過去三十三年に亘って、三百餘篇の著述の中で山窩の熟語を故意に社会に押しつけてきた三角寛としては、ここに謹んで、その罪を詫びて、その不正を正しくしておく次第である」
と、昭和四十年十一月三十日朝日新聞社刊の「サンカの社会」の28−33頁では述べているのである。これは正しい訂正である。立派なことである。
 しかし、漢字というものは、西暦663年、白村江敗戦の時に進駐軍によって「則天(漢)唐字使用令」とよぶ強制使用が命令された時から、みな何でも当てはめるだけの文字ゆえ、「三」にこだわるのはおかしい。おそらく本当のところは足利中期過ぎに明国から印度のカースト制度が入り[もっと前からという八切説もある]、日本列島でも賎民制度を確立した際、「まず前体制の北条一族をゲットーに入れ、次いで
足利創業の際に南朝方として邪魔をした新田、楠木、湯浅、菊池、足助といった連中の子孫が、東西に設けられた室町御所の新設した散所奉行の役人によって、山とか川の真ん中の州。つまり橋のない川の中へ、居つき限定収容させられた。これを散所とよぶ。地方によっては、別所、院(囲)地、界外と色々の名称があるけれど、これが全て語源である。
 
 つまり、散所はゲットーでタウンになっているのに、セブリは一世帯ごとゆえ、これを「散家」というのが正しいとも考えられる。足利後期の公卿の「夷詠朗詠集」の中にさえも、
「奥山にかくれ住むちょう散家ども、人とはみえで隠鬼ならむ」とまで明白に出ている。この朗詠集は、毎年五月五日、奴隷百姓となっている連中が、橋のない川の連中へ投石をしにゆき、州の中の鯉を分捕って竿にさしてきて勝ち誇って帰ってくる「院地打ち」の石合戦の歌が数多く詠みこまれていて、夷をもって夷を制する藤原体制の実体を明らかにするために、菊池山哉の「日本の特殊部落」にも引用されているものである。


      ウメガイの実相

「サンカの生態には、陰陽ニ態がある」と三角寛先生の説ではいう。そして、「陽態がセブリ・サンカ」であり、「陰態は居附サンカである」とする。この居附は、我々の生活に極めて接近し、そ知らぬ顔で一般に中和している。中和とは、サンカが一般人の中に入り、正しく節度にかなった生活をしていることをいう。彼らは元来がセブリモノであることを一般人に知られ嫌われるような事は絶対にしないのである、と説明をしてから、その形態を分けて分類し、中和しているトケコミサンカについて、「陽態の、セブリ・サンカとはどんな生活者なのであろうか?」と先生の考えを発表
する。

 彼らのコトツ(「言告(ことつけ)」の詰り語で、「つてごと」の意‥‥昭和十八、七、丹波にて採集)によると、セブリとは、アナイヌケということである。太古の我々の祖先が穴居生活であった事は論争の余地もなく、明治大正になっても地方の農家はまだ穴居生活が多かった。これには異論のないところだが、このセブリの始まりはほぼ、その穴居から地上に出た頃からと、彼らの間では傳承しているのである。
 それまで私は、コトツという言葉は、コットと聞いていた。「コットによりますと」とか、「コットでは」というふうに聞いていたのである。その意味も、「私どもの一族では」とか、「我々のセブリでは」という意味に解していた。

 ところが、昭和十八年の夏、戦争たけなわの頃、三角先生は郷里の大分に歸郷した折り、飯笊(めしざる)を売りに来たセブリの女の口から、「セブリのはじまりは、タニバのオヤマミという人に聞くと、よくわかります。その人はコトツの一(かみ)だから」と、意外な事実を聞いたのである。それは先生にとっては、まことに思いがけない大収穫であった。
「あんた、いまコトツと云ったが、コットのことですか?」ときくと、「他人様と話をする時には、はぐらかしを言うことになっているから、コトツのことをコットと言うのです」と、これまた意外な発覚である。それゆえ言葉を次いで、「コトツとはどんな事でしょうか?」ときくと、
「セブリのできた、そもそもの始まりの事から何から、先祖からの言い伝えをコトツというんです」と、教えてくれた。

 タニバとは丹波の古名であるが、鞍馬の山裾にあるというオヤマミのセブリの場所をきいて、東京に戻る途中、京都から北に入ってタニバのセブリ場を先生は訪ねた。
 セブリは、桂川の水上の大堰川の川縁(かわべり)にあった。セブリの主は、大山見一(おおやまみはじめ)といって、その時五十九歳で、職業は箕作りであった。ここで、コトツの語意について確かめてみると、その意味は「言告(ことつげ)」の語り語で、「つてごと」という事であるのが判った。これも貴重な一語である。今いう伝言だからである。
 更に、この大山見さんが、セブリの歴史を一切伝承していることを知って先生は狂喜した。
 

引用参考文献・八切止男著作「サンカ生活体験記」

【この項続く】

=転載終了=  

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