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=転載開始=
茶の湯は死の儀式
【千利休】
千利休(1522〜1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成の兄木工頭正澄に蛇牢で拷問死と「兼見卿記」には出ている。
「千」の姓は、先住民族の「先」をとったものである。今でも出雲大社や隠岐の神主の苗字になっている。「安来千軒」というのも数多く家があったというのではなく、先住民地帯を指すのである。さて文禄四年八月と言えば、追捕を怖れて逃げ隠れしていた千少庵とて五十歳である。そして利休と今では呼ばれる宗易が殺された時は四十三歳。なのに柴野大徳寺を訪れ仙岳宗洞に対して、「利休とは何どっしゃろ」と質問。それに「あんさんの親父のことやないか」と答えたのが尤もらしく「利休号頌」の一輔となって裏千家の宝物として現存。
またそれから十年後に、秀吉が死んだのでほっとして宗易の実の倅の道安が、飛騨の高山から戻ってきて、やはり春屋宗園を訪れて、彼に同じように不思議そうに、「いったい利休とは何や」と聞きに行ったと國學院派の茶道具歴史の大先生は<一黙稿>なる本に入っている話しだから真実なりと説明する。
しかし、ともに四十三歳の時まで父とは一緒だった腹違いの二人の倅共でさえ知らなかった利休名は、とても生前の天正十九年までは実在しなかったものと見るしかなかろう。つまり「利休の手紙」等という本もあるが、手作りつまり贋作ものと見るべきだが私が読売新聞の連載や「茶の湯は死の儀式」で明白にしてから、道具やさんに出回っている昨今の物は「休」一字署名のものが多くなってきた。というのは生前の宗易夫妻と親交のあった吉田神道の神祇大副だった兼見の日記にも、皆彼の事を「理休」としているゆえ、利休署名は作り物だと証明されたからであるらしい。
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それまでの茶というのは、足利時代から卓を囲んでの茶は、中国渡来の唐茶で、道具類もみな明国の舶来品に限られていた。
それなのに、堺の皮屋松屋らが始めだした新しい茶湯を、千の宗易が引き継ぐに当たって「ささら衆」と呼ばれるヤ衆の者らに、竹細工で茶筅、なつめ、花挿し、まで作らせて売り捌きもした。だから茶道具商売の者らが、「ただみたいな竹で作った物を高値に売りおっが、死ねば儲けもふい、利は休みじゃろう」と冷やかして死後に付けた渾名らしく、「名利共休」とか「名利頓休」等と苦し紛れの引用もされるが、これらはみなこじつけにすぎない。
利休居士の名を下賜された旨が「顕如上人貝塚御座所日記」にも出ているが、後年の加筆であろう。伝奏役でそうした扱いの担当官だった公家の、「吉田兼見卿記」には一行も出ていない。つまり、世界に比類なき宗教的とも言える日本独特の家元制度。それは茶道具で儲ける商売人や、その御抱え歴史屋が結託して、勝手に虚像を開祖にして神聖化しているだけの話しである。
現代の差別被差別制度が一般化したのは足利後期からである。だから当時としては「御先祖足利尊氏様の創業に反対し邪魔した悪党共の子孫を区別地に入れてしまえ」となったから、明治までの未解放地帯には、菊水とか楠木、湯浅、新田、足助の地名が何処にも残っている。ドイツ人アドルフ・リースによって指導された明治史学は、楠木正成らだけをスター扱いにし、銅像にもしたが、俄か歴史屋共の悲しさで、その子孫や郎党の末裔の解明は全くなされていない。さて、十五代続いた足利時代にあっては、旧南朝の方の子孫だけでなく、反仏教派の神信心派が居た。「祇」と呼ばれる拝火教徒も同じ扱いをされ「えびす」として区別していた。
堺は今でこそ町名が普通についているが、幕末までは一括して「えびす島」と呼ばれ、町割りは東西南北を上に付け、各町ともにエビスがついてよばれていいたのは古地図で見ると明白である。つまり幕末までは特殊部落の土地だった。
さて、今で言う官途にこのエビスの者が就こうとすれば、後年の踏み絵のごとく、頭を丸められてから「ナムアミダ」をくり返し唱えさせられてから、その名も○○阿弥、というように転向者と判るように付けられた。それでも警戒されて武士には登用されず、活花、画師、などの無難な役目に限られていた。何しろ自由人として商売するには、官界に渡りをつけるしかないのは、今も昔も変わりない、まこと体制べったりでなくては生きて行けぬお国柄が、この国である。
堺の者は別に足利家に仕えるためでなく、足利家の三好衆によって阿弥名を貰い、商売をしていた。勿論限定職業である。
利休とよばれる宗易の祖父にしても「千阿弥」だった。「同朋衆」と呼ばれたのは、えびすから常人扱いされ、彼らも同胞並になった衆との意味である。しかし織田信長の出現で世の中は変わった。下克上という世変わりである。
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近江八田別所出身の後裔で、拝火宗の多い尾張を地盤にのし上がった彼は、商売の権利をヤ衆にだけ許可し、三好衆庇護で勝手に商売している堺に対しても、蜂屋頼隆らのヤ衆を差し向けて、これまで勝手に商売していたのはけしからん、と今までの落とし前に二万貫の請求をした。が、限定職業の皮革業や魚屋、染料屋、鋳物屋の堺では、信長がヤ衆に商売を限定し、ヤ号をつけさせ、近江屋、尾張屋とさせているのが判明すると、自分らも元来はヤ衆だからと妥協した。
信長も後に堺とマカオ間に硝石輸入のため、海流を利用して年一回の定期航路を開くぐらいだから、堺衆が竹で茶筅を作り出すと、次男三七の後の信雄に「茶筅丸」と命名している。己の前頭部が禿げ上がってくると残りの毛を棒のように立て、茶筅髷と名づけて流行させた。信長としては「天下布武」の計画に彼らの協力を得るための、同族間の信頼獲得の手段だったろう。
信長が死に秀吉の代になると、利休こと宗易宗恩夫妻を叛乱予備罪で刀狩りの後で始末し、その与党を区別地へ押し込んだ。ゆえに今でも岡山当たりでは未解放地を「茶せん」とよんでいる。堺衆の者たちが、かって心ならずも、先祖が阿弥を名乗ったのを恥じらい、詫びの茶を始めたので、信長は自分も応用する事にした。(現代はワビ、サビの茶として権威あるものとされる。が、虐げられ続けた原住民が、悪党と罵られながらも武者働きして、一城の主になったり、商人として成功し、店の一つも持てる身分となった。祖父や曾祖父の頃までは山間僻地で苦労してきた、その頃を忘れぬように反省し互いに協力し励まし合うため、侘びしく静かな、先祖を偲ぶ寂しい茶湯。この精神がワビ、サビの由来である)
なにしろ戦国の世である。かっては忠誠を誓い、長子新五郎に信長の重臣明智光秀の長女を貰い受けた荒木村重でさえ、美童の万見仙千代を信長が奪ったとなると、叛乱してくる時勢である。「いくら血判を押させたり、神祇誓文を呑ませても口先だけの忠誠など信用できぬ」と信長は茶室から逃げ出さぬようにし「にじり口」と呼ぶ狭い出入り口を考案して、忠誠を申し出て来る者らを集めると、
「わしが点てる青茶を服すがよい」と試験をするのに応用した。古今東西木の葉は植物で、茶の葉も摘んで干して日が経てば枯れて黒ずむものである。だから眼前の青茶を見て(銅鍋にわく緑青でも混ぜなくてはこう青黒くなるものではない。うかつに一気に飲みほしたら腹が痛み出しておっつけ死ぬかもしれんぞよ)と皆怖じ気を震い、ゆっくり三口にも四口にも分けて服用した。つまり茶席が今も厳粛なのは、死の儀式でもあったからである。
亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで、「乾杯」と絶対に一緒に呑まぬのは、茶席に招くのはなにも互いに親交を温める為でなく、御馳走するのでもない。ただ忠誠心をテストする試験だからである。さて緑茶はそれ程には猛毒ではないが、胃腸疾患のある病弱者は死んだ。伊達政宗が小田原陣へ降参をし、忠誠を誓いに行った時も、先ず底倉で青茶テストをされたが、若くて元気がよく無事であったという。それゆえ始めは本家本元の堺衆は順繰りに、茶頭の亭主役から、かって阿称名を貰った者やその子や孫が服用し、時に胃弱な者が、それでばったり急性で倒れたりすると「たたりじゃ」と先祖に対するお詫びの茶の意義を強めた。
信長を真似た秀吉や家康も風流や数寄ではなく、あくまで自己保全のための信頼テストに利用し、やがて武家社会に広まったのだ。
「わが母は亡き後奈良帝の寵を受け身ごもって尾張へ戻って産んだのが、この秀吉である」と時の正親町帝に譲位を求め、皇太子誠仁親王が邪魔だからと、はしかと言う事にし急死させた秘話は、奈良興福寺の多聞院英俊が書き残している。
しかし、天変地変が次々と続いて「故親王の祟りなり」と山科言経に言われた秘話は私の「真書太閤記」「秀吉と女たち」に詳細。
秀吉も十六世紀では迷信には勝てなかったのだろう。「やむをえぬ」と親王の忘れ形見の後陽成帝を立てはした。
だが折角京の中心を取り壊し、己の新御所にと建てた聚楽第が無駄になるからとそこで秀吉は大陸進攻をを考えた。
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【紹介者・補記】
秀吉の野望は自分が天皇になって、豊臣天皇として新皇統確立を目指したものと思われる。公家とは元々が大陸からの征服者の系統だから、大陸に帰ってもらう。だから朝鮮は通り道としただけで、占領する計画は無かったと思われる。侵略を美化したり正当化するつもりはないが、世に征韓の役と言われるものの実体はこうなのである。秀吉はライバルであった明智光秀が、信長の急死の後、征夷大將軍の勅をかしこき当たりから貰っていたという事実があったので、その後塵を拝すのを嫌って「それならわしは天皇になったる」となったのだろう。
大陸系の公家連中を排除するのに、なにも大陸進攻までしないで、隠岐や対馬へ島流しにすれば済むようなものだが、大明国突入という無謀な戦争を起こした事は失敗である。しかし秀吉も日本原住民系の出身だから、占領され、奴隷化されていた民族の復仇戦と見れば頷けるものがある。
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「帝には北京を中心に四カ国、公家の連中にも向こうで一国ずつ進上し、日本は秀吉の国となす」と遠大な計画をたてた。
さてそうなると、後顧の憂いを取り除き挙国一致体制をとる必要が出てきた。その為に先ず叛乱防止のために刀狩りと称し、密告制をとって庶民の武器を没収した。さて、五世紀から七世紀にかけて大陸から進攻してきた連中が、白人がキリスト教をもって有色人地帯を押さえたように、西方極楽浄土の教えを持ち込んだのに対し、日本列島の原住民どもはこぞって次々と反抗した。
山中や離島へ逃げ込んだ彼らの子孫が、足利期にできた被区別地の末裔と一つになった。アメリカで南北戦争の後、解放奴隷のアフリカ人が追われてインデアン居留地へ逃げ込み合体したのと同じ事である。そして、「山がつ」と呼ばれる山者はウメガイとよぶ彼らの山刀を「ささら」といわれる竹細工の箕の直しも、青竹割の刃物を商売道具として、秀吉の命令を聞かず手放さなかった。
さらに、京の周辺の桂や白川の者らも堺の者と共闘体勢までとりだした。「これでは従来の古ぼけた御所の代わりに建てた聚楽第さえ、大陸遠征の留守の間に奪われかねぬ」と秀吉は、まず堺衆の山上宗二が八瀬大原の者らと結託していると聞き、召し捕って拷問にかけ「しゃつら見るだに憎々しい」と耳をそぎ、鼻を削った生首を見せしめに堺のえびす口の門へさらさせた。
つまり利休こと宗易が、かねて竹細工の道具や瀬戸のカトウ衆の同信心の者らに焼かせている黒碗を、彼が高値で売り捌いているのは、彼らの軍資金集めのためと密告があったからである。
通俗歴史は、秀吉が利休の娘に惚れたのに拒まれたから殺したと説明し、その「お吟さま」で直木賞を取った人もいる。
しかし彼女は未亡人ではなく万代屋新太郎宗安という、れっきとした夫と四人の子も居たのである。少女趣味というか十代の若い娘が好みであった秀吉が、四十に近い女への横恋慕はおかしい。今も昔も男の好みはそうそう変わるものではない。
資力や人望からみても、利休こと宗易が反乱軍に担がれるものと秀吉は見たから殺したのだし、妻の宗恩が蛇責めの拷問で死んだのも、今で言う地下組織を白状させようためではなかったかと「利休殺しの雨が降る」に私が書いたのは、当時の伊達家の「鈴木文書」に、「戻橋に八付にされる」の一行を見つけたからである。それで徹底的に調べだした。
張付と呼ぶ死刑方法は信長がキリストの画を見て、始めて真似させたものだが、手首や脚は荒縄で縛っての刺殺だった。ところが秀吉の代になって寺側から政治献金を受け取り出すと、反仏教系のヤ衆とかハチと呼ぶ日本原住民系の処罰には、手足を縛らずに太釘で打ち付ける残酷な方法を始めた。これを八付とよんだ。
木像とはいえ釘を打ち付け曝したというのは、秀吉が彼を原住民子孫の過激派とみなした証拠である。茶湯開祖として温厚なワビスキの利休居士は後年の儲けんがための者らの作為で、実像はレジスタンスの指導者だったらしい。大陸遠征準備に新開発のチリ−硝石入手のため呂宋へ助左を派遣したものの失敗した秀吉は、従来通り島原の口の津で硝石輸入をする必要上、交換輸出に原住民系の人間狩りを徹底的にやったらしく、それへの反撥が日本原住民系の神祗の連中の不穏な形勢になったらしい。でないと、ここの辻つまが合わない。
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寺の都と呼ばれる程、京では各宗の寺が多い。観光バス廻りの現代では、石庭とか山門や色んな見せ物で拝観料をとって収益をあげる。しかし昔は、暇にまかせて筆のたつ坊さんが、もっともらしい由緒書を作ったり、空地に有名人の墓をたてて檀家や参詣人の布施を狙った。
仏教嫌いで、武田攻めでは生きながら僧侶をみな殺しにしたり、竹生島で寺詣りをした待女たちを憤り並べて手打ちにし、「終生、復興まかりならぬ」と比叡山では僧俗一人残らず全山の者を殺掠した信長の墓が、京花園妙心寺にあるのでびっくりしたが、観光客呼び寄せに、座頭市の墓を笠間にたてるのと同じで、儲けるためには真実の歴史は何もないのが日本人の国民性であるらしい。
茶せん髷をたてた信長が仏教嫌いであったように、利休こと理休も反仏であったことは間違いない。となると、各寺にある利休関係の由緒書は、いくら国学院教授のお墨付きでも真偽は問えない。だから茶人に尊重される<南方録>のごときは、常識をもってみるなら噴飯ものである。「茶湯」を由緒あるものにするための、その途ではバイブル扱いであるのは、道具の型録にコジつけだけ。
よって本当に心ある歴史家は問題にもしていない。そもそも茶湯とは南北時代には、ばさら茶とよばれる闘茶であった。
足利期では「書見台子」などと勿体ぶっても、しょせんは賭奕、蓋をとって茶柱が立っているのが勝ちという賭茶。各寺で開帳して一割づつの布施をとったのが,バクチの寺銭の起源。そして、『花園天皇記』や『師守記』にもあるし、『看聞御記』には、親王さまが一茶やるべえとギャンブル通いをなさった記載さえある。今日の「イッチョヤルベエ」の語源である。
が、庶民は寺へ入って賭けられぬから門前の店で丁半ならぬ茶柱博奕をやった。つまり腰掛けるから掛け茶屋となったのは後年で、賭け茶屋が起りである。これに対して神祗側でも、儲かるならと、赤い唐茶は仏教側ゆえ青茶を考案して、その混合がトガノオ産と他との割合を当てさせる「本非」とか「四種十服の勝負」といったのを始めたが、寺側のように固定客層がいないから、八坂神社あたりは弦召とよばれる下人が客引きに加茂川べりまで出かけた。これが今日でも使われるポン引きの語源だし、加茂で拾ってくるゆえ、「カモ」と上客をよぶのも今なお残っている。
つまり茶湯の起源は、今いうような高尚なものではなく、初めは賭奕。後には忠誠心テスト用で、現代では花嫁修行と恰好よくなっている。硬質陶器のノリタケチャイナが出来たのは明治になってからで、ただ土をこねたきりの信長や秀吉の頃の茶碗が、地震国の日本にも多く残っているというのは眉つばものだが、道具商とか御用歴史屋が各派の家元と組んで、もりたてて今日に至っているのである。日本では歴史は真実を追究するものではなく儲けの道具。
吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。
それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、 「茶」ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。
なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、抹茶をやるのは絶無である。
三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。
いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。
幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。
また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。<野史辞典>には、サカイ人なるものの別個の研究すらもでている。
(終わり)
=転載終了=
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