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真説・水戸光圀 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/558.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 23:57:29: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/mitokoumon.htm

=転載開始=

怨念の獅子は閉門蟄居

  水戸光圀(1628〜1700)隠居して梅里とか西山と号したと称される常陸太田。
ここの人々は  現代でも水戸とは眼と鼻の先の距離だが仲が悪い。水戸への通学道路さえ許さぬので県教育会から勧告されても拒否。郷土史家は、「旧佐竹領の太田は、徳川水戸から弾圧され続けてきた怨念」という。が慶長七年に佐竹が出羽久保田に移封された後で、光圀の頼房が下妻より入封したのゆえ太田も水戸も同じ旧佐竹領であって辻つまが合わぬ。真相は、通説とはまったく違う光圀への弾圧からである。

黄門漫遊記の真相
 
「ここにおわすを、どなたと心得えおるか。さきの天下の副将軍水戸光圀公でおわすぞ」
 と助さんか格さんが、身分証明に葵の紋のついた印籠を高々と揚げて見せつけると、百姓から年貢を取りすぎていた悪代官が、おたおたして平伏してしまい、地面に頭をすりつける。
「ワッハッハ・・・・・これからは慎めよ」と、白い顎鬚をなぜつつ黄門さまは笑って済ませる。
 悪をこらしめ善をすすめる道徳教育なのか、はたまた日本列島だけに古来から通用する処の、

「おかみにも御慈悲があらあなあ・・・・・」とする裏付けのためのものかの、まあどっちかだろう。
 ヨーロッパでは、天にまします神のみが、「虐げられている哀れな民よ」と、その慈愛を示し賜う奇蹟を、さながらアラジンの魔法のランプのごとく、蒔絵の印籠一つ取り出すことで片づけてしまうのである。つまり、「誰からも助けをえられぬ底辺の民への救世主」として権力の犠牲者らを権力の側から救済するといった、世界でも珍しいパターンをとって一般大衆の生き神さまとして好感される。こうしたテレビは大岡もの金さんものとあり、現代ものでもデカものと珍しい国民教育。
 だから最近の歴史書までが、延宝八年、家綱死し光圀の推挙により綱吉五大将軍になる、といった間違いをおかし、さもそのために天下の副将軍になったごとき説明を加えている。出たらめである。光圀は朝鮮斎州島出身の於玉の子ゆえ綱吉に対して反対したのである。

日本史は従来、講談や芝居に曳きずられ、俗説や俗史が合わされ作られ、それが一般史にまでなってきた。だが今ではテレビがその役割に代わって大衆を信じこませようとしている。困った話。
 なにしろ江戸時代には握り拳固の人さし指と中指の間から親指の頭をだしている型のスケさんが歴史書の類では堂々と、「佐々宗淳こと通称介三郎ことスケさん」とさえなっているのである。

 ただ戦前の三省堂の日本歴史年表だけが、その三二一頁の1694年の欄に、「元禄七年四月二十六日、将軍綱吉が家門庶流つまり徳川家につながる一族を召集し論語を一冊ずつ与え,水戸光圀に命じて無理やりに講義させる」と、当時の事実が出ているにすぎないのである。
 
時に光圀六十七歳、歯のもげた口で息が洩れるのを笑いものにされ、なぶりになぶられ、「権現さまの血をひく徳川一族であるのに、この綱吉を除外し京より迎えた者を五代将軍にすえ、己が補佐の名目で天下の副将軍にでもなり、政権を私せんとなせし悪党めの、この哀れな老残の姿を見て、みなの見せしめとなせ」と散々に嘲弄されたあげく、また網かけ駕に施錠され常陸太田へ護送され、その六年後に光圀は竹矢来に囲まれた張り番された芽屋で朽木ように死んでゆく。

 実子や孫はみな処分され血筋は絶えていたから、水戸藩史でも高松よりの綱条の子孫が代々の主君となったので、幕末までは黙殺される存在でしかなかったのが本当の処なのである。
 史料も小野角右衛門なる者が光圀の粗暴に手をやいたような書簡しか残されていないのである。
 それなのに不死鳥のごとく、やがて光圀が蘇ってくるのは、綱条の末裔斉昭が野心に燃え自分が将軍に取って代わろうとして『大日本史』を世に出そうとした時、昔からであるとするために、監修に光圀名をかり、ついでに朱舜水伝説まで作らせたのが始りであるといえよう。

徳川家康の正嗣子の直孫つまり本物の獅子王を、次に蘇らせたのは立川文庫グループだった。
 猿飛佐助、霧隠才蔵、甲賀三郎と次々に刊行し好評をえた彼らは、水戸斉昭が当時の売講師志道軒に書かせた『水戸光圀仁徳録』と、それへの対抗上に井伊大老が江戸町奉行池田播磨守に命令し、日本橋北鞘町小宮伝兵衛に刷らせてばらまいた『こうもん、まん遊記』の二冊を見比べた。

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「おかみ公認の好色本として、『壇ノ浦夜合戦』や『好色一代女』より広く読まれたもんやそうな」、「黄門とはオワイ汲み取りの不浄門。人体にあっては肛門の当て字・・・・・と字引にはある」
 とグループの二人が話し合っていると,他の者が口を入れてきて、さもしたり顔をして、
「水戸人で東大教授にならはった内藤恥叟たらいう人が<黄門とは中納言の唐名>と庇いだてしやはったよって、それでやったらええやないか・・・・なんせ語呂よおおまっせ」

「ほんまや、『仁徳録』では硬うていけずやしな」と、すぐ皆が賛成をしたが。
「かめしまへんやろか、うるそうおへんか」華族は皇室の藩屏にしての世の中ゆえの心配だった。
「水戸が中納言になれたんは綱条の晩年の事。己が親からの高松十二万石を光圀の子頼常に奪われたさかい、当主になるや将軍綱吉の命令通りに西山の一帯に竹矢来を張りめぐらして監禁。土地の太田の者が憐れんで野菜の差入れするのさえ罰した程の功績をかわれ、光圀が窮死した後で元禄十四年に褒美やと七万石加増され中納言にならはったが、光圀の代までは二十五万石未満ゆえ権中納言やし、かまへん」と、一番の物知りが武鑑をひいて指さして答えた。
「高松へ行った頼常の死後、その子はみな早死にされ、次は綱条の次男が納まり、水戸でも徳川家に忌まれ光圀の血筋はたたれたんや。が幕末になって水戸斉昭が、征夷の勅を賜った者が征夷大将軍になるのが古来の定めやと京屋敷の鵜飼幸吉父子に運動させ、伝奏姉小路卿をへて入手。そやさかい、京には昔から人気のある光圀を引っぱりだし、今でいう宣伝に,水戸こそ新征夷大将軍にふさわしいと、もっともらしく書かせはったのが,志道軒作で浅草仲見世で講釈までさせ・・・・おおはやりしたそうやないか」

「世にいう水戸の密勅事件・・・・・だから大老井伊は鵜飼父子を始め贈収賄の仲立ちした髪結いまで捕え、ついで便乗して当時の過激派を一網打尽。そして眼には眼、歯には歯でするんやとパロディー本で肛門からはいだしマンへ行こうとする爺様に、親指の頭が出ている握り拳型のスケベさんがお供して協力。だが黒くて柔らかい溝やジャングルに邪魔され、やむなくカクさんがカキカキして爺様を慰めたといったオモロイ趣向やおへんか・・・・・こりゃ、いけまっせ」
「前者は宣伝臭ぷんぷんの名君もの。後者は圧倒的にうけたが好色本。だが今では警察がうるそうて、あかへん。二つこね回して一つにするしかあらへんやろな」と、文庫グループではなった。

    辻斬り黄門

 当時、日活向島映画で二枚目でならした山本嘉一が老年で重役に納まっていたが、やはり役者ゆえ何かやりたくて仕方がなかった。尾上松之助が立川文庫を次々と種本にしていたから、「これだ、これだ、これしかない」と、売り出しの二枚目の河部五郎を助さんに、自分が主演をかってでた。うずうずしていたから張りきった。

 重役の映画が当らなくてはと日活も大宣伝したから、大当たりをとってシリーズ物となった。
 だから東映でも、年とった月形竜之介が水戸黄門を演じ、今では新劇界の重鎮がテレビで「ワッハッハ」と御当地ソングなみに各地を廻って歩くシリーズとして好評続演、もう十年目である。

「吾々が親の代から口伝えに聞かされてきた話とは、てんで違うけれど、さぞかし光圀さまは竹矢来の外へ出て旅でもなさりたかったろうなあ」と初めの内は、常陸太田の人も同情的にみて、映画の頃には想ったらしい。が、テレビの世の中になると、さすがに呆れむくれてしまい、

「光圀さまを落し入れて、その御子をも殺して七万石加増され中納言になった水戸綱条は光圀さまの仇である」と、水戸の学校へ通う生徒らの通学道路の補修さえ拒んで今も新聞種になっている。
 では、通説とはまるっきり違う水戸光圀の実像は、いったい何だろうかとなってくる。

 さて水戸の藩祖頼房は家康の第十一子だが、その幼年の時の話しとして、
「この天守閣から、飛び降りられるか」と家康にからかわれた時に、真剣な表情で「やりまする。天下を賜われるなら」答えたと伝わっている。そこで家康が呆れ顔で、

「大きな望みだが、飛び降りたら死ぬぞ」。「はい、死んでも、ご褒美さえ頂ければ、名だけは末代まで残りましょう」と、十一歳だった阿鶴丸の彼は堂々と臆せずいいきったという。
「天下が望みゆえ江戸に近い所へ・・・・」と水戸を貰い、今の後楽園球場を含む七万六千坪の水戸江戸屋敷を建て、将軍家に万が一の事のあった時には、すぐに江戸城に駆けつけられるようにした。
 
そして本国へは戻らず小石川で過ごした。そして(もし自分が将軍になった時は、改めてふさわしい嫁とりをせねばならぬから・・・・・)と頼房は生涯、正室を迎えず、家臣谷左馬之助の娘久子を妊娠させた時も、頭ごなしに堕胎せよと命じた程である。
 が、老臣三木仁兵衛は秘かに久子を水戸の親元へ戻して生ませ、四歳までは城下の子供と変わりなく育てた。だから光圀は大名の世
子らしくなく元服後に、厩仲間を供に秘かに外出ばかりしていた。もし見咎められると、
「あおいの紋が目に入らぬか」と、すばやく提灯を前へつきだしては即座に相手を恐れいらせた。
 しかし、浅草寺境内で乞食を試し斬りした際は、かけつけた寺社奉行配下の者が、「ここにおわすは、どなたさまと心得るか」とか「水戸さまの御世子光圀さまにおわすぞ」とかいくら供の仲間が交互に脅かしても、「騙り者め・・・・・」まさかと、本当にはせず、直ちに縛ってしまった。
 が、本物とわかって大騒動となった。ために、寺社奉行堀式部少輔は、

「恐れ多くも東照権現さま御孫さまへ、縄目の恥しめを受けさせし罪は万死に価いする」と自決してしまったから、頼房も屋敷へ戻された光圀をそのまま放置できず、座敷牢へ入れた。退屈だというので三味線をひく女を習わせに通わせると、身重にさせてしまった。「いくら世子の伜とはいえ座敷牢の中で作った子では・・・・・」と、生まれた頼常は高松十二万石へやられたのである。
 二十才で座敷牢を出され、三十四歳で藩主になって三年目のこと、「わしの不始末で出来た子を押しつけ、異母兄頼重の子が部屋住みでは済まぬ」と、松千代を迎えて綱条となのらせたのが悲劇の発端と、やがてはなるのである。

四代目将軍家綱には子がなく、春日局の子や孫は弟の綱吉をと一致して推していた。が大老酒井忠清と水戸光圀の二人だけはあくまで、「確かに三代さまの御種なれど御生母が韓国生れの方ゆえ、英才の噂も高い京の有栖川幸仁親王をこそ五代将軍に迎え、三代さまの残された裾の姫の婿になすが至当」と主張した。だから京では光圀は人気があったが、綱吉が五代将軍になると憎まれ斥けられてしまったのである。

「下馬将軍」と綽名される程の権勢だった酒井も、家屋敷まで没収されて追われてしまった(三田村鳶魚随筆に考証がだされている)。御三家の一つゆえ、水戸光圀は追放にはならなかったが、廻国者とよばれた当時のCIAの柳生者に見張られ、閉じこめられて警戒されるようになった。

(水戸は初代頼房から取って代って、征夷大将軍になられんとする血筋。光圀も京の親王を飾りものに立て、己が天下の副将軍たらんと志した不逞の徒である)というのが綱吉の指図だったからだ。
 
さて、その頃柳生家は但馬守から五代目の俊方の代であった。承応三年に人皇第百十一代の後西帝の生母の妹の子が奥州仙台の伊達綱宗であると探りだし、伊達政宗以来の蓄積を吐き出させるよう御茶の水から飯田橋へかけての外濠改修工事を命じ、材料購入に有り金を残らず出しきったところで、綱宗を素行不行届となし、抜きうちにいきなり隠居処分にした。
 処分となると、隠居させられた者は一歩も外へ出られぬ閉門扱い。さて、そうした扱いの一人に、将軍家光が寛永三年上洛のみぎり御所で山城一国を御料に差し出すと食言した際、前述したように立ちあった生き残り証人の伝奏の中院通村がいた。口封じに内大臣にもどされたが、隠居押しこめにした後もやはり生かしておいてはまずかった。
 よって柳生俊方は忍びこませてある者を密かに使かって、承応二年二月二十九日に差し入れの食物に混ぜて毒殺した。が当時の後水尾帝の遺児が、いまの廃帝の御西さまにあたる。だからその後も、柳生者はすこしも気を許さず絶えず目を離さなかった。

「不穏な御方である。有栖川幸仁親王や中院卿のごとく始末をつけられると良いのだが、なんせ吉良さまが仙洞御所へ竹矢来を張るのは大変だから、別に小屋をたてて収容するが御命だけは、あくまで御身分ゆえ保証、と確約なされているだけに、まことに面倒きわまる厄介なお荷物である」
 
と名目は警護だが、その実は見張りの者を交替でつけていた。だから上洛してきた水戸光圀が,
「自作の短歌の添削をお願いしたし」と、室尋子の実家近衛信尋を通して後西廃帝へ申し出たことを,京所司代より通達されるや柳生者は、「・・・・・これは険呑、用心せねばなるまい」と、従来は交替で一人だった見張りを倍加して用心した。しかし辻斬りをしたり博奕までうって放蕩三昧のくり返しで、水戸二十三万石の当主となった獅子王の光圀は、柳生者の警戒など物ともせず、

「筆墨がご不自由ではござりませぬか」と奈良墨百挺に筆百本、料紙十束を献上。もちろん、柳生の家臣は後西廃帝への差入れゆえ、京水戸屋敷よりの使者を待たせ、料紙の一枚まで算えて厳重に検査をした。なのに光圀は、自作の添削の礼として京を出発する際には、朱墨五十挺と料紙百束という大量な進物をし、念入りに真綿で作らせた道服をも幽閉の廃帝に臆面もなく献上をした。
 今に残る「日本書記」や「続日本紀」などの『六国史』は、この料紙と筆墨をもって、

「近頃は江戸を朝廷とよび、江戸城の閣老共が公家と自称。よって京より下向きの御所の者は、徳川家へ気兼して官位をひとまず返上。前大納言とか前参議と無位無官になって東くだり。戻ってきて官位を旧に復するなど言語道断。この国にありては平安の昔から、京こそ体制であって正しいのだ」
 
なす事もなく後西廃帝は死ぬまで口惜しさに古文書を整理して御染筆なさったものである。
 が、水戸光圀は柳生俊方の報告によって,ますますもって徳川綱吉に睨まれ嫌われる結果となっただが、本人は獅子とよばれる程の横紙破りの者ゆえ、当時はまだ無頓着だった。
 
?光圀が案じた通り、綱吉の生母は済州島からよんだ伯父隆光に大きな寺を持たせた。そして仏経をもって国教を統一するため、邪魔になる神信心や拝火宗の祇信心の者らを転向させようとした。
 従来は一人で何年も勤めた寺社奉行を、宗門改革のため二人立て三人立て四人も一緒に任命し幕政を混乱させた。それでも効果なしとみてとると柳生俊方の献策で、神祇派の資金源となっている製革業の弾圧を企てた。つまり「生類憐れみの令」はその目的のために施行された法律だった。

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地震や冷害で人間が餓死している当時、「巷の野犬をなんとかせねば,番太までが六尺棒で殴殺し皮はぎして儲けおる」と動物愛護のためではなく、中野四谷に大きな犬小屋を建てて浮浪犬の収容をし給食したから、世間では綱吉を愛好家と誤って「犬公方」と呼んだ。それに地方へゆくと、役人は製革業者取締りのためだけの目的とはわからず、小鳥や魚まで生きものゆえと厳重に法の施行をし民を苦しめた。

「京所代小笠原や京奉行松前が、将軍家側用心柳沢吉保の送り込んできた吉良上野介と密談し、何かを策しているのが怪しい」と光圀は、彼らの謀みが何かを探るため、貞享二年二月に後西さまが窮死された後も京へは何度もいった。そして、
「京こそ体制である」との後西さまの意志を世に広めんと、湊川に楠木正成の石碑もたてた。
 もちろん光圀の行動は、柳生俊方によって次々と江戸へ報告され続けて行った。柳沢吉保は、
「あの方がいては吾らの企てが駄目になる」と将軍家の命令として隠居閉門処分にした。そして一歩も常陸

太田より他出させぬよう跡目の綱条に言いつけ竹矢来で囲ませた。番人をつけさせた。
 何故かといえば金をカネとみない銀貨幣制の京で、吉良上野介が柳生に言われた通りに、従来の大判小判を強制的に通用禁止し集め蓄積していたから、その秘密を匿し通すためであったらしい。

「銅を多量に混ぜた粗末な小判が京で作られ、箱根以東へ送られてきた将軍家の公用金となっては、物価が鰻登りに上昇し庶民が難渋する」と、思い余った光圀は隠居の身で許されぬ事とは知りつつも、藩の附け家老中山備前守に意見書をことづけた。年が明けて四月になり江戸表への呼出しをうけた時は、迎えが囚人用の唐丸籠であっても、ようやく取り上げて貰えたかと感泣した。
 が千代田城へつれていかれると論語の席。五代将軍に有栖宮を推した事の不心得を散々に責められ嘲けられるのも堪えて光圀が、もごもごと歯の抜けた口で嘲られつつも読ませられてから

「・・・・・・一般の者がなすれば贋金作りの大罪にもなることを、おかみが・・・・」と、言い出そうとした時、柳沢吉保やその一味が手をとり足を取り、力づくで無理やり退出させてしまったのである。
 無念の涙を老いた目に浮かべ光圀が、また常陸太田へ戻された翌年八月、柳沢吉保は、「萩原重秀の献策によって」と元禄小判改鋳命を天下に布告。すでに集めてあった古小判を銅で倍量にしたのをどんどん江戸へ送らせた。檻へ入れられては、さすがの獅子もどうしようもなかった。
「・・・・・我が事終れり」と、光圀が死んだ翌年、「邪魔者はいなくなった」と柳沢吉保は同じく邪魔になった吉良を自滅させるため、三月十四日に浅野内匠頭を呼び松の廊下でけしかけ挑発させた。

◆終わり◆
引用参考文献・八切止夫著作「幕末の男たち」(日本シェル出版)

=転載終了=  

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コメント
 
01. 2011年12月22日 01:13:24 : gmRuzN0uFw
私は40年ほど前に太田に生まれて高校時代は水郡線を毎日利用していましたが(20kmも離れているのに通学道路ってなんすか)、水戸と仲が悪いなんて気がつきませんでした。まあ、光圀公が大変なあれなお方だというのは歴史的に有名ですし、副将軍なんて職は幕府にはありませんし、大日本史なんて金のかかる事業をこの貧乏藩の癖に始めやがってこのやろってのはありますし、ええ瑞竜山は竹垣の中なのでしょうか、いやいや梅里先生の碑(寿陵ですよ)のあるところですよ。どこのパラレルワールドですかこれは。

02. 2013年8月18日 18:15:36 : D0QPhBkLUw
私は常陸太田市生まれの太田育ちです。
しかし、水戸と常陸太田は仲が悪いなんて話は一度も聞いたことがない!
(学生時代は水戸の学校でしたし)

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