★阿修羅♪ > 近代史02 > 557.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
ねぶた祭りと日本人の奴隷性 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/557.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 22:14:53: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/nebuta.htm

=転載開始=

この文は、ある会議室で日本民族単一説を否定した「八切史観」を紹介した処、質問者が出て、それに対する回答の形式でUPしたものです。

日本原住民の全部がおとなしく奴隷になつた訳ではない。東北に追われた原住民を組織化し、百済人征東大将軍紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだアテルイがいた。しかし次々と大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年にもわたり戦ったが利あらず。百済部隊に制圧されて滅びた。

アテルイは今の大阪府の杜山まで連行され斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたのは、パレスチナ難民の群をイスラエル兵が皆殺しにしたのとまるで同じ状態だった。ただ違うのは、生き埋めの上に土をかけ、その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のネブタである。

つまり根(死)の国へ追いやる為の土かぶせの蓋ゆえ、踏んづける恰好をする踊りで土地の各会社がスポンサーになり、坂上田村麻呂の山車が賑々しく彩りを添える。

エルサレム難民が、惨殺を指揮のキリスト教右派の少佐の山車を担ぎ出しワッショイワッショイとは、まさかやる訳はないだろう。まさに無知とは罪悪である。こうした倒錯した価値観だから、自虐史観、自己悪逆史観とも謂われるのである。

(このネブタ祭りの真相を、別な会議室で書いたところ、青森県の方から「今さらそんなことを暴露されても困る」と言われました。しかし、私はだからこそ、歴史を正しく認識して、かってはこの列島の最北端に栄えた日本原住民の一方の雄であった「津軽王朝」の不屈の精神を讃える祭りに変える事が、先祖の霊に報いる子孫の義務ではないか。と提案しましたが・・・・これでは先祖の真実を理解すること蘊奥に達せりとはとてもいえはしないから)

万邦無比の日本人の勤勉さというのも、真実は、反抗すれば反体制として徹底的に苛められ、非国民扱いされるからやむなく奴隷的従順さでオカミの言いなりになってきた伝統だろう。かつて「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めをうくる無かれ」とされ野戦病院の動けぬ患者にも自決用の手瑠弾が渡された。

何故かと言えば戦奴の日本兵は、親方日の丸の時は絶対服従だが、捕虜になると今度は親方紅旗、親方星条旗になってしまう。中国戦線では学歴のあるのは延安へ送られ、野坂参造の教育を受けた。その他の者も飯を食わせてもらっている義理なのか、捕虜になるとすぐさま勝手知ったる味方の陣地へ手引きをし、先頭に立って突入する。文禄の役でも、加藤清正を籠城に追い込んだのは、降倭と呼ばれた旧日本軍だつたのである。

特殊潜行艇で出撃し、捕虜第一号となったS大尉は「姓名S、認識番号…番」とだけ答えればいいものを、海軍特別暗号から日本海軍の微にいり細にいったレポートを提出した。後、山本五十六を撃墜したときには、勲章代わりにシャンパンを届けられたと言う。戦奴の兵だけでなく大尉でさえ、好かれようと媚びるように奴隷根性そのままである。

だから捕虜にされたら将棋の駒みたいに、進んで敵側の機嫌取りに使われる国民性ゆえ「捕らえられずに自滅してくれ」と口封じに、身動きできぬ怪我人にさえ自殺させたのが皇軍なのである。どうして国民性が万邦無比な奴隷根性なのか?という根元的な問題を歴史屋が解明しないので、軍人はその奴隷性を忠誠心と解釈して、ぶん殴ることで鍛えに鍛えた。

つまり日本人の体制べったり志向や、長いものにはまかれろ、といった、御無理御尤もの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させ、遺伝子情報にしっかり組み込ませてくれたのは、誰のせいなのかと聞きたい。従順、健気、忠義の国民性からは外圧でもなければ革命などおきにくいのもむべなるかなである。つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに我々を仕込んでしまったことを考えてくれるなら、
★日帝30年の圧政。
★加藤清正が綺麗な女を連行していった。
★島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった。
★伊藤博文によって日韓併合を強行された。
★大震災の時町会自警団に撲殺された。
★従軍慰安婦を強制された。と言った批難は果たして出来るだろうか。

朝鮮征伐の時に日本が荒らしたことばかりしきりに言うが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だつたから、取り残され虐殺された日本人がいかに多かったかを歴史屋は現地で調べてきて貰いたい。箱根権現神社も伊豆山神社もコマのカラ神様だというのならよく参拝もしょう。だから安保継続で日本の青年が、アメリカさんの命令で其方へゆかねばならぬその節は、どうぞお手柔らかにと今から節に頼んでおきたい。

さて、長くなりました。世界史を俯瞰すれば正に異民族間の闘争の歴史である。現代でさえ局地的に民族紛争が絶えていない。人類はもういい加減に大きな心でゆるしあえないものだろうか。こうして過去(歴史)をしっかりと見据えた時、初めて未来への指標が見えてくると思うのだが。 
【引用参考文献】  
八切止夫著作、「野史辞典」「天の日本古代史研究」「日本人の血脈」(日本シェル出版)

【紹介者発言】大和民族単一説は、戦前の軍部が国民精神高揚の為に利用したものですが、○○さんがおっしゃるように、最近ではこの説の信頼性は希薄になっておりますね。石原慎太郎氏さえも疑問を呈しております。しかし学校歴史では「日本人は複合雑種民族であり、アラブ、インド、ベトナム、ミクロネシヤやポリネシア、中国大陸系、朝鮮半島系、沿海州からの騎馬民族系、白人系と雑多な民族によって構成されている」とは教えておりません。

(しかしこんなに自国歴史の諸説が氾濫する国も珍しいですね。世界の先進国に在って、日本にはないもの、それは歴史学博士です。こんな処も不可思議な国と言われる所以でしょう)私は民族主義者でも国粋主義者でもありませんし、日本という国土を民族をこよなく愛する平均的な日本人です。

しかしヒトラーはゲルマン民族最優秀説を唱え、世界を相手に戦い破れました。内実は雑多な民族で構成されたアメリカに負けたわけで、純血主義を標榜する国は危険ですね。
●方言についてのお話がありました。
さて、川崎洋編「日本方言詩集」(思潮社)から出版されておりますが、東北から沖縄まで九十一編の方言詩が収録されております。津軽の高木恭造、京都の天野忠、大阪の阪田寛夫、土佐の片岡文雄、沖縄の高良勉などですが、こんなに方言詩の作者が居ることを寡聞にして知りませんでした。。

それぞれの詩人の郷里のいわば<母国語>なのですが、その詩に附された自注を読むと、当たり前のことなのですが皆方言で詩を書くことに意識的、自覚的です。方言は「母性の呪文」ともいいますし「地霊、祖霊の声」と言う人もおります。学校などで共通語、標準語の洗礼を受けてしまえば、これらが方言の上位に立ち、方言を使うことが肩身の狭い思いになる傾向は如何なものでしょう。今後、方言が上に立つ共通語によって牛耳られ駆逐される歴史の流れを止めるのは困難でしょうが、○○さんも大いに方言で語ってください。

●ねぶた、に関連して漢字と平かなに対する疑問がなされておりました。
占領軍が日本に漢字を持ち込み強制使用させるまで、この国には様々な文字が在りました。三十八種類在ります。 アラビア文字を縦に書いたような、アヒルクサモジ。トヨクニモジ、ホツマモジ、カミツモジ、等ですがこれらを神代文字といいます。

こうした古代和字に関しては存否両論があります。参考までに以下の本を紹介いたします。「日本超古代秘史資料」吾郷清彦(新人物往来社)著者は戦前の旅順工科大学電気工学科卒業で、全く歴史畑とは関係ない人です。しかし大変な研究で労作です。これによると漢字文化以前に、日本列島には様々な民族が同居しており立派な文字文明が存在したことが判ります。
カタカナなどは日本古来の文字ですが、今や漢字全盛で外来語や「キャーッ」とか「ドカーン」といった擬音表示に使われてその地位が低く扱われて居ります。

漢字を使用する側でカタカナを「金釘流」と馬鹿にした言葉も残っております。ですから○○さんの疑念に私の考えを述べるとすれば、「ねぶた」という名称は占領軍で原住民を虐殺した側が付けたのではないでしょうか。何故なら殺された側がつけたとすればあまりにも自虐的で哀しいからです。

即ち占領軍の権威権力で付けた傲慢な名称、それを漢字で「根蓋」とした。こう考えるのは如何なものでしょうか。深遠で幽玄なる太古の時代、日本国の黎明期を駆け抜けた一群の人々がいた。 体制にまつろわぬ人々は、東北に一大王国を築き上げた。彼ら先祖たちの霊気が、渦巻く熱気と興奮を発散する。だから"ネブタ"は東北人のたぎる血を騒がせる。短い北国の夏を凝縮して燃焼させるように、人々は祭りに酔いしれ、闇の中に赤々と浮かび上がる武将たちの虚像の彼方に、"アラハバキ"の幻想を見るのではないでしょうか。

--------------------------------------------------------------------------------

前回舌っ足らずの部分があったので、○○さんの反発はごもっともです。少し前説の補強をさせて下さい。(一部重複します)日本人、日本民族には、徹底した奴隷根性と、更に民族の原種性を守ろうとする処女性(ウブな性質、スナオな性格)と、この正反対の二面性がまことに鮮やかな対照をなして存在していると考えます。そして通俗の体制弁護論的歴史は問題外としても、日本史の真相に深く切り込んだ歴史家、作家には二つの形が識別されます。すなわち、

(1)日本民族の原種性、単一民族性、処女性、ウブ性(上古の原日本語では、ウブは生まれたて、スナは生命の意で、それゆえウブスナとは生まれたての生命の意味)を強調する史観。この場合日本民族の起源は縄文時代、そして更にそれ以前に遡及するものと考えられる。単一民族性。

(2)これに対して、日本人、日本の庶民の、世界に稀に見るほど卑屈な奴隷根性、ウブとは正反対のスレッカラシ、及び日本民族の複合反撥雑種、拝金性を強調観とする、この代表が八切史観なのです。「日本奴隷史」の阿部弘蔵も同じ立場です。さて、律令体制以後、カースト制度の影響で貴族と賤民とが厳しく区別され、反抗する原住民は徹底的に弾圧されました。そして多くは奴隷とされ、かろうじて生かされて来ましたが、奴隷化を嫌い民族の純血を守り抜いた民族が居り、これを三角寛は「さんか」として解明しました。

彼らは所の大名にも、代官にも、即ちどの権力にも属さずに、各地に隠れ住み相互扶助の精神で独自の生活を営んでおり、これは昭和二十四年まで続いたと謂います。日本史では、何々の乱として記されておりますが、実体はサンカを含めた原住民の復権を求めた世直しであり、革命だったと思推されます。少し本題から外れますが、
明治の<秩父事件>を例に説明いたします。


江戸期、漂白民族だったサンカは、騎馬系や海洋渡来系の中に溶け込んで暮らし、無政府主義的形態を構成して勢力を伸ばしてきました。初め明治政府はたかをくくって弱小民族として警戒を怠っていた。しかし<秩父事件で>彼らの団結力と統率力に驚いた。というのは、これまでの日本列島の内乱は、「天皇」を錦の御旗にし、それを頂き勝った方が官軍、負ければ賊軍といった掟のようなものがありました。

処が彼らはそれを無視して、武器を集め人々を繰り出して参集すると、「天朝さまに、逆らい奉り申す」と檄文を貼ったりビラをまき、公然と明治の年号を認めず「自由元年」と号して、別個の国家形成を天下に公表し、軍隊に対しても果敢に抗戦した。かって徳川体制は、後水尾帝の院宣による島原での挙兵を、全国に波及するのを怖れて局地解決する為に「キリシタンの反乱」と宗教的なものに大本営発表して片づけた前例があり、これを真似たわけでもないでしょうが、「高利貸の利息に堪りかね、集団で高利貸を襲撃した一揆にすぎぬ」と秩父困民党を決めつけました。

現在でも都市銀行や信用組合は、個人に貸すより法外な利息が取れるアコムや武富士へ貸しています。政治献金を自民党へ奉って貸す方には極めて有利なサラ金法が堂々と国会を通る世の中です。昔の高利貸より悪質なサラ金時代で、犯罪も増加、陰惨な一家心中や自殺も激増しています。だから明治政府の発表の高利貸退治が真実なら、今の日本列島の各地で「平成秩父事件」が続発する筈です。

この秩父事件を「お上の発表とどうも違うぞ」と研究した人達も居りました。そして真相は「明治政府の弾圧や差別に堪りかねたサンカ集団の独立国家樹立の要望だった」と解明したのです。しかし秩父事件研究家と称する連中は掌を返してお上へ態度を一変しました。

ここが私が激しく糾弾して止まない日本人の奴隷根性という悪い体質なのです。「単なる一揆で、鎮撫官三浦悟棲将軍が己の出世の為に誇大に政府に報告したのだ」と、お上に都合の良い尻つぼみの本を臆面もなく刊行し、体制順応型を決め込んで居るのです。

だから、今もこの流れの本が多い訳なのです。こうした体制順応型の人間は多く、庶民の代表の如く政府批判の知識人や評論家が政府の何々審議会などに入ればコロリ変身したり、ましてや叙勲の候補になったりすればお上べったりの人間に成り下がる、これも奴隷根性の悪しき側面です。さて結論に致しましょう。

日本列島には太古、八っの王朝が在りました。
1. 東北津軽には東日流王朝。
2. 大和、河内に奈良王朝。
3. 岡山に中国系の吉備(華夏)王朝。
4. 裏日本北陸には白山王朝。
5. 神奈川曽我に曽我王朝。
6. 琵琶湖から中部地方に淡海王朝。
7. 静岡には富士王朝。
8. 九州には阿蘇王朝と隼人王朝。

これらは列島にたいした争いもなく”棲み分け”して平和に暮らしておりました。しかし月にむら雲。大陸勢力が民を良(体制に順応する民)と賤(反体制の民)に区分しました。奴隷とは哀しい存在です。御主人様絶対で、逃げたり逆らえば即座に殺されます。しかし必死に生き抜きその子孫は今も列島にみちみちて居ります。

奴隷は自分で考える事はしません。主人の命令を忠実に実行すれば、やがて所帯ももて、年季明けには自由の身にもなれます。こうした習性が何百年も続けば遺伝子にしっかり組み込まれ、自由な人間性を回復するのは難しいのではないかと思います。こうした奴隷性の弊害は現今の社会の至る所で噴出しております。

官僚も会社員も上からの命令は絶対ですから、「おかしいな」と疑問に思っても命令には絶対服従で、従って組織ぐるみ、会社ぐるみの不正が今の日本を形成している、と洞察するのは独断と偏見でしょうか。

余談になりますが、太平洋戦争前、アメリカは奴隷日本史を研究して日本人の特性を知悉していた節があります。特高と憲兵隊で国民を押さえつけているが、開戦すれば本土決戦などできっこないと、自信を持ったのです。そして占領。マッカーサーは颯爽と丸腰で厚木に降り立った。


--------------------------------------------------------------------------------

他国の軍隊に占領され只の一度もレジスタンスをしなかった国は、世界史でも例のない事例です。昨日まで親方天皇様で、一夜明ければ親方星条旗とコロット変わる順応性の良さ。裏返せば主体性の欠如でしょう。安保を金科玉条として、首相が変わる度のアメリカ詣で(参勤交代)では、アメリカの属国と何ら変わりません。

ですから日本人は正しい指導者さえ現れて「明日からこれで行く」と号令すれば、一気に変わるでしょう。明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米資本主義制度を設営し、個人の幸せは二の次三の次で、国益尊重と組織大切主義を第一としたものです。

それゆえ、日本的資本主義制度を世界照準に合わせ、さらに律令制の土台である大蔵省に代表される官僚制を破壊しなければなりません。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての紀記に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、かっては輝かしい文化を享受し、平和を愛でた日本原住民の真実の歴史を明らかにすることだと確信しております。

そして○○さんが仰るように、政治改革の運動はハナからなかったものを求める運動ではなく、失ったものを取り返すものだと私は考えます。キーワードはイノベィションとデスカバリーです。

私共の体内を流れている原住民(生活者)の熱き血潮は決して奴隷根性の卑屈と従順の悪血だけでは有りません。だから、かって先祖の反骨と抵抗の光輝なる血と英知を結集すれば、我ら原住民の復権は成就出来ると考えるのは如何でしょう。

普通の国ならば、これだけ国民をコケにして、やりたい放題の政府なら即革命です。私に一個連隊を預けてくれたら見事に”革命”を実現させてやる・・・・と、夢想して焦燥感に駆られておる現在です。

さて、政治改革を成す上で、明治維新を参考にする事は危険です。幕末維新革命は当初、神祇による打倒仏教革命として始まりましたが、西南勢力である、薩長に横取りされ、原住系民族の大同団結は失敗し、差別即ち同和問題を残してしまいました。歴史に学ぶとすればここは大切です。

明治維新の裏話として以前書きましたが、学校歴史や通説と全く違う見方があります。弁護士で契丹史研究家の鹿島昇氏の著作「裏切られた三人の天皇」(新国民社)があります。一読する価値はあると思います。長くなったついでですから、山形の詩人高橋兼吉氏の「東北の鬼たち」から援用させていただき、「化外」という詩誌の一文を紹介します。

まつろわぬものども、それが鬼であり、中央集権的な権威やロッキード事件に見る権力に抵抗する、みちのくの民衆の一つの声として、伝統の良さを継承する原点となるに違いないことを信じるからであって、そんな意味が僕(高橋)を頻りに捉えている。鬼とは何であろう。

秋田県男鹿の詩人沢木隆子は「東北の鬼」は私たちの祖系であるかもしれぬと語った。つまり鬼はまつろわぬ異民族であり、皇化に抵抗した東北地方の土着の民族、アイヌであったかもしれないし、アイヌ族ではなく、漂流民としての異人であったかもしれない。アイヌか又どちらでもないが、大和朝の征夷軍と闘わねばならなかったエビスであることは確かだ。当時のエビスやクマソは土着の平和を楽しんだ民衆集団であったろう。

こうした沢木氏や特志の研究家達が「なまはげ」や男鹿の民俗をまさぐっているように、国民の税金で養われているくせに、学生を「弟子」と称して旧態以前の徒弟制度に胡座をかき、重箱の隅をつつくような事に浮き身をやつしている官学教授や、アカデミックな連中より、水沢の人達に期待をかけるしかないのかもしれない。そして鬼についてだけ興味を持って、鬼の正体だけは知りたいと焦燥する。
鬼はオニ(隠忍)であって鬼でない事の証明を突き止めたいと思うのでしょう。

以下は「ネブタ祭り関係者」からの抗議的質問に対する私の応えです。

○○さん、今日は。
さて、初めにお断りしておきますが、私の前後の文脈からは「ネブタ祭り」そのものを批判しているのではない、ということは御理解頂けると思います。「歴史は過ぎ去った具象ではなく、現代に力を及ぼしている過去である」という言葉の通り、私の批判の矛先は虚構の歴史を教えて恥じない歴史屋や、体制に向けられている、ということも御理解頂けるのではないかと思います。とはいえ、既成の歴史概念はあまねく国民に浸透していて、いわゆる正史と呼ばれる
側からは、こうした今回のような説は”異説”として顧見られません。


しかし私も若い頃から古文献を渉猟し、裏付けも取った結果、現在の「八切史観」に到達した訳で、この史観の立場からの考察を、前回の説を補強する意味でネブタに関連する周辺事象から展開してみましょう。
いわいでものことですが、これを肯定的に受け止めるも可ですし、否定的な評価と判断はそちらの領分です。
ただ私としては歴史的正当性、即ち正義と真実は後学の研究に待つしかないのだろうなと思っております。
(少し長くなりますが悪しからず)

先ず青森(青森県)の由来から考えてみましょう。歴史屋さんが説く、青々とした森の多い土地というのはどうでしょう?江戸初期までは青森湾の砂州の、鳥頭などの低湿地を「蝦夷外浜の荒地」とされておりました。これを寛永年間に津軽信牧が占領して開発しました。つまり、天慶の乱の時追われ、大陸勢力である中華の風俗に馴染まず、同化せずにイアルサンスウや漢字を拒否した不逞の輩とされた、日本原住民が隠れ住まっていた土地なのです。

騎馬民族の象徴である「馬」のことを「あお」と言いますが、海洋渡来民族と騎馬民族が共に反体制の民として追われ、隔離されていた土地、つまり藤原体制からは青どもが森のごとく群がって居る所として、善知鳥ウトウなる古名すらあります。○○さんの文に「夷狄(野蛮人の意)」がありました。誠に仰るとおりです。この「夷(い)」について考えて見ましょう。定説とされているのは、北陸や奥州に住した原住民で、北海道にはアイヌと呼ばれる民族が居て、語源はエビスがエズになりエゾとなったのをイとなす、処の説。

しかし、このイはあくまでもイと考えるべきでしょう。何故なら、今の岩手県の閉伊郡も、これは当て字で、かっては閉夷郡となってました。つまり日本原住民を閉じこめていた捕虜収容地のことで、アメリカのインデアン居留地並のものだったと想われます。

しかし北海道に住む少数ですが純粋アイヌの人たちは碧眼で、あれは紛れもなく白色人種です。そして我々の先祖は今も昔も黄色人種です。これを故意に混同しているふしがあります。おそらく藤原体制以降の施政方針によるものでしょう。さて、関東のイは関西ではアになってしまいます。つまり恐山のイタコや、水郷地帯イタコの伊太郎と呼ぶのが、イカン、イケマセンがアカン、アキシマヘンとなるごとく、アタゴ(愛宕)と変化させられているので、夷は少数民族なりとして、アイヌであるとしてしまっている説さえあります。

畳表のイグサにしても、箱根を越して伊勢当たりではアミとされてしまうのと同じで今では完全に判らなくされてしまっております。閉伊郡についても考えてみましょう。岩手県に胆沢という地名があります。これは<倭名抄>には伊佐波と書かれております。中尊寺文書では伊沢と書かれてます。これらは皆当て字ですから閉伊郡と同じで夷沢とされていた土地です。つまり日本原住民が移郷されていた保留地の事です。


【注】移郷というのは、大宝律令の時代から、中華の風俗に馴染まぬ原住民に、賊盗律をもって課し、反乱や反乱準備の容疑をかけ、それまで住んでいた原住民を強制的に他郷へ移住させた過酷な法令。しかし奴隷として売れそうな者は間引きして都へ連行し、その他の者が川州や岩山などの荒地へ放逐されたことを言います

<続日本紀>宝亀7年11月の条に、「陸奥軍三千人が胆沢賊を伐たんと出発」などとあるのも、荒地に移された者達がそれに対して反抗の気配を見せたので、徹底的武力弾圧を開始した記録と見られます。

東北地方に<絵暦>というのが在ります。これは青森や岩手では明治になっても使われていた南部暦です。盲暦などと悪口を言いますが、これも大陸渡来の仏教や漢字を拒否した証拠です。明治六年暦では、右は大刀で大の月。左は小刀で小の月。七は七輪、鉢は八。入梅は荷奪いの盗人の絵。といったように絵柄と賽子の目だけで、一目で直ぐ判るようになっております。

次に、蝦夷、についても考えてみましょう。「エビスがエズとなるのは、清水をシズとする東北弁のせいなり」とするのは、日本歴史学会の泰斗喜田貞吉の説です。彼はアイヌがそうであると決めつけてもおります。また、「旧唐書に、東海の北界に大山ありて限りとなし、山の外が毛人の国とあるゆえ毛深い人間で、蘇我蝦夷も剛毛であったからアイヌだが、裏日本では彼らをコシつまり越人なのである」とも説いてます。

しかしこの説でゆけば東北人から越前越中越後や加賀から新潟、若狭の人間までみなそうなり、上杉謙信もアイヌの末裔になってしまいます。文治五年の衣川攻めの論功行賞に当たっても、「出羽と陸奥の国は夷の土地なれば、秀衡、泰衡の裁量に一任してあれど」と従来はしていたともしております。しかし、除地というのは長吏に任せていたのが古来からの習慣です。これが鎌倉末期になると、安東氏(海洋渡来民族)の反乱となり、戦国時代も秋田実孝が支配しています。

つまり飛鳥時代か神話時代か判然とはしないが、アナヒーターの水の女神を奉じたり、アルファダの火神を奉じた民が、海流に乗って渡ってきて権力を持った時。それより古くから既住していたエの民は統合され支配下に入っただろうし、騎馬系が裏日本から入ってきた時もそのまま弾圧はされなかった。

しかし、奈良王朝に続き藤原王朝になると、彼らは一緒くたにされ蛮族とされ、反体制の民とされてしまい、エビス、エベツ、エゾと総称されてしまった。とはいえ、日本列島に進駐してきた藤原氏を一とすれば、このエゾは数万倍の割合で先住していた同じような黄色人種なのです。
「初春の、はつねの今日の玉ぼうき」と<万葉集>に大伴家持の歌があります。「初音」と当て字をしますが、【子(ね)日宴・ねの日遊び】と呼んで、野辺で小松の根を引き抜く酒宴が御所には在りました。これは大国主命が根の国へ追われたという神話からで、反抗してまつろわぬ根の者を、根本より根絶やしにすべし、という挽歌です。

--------------------------------------------------------------------------------
追分について。
藤原王朝が傭兵とした百済人達を使って、原住民を討伐し、女子供や年寄りを捕虜にして曳き立ててきた時、連れ戻っても骨折り損になるようなのや、労働力になりそうもないひ弱な人間を選別しました。街道が三つ又になっている処で、いくら夫婦や親子でも、連れ戻って奴隷市場へ出せぬのは分けて別路へ追い立てました。だから奴隷集積隊が廻った各地に追分けという地名が沢山あり、尺八で哀切極まりない悲しい旋律が多いのはこの訳なのです。


さて、日本中には沢山のお祭りがあります。この祭りからの考察をしてみましょ。下関に「赤間神宮」があり、ここの花魁道中も華麗で有名です。幕末長州は馬関戦争で前田砲台を英米仏蘭の連合軍に占領され、上陸してきた彼らが
女を求めて乱暴狼藉を働いた。

まあ、進駐軍に女を提供するのは、古来よりの日本の伝統で、砲撃で土民たちは逃げてしまって集められない。そこで敗戦の立場上から、周防人の足軽の女房や娘を布令を出して呼び寄せて、「御国(長州)の為である」と主命として言い聞かせ、逃亡せぬように赤間宮に集め、勢揃いさせて女子挺身隊を作った。

そしてそれぞれ四カ国の軍艦に、次々と毎日のように女達を送り込んだ。しかし占領軍の各軍艦に十名ずつぐらい連れていかれは、何十名もの兵士の相手をさせられる。だから局部裂傷の為、落命者も次々と出た。その慰霊祭が今の花魁道中なのです。

やがて長州が天下を取る時代になると、これは恥で隠し通したい事なので、「女ながらも武士の妻。お国のためとあるからにゃ」といった当時の挺身隊歌が、「砲撃されて吹っ飛ばされた前田砲台構築の時に、女達もモッコを担ぎ挙国一致で協力したのである」と話を変えたのです。実際は毛深い異人相手でも、男は男だからと怖じ気をふるうな、と励ますための「おうジャリジャリ」の繰り返し言葉も「おうしゃりしゃり」と濁点がいつしか取られています。これは、川棚温泉に近い下関の吉見で、幕末の挺身隊の指図を祖父がしていたという旧藩士の家柄の人から直接に聞いた話です。
しかし今では隠されてしまい「平家女官説」がまかり通っております。その歴史屋の説く内容は「壇ノ浦で死に損なった平家の女官が、やむなく女郎になった」というものです。

しかし、前歴史学会会長の故高柳光寿博士もこれに対して明確に「平家の女が身を売るようなことは絶対にない」と否定しております。

これも有名な秋田のナマハゲはどうでしょう・・・・・・・・・・・
(以前「日本の鬼と桃太郎」としてUPしたので、一部重複しますが)

鬼のことを漂着した異人、という説が在りますがこれは「東日流外三郡誌」第一巻の誤った影響でしょう。
藤原王朝に帰順した百済の傭兵団の坂上苅田麿の倅田村麿によって、板東八ケ国へ追われた原住民が、多賀城が構築されるとさらに一のへ(一戸)、二のへ(二戸)三のへ(三戸)と追い込まれ、それでも降伏して奴隷にならぬ者は八のへ(八戸)九のへ(九戸)えとバリケードを次々と設営して追い込み苛斂誅求をした。

だから異人ではなく、藤原王朝に馴染もうとしない日本原住民であり、土着民なのです。さて、この鬼を進駐軍が持ち込んだ地獄図絵の赤鬼青鬼の観念で誤ってますが、確かに鬼というのはストロングの表現であり、具象ではありますが、日本のはまるで違うのです。

発音は同じでも「隠忍」の群なのです。「鬼は外、福は内」と、一掴みの豆を投げられたのを拾って飢えを満たしたり「施餓鬼」と称して薄いコーリャン粥を恵まれ投降を迫られる哀れな存在なのです。鬼は鬼でも餓鬼なのです。日本では強い存在ではなく、飢えと寒さに泣いていた原住民がそうなのです。そしてナマハゲを鬼と間違えています。

「張輩(チャンバラ)」と呼ぶ言葉が多賀城のあった仙台に残ってます。この意は、先住原住民を農耕奴隷として、彼らに過酷な増産を課役し、怠けたり、他より収穫が劣れば青竜刀をぶんぶん振り回して役人が、見せしめに竹串に突き刺したり、逆さ吊りにして処刑した。だから大陸からの「チャンらは酷いやつだ」の事なのです。そして彼らが「南無、励め」と喚き廻って来る恐ろしい役人の掛け声。

--------------------------------------------------------------------------------

「ナムハゲメ」が「ナマハゲ」と縮まって転化しだしたのは足利時代からのことで、守護代の家人と呼ぶ官奴が役人となって、増産を命じた。ヒエやアワの収穫はできても、米は難しいのに寒冷地の東北でも無理に押しつけられたのです。直ぐ見せしめにと虫けらのごとく殺してしまうオカミが、彼らが見せる地獄図絵の赤鬼青鬼の羅卒のごとく想えて、農耕奴隷の民は脅えきって監督官の役人を「鬼」と見なして怖れたのです。江戸期になっても雑草取りを怠れば収穫に影響するため、年貢代納の大庄屋が代官手代の指揮で作男供を使って各戸を廻らせ脅迫していた名残なのです。

明治になっても修身の時代ゆえ、子供の時から親の手助けをして雑草むしりをして、寒冷地といえども増産に励むべしと「怠け者はおらんけえ」と恐怖教育に利用。今では観光用になってますが。

太い鉄棒を構え、虎の皮褌で反仏教派の亡者を、血の池地獄や針の山へ追いやる中国大陸型の鬼を、ナマハゲは逆に投影して生まれた恐怖政治の具象的産物なのに、それを日本原住民の隠忍と混同してしまうから、全く訳が判からぬ話になっているのです。

さて、随分と回り道をしたようですが、ネブタに戻ります。

おけら、という地虫がおります。これは虫ではなく漢方辞典では薬草となってます。というのは、日本原住民が果敢なレジスタンスをした際に、日本へきた七世紀頃の大陸人は「根の国へ行かしてやる」と生き埋めにして土砂をかけて蓋となし、奴隷となった者らに足で踏み固めさせたのがネブタだとは前記しました。

その時、何百人もの原住民を生き埋めにしているので、未だ迷信がはばをきかせていた頃なので、彼らの怨霊が穴から這い出して来るのではないかと、根株が広がりさながら地面にバリケードの如く生い茂る「求」という草の種を持ってきて植えた。だから日本原住民はその草根に、無念の内に死んだ御先祖様の霊が在るのだと、その根をオケラと呼んで大切にし、八坂神社の神灯にされ、その火を分けて貰って、雑煮をつくり、日本原住民は復仇を新年ごとに誓った。しかしわざわざ中国大陸から持ち込まれた草だから、漢方薬になるのかと煎じて利尿剤として用いた。

これが江戸期に入ってから「蒼求」となったのです。しかし東北地方では根蓋の根株を這い回る地虫をオケラと呼んでおります。私も子供の頃このミニモグラのような可愛い虫を飼っていたことがあります。というのは、親たちは教えてはくれませんでしたが、「オケラを殺してはいかん。バチが当たる」と言い聞かされていたからです。

今でも東北地方ではオケラは、御先祖様の生まれ変わりで、生き埋めにされた事は知らなくても、故意に踏み潰すようなことはしていないようです。

--------------------------------------------------------------------------------

さて、大変長くなりました。こうして古代史を怜悧な目で眺めれば、日本人の奴隷性や、うぶすなな処女性が見えてきます。日本原住民は奴隷となっても必死に生き抜き現代にその子孫を残しました。奴隷化を嫌って家族と共に、日本中を逃げ回り、独自の文化を継承した民族も居ります。こうした民族の末裔はこの列島の八割以上の人口と思推されます。第二次大戦後、彼らの末裔達は高度成長経済の波に乗り、都市へ出てきてサラリーマン、工員となり日本経済の発展に尽くしました。

しかし現状はどうでしょう。律令体制の悪しき残滓ともいえる大蔵省に代表される官僚機構は、私たち国民の生活を顧みません。無知無能の政府は国民の懐に手を突っ込み金を巻き上げて、やりたい放題です。
私はこれを「千手観音強盗政府」といってますが。

こうした現状を考えるとき、今こそ本当の維新を成すべきです。百年前明治維新は原住民の復権は失敗に終わりました。何故なら民主主義や資本主義の皮を被っても律令体制を復活してしまったからです。そして原住民差別(部落問題)を残してしまったからです。

○○さんのお言葉に「あらげ」がありました。誠に示唆的です。青森に限らず、東北には反抗原住民の末裔が多いので、この反骨精神と粘りの精神でどうぞ青森県から【平成維新】の精神を全国に発信してください。


何しろ一度は日本原住民を統合して、圧倒的に優秀な武器を持った大陸勢力を破った実績があるのです。
そしてネブタ祭りを本家争いのような些末なこだわりは捨てて、
       日本原住民(生活者)の復権の象徴として、抵抗の誇りと、
       反骨の誉れの力強い一大イベントにしては如何でしょう。


<追記の余談>
  少し前、頭だけジェームス・ディーンのような、リーゼントの恰好づけで傲慢な
  おじさんが、「火の玉となってやりぬく」と言って何にもやらなかった事が
  有りました。大前さんのように頭脳明晰でなくても、コケの一念で平成維新を
  それこそ”火の玉”となって断行してくれる日本の指導者は、東北出身者では
  なかろうかと、私は睨んでおります。

  終わり

【引用参考文献】八切止夫著作「天の日本古代史研究」(日本シェル出版)
佐治芳彦、吾郷清彦、鹿島 昇共著「日本列島史抹殺の謎」(新国民社)

=転載終了=  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2011年10月16日 13:44:05: 5nPePzbV5g
五月様

八切先生の著作を無料電脳復刻して下さいましてありがとうございました。

ただあの人は無自覚な舗装作業員として泳がされた限界が見えます。


一、八切先生は、古代日本語がスワヒリ語起源であるという真説を暴露された

  木村愛二先生とその後継者の女性学者たちの功績を理解できなかった。

二、八切先生は、ハクジンの祖先が黒人(ベルベル人を含む)の白子が
  
  進化した存在であることを証明した皮膚科医高野信夫先生を知らなかった。

三、八切先生は、ハタヨガ研究の権威である医師の後藤新平先生の
  
  功績を理解出来なかった。

四、八切先生は、宗教の目的は真の自己であるアートマン(真我)の自覚と

  ブラフマンへの意識の同一化であり、宗派の違いは、個々の求道者の症例に
 
  合わせた治療法の違いであることが理解出来なかった。 です。


八切先生の研究は、あくまでも郷土史家の功績段階で留まっているように

思われます。八切先生の忍者研究の後継者として楽しく世界史のレベルで

B層でも理解できるように楽しく解説しているのが

「日本の陰謀」なるサイトだと思いますので

五月様がこれが阿修羅読者向けに推薦できると判断なされた箇所を

紹介なさって下さいますとありがたく存じ上げます。


02. 2011年10月16日 18:38:17: 5nPePzbV5g
五月様、

一応日本の陰謀で、日本産の忍者集が世界各地で暗躍した

足跡を紹介致します。こうなると地道な007ですね。

http://park.geocities.jp/i_con4/0204/index.html


03. 2011年10月16日 18:47:29: 5nPePzbV5g
五月様、

これで出なければ、権力による妨害工作が「オコチャマのボク」に

仕掛けられているということであり、日本の陰謀(4)での

検索すると出ますのでお手間をお掛け致しますが、宜しくお願い致します。

http://park.geocities.jp/j_con4/0204/index.html


04. 五月晴郎 2011年10月16日 23:16:49: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
5nPePzbV5g様

ありがとう御座います。

私は、事実と、内的世界でない外部の事実の点をつなげ補助線にし事実間の連関を考える枠組み、に興味を持つタイプです。
内的世界には、さほどの興味が持てないし、頭が動かない木偶の坊です。
折角ですが木偶の坊にはチンプンカンプンです。

ご諒解ください。


05. 2011年10月17日 05:47:39: 5nPePzbV5g
>>04

五月晴男様、

お返事を下さいましてありがとうございます。

文章の書き方が悪くて申し訳ありませんでした。

「日本の陰謀」なるサイトは一切、瞑想に関する考察は書き込まれておりません。


五月様に紹介致しました理由は、

一重に、八切先生の後継者と言ってもおかしくない「歴史探索の方法」を

使っているからです。瞬時に思い浮かぶ例と致しましては

一、八切先生の「八切姓での人間の択び方」が

  日本の陰謀では「日付の語呂合わせ」となっていたり

二、八切先生の人相見と所属する民族判定法が

  日本の陰謀では、低身長は日本人忍者の動かぬ証拠と

  なっていたりするから、なのです。


八切史観は、八切先生一代限りのものではなくて

思わぬところで後継者が出現して八切先生の残した仕事をして

おられると前向きに解釈なさって下さいますと幸いなるかなです。



06. 五月晴郎 2011年10月17日 22:55:15: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
>>5

いえ、4は拝見した上で申し上げております。

5nPePzbV5g様が私に言ってる内容は、どのような文脈で言われてるのか、私にはさっぱり分からないので
きっと私には理解の難しい5nPePzbV5g様の内的世界の領分から出た内容なのだろう、だから私には分か
らないのだろうと思い4を申し上げた次第です。

まったく他意はありません。ご諒解ください。


07. 2011年10月18日 19:33:00: WrBl7tYjLY
ねぶたのその話は、真偽が確認できません。文献があれば紹介してもらいたいです。

阿弖流為の子孫は今も奥州市にはたくさんいまして、私のメル友もそうです。

それと、捕虜となったエミシは、日本各地に配流され、特別会計で結構優遇されました。各地にその村が残っています。人口も増えました。

というのも、ぞの戦闘力、行動力は、倭人兵、百済?兵では太刀打ちできなくて、
山に逃げ込視、襲い掛かるなどかなり強かった。
まれに悲劇もあったようですが。

ですから、都では、彼らを好んで使用人として雇いました。
また、警察力として彼らの力は欠かせませんでした。

特に、防人としての彼らの戦闘力は貴重でした。新羅の海賊をやっつけたのは、日本人でなく俘囚(蝦夷)でした。


08. 五月晴郎 2011年10月18日 20:49:20: ulZUCBWYQe7Lk : YbRjNke6LY
>>7

「ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。」ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E3%81%AD%E3%81%B6%E3%81%9F
「青森ねぶたwikipedia」


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 近代史02掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧