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風魔忍者と鉢屋衆 (忍たま風俗館)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/552.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 12 日 18:33:28: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 後北条氏の臣下風魔(本姓:風間)氏、江戸の盗賊、香具師、水戸藩隠密、風見章、橘孝三郎、立花隆 など 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 02 日 10:59:43)

「忍たま風俗館」(http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/N_kenzen.html )
から

風魔忍者と鉢屋衆1 飯母呂衆と修験道、将門の乱について
http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu37.html
風魔忍者と鉢屋衆2 平安〜鎌倉時代の風魔忍者、足柄と筑波、北条早雲について
http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu38.html
風魔忍者と鉢屋衆3 鉢屋衆の誕生、尼子経久と鉢屋衆など
http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu39.html
風魔忍者と鉢屋衆4 戦国時代の風魔、黄瀬川の戦い、川越夜戦など
http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu40.html
風魔忍者と鉢屋衆5 その後の風魔忍者、鉢屋衆、与四郎くんの人生 錫高野の由来など
http://ro119.com/archive/ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu41.html

を、下記に転載しフォローアップ投稿します。

(関連)裁判所を操る創価学会や裏社会の系譜 1/5
  http://youtu.be/4ceclCYunrQ
     裁判所を操る創価学会や裏社会の系譜 2/5
http://youtu.be/6cS7ltAumk8
裁判所を操る創価学会や裏社会の系譜 3/5
http://youtu.be/zKYM1QeiNC0
裁判所を操る創価学会や裏社会の系譜 4/5
http://www.youtube.com/watch?v=e22pwYd_gUE
裁判所を操る創価学会や裏社会の系譜 5/5
http://www.youtube.com/watch?v=tnWGfJFJ_4A

=転載開始=

「忍者2」で、「忍の各流派は伊賀、甲賀がルーツである」と書きましたが、驚いたことに風魔はそのどちらにも属さないのだそうです。
 そして神奈川の風魔と、島根の大名・尼子氏に仕えた鉢屋衆、2つの忍集団は同じ祖先から派生しました。飯母呂(いぼろ)衆という血族集団です。
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■飯母呂衆と修験道

 飯母呂衆は渡来民です。いつごろ日本に来たのは不明です。
 大陸の騎馬民族だとか、朝鮮半島から亡命した呪術師だ、いや技術集団だったとか諸説ありますが、ともあれ日本に来た彼等はまず、山陰に住むんですね。(豪族になったとの説もあり)

 ところが出雲(島根県)を中心とする山陰地方は、3世紀に誕生した大和朝廷から非常に迫害されたんですよ。これは朝廷の「家来になれ」という命令に、激しく抵抗したせいです。
(いわゆる「出雲の国譲り」がそれです。神話として伝えられてるけど、本当は侵略とか、植民地の話なんですよ)

 また飯母呂衆の中には定住せずに、旅の医薬師、製鉄師、土木師、芸人として生活する“漂白民”がおったのですが、7世紀前後に出来た「律令制度」に引っかかり、これまた迫害の対象になったんです。
 律令制度とは、それまで豪族のものだった土地を、すべて朝廷が独占し、民に農地を分配するというもの。農地をもらった民は、税を朝廷に納め、朝廷はその税から豪族の給料を支払う、と。
 そうやって民と豪族をきっちり支配下に置こうとしたんですね。一種の共産主義です。

 しかしこの制度、「民が土地に定着すること」を前提に作ったものですから。じゃあ自由気ままにほっつき歩く漂白民の税はどうすればいいんだ? と。
 そして良いアイディアを思いつけなかった朝廷はあっさりと、
「こいつらは国家のお荷物だ。アウトローだ。人間以下だ」
 と決めつけました。それが嫌なら定住しろと。

 ですが漂白民のほうは、
「俺達はずーっと昔っから、こういう生活をしてきたんだ。なんで税金対策の都合で、俺らのライフスタイルを変えなきゃいけないんだよ」
 と反発します。
 また土地をもらった農民の中にも、重税に耐えきれず土地を逃げ出し、「流民」となる者が続出しました。

(*なぜ製鉄師が漂白民かというと、「山々をさまよい、鉱脈を見つけて掘る。掘りつくしたらまた移動する」という事をやってたからです。合理的やなぁ。
 土木技術者も、あちこちに呼ばれて橋を作ったり、水路を掘ったりしてて、「腕さえあればどこででも食っていける」職業だったからです)

 そんな折の600年半ばごろ、大和(奈良県)で役小角が生まれます。
 彼は出雲から移住してきた一族の出身で、もっと遡ると、朝鮮からの渡来民だそうな。飯母呂と似てるんですね。

 小角は「忍者1」で述べたような活動の他に、漂白民や流民を仲間に引きいれ、一致団結して、
「朝廷は自分勝手だ!」
「もっと民衆のためになる政治を!」
 と訴えることもしてました。やはり少数のゲリラ戦だけじゃアカンわ、虐げられている人々の声を集めないと、国を動かせないと思ったのでしょうね。
 飯母呂衆もそんな小角に共鳴し、一族そろって修験者となりました。

 修験者とその支持者はみるみる膨張し、朝廷から「国家の秩序を乱す連中」と危険視されます。そして699年、小角は伊豆に流されてしまいます。
 飯母呂衆も役小角の流刑をきっかけに、全国に散ったり、山陰に戻ったりしましたが、45巻で土井先生が、
「風魔は平安時代まで山伏だった」
 と云ってたことから、修験者をやめることはなかったのでしょう。

 そんな彼等がふたたび歴史に登場するのは200年後。なんと「平将門の乱」です。
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■将門の乱について

 ちと横道が長くなりますが、将門の事を知らないと、飯母呂衆の活動理由も分らんと思うので…。

 平将門は903年頃に千葉県で、国司(県知事みたいなもん)の息子として生まれました。身分は武士ですが、もとは桓武天皇の血を引く高貴な家柄です。
 
 んで十代半ばに父が亡くなった時、どういうわけか叔父達が、彼がもらうべき遺産を横取りしちゃうんですよ。
 仕方なく将門少年は、誰も手を出さない荒地だった、茨木県南部を必死に開拓しました。というのも、
「ここは農地としてダメっぽいけど、馬の放牧に適してるんじゃね? それに鉄が多く採れるじゃん」
 と気づいたせい。馬は軍馬として注目されつつあったし、鉄は現代でも、「鉄を制する者は世界を制する」といわれるほど重要な資源です。

 んで試しに、馬と製鉄で村おこし(?)をしてみたところ、これが大当たり。たちまち財産も領地も増え、大勢の人間が集まってきます。
 その多くは、役人のイジメから逃げてきた農民や、東北から奴隷として強制移住させられた人々、アウトロー扱いされてた漂白民や、修験者などでした。

 よく将門は、「大怨霊」だの「逆賊」だのと云われてますが、これは朝廷側の意見であって、本当は男気にあふれた、世話好きの優しい人だったそうです。
 自分を頼ってきた者の面倒を見たり、役人のトラブルの調停をしてあげてるうちに、いつのまにやら関東の一大勢力者となってしまいます。
 そんな矢先の935年、「将門の乱」が起こりました。

 きっかけは……単なる恋愛トラブルだったそうです。
 例の財産を没収した叔父達が、「息子の嫁にしよう」と思ってた女性が、将門のもとに走っちゃったんですよ。(その4年前にも、叔父の娘が「将門さまと結婚する!」と家出しちゃってるし…)
 それを逆恨みした叔父達は、将門に奇襲をかけるのですが、あっさり返り討ちにされます。
 すると別の叔父が将門にケンカを売ってきて、それを撃退したら今度は従妹が……と、芋づる式に戦闘が続いてしまったんですね。

 むろん関東の国司らは、この「内輪もめ」を止めようとしますが、叔父達じゃなく、将門を悪者扱いしたことで思いっきり逆襲を食らいました。
 勢いにのった将門は、ついでに悪徳国司を、次々と関東から追い出してしまいます。
 民衆はもう狂喜乱舞ですよ。「将門公バンザイ! いっそ帝王になって下さい!」という声が高まってゆきます。

 その勢いに朝廷は腰を抜かしました。「将門が国家転覆を企んでいる」と。
 そして940年1月、将門討伐の命令を下します。

 さて、ようやく飯母呂ですが。
 乱が起こった935年のこと。飯母呂石念(いぼろ・せきねん)率いる飯母呂衆は、将門のもとに駆けつけました。
 その理由は明らかではありませんが、将門は小角と同様、『弱者のために力を尽し、リーダーシップも抜群』という英雄です。長いあいだ、権力者から虐げられてきた飯母呂の皆さんにとって、まさに「命がけで尽くしたい主君」だったんじゃないかな…と想像してます。
 将門は彼等に、茨木の筑波山を『安堵の地』として与えます。流浪の民への、この粋な計らいに感謝した石念らは、敵の情報をさぐるスパイとして活躍しました。

 しかし940年2月14日、将門は討たれてしまいます。
 石念は将門に殉じて亡くなりますが、その直前、2人の息子にこう云い残しました。
「長男の大二郎は、京に行け。二男の小二郎は、相模に逃げろ」と。

 こっちの理由も不明ですが、周辺の資料から推測したところ、

・京都には、朝廷の情報を探っていた仲間が大勢残っていた。長男はその仲間の面倒を頼まれたのではないか。

・将門のすぐ下の弟、将頼(まさより)が、相模に逃げたところで残党狩りに斬られている。小二郎は、「将頼さまを守って相模に逃げろ」と云われてたのではないか。


 役小角につづいて、将門という主を失った飯母呂衆は、領地も地位も剥奪されて、いわゆる賤民の境涯に落ちました。多くはまたもや山陰地方へ逃れたり、漂白民として各地へ散ったそうです。
 そして──。
 
 生き別れとなった2人の兄弟は、やがて伊賀・甲賀からも一目置かれる、忍の開祖となってゆきます。

小二郎くん率いる飯母呂衆は、神奈川西部の箱根のふもと、足柄下郡風祭の風間という、山間の小さな村に住みつきました。
 ここで「風間(かざま)」と改名したのですが、後世、忍者として仕事をする時には「風魔」と名乗るようになりました。
 小二郎くんは風魔忍者の開祖といわれてます。

 風祭という地名は、現代でも「小田原市風祭」として残っており、箱根登山鉄道にも「風祭駅」があります。
 地図で確認したところ、箱根山の入口というか、裾のあたりなんですね。
 あと海のすぐ近くで、「相模湾を見下ろせる山中」でもあります。風祭駅から徒歩2分の処には、「かまぼこ博物館」もあったりします。よりによって…(笑)。
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■平安〜鎌倉時代の風魔忍者

 7世紀頃から箱根は修験道のメッカとなってました。しかし風魔はこの頃から、「戦闘集団へと転向」するんですよね。
 でもどんな理由で転向したのかが分からないんですよ。(風魔は資料が少なすぎる〜!)
 なので、またも周辺の資料から、自分なりに推測してみます…(泣)。

 この時代の関東は、ぶっちゃけ無法地帯になってました。その原因となったのは「荘園制度」です。

 律令制度によって、豪族の土地はいわば「国有地」にされてしまったわけですが。
 私有地を奪われた豪族が、そのうちシャレにならん爆発をするんじゃねーか…と恐れた朝廷は、まもなく「荘園なら作っていい」と云いだすんですよ。荘園とは、
「これから開拓する土地を、表向きは『寺院や貴族に寄進する』という風にしてくれたら、実質は豪族の私有地にしてもいい」
 という農地のことです。
 つまり寺院や、有力貴族に年貢を納めれば、その土地は朝廷に奪われない。
 そーゆー土地ならば、好きなだけ増やしてもええよ。あと役人の監視も無しにしてあげるからね、と。

 それ律令制度の意味ないじゃん! とツッコミたくなるよーな法律やけど、豪族は私有地を持てるし、寺院と貴族は何もせずに私腹を肥やせるんで、彼等にとって(だけ)は美味しい制度だったんです。

 でもどこを開墾しよう? 京の周辺は、もうほとんど手がついちゃってるし…。
 あっ、ド田舎の関東なら、手つかずの土地がいっぱいあるじゃん♪

 こうして豪族達は、せっせと関東に荘園を作りまくりまして。
 やがてこの荘園をめぐって、壮絶な土地争いを始めるんです。

 特に荒れたのが相模です。当時この地には、三浦氏や和田氏などの大豪族がひしめいてました。伊豆には、のちに鎌倉幕府を掌握する北条氏もいます。
 あんまし力の無い豪族は、互いに手を組んで「党」を結成しました。鎌倉党などが有名です。

 大小30あまりの豪族が、略奪と勢力拡大と滅亡、そして陰謀、暗殺を繰り返してたんですよ。
 しかも箱根のすぐ近くの鎌倉など、源頼朝が幕府を作っちゃったり、そこが何と「日本の中心」になっちゃったり、その源氏がわずが3代で滅亡して北条家のものになっちゃったりと、大変な事件が連続したんです。

 こんな環境では風魔さん達、おちおち箱根温泉に浸かって山伏修行なんかやってられませんよ…。

 そこで風魔は生きのびるために──おそらく、この状況を逆に利用してやれ、と考えたのではないかと思います。
 俺達の山伏兵法(=忍術)は、戦に使える。それを必要とする豪族もいくらでもいる…と。

 それを裏付ける資料として、
「この頃から風魔は、近隣で合戦が起これば、諜報、偵察、敵の後方霍乱などの仕事を請負って、銭を稼ぐようになった」
 という記述がありした。

 戦乱を怖れて山奥に引きこもるのではなく、積極的に嵐を乗り越えてゆこう。この選択が、修験者→風魔忍者を生み出したのではないかと思います。


 *余談
 党といえば埼玉にも「武蔵七党」があるのですが、その中に、「私市(きさい)」という名を発見しました。
 これ…アニメで錫高野与四郎くんをやってる、私市敦さんの御先祖ですかね? 芸名じゃないとしたら。
 埼玉北部の豪族だったそうです。加須(かぞ)市には「私市城」があり、室町時代には城主がコロコロ変わってますが、やがて風魔の主である後北条氏のものになってるんですよ。
 私市さんと風魔が、こんなところでつながってたとは驚きました)
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■足柄と筑波

 「筑波にも風魔の忍術学校があるよ」 (By喜三太)

 箱根から筑波までは、直線距離でも約130キロあります。そしてその道中には、戦でゴタついてる豪族の領地を、いくつも通過しなければなりません。
 いつ、どんな理由で、こんな離れた場所に、もうひとつの拠点が出来ちゃったのかは全くの不明です。

(だいたい方言も違っちゃうんですよね。神奈川は語尾が「だべ」で、茨木は「だっぺ」。イントネーションも変わるし。
 てことは両校の生徒が出会うと、方言合戦が勃発するわけやな。「お前の言葉は分らん!」とか云い合ってたらカワイイかもv)

 私が調べた範囲では、筑波に風魔の名が登場するのは南北朝時代(1300年頃)です。将門の乱から400年後です。

 春日顕国(かすが・あきくに)という武将がいましてね。貴族の出にもかかわらず、熊野修験道に通じており、ゲリラ戦を得意とする実戦派の大名だったそうです。
 彼は栃木や茨木の城を、取ったり取られたりしてるのですが、茨城県坂東市の逆井城(さかさいじょう)に居住してた時、
「ここに風魔の忍者集団200人が拠っていた」
 というんですよ。

 あと戦国末期になると、箱根と筑波には、ほぼ同数の風魔忍者がいたようです。筑波の逆井城はこの時期、飯沼城と名を変えてるのですが、
「1578年、風魔小太郎の子、風魔孫右衛門の忍者集団300人がいた」
 とあるんですよ。そして箱根の小田原城には、
「風魔小太郎をリーダーとする、総勢200人の忍者集団がいた」
 とあります。(ちなみに城の主は、どちらも後北条氏です)
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■後北条氏の一代目当主、北条早雲について

 箱根に住みついた風魔の皆さんは、普段は山間のせまい農地を耕したり、猟師やきこりをしたり、戦があれば「出稼ぎ忍者」をして暮らしていたわけですが。
 やがて室町時代になると、北伊勢(三重県)から相模にやってきた北条早雲という大名が、「俺の専属にならへん?」とスカウトします。将門の乱から、およそ550年後のことです。

 さてその早雲さん、なかなか興味深い人だったようです。
 若い頃は京都の幕府に仕官してて、大名になったのはなんと57歳の時。1488年、上司である今川氏の引き立てにより、相模の興国寺城(現在の沼津市)を治めるんです。
 これをスタートに、61歳で伊豆を、64歳で小田原を掌握します。相模全域を征服した時には87歳になってました。
 亡くなったのはその翌年の1519年。この時代にしては大変な長寿で、しかも「大器晩成」の典型だったわけです。

(*彼は普段は「伊勢新九郎」と名乗っており、北条姓になったのは彼の死後、つーか息子の代になってからです。
 なぜ「北条」と改姓したのかは諸説バラバラですが、
「関東で大成するには、『伊勢』という西方の名では分が悪いな。関東の名門といえば、北条氏だよなぁ」
 という憧れがあったからではないかと。
 鎌倉北条とは血のつながりが無いので、「後北条氏」と呼んで区別しとります)


 早雲は、「謀略や奇襲によって、周辺の領土を奪った梟雄」と批判されとります。確かに彼の戦法を見ると、敵が「卑怯者!」と地団駄踏みたくなるよーなものが多いんですね。
 ただ、いざ戦闘の段になると、
「女子供を傷つけるな。周辺の村を荒らすな。降伏した敵兵を殺すな」
 と厳命しとります。当時は敵地での略奪・暴行は常識だったので、その逆のことをしてたんですよ。

 伊豆を征服した時など、そこの村々で病が流行っているのを知るや、看護部隊を結成して駆けずりまわることまでやってますしね。

 そうやって征服した土地の領民を、彼は非常に大切にしました。年貢を20%も安くしたり、治安を良くしたり、穀物や金をタダ同然の利息で貸してあげたり。
 経済活性化に努める一方で、税金の無駄遣いを廃止し、自身も質素な暮らしをしてます。
 そのため、以前の領主から悲惨な扱いを受けていた領民は、「こんな領主に出会えるなんて!」と喜んだそうです。また周辺の人々も、
「いいなぁ。オラんとこの国も、早雲様が支配してくれないかなぁ」
 と羨ましがったとか。

 強引に「国盗り」をする一方で、民を慈しんだ早雲氏。なんとなく、将門公と重なる御方だったようです。

 早雲が風魔をスカウトした時期は不明です。たぶん興国寺城に来た1488年から、箱根の近所の小田原城に来た1500年頃じゃないかしら。
 スカウト理由は、彼等の卓越した忍術に感心したからだとか、箱根の険しい山中を、馬で軽々と駆けまくる技術に「すげー!」と驚いたからだ、とか云われてます。
(*乗馬技術の見事さから、「彼等の先祖は大陸の騎馬民族?」という説が生まれたそうな)


 ところで早雲氏のもとで、風魔がどんな活躍をしたのかは記録が無いんですね。
 ただ、早雲が風魔をどう扱ったのかが伺える、こんなエピソードが残ってます。

 早雲氏は国中の人々から「慈悲深い殿様」と敬愛されていましたが、ある時こんなことを言い出しました。
「盲人ほど、世の中にとって無益なものはない。一人残らず海に沈めて、殺してしまえ」
 この命令にパニックを起こしたのは、あんまや音曲を渡世にしている盲人や、盲人のいる家庭でした。
「あの殿様がそんな酷いこと言うなんてマジー!?」
 渡世の盲人は国外に逃げ出し、家庭では盲人を山奥に隠したそうです。

 しかし早雲さん、すぐに山に隠れた盲人を家に戻させ、海に沈めたりしませんでした。渡世の盲人を殺すこともなかったそうです。
 そしてだいぶ後になってから、
「早雲様は、忍者を盲人に変装させて、他国へ送り込むために狂言をしたのだ」
 という噂が流れました。

 この噂の真偽は謎のままです。ただこれが本当だとすれば早雲氏は、
「うちの忍者のためになるなら、自分の評判が(一瞬)落ちてもいいや」
 という、懐が広いんだか、人騒がせなんだかよう分からん御方だったみたいですね(笑)。

■鉢屋衆の誕生

 さて、話をふたたび940年頃に戻します。

 将門の死後、大二郎さん率いる飯母呂衆は、残党狩りの追及をかわしながら西へと逃れました。そして京で情報収集をしていた仲間と合流したわけですが。
 なぜかそのまま京近郊の、愛宕(あたご)を中心とする山中に潜伏するんですよ。
 飯母呂衆の中には山陰に逃げた者も多かったのですが、大二郎さんは石念の指示により、京に留まったといわれてます。(でもその指示の理由が分からないんですよね)

 愛宕一帯には、きこりや木細工などでほそぼそと暮らす貧しい人々がおりました。小角一派の末裔という説もあり、飯母呂にとっては同族のようなものです。
 愛宕は彼等をかくまってくれましたが、ここで困ったことが起こりました。自分達が食べてゆくだけでも精いっぱいなところへ、いきなり人数が増えてしまった。食糧が足りなくなってしまったんです。
 しかも飯母呂さん達は追われる身、「ちょっと山を下りてバイト」というわけにもいきません。きこりや細工の手伝いをするしかないけど、その程度では全員の糊口をしのぐことなど不可能です。

 捕らえられて処刑されるか、飢えて死ぬか──追い詰められた大二郎さんは、悲壮な決断をしました。
「やむをえぬ。盗賊になろう」…と。

 彼は一族の中から、忍法にすぐれた者を選んでチームを組ませ、京で略奪をさせたんですよ。
 「雲陽軍実記」に収録されている、「本朝鉢屋由来記」にはこう記されています。

「(彼等は)夜になると京都のみならず、機内各地まで忍び出て、押し込み、追い剥ぎをし、金持ちの財を奪い取ることおびただしかった。官憲が捕えようとしても、もともと忍びに慣れた者ゆえ、ここかと思えばあちらといった具合で、飛鳥のごとく立ち廻るので、どうしても捕まえることが出来ない」


 そんなある晩のこと。彼等は洛北の深泥ヶ池付近で、名僧・空也上人に出くわします。
 空也上人は刀をつきつけられ、着物を剥ぎ取られながらも、少しも動じることなく、
「わずか五十年の人生に、万劫地獄の種を蒔くのは愚かではないか」
 と静かに諭したそうです。
「好きで落ちぶれたわけはない。将門公の死によって住処を失い、家族を養うために仕方なくそうしているのだ」
 と頭領が訴えると(大二郎さんだったかは不明)、
「ならば私が、生計の知恵を授けよう」
「………」 
 飢えた一族のためとはいえ、やりきれない思いで盗賊をしていた飯母呂の皆さんは、その場で空也の弟子になることを誓ったそうです。

(空也上人は903年に生まれ、皇族出身と言われてますが、はっきりしたことは不明です。
 若くして僧となり、庶民のために橋をかけたり、井戸を掘ったり、野ざらしとなった遺体を集めて供養したりと、民の救済に生涯を捧げました。そのため人々から「市ひじり」、「阿弥陀ひじり」と崇められたそうです。
 そーいえば皆さん、こんな木像( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E4%B9%9F 
 ) を見たことありませんか? たしか教科書などにも載ってる、有名なものだったと思います) 空也上人は、四条と五条河原に粗末な小屋を建てて飯母呂衆を住まわせ、托鉢で生計を立てることを提案しました。念仏をとなえ、鉦(かね)をたたきながら施しを受けるわけです。儲けの少ない賤業ではありますが、盗賊よりはマシな「正業」です。
 しかし貧困の彼等は、その鉦を買う余裕すらありません。
「ならば鉢で代用したらいい」
 ここで云う鉢とは、ひょうたんを横に切って、漆を塗った貧しい椀のことです。
 飯母呂衆はこのアドバイスに従い、京都内を托鉢して回るようになります。鉢を叩いたので、「鉢屋」と呼ばれるようになったんですね。

 ところがしばらくして鉢屋衆が、かつて京を荒らしまくった盗賊であることがバレてしまいました。あわや捕縛、処刑されるとこだったのですが、これを救ったのも空也上人です。
 彼は村上帝に言上して、
「鉢屋に都の警備をさせたらどうだろう」
 と提案したんですよ。
 なにせ元盗賊ですから、盗みの手口は知りぬいてます。しかも忍術に優れ、「将門の乱」という激動の戦場を生き抜いたツワモノぞろいです。
 その彼等が本気になれば、都でブイブイ云ってる程度の犯罪者など敵うはずもありませんわ。

(空也上人が皇族出身であったという説は、上記のエピソードから間違いなかったようです。
 というのもこの時代は身分第一ですから。いかに徳が高くても、一介の遊行僧(浮浪者と同視されてた)が、「貴族以下は人間じゃねぇ」と思ってる朝廷に、犯罪者(しかも賤民)の減刑をゴリ押しするなんて、常識ではあり得ないんですよ。
 それだけの実力があった、朝廷を動かすだけの血筋を持っていた、と考えられます。醍醐天皇の息子だとか、仁明天皇の孫だったとか伝えられています)

 鉢屋衆の活躍によって、京の治安はめさましいほどに安定しました。
 すると今まで悪事を働いていた者達が、彼等のもとにやってきて、「俺も更生したい」と鉢屋の仲間に加わるようになります。
 結果的に犯罪者は減り、治安はますますよくなって──いいサイクルが生まれるんですね。

 この評判が全国に知れるようになると、各地の守護職や国司から、
「うちんとこも治安が悪くて困ってるんだ。鉢屋衆を派遣してくれないか?」
 と要請が来るようになりました。鉢屋衆はその求めに応じて、少しずつ全国に散らばって移り住んでいきました。

 こうして彼等は、各地の警察官として、のちの戦国時代には忍者として活動するようになってゆきます。

(ところで因幡、伯耆、出雲、石見(つまり山陰地方)の鉢屋を束ねていた人物に、鉢屋角兵衛石念という方がおるんですよ。「石念」の名が継承されていたことが伺えます)
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■尼子氏と鉢屋衆

 各地に分散した鉢屋衆の中で、もっとも有名になったのが、出雲(島根)の尼子氏に仕えた一派です。

 尼子氏はもともと、近江(滋賀県)の佐々木京極氏の一族でした。その息子の一人が、近江の尼子郷(滋賀県甲良町)に居住した時、「尼子」と名乗るようになったんです。
 んで京極氏は出雲にも領地を持ってたんで、室町時代、尼子氏を守護代(つまり代理の領主)として移住させたんですよ。

 しかし1474年頃になると、尼子清定という人が、
「本家・京極から独立する。今まで京極に納めていた税金も払わない。うちの軍資金にする」
 と言い出します。
 怒った京極氏は室町幕府に訴えました。そして1484年、幕府軍によって月山富田城(がっさん・とだじょう。島根県安来市)を攻められ、清定は追放されてしまいます。
 
 清定は各地を流浪するうちに病死。長男の経久と、弟の久幸は、「いつか富田城を奪還してやる」と誓うのですが、なにせ自分達も浪人の身。
 味方になってくれそうなのは、かつての旧臣である亀井氏と、山中氏くらいです。
 追放から1年後の1485年10月、経久は山中家をこっそり訪ね、助力を乞います。山中氏は了解してくれましたが、味方はわずか17名でした。

 このとき経久はふと、月山山麓に住む鉢屋衆のことを思い出すんですよ。
「確か彼等は、父上に仕えていたよな。俺とは面識が無いけど、味方してくれるかな…」
(*偶然にもこれは、北条早雲氏が風魔をスカウトした時期と同じだったりします)

 そこで頭目である鉢屋弥三郎、その長男の治三郎、二男の兵衛三郎に連絡。さらに旧臣にも声をかけたところ、60名ほどが集まってくれました。
 でも一国の城を落とす戦力としては、あまりにも心細い人数ですわ。
 さぁどうしようか…と考えた経久と弥三郎は、「もうすぐ正月じゃん。それを利用しよう」と思いつきます。

 鉢屋党の本職は忍者&警察ですが、毎年元旦になると、富田城で新年をことほぐ「千秋万歳(せんずまんざい)」という演芸を披露してたんですよ。城の警備が最も緩む時です。
 
 1486年元旦、午前3時。鉢屋衆は未明の闇の中を、堂々と城の大手門から入城しました。衣装の下に甲冑を着込み、手槍や刀を隠し持ってです。
 そして笛や太鼓を鳴らしながら、
「あらめでたや、五十六億年七千万歳、弥勒の出世、三会の暁」
 と賑やかに舞い踊ったんですね。
 城内の者は、おお今年もやってきたー♪ と見物に集まり、やれ酒だ雑煮だと陽気にはやし立てました。

 その時。大みそかから城の裏手にひそんでいた経久は、火薬を爆発させて城内をパニックに陥れます。そして鉢屋の手引きにより、あちこちに放火しながら城中に切り込みました。
 
 当時富田城を治めていたのは、塩冶掃部介(えんや・かもんのすけ)という、京極氏の家臣です。彼は肝の据わった人物で、突然の奇襲にうろたえる将兵を鼓舞しつづけました。
 しかし敵の猛攻に押されて力尽き、ついには妻子を殺して自らも自害してしまいます。
 …こうして経久は富田城を奪還しました。28歳だったそうです。
 
 鉢屋党はこの功績により、本丸の北にある鉢屋平に長屋を与えられて住み、「やぐら下組」と呼ばれるようになりました。
 そして今まで賤民階級だったのが、正式に武士の身分となり、領地も与えられます。
 以来鉢屋衆は、尼子氏の専属となり、奇襲攻撃を得意とする忍者として活躍するようになります。
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■おまけ・尼子経久氏の人となり

 経久氏について調べるうちに、面白いことに気づきました。この人、北条早雲氏に似てるなぁと。
 敵に対しては容赦なく謀略をかますけど、家臣には優しいし、無欲だし、しかもおちゃめな処があるんですね。

 たとえば家臣が経久の持ち物を褒めると、「そうか! そんなに気に入ったか!」と喜んで、どんな高価なものでも、すぐにその家臣に与えちゃうんですよ。
 そのため家臣たちは、「あまりにも申し訳ないから、褒めるのはやめよう…」と、主君の持ち物を無言で(爆笑)眺めるだけにしたそうな。

 あるとき家臣の一人が、「庭の松の木なら大丈夫だろう」と悪戯心を出し、松の枝ぶりをほめまくったところ、なんと経久はその松を掘り起こして渡そうとしました。周囲の者は仰天して、
「やめてぇぇ! そこまでしなくったって!」
 と必死に止めましたが、それでも経久は諦めず、とうとう切り倒して薪にして渡してしまったそうです。

 冬になれば、自分の着物をひょいひょい家臣に与えてしまうため、薄綿の小袖一枚で過ごすこともあったとか。…これで風邪でも引かれたら、家臣はたまったもんじゃなかったでしょうねぇ(笑)。

 尼子氏は基盤が弱く不安定な大名だったので、「金品で家臣をつなぎ止めていたのさ」という意地悪な意見もあります。
 しかし上記のエピソードを見る限りでは、そういういやらしい打算は感じられないんですよね。
 むしろ、「何やってるんですかアンタはー!」と慌てふためく家臣見たさに、面白半分にやらかしてたんじゃあないかと(笑)。

 先にも述べたように、鉢屋忍者が尼子氏に仕えた時期と、風魔忍者が北条氏に仕えた時期はほとんど同じです。
 そして彼等の選んだ主君もまた、似たような人物だった…。面白い偶然だなぁと思いますわ。

■戦国時代の風魔忍者

 さて後北条家に仕えることとなった風魔忍者。彼等は1495年ごろから、1590年に北条家が滅亡するまでの100年間、主家を蔭から支え続けます。
 そんな当時の風魔には、どんな特徴があったのかといいますと…

・約200名いた。(もっと多かったという説もあるけど、精鋭部隊はこの人数だったらしい)

・強盗、窃盗、山賊、海賊(あれま!)と、それぞれの専門グループに分かれていた。

・ゲリラ戦法…中でも「疾風のごとき現れては消える」奇襲攻撃を得意とした。

・荒々しいと同時に、用心深さと強い結束力を誇っていた。

・馬術に優れ、険しい箱根山中を、平野のように乗り回すことが出来た。

・忍器や、鉄砲を使ったという記録が無い。ほとんどが刀や槍だった。

(これは風魔忍術が「攻撃優先」だったせいではないかと。参考までに戸隠忍術の特徴を挙げると、
「相手の戦闘力を奪うという守備優先だったので、独自の武器をたくさん発明していた」
 とあるんですよ。つまりその…殺るだけなら刀一本あればいいと(汗)。
 鉄砲を使わなかった理由は、これまた推測ですが、火縄銃は撃つまでに手間がかかるため、風魔が得意とする奇襲攻撃には向いてないからじゃないかと。
 草むらに隠れて一発ドンと不意打ちをかますのには有効だけど、その後はむしろ、重くて邪魔になるから…だったとか?)

・風魔のリーダーは、代々「風間小太郎」と称しており、忍者としての通称は「風魔小太郎」だった。

(『風間出羽守』という名で、たびたび北条家の文書に登場しとります。
 基本的に城仕えの忍者は、「身分の低い傭兵扱い」だったのですが、小太郎さんは武士扱いされており、国政にも参加していたそうです)
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■五代目・風魔小太郎

 風魔リーダーの中で、歴代最強といわれるのが五代目風魔小太郎です。
 北条2代目の氏綱(うじつな)、3代目の氏康(うじやす)、4代目の氏政(うじまさ)と、5代目の氏直(うじなお)に仕えました。
 没年は1603年とはっきりしてるのですが、生年は不明です。ただ2代目の氏綱は1518年〜1541年、つまり23年間という長い期間、当主を務めてるんですよ。
 なのでおそらく、氏綱さんの当主期間の、後半に生まれたんじゃないかな? と推測しとります。

(*上記の情報から推測混じりの計算をしてみたところ、
「1626年に生まれ、15歳で五代目となった。(←つまり1541年ギリギリに襲名した)。
 享年は75歳だった」
 というのが最も無難なセンかなーとなりました。…当たってるかなぁ(汗))


 彼の容姿については、
「身長216センチの超マッチョ。頭は長くて鼻が高く、眼は極端に吊り上がり、黒髭を生やし、口は大きく裂けてて、牙も4本生えてて…」
 とムチャクチャな描写が残ってるのですが、これを書いたのは三浦浄心という、後北条氏の旧臣です。

 彼は北条家が滅びたのち、江戸時代になってから作家になったんですね。んで「北条五代記」という歴史書を手がけた時、風魔忍者の活躍も書き残してくれたのですが。
 なにせ江戸時代の小説は、「正確さは二の次。とにかくド派手に、大袈裟に!」が主流だったもんですから〜(汗)。
 おそらく浄心さんは、小太郎氏がいかに凄味のある忍者かを強調したいあまり、こんなありえねー描写にしちゃったんじゃないかなぁと。

 ですから本当の小次郎さんは、
「長身でたくましく、面長で、彫りの深い顔立ち。犬歯の長い、荒々しい雰囲気のヒゲ男」
 くらいだったと…思いたいです…。

(*日本人離れした風貌だったことが伺えますが、もともと風魔忍者は渡来人の血を引いてる上に、相模もまた古代から、大陸からの移民者が多い地だったんですよ。渡来人の多くはアジア系やけど、インドやペルシャ周辺の民族もいたとか。
 たまたま小太郎氏は、その先祖の血が濃く出てしまったんじゃないでしょうかね?)
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■黄瀬川の戦い

 後北条氏は戦国末期、関東〜信州を征服するための戦を繰り返してます。
 年表を見て驚いたのですが、ほとんど毎年戦をしてるんですね。凄い時には「年に2回」、「同時に数か所で」戦をしてたし、北条家所有の城は100もあったそうです。当時の風魔忍者の多忙さが伺えますわ。
 「北条五代記」には、そんな彼等の戦いぶりがいくつか記録されとります。

 1581年、北条5代目・氏直の時のこと。甲斐(山梨県)の大名、武田勝頼が、北条に攻め込んできました。
 両軍は静岡県の黄瀬川をはさんで布陣したのですが、風魔は4隊にわかれて、雨の夜も、また強風の夜でもかまわずに、黄瀬川の激流を渡り、武田の陣営を奇襲しまくったそうです。

 たとえば最初の2、3回は、馬に藁人形を乗せて武田の陣に追い込むんです。んで敵が「また次も藁人形だろう」と油断したところで、今度は自分達が夜討ちをかけるとか。
 そこかしこに火を放って、食糧や武器を盗んだり。馬を盗んでいくときは、馬の横腹に貼り付き、馬上に人が居ないという状態で走らせました。敵の矢を避ける乗馬法だったんでしょうね。

 また敵兵の集団に紛れ込んでは、いきなり鬨の声をあげ、「なぜそこに風魔が!?」と仰天する将兵に襲いかかることも。
 そのため武田軍はパニック状態となり、同志討ちが続出したそうです。部下が上司を殺し、子が親の首を切るという惨状もあったとか…。
 兵の中にはあまりの罪深さに愕然とし、のちに僧侶になる者もいたと言います。

 やられっぱなしでたまるかと、ある晩武田の兵士10名ほどが、引き揚げる風魔に紛れ込み、五代目小太郎氏の殺害を試みたことがありました。
 ところが、夜闇なんでバレないだろうと思いきや、小太郎氏はいきなり松明をつけさせたんですね。
 その瞬間、風魔たちは一斉に声を出しあいながら、さっと立って座る、という動作をしました。「立ちすぐり・居すぐり」をやったんですよ。知らない武田兵はあっという間に見破られ、殺されてしまいました。

 連日のように風魔に奇襲された武田軍は、夜もおちついて眠ることができず、北条勢と一戦もまじえることなく退却してしまったそうです。


(*ところでこんな文献を見つけました。1661年に書かれた『古老軍物語』の四巻に、
「黄瀬川の戦いのとき、北条軍に甲賀出身の風間三郎太郎という、並びなき大力の勇者がいた。忍びの上手で変幻自在、さんざんに武田軍を苦しめた」
 という話が載ってるんだそーです。甲賀と風魔は仲悪いとか云ってたけど、どういう経緯で三郎さんが風魔忍者になったのか、気になりますねぇ)
 
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■川越夜戦

 もうひとつ、私の地元(埼玉)にある、川越城のエピソードを御紹介します。

 川越城は戦国時代、関東を制圧するのに重要な城とされていました。そこで北条氏は1537年に、上杉氏からここを奪ったんですよ。
 ところが1546年、ふたたび上杉氏はここを奪還しようと、他の大名らと手を組み、8万の連合軍で川越城を包囲します。

 このとき三代目当主であった北条氏康(うじやす)は、今川氏との戦いのため駿河(静岡)にいたのですが、
「城を明け渡しますから、城兵の命だけは助けてやって下さい」
 と和睦を申し込んで時間稼ぎをしつつ、風魔忍者に敵情視察を命じます。
 その忍者というのが、二曲輪猪助(にのくるわ・いすけ)です。大変な俊足の持ち主でした。

 猪助は5か月以上にもわたって敵陣に出入りし、逐一報告をしとりました。ところが戦が長期化したことで、ついに敵にバレてしまうんですね。
 逃げ出した猪助は、小田原を目指して猛ダッシュ。それを追いかけたのが太田犬之助(おおた・いぬのすけ)という忍者です。彼もまた足の速さが自慢だったんですよ。

 2人はなんと数十キロも追いかけっこをしたわけですが、海辺にたどりついたところで、さすがの猪助さんも倒れそうになりました。もうアカンわ、と思ったその時、農家の庭に馬がつないであるのに気づきます。
 猪助は馬を盗んで飛び乗るや、「あっコノヤロ!」と地団駄を踏む犬之助を振り切って、小田原城に無事帰還しました。

 その直後、上杉の陣の前に、こんな落首(狂歌)が張り出されたそうです。

「狩りだされ 逃げし猪助は卑怯者 よくも太田(追った)が犬之助かな」

 馬なんか使いやがって卑怯者〜、と犬之助が罵倒したんですよ。
 んなこと言っても忍たるもの、「目的のためなら手段を選ばず」がモットーですから。それがどーした、馬使いましたけど何か? と受け流しても良かった…のですが。
 猪助さんは、「同じ忍者として風上にも置けない奴」とバカにされたことが、よっっぽど悔しかったのでしょうね。

 このまま黙って引き下がれるかぃ。彼はわざわざ犬之助を探し出すと、俊足の持続比べを挑みます。
 そして猪助が勝ち、犬之助は息が続かず死亡してしまったそうな…。

 猪助の働きによって、正確な情報を手に入れることの出来た北条氏は、 8千の精鋭軍を率いて川越城の救援に駈け付けました。
 そして「うちは8万もいるから」と油断していた上杉の包囲軍へ、奇襲攻撃を仕掛けます。 真夜中に不意をつかれた上杉連合軍は、激戦の末に敗退。北条氏は川越城を守ることができたそうです。

(*川越歴史博物館には、川越城に仕えた忍者のものと思われるクナイ、手裏剣、鎖かたびら等が展示されています。昭和になって、城下町の工事をした際に偶然発見されました。
 川越城は複数の大名に所有されたので、どこの忍者のものかは分からないそうです。ただ風魔の忍器は現物も記録も残ってないので、これが風魔のものと判明すれば、非常に貴重な資料になりますよねv)

■その後の風魔忍者

 北条家が滅びたのは1590年、五代目氏直(うじなお)の時です。

 彼はその10年前(1580年)に、19歳で家督を継いだ人で、「戦争よりも外交戦略で生き残る」というタイプでした。優れた判断力を持っていましたが、虚弱体質だし、実権は隠居した父の氏政が握りっぱなしだし、その父は強硬派だしで、なかなか苦労の多い方だったようです。

 このころ北条氏は、関東を統一しその主となる、という目的を持ってました。しかし新しい天下人となった豊臣秀吉が、北条に臣従を求めてくるんですね。
 父や叔父たちは「断固反対!」と主張、穏健派の家臣と大ゲンカになります。板挟みとなった氏直さんはさんざん悩まされますが、そこへ現れたのが家康でした。
 じつは氏直の妻の父親が、家康だったんですよ。
 義父の説得を受けた氏直は、「いちおー臣下になります」と返事します。

 ところが1589年。北条の家臣が何を思ったのか、「群馬の名胡桃(なぐるみ)城を奪えば、殿が喜ぶに違いない」と、勝手に攻撃しちゃうんですよ。
 名胡桃城は秀吉の家臣である、真田家の持ち城です。そのため秀吉は「反逆だ!」と怒り狂い、北条討伐を決定します。

 豊臣の軍勢は約20万人。その中には義父の徳川家康もいました。(あと服部半蔵率いる伊賀忍者も!)
 北条方はわずか5万余でしたが、城を100ヶ所も持ってるんで、その全てを籠城させるという作戦に出ます。
「今まで何度もその方法で勝ってるんだから、今回も大丈夫だろう」
 と思ったんですね。しかし豊臣軍はそれを蹴散らかすほどの勢いを持ってたんですよ。
 北条の城は次々と攻め落とされ、1590年、ついに本拠地である小田原城も開城に追い込まれます。

 強硬派だった父や叔父らは切腹を命じられました。氏直さんも、
「私の命と引き換えに城兵は助けてやって欲しい」
 と申し出ますが、奥さんが家康の娘だったことで助命されます。
 
 氏直はいったん出家するものの、翌年には赦免され、大阪の屋敷を与えられて、一万石の小さな大名として返り咲きます。
 離れ離れになっていた妻の督姫も大坂へ呼び寄せますが、それから間もない1591年11月に病死。まだ30歳の若さでした。
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 風魔は小田原城が落ちた直後、姿を消したそうです。そして江戸の町が作られ始めた時、盗賊となって現れました。

 五代目小太郎に率いられた風魔は、民家、商家、武家をとわず手当たり次第に略奪と惨殺を繰り返したそうです。これは北条家の仇となった家康への復讐でもあり、失業した200人の部下を養うためもあったようです。かつての飯母呂と同じやな…。
  また新興開拓地の江戸には、地方からの労働者がどっと流れ込んでいたので、治安警備が追いつかない状態でした。盗賊にとって働きやすい環境だった、というのもあります。

 ところが同じ時期、高坂甚内(こうさか・じんない)という人も、江戸で盗賊のリーダーとなってました。彼は「黄瀬川の戦い」の武田家に仕えた忍者で、武田滅亡後、やはり盗賊となってたんですよ。
 両者は、江戸という美味しい「稼ぎ場」をめぐって対立することになりました。

 家康は盗賊の横行に手を焼き、大版金10枚と、「過去の罪は問わない」という条件で盗賊の一掃に乗り出します。
 これを知った甚内は、風魔一党の隠れ家を幕府に密告。小太郎とその仲間たちは捕えられ、1603年に処刑されました。

 高坂甚内はその後も、何食わぬ顔で盗賊を続けましたが、彼もまた1613年に処刑されてます。じつは彼の手下に、鳶沢陣内(とびさわ・じんない)という人がいまして。(2人の名が「甚内」なのは偶然です)
 この人はなんと、風魔小太郎の元部下だったんです。んで小太郎の死後、高坂の仲間になってたのですが、その彼が幕府に密告したんですね。

 鳶沢が高坂を裏切った理由については、風魔小太郎を殺された恨みだとか、いやいや彼は風魔から自由になったのを喜んでたらしいぜ、単に金がたまったから、足を洗うために密告したんだよ、などと諸説あります。

 鳶坂陣内はその後、幕府と交渉して、日本橋の広い埋立地をもらいます。
 そこで古着屋をはじめると同時に、「盗品を売りに来る盗賊をチェックして幕府に通告する」という副業もしました。もと忍者ですから、そういうのには鼻が利いたんでしょうね。
 風魔の仲間の多くも、彼にならって古着屋をはじめたそうです。

 多くの古着屋が建ち並ぶようになったその町は、「鳶沢町」と呼ばれるようになり、やがて「富沢町」と改名されます。
 この、風魔忍者が中心となって作った町は、現在は「中央区富沢町」として残ってます。
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 もうひとり、風魔忍者の中で生き延び、出世した者がいます。庄司陣内…はいこっちも「陣内」さんなんですよ(不思議)。

 彼は忍者をやめたのち、「甚右衛門」と名乗るようになり、江戸市内に点在する売春宿を、1ヶ所に集めることを思い立ちました。
 というのも当時の江戸は建設ラッシュで、大勢の労働者が集まっており、その彼等を相手にする遊女らが、好き勝手な場所で商売をしてたせい。江戸全体の風紀が乱れてたんです。

 そこで庄司氏は1617年、
「遊郭以外で売春はしません」
「不審者を見つけたら通告します」
「遊女の衣装を華美にしません」
 などという誓約書を幕府に提出し、日本橋の吉原町に遊郭を作ります。彼はそこの総責任者となり、莫大な財産を築いたそうな。


 …飯母呂時代からの彼等をずっと追ってて感じたのは、風魔忍者とは「居場所を求めてさまよっていた人々だったのだろうか」、ということです。
 そもそも日本に渡来したのも、当時の大陸や朝鮮半島では戦乱が続いてて、そこから命からがら逃げ出してきたためなんですよね。
 んでやっと山陰に落ち着いたと思えば、朝廷に迫害されまくって。自分達を受け入れてくれた小角や将門、ついには北条家をも奪われてしまって。

 太平の世を迎えた時、おそらくかなりの高齢となっていた五代目小太郎氏は、その時代の変化に対応出来ず…というよりもむしろ、対応を拒絶するかのように盗賊となり、処刑されています。
 しかしその一方で、無事に生き延び、出世した者もいたわけです。ということは他の風魔さん達の中にも、その後ちゃんと生きる道を見つけて、静かに暮らした人がたくさんいたと思いますよ。記録に残されていないだけで。

 現在「風間」姓を持つ方々について、関東を中心に調べてみたところ、ものすごく多いことに驚きました。
 (ただ「風間」姓は他にも、長野から派生したものあるんですよ。風間神社に仕えてた人達です)

 もしも皆さんの近くに「風間」という方がおりましたら、半々の確率で、風魔忍者の末裔かもしれません…v
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■鉢屋衆のその後

 鉢屋衆については「3」での活躍以降、ほとんど記録が見つかりませんでした。そこで主家の尼子氏の興亡をたどってみようと思います。

 経久が城主となった1486年以降、尼子氏は拡大の一途をたどっておりました。20年後の1521年には出雲、石見、備後、伯耆など、最大で山陰山陽11カ国の太守となり、尼子氏の最盛期となってます。
 むろんその裏には鉢屋衆の活躍がありました。奇襲やだまし討ちの他に、鉄砲も得意で、多くの戦闘に参加していたそうです。

 しかし経久が1537年に戦死し、息子の晴久(はるひさ)が24歳で家督をついだ頃から陰りを見せ始めます。

 当時、安芸(あき。広島県西部)に、毛利元就(もうり・もとなり)という戦国大名がいました。彼は尼子氏に主従してたのですが、経久の死後からだんだん背くようになるんです。
(ちなみに彼も多くの忍者を抱えており、その中には鉢屋衆もいました。これは尼子氏を裏切ったわけではなく、平安時代に各地に分散した者の末裔が、たまたま毛利家に仕えていたようです

 元就は幾人もの忍者を晴久のもとに潜入させ、内部分裂を企みました。ある者は酒や遊興をやたらと勧め、またある者は晴久に、
「叔父の国久様が謀反を企んでます」
 と吹き込んで、2人の仲が悪くなるよう仕向けました。国久は尼子家にとって非常に頼もしい「戦力」だったのですが、晴久は伯父を殺してしまい、戦力を一気に低下させてしまいます。

(毛利家が忍者を多用していたということは、おそらく尼子家の鉢屋衆も、必死に対抗しまくってたのでしょうかね? 忍同士の暗躍が、両者の間で数えきれないほどあったと思いますわ)

 晴久氏は1560年に急死。息子である義久(よしひさ)が家督を継いでしばらくした頃、元就は戦と謀略を連発して、尼子軍の将兵を寝返らせたり、家臣が逃亡するように仕向けます。
 そして1566年、義久は降伏を余儀なくされ、ここに戦国大名尼子氏は滅亡しました。
 
 …ということは風魔に24年先んじて、鉢屋衆もまた主家を失ったんやな…。

 ただ調べてるうちに知ったのですが、鉢屋衆は古代から長い年月をかけて、ものすごく多種多様に分散した一派なんですよ。
 忍者だけじゃなく、空也聖人の志を継いで遊行僧となった者、笛や舞いなどの芸能関係、警備や警察関係、武器や生活必需品の技術者になった者が多いんです。

 例えば「笛師銀兵衛(ふえし・ぎんべえ)」。この人は笛作りをなりわいとしてたのですが、1486年、例の「月山戸田城奪還」の際に、鉢屋の一隊のリーダーになった時、こう言い放ったそうです。
「われらの助力によって侍の家が立ち直り、その後に廃れようが鉢屋の知ったことではない。要は鉢屋の力を国中に知らしめ、次のどでかい仕事を待つことだ」
 そして彼は戸田城の奪還に成功すると、尼子氏のスカウトを蹴って笛稼業に戻ったそうです。何というか、ものすごく独立心の強い、割り切った人だったんですね。

 ですから「失業」しても、一族の誰かをたよって、別の職業につく者も多かったのでは…と推測してます。

■おまけ1。皆さん御存知でした!?

 尼子氏について調べてたら、えっと驚く話にぶつかりました。横溝正史の「八つ墓村」って有名ですよね。
 でもその村名の由来が、尼子氏に関係あったこと…知ってました?(汗)。

 ときは戦国時代。ある小村に、8人の尼子氏の落武者が財宝を持って逃げ込んできたんです。村人達は最初、彼らを快くかくまってくれるんだけど、そのうち財宝と褒賞に目が眩らんで、武者達を皆殺しにしてしまいます。
 武者の大将はいまわの際に、「この村を呪ってやる、末代までも祟ってやる!」と呪詛の言葉を残しました。
 
 その後、村では奇妙な出来事が相次ぎ、祟りを恐れた村人たちは、野ざらしになっていた武者達の遺体を手厚く葬るとともに村の守り神としました。
 これが「八つ墓明神」となり、いつの頃からか村は、「八つ墓村」と呼ばれるようになったそうな…。
 
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■おまけ2。錫高野与四郎くんの人生

 拙サイトでは「落乱」時代を、フランキ砲が伝来した1578年頃と仮定しとります。
 んでこの年に与四郎くんが15歳だったと仮定して、彼の人生環境を推測してみました。

1571年、与四郎くん8歳。
 3代目氏康 53歳で病死。「上杉との同盟を見限り、決裂していた武田と再び同盟を結ぶように」という遺言を残す。
 息子である4代目氏政は遺言どおりにする。

1573年、与四郎くん10歳。
 織田信長が将軍・足利義昭を追放し、室町幕府滅亡。

1576年、与四郎くん13歳。
 小田原にやってきた外郎家という薬売りが、「ういろう」という薬を、2代目氏綱に献上。外郎家の独占販売を許可する証文が発行され、小田原の商業政策に一役かった。
 当時の「ういろう」は口中清涼剤で、お菓子の「ういろう」とは別モノだった。

1477年、与四郎くん14歳。
 5代目氏直、16歳で元服。

1578年、与四郎くん15歳。
 第一次天生伊賀の乱。

1580年、与四郎くん17歳。
 4代目氏政、43歳で隠居。氏直が19歳で5代目となる。

1581年、与四郎くん18歳。
 黄瀬川の戦い。第二次天生伊賀の乱。

1582年、与四郎くん19歳。
 本能寺の変。
 氏直はこれに乗じ、信長の家臣の滝川一益(もと伊賀忍者!)が治めていた上野(群馬県)の一部を奪う。

1583年、与四郎くん20歳。
 徳川家康の次女・督姫が、氏直の妻となる。

1589年、与四郎くん26歳。
 豊臣秀吉が北条に宣戦布告。北条方は、100ヶ所に及ぶ城々に籠城を命じる。

1590年、与四郎くん27歳。
 北条氏滅亡。氏直は高野山で出家する。
 家康、静岡から江戸に引っ越す。服部半蔵もこれに同行。

1591年、与四郎くん28歳。
 氏直、罪を許される。1万石の大名となり大阪に暮らすが、11月4日に病死。

1600年、与四郎くん37歳。
 関ヶ原の戦い。

1603年、与四郎くん40歳。
 家康、江戸幕府を開く。五代目風魔小太郎、処刑。

1613年、与四郎くん50歳。
 風魔小太郎を密告した向坂陣内も、処刑。

1614年、与四郎くん51歳。
 大阪冬の陣。

1615年、与四郎くん52歳。
 大阪夏の陣。豊臣家が滅び、徳川家の天下となる。

1617年、与四郎くん54歳。
 もと風魔忍者の庄司陣内、吉原に遊郭をつくる。


 与四郎くんの生まれ育った足柄は、険しい山に囲まれ、気候の厳しい土地ですが、空気は澄んでるし薬草の宝庫だし、どこからでも富士山が拝める風光明媚な場所です。足柄温泉は、なんと万葉集にも載ってるくらい有名な温泉だったりします。
(露天風呂で全裸ではしゃぐ与四郎くん…おうっ☆(笑))

 また近くの小田原城下は、多くの商店が並ぶ賑やかな町でした。ときどき山を下りてクラスメートと団子を食べたり、買い物を楽しむこともあったんじゃないかなv
(ちなみに、かまぼこが小田原名物になったのは江戸時代から。…土井先生、箱根に行くなら今のうちです(笑))。

 しかし同時に、彼の仕える北条氏は、周辺の大名とひっきりなしに戦をしていました。与四郎くんの生まれた年から、北条家が滅亡するまでの30年近くは、ほとんど毎年のように戦をしてると言ってもいい状態です。
 そのため風魔もまた、つねに暗殺や陰謀を警戒する、緊張した日々の連続だったと思います。

 そして27歳の時に主家が滅び、以後、多くの忍者が職を失う時代へと突入してゆくんですね。
 忍として最も脂の乗り切った時期に…。さすがの彼も呆然自失となったのか、薄々こうなることを悟っていたのか…。

 私としては、忍術学園の教師として再出発して欲しいなぁと思ってます。あの学園長のことですから、江戸も幕府もなんのその、
「忍術はいかなる時代にも必要な技術じゃ!」
 とのたまって、悠々と存続させていそうですもん(笑)。
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■おまけ3。錫高野姓の由来について。

 茨城県中部の山間部に「錫高野村」があるんですよ。筑波よりもかなり北の方です。
 このあたりは大昔から錫や銅が採れ、戦国時代には金銀も採掘されてました。修験道も盛んです。

(錫はキラキラ輝く白銀色で、酸化や腐食に強いため、主に飲食器として重宝されました。茶壷、神社で使う御神酒徳利、高杯など。
 あと銅鏡を作る時にも、「美しくて錆びにくくなる」ということで添加されてます。)

 ただ錫高野という地名になるのは江戸後期で、それ以前は「高野村」でした。1842年ごろ、水戸藩主である斉昭がここを視察に訪れ、
「ここは太古より、大砲や小銃などの武器製造に必要な錫の産地だから、『錫高野村』と称するように」
 と命じたのだそうな。

 てことは、与四郎君は茨木出身だった。あるいは御先祖が茨木の人だったわけですね。  

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コメント
 
01. 五月晴郎 2011年10月12日 19:21:21: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
忍たま、って
「忍たま 乱太郎」
http://www9.nhk.or.jp/anime/nintama/
です。

02. 2011年10月13日 11:24:24: dB8o69mlVg
これは面白い、よい勉強になりました。

03. 五月晴郎 2011年10月15日 15:11:20: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
「水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。」

水戸道中3馬橋〜我孫子

平成17年10月30日(日)

―重文を股くぐり仁王像・馬除土手の面影もない小金牧―

(平成17年11月7日更新)

【本日の行程:街道距離14km】

馬橋駅(9時30分)→萬満寺(9時55分)→小金宿(11時15分)→日光東往還との追分(14時30分)→柏神社(15時10分)→我孫子駅(17時20分)


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・9時30分馬橋(まばし)駅に降り立つ。今日は一日中曇りの天気予報だ。前回真っ暗になったので、道を馬橋駅入口まで戻り、馬橋という地名の由来となった馬橋を見たが、水路のような川とともに何ら風情は感じられない。

・右手東京ベイ信用金庫の前に「栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)の居宅跡」と書かれた松戸市教育委員会が立てた白い案内標識がある。「旧水戸街道繁盛記」には「大川立砂」となっているが、東葛地方の有名な俳諧人で親子ほどの年の差があった小林一茶から爺と慕われ、一茶が度々訪れている。

・その向いに分家の大川米店があったはずだが、マンションとドラッグストアになっていて、店の人も知らない。少し離れた店の人が確かにあったと話してくださった。少し行って左手に大川の表札の旧家、萬満寺の向いに大川病院、その先に大川歯科があるが、関係があるのだろうか。

・道は萬満寺に突き当たる。萬満寺の仁王門の両側を守る仁王像は、眼光鋭く、巨大で筋骨隆々の体躯が黒光りしており、迫力満点だ。国の重要文化財に指定されている。毎月月末、右の仁王像の股くぐりで賑わうそうで、昨日まであったというから惜しかった。わずかの隙間しかないが、本当に大人がくぐれるのだろうか。

萬満寺仁王像(国重文)

・萬満寺を右に曲がってゆるやかな上り坂となる。6号線に合流する八(はち)ケ崎交差点の角右手に文化3年(1806)の道標がある。「左水戸街道」「右印西道」と刻む。

・そのまま6号線の右手を歩いていると、安楽亭の先に思いがけず松戸市教育委員会の「一里塚」の案内標識が目に飛び込んできた。予期せぬ発見にうれしくなる。

・二ツ木交差点の一つ先信号左手に蘇羽鷹(そばたか)神社がある。鳥居の右手にある天保11年(1840)の出羽三山等供養塔には「松杉をほめてや風のかをる音 はせを」と刻まれているのを発見した。芭蕉句碑だ。これも予期せぬことで、大発見をしたような気になる。境内には力石もある。神社の裏は、縄文時代前期(6000年前)の二ツ木向台遺跡になっている。

蘇羽鷹神社

・道は神社の向いの二股を右に入っていく。分岐点に「水戸街道」の案内標識があり、「現在地から北方の6号線との交差点までの約900mは当時の道形を残しています。」と書かれている。

・少し先、武蔵野線のガード下をくぐって行く。なるほど、幹線道路の喧騒から解放されて静かではあるが、大きなマンションが建ち並び、昔の風情はほとんど感じられない。けやき通りを横切って坂を上っていくと左に江戸屋酒店がある。この向いにも水戸街道の案内標識がある。この辺りはやや旧道の面影を感じる。

江戸屋酒店付近(右に「水戸街道」標識)

・国道6号の交差点に突き当たり、左に寄り道すると、常行院がある。何故か三つ葉葵の紋がある。墓地入口には、宝暦年間の古い六地蔵が並ぶ。

・国道6号の交差点に戻り、国道6号を横切って進む。

・暫らく行くと、右手に、新しいが門構えの立派な永妻家がある。家の前の案内板によると、屋号「あめや」で、水戸街道小金宿で古いのれんを誇る飴の製造販売業者だった。先祖には、大川立砂の門人もいて、小林一茶も宿泊したという。

・左手に一月(いちげつ)寺がある。鎌倉時代初期の創建で、江戸時代には、青梅の鈴法寺とともに関東地域の普化宗諸派を統括した。虚無僧で有名な寺だ。

・左手の古い連子格子の鈴木家は、江戸時代は玉屋という屋号で小金宿の旅籠を営んでいた。この建物は徳川時代後期の旅籠の原形をとどめているという。

小金宿旧旅籠玉屋

・水戸藩専用の本陣であった日暮玄蕃(ひぐらしげんば)の家は、小金小学校より約10m南というので探してみたが、面影はなく、人に聞いても知らなかった。

・小金小学校バス停前、梅澤家の庭には、よく見ると、茂みに隠れるようにして、「明治天皇小金宿御小休所」と書かれた碑が建っている。これも大発見だ。

・その先左手東漸寺は、参道が長く、本堂までに三つの門がある立派な寺だ。ここにも三つ葉葵の紋がある。関東十八壇林の一つの名刹だ。

東漸寺

・道は、サティの前の交差点で右に曲がる。その右手北小金駅方面の側に文化5年(1808)の大きな道標がある。「平賀本土寺」と書かれており、北小金駅方向に直進すると、常盤線の先に本土寺がある。

・ここで一歩は、サティに飛び込んだ。さっきからトイレを我慢していて破裂寸前だったのだ。

・スッキリしたところで、綿貫書店に行ってみた。御主人は、野馬奉行の綿貫夏右衛門の子孫だという。「元は「月見里」と書いて「やまなし」と呼びました。桓武天皇から続いた家系でしたが、家康から綿貫という姓をもらいました。私で15代目です。綿貫家はさっきのサティの向い辺りだったといわれています。私は教師をしていましたが本屋は私の代で始めました。よくいろんなことを聞いて来られます。古文書類は、県の文書館に預けました。私は古文書が読めなくて・・・。」古文書というのは、大学で勉強しても、実際に庶民の字は、崩し方に個性があってなかなか読めないそうだ。「野馬除(よけ)土手?水戸街道沿いには残っていませんね。」「日暮玄蕃の家?梅澤家の隣辺りでした。子孫に遊び人がいて歌にまで歌われています。小金小学校入口の少し南の東側にある大塚家が屋号は井筒屋といいますが本陣だったと名乗っています。」と、地図を書きながら話に夢中になって、お客さんの釣り銭を間違えてしまう始末。これでは商売の邪魔だと、まだまだ聞きたい気持ちを抑えて退散した。

・再びサティに戻り昼食。サティの2階とデッキでつながる向いのビルに小金宿と小金牧の由来の解説が書いてある。小金牧は、古代律令制の官牧が起源で、徳川家康は、古代以来の牧場を整備、野田市から千葉市花見川区に及んだ広大な土地の小金牧の管理を綿貫氏に任せたのが野馬奉行の綿貫家の起こりだ。

・サティ前の右折から再スタート。右折した直後左手に道標が二基ある。新しい方は「右 水戸道」「左 なか連山道」、古い方は「右水戸海道」「明和五年」(1768)と読める。

・小金交番の交差点を横切ると銀杏並木になり、左右はマンション群だ。下り坂が続き、上り坂になってまもなく根木内交差点で6号線を横切る。

・根木内交差点の次の交差点から先は下り坂になる。

・根木内城址橋を渡ると緩やかな上りになり、道が左に曲がって右に大きく曲がる。右の角に「馬頭観世音」の文字塔が倒れている。その横に地蔵がある。

・再び左に大きく曲がる右手に、須賀工業の研修所があり、その下に宝暦12年(1762)の青面金剛と享保9年(1724)の庚申塔がある。その先のバス停に「庚申塚」とあるのはこれのことか。

庚申塚

・左手に行念寺がある。元禄5年(1692)の如意輪像などがある。

・中新宿(なかしんじゅく)バス停を過ぎ、いつの間にか流山市に入っている。左手に、青面金剛と聖徳太子と書かれた碑がある。

・左手に香取神社がある。江戸初期創建、旧向小金(むかいこがね)新田の産土神だ。一里塚跡の碑があり、一茶の句「下陰をさがしてよぶや親の馬」が書かれている。境内には古い庚申塔もある。

香取神社(鳥居左に一里塚跡碑)

・柏市に入り、今谷上町(いまやかみちょう)の左手民家の前に土手のようなものを見付けた。「これこそ野馬除(よけ)土手だ。」と思った一歩は、道行く人に聞いてみたが、残念ながら野馬除(よけ)土手という言葉そのものの理解が得られなかった。一歩は、なま道を歩いたとき五香の先で見た野馬除土手跡を思い出していた。(百街道一歩のなま道3参照)

・「南柏駅東口」と書かれた交差点手前角にある稲荷神社は、今時珍しい茅葺だ。

茅葺の稲荷神社

・その一つ先の交差点右手に、今谷上町八坂神社があるが、その前に「水戸街道と松並木」と書かれた案内板がある。野馬奉行綿貫夏右衛門が水戸侯から資金を得て、両側に千本の松を植えたのが松並木の始まりだったという。つい最近まで、松が残っていたようだが、今はもう見られない。

・左が日光東往還の交差点右手には、中嶋家、たんば家?と大きな家が続く。ここは、日光東往還との追分で、左の日光東往還を行くと関宿(せきやど)を経て雀宮で日光道中に合流する。この辺りは、野馬土手の木戸があったというが、今は、少し先右手豊受(ゆたか)稲荷神社の前の「新木戸」というバス停に名残をとどめるのみだ。

日光東往還入口

・左手に神明神社がある。案内板によると以下のとおり。明治政府は、殖産事業として徳川幕府の下総牧場であった小金牧と佐倉牧を開墾した。そして開かれた土地には、初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)、二和(ふたわ)(船橋市)、三咲(みさき)(船橋市)、豊四季(とよしき)(柏市)、五香(ごこう)(松戸市)、六実(むつみ)(松戸市)、七栄(ななえ)(富里村)、八街(やちまた)(八街町)、九美上(くみあげ)(佐原市)、十倉(とくら)(富里村)、十余一(とよひと)(白井市)、十余二(とよふた)(柏市)、十余三(とよみつ)(大栄町)と、順番に美しい地名が付けられた。この地柏市富里は、かつては豊四季の一部だった。武士を始め次男、三男や変革により職を失った入植者がこの神社を創建して心のよりどころにしたという。

・東武野田線の高架下をくぐると、柏の市街地になる。

・繁華街の中心である柏駅入口近く、右手柏神社の前には、「水戸街道の木戸」と書かれた案内板があり、「小金牧」と、「野馬土手」の解説が書かれている。牧と村の出入口に馬が入ってこないように木戸が作られた。木戸があった所が柏一番地だという。

・柏神社は、立派な神社だ。入口の所に、大きな銀杏の木があり、庚申塔も並んでいる。宝永4年(1707)の文字が読める。

柏神社

・左手サンサン通りの交差点を渡った左側角の駐車場前に「明治天皇柏御小休所」の碑がある。

・16号線手前左手にこんもりした森が見える。ここは、諏訪神社だ。「奥にもいろんな末社がりますよ。」と、境内で話しかけてきた女性が「豊四季にも諏訪神社があります。」と語る。

・柏公園の表示がある非常に大きな交差点は、その名も「旧水戸街道入口」。ここで16号線を横切る。

・前方に玉姫殿のおとぎの国のような建物が見える。旧道はこの手前で常磐線に寸断されている。やむなく常磐線を跨ぐ陸橋を行く。

・線路伝いに北柏駅方向に向かう途中、左手に、馬頭観世音菩薩がある。道標を兼ね「な可れやま道」と書かれているように思う。

・「北柏入口」の辺りの道は複雑だ。6号線とアサヒビール工場にはばまれているので、曲がりこむように歩いて、アサヒビール工場の前を右折、「ちがね橋」バス停の前の通りに出る。

・その先をずっと上って行くと右手に北柏駅がある。上りはそのすぐ先まで続き、下りになる。

・夕闇迫る根戸の集落の辺りは、古い大きな家が多く、落ち着いた佇まいだ。旧道らしさという点では本日一番だろう。

根戸の集落

・左手に東陽寺がある。緑に包まれた落ち着いた静かな空間が広がる。本堂の建物も立派だが、その横に広がる庫裏と庭の芝生が御殿のようで目を見張った。

東陽寺

・右手に妙蓮寺がある。案内板によると、ここには我孫子市指定文化財、仁阿弥道八(にんあみどうはち)作「陶製仁王像」があるそうだ。

・右に大きくカーブすると、最初の信号左手に、祠が見える。二十三夜塔があり、その横に何故か折れた道標のようなものが重ねて置いてある。

・国道6号を渡って、なおも356号を行く。常磐線が近づいて来る。「台田」というバス停だが、左右は畑なのに、前方左手に巨大なマンション群が建っているのが印象的だ。

・常磐線を再び陸橋で跨ぐと我孫子駅も目前だ。真っ暗な中、我孫子駅に行く途中、八百屋さんで見たこともない巨大なサトイモを見付けたので土産に買い求めた。「セレベスの親」と書かれている。

・我孫子宿の探訪は、次回の楽しみとし、本日は、我孫子駅までとする。

http://hyakkaido.travel.coocan.jp/mitodoutyu3mabasiabiko.htm


04. 五月晴郎 2011年10月15日 15:23:00: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(千葉県)


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所在
 総武流山鉄道、その名も「小金城趾」駅から徒歩10分程度。駅から見て東側にあたる大谷口歴史公園がかつての小金城跡である。ただし、本来の小金城は広大な面積を占める巨城であり、他にも旧城域の遺構が部分的に残っているというが、今回は公園だけの見学にとどまった。

沿革
 「大谷口城」とも呼ばれる。関東の名族・千葉氏を支えた重臣・原氏のそのまた家臣にあたる高城氏の居城。築城は天文6年(1537年)、高城胤吉によると伝えられる。主家をしのぐ勢力を誇った高城氏は、小田原北条氏が下総に進出してくるとこれに従い、他国衆に名を連ねて各地を転戦した。下総屈指の実力者が居を構えた城にふさわしく、その規模はいくつもの丘陵地にまたがる巨大なものである。しかし北条氏の滅亡後に廃城となり、二度と再建されることはなかった。現在の小金城跡は、戦後の開発による変化が著しく、大谷口歴史公園など一部の遺構を除けば在りし日の姿を偲ぶことは難しい。

見聞記
 2010年1月30日訪問。実は家からかなり近いところにあるお城で、前々から一度行かんといかんなと思っていた。いや、別に近くたって見に行く義務はないのだろうけれども、一応。

 常磐線を馬橋で乗り換え、流山鉄道に乗って小金城趾駅へ。宅地化が進んでいるとはいえ、ところどころに畑も残り、まずはのどかな風景である。
 駅の東口から出、城跡のある大谷口歴史公園へ向かう。駅前の道を右に歩き、運動公園のある突当たりを左折すると、あとは道なりに歩いていけばよい。途中、道の右側に木が茂った微高地が見え、「大谷口馬屋敷緑地」という地名の看板が出ているが、これも城の遺構に含まれる。細長く削平されたような土地で、道側がわずかに盛り上がっているのは土塁の跡にも見える。それにしても「馬屋敷」とは面白い地名で、城のための軍馬を飼う場所だったのか、それとも馬の飼育を担当する武士の屋敷があったのか。

 馬屋敷からもう少し先に進むと、目当ての大谷口歴史公園に出る。木々に覆われた背の低い丘で、一見したところは何の変哲もない森林公園でしかない。しかしこれこそは、下総の大城郭・小金城の在りし日の姿を今に伝える貴重な史跡であり、土地所有者の厚意により歴史公園としての保存が可能となったものである。都市化の波に洗われる場所では、このような有徳人に巡り合わない限り、戦国の城跡が生き残ることは難しいのだろう。
 大谷口歴史公園は、かつての小金城内では金杉口と呼ばれていた虎口の跡にあたる。これは城の北側の出入り口であったらしい。入口付近に木でできた簡単な冠木門が復元(?)してあるのは、門であった当時を表現しているのだろう。発掘調査により様々な発見があったらしく、ところどころに詳しい説明の看板が立っているのはありがたい。
 ただし遺構が大規模に残っているわけではなく、一見したところ城跡とは分かり辛いかもしれないが、例外として障子堀跡がある。底に1か所、敵の動きを阻害するための間仕切りが設けられた堀である。小田原北条氏の勢力圏で多用された技術であり、高城氏が北条氏の傘下に入ったことと無関係ではないだろう。ただし、肝心の障子(間仕切り)部分は保存のため土に埋め戻してしまったようで、現在ではただの空堀にしか見えないのはちょっと残念。

 遊歩道に沿って緩やかな丘を上っていくと、背の低い土塁に縁取られた方形の空間に出る。ここが大谷口歴史公園の中心であり、昔は曲輪の一角だったのだろう。土塁は高さも幅もそれほどの規模ではないが、説明板によれば外側に空堀が設けられていたため土塁を大きくする必要はなく、身を隠す程度のものでしかなかったとのことである。
 別の説明板では、航空写真を利用し、かつての城域が図示されていた。これによれば、まさしく巨城としか表現しようのない、圧倒的なスケールを持つ城であったらしい。このほとんどが宅地化してしまったのか…改めて、人間という生き物は過去の上に現在を積み重ねて生きているものだなと思う。

 もう少し先に進むと、一段下がったところに畝堀の跡が現れる。空堀の中に幾条もの畝を作り、堀底に侵入(転落)した敵兵の動きを止めるための工夫で、先に見た障子堀と同じく北条系の城郭ではおなじみの存在だ(この城跡では畝が一つしかないものを障子堀、複数のものを畝堀と呼称しているらしい)。当城では比較的明瞭に畝が残っているとのことで、楽しみにしてきたのだが…実際に見てみると、発掘以来数年を経て堀底に土が溜まってしまい、畝はほとんど見分けがつかなくなってしまっていた。ネット上で公開されている写真によれば、数年前までは明瞭に保存されていただけに、無念極まりない話である。ただし見方を変えれば、城などというものは絶えざる補修作業がなければ保ち得ないのだ、ということの証明にもなりそうだ。畝堀の溝掃除に駆り出されて、ぶつぶつ言いながら作業をしていた昔の人の姿が浮かんでくるような。

 金杉口方面の遺構はこのくらいだが、折角なのでもう少し足を延ばして大勝院へ。これは高城氏によって、祈願寺として当地に招かれた由緒ある寺院で、「遠矢山大勝院」という珍しい寺名が武将の庇護の歴史を物語っている。往時に比べると寺の規模はかなり縮小しているらしいが、それでも広壮な境内に樹齢500年のイチョウ、700年のヤマザクラなどがそびえる、雰囲気のあるお寺さんだ。 
 また、寺の由緒を開設した説明板には、宅地化の推進により小金城(大谷口城)の遺構を「破壊」した不動産会社が名指しされており、地域の開発にあたって当寺との間に何らかのいきさつがあったことをうかがわせる。詳しい事情は分からないから何とも言えないが、やはり創建当初から小金城を守護してきた存在として、城の運命には特別な思いがあったのかもしれない。

 帰りはまた馬橋経由だったのだが、折角なので万満寺に寄っていくことにした。馬橋駅から徒歩5分程度、鎌倉時代からの由緒を持つ古刹である。天文年間には小金城主高城氏が京都の大徳寺からこの寺のために僧を招いたこともあるという。夕闇迫る中、風情のある伽藍を歩くのは気持ちのよいものだ。寺内では何といっても山門の仁王像が素晴らしいが、軒にしつらえられた獅子の木彫りなどもユーモラスで独特の表情をしている。
 寄り道ついでに、万満寺の隣にある王子神社にも参ってきた。こちらは特に予備知識もなく、本当にふらりと立ち寄っただけなのだが、境内の一角に並ぶ庚申塔が秀逸であった。青面金剛も踏みつけられている魔物も三猿も全てが味わい深く、見入ってしまった。有名なお堂や仏像も勿論よいものだが、こういう何気ない石像で「掘り出し物」があるとやった!という感じですね。ただ単に見て楽しいだけでなく、当時の人々の世界観や信仰心について考えるきっかけにもなり、一粒で二度おいしい。こういうところが神社仏閣の(本来とは別の意味での)ありがたさではないかと思う。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/kogane.html

小金城アルバム 
http://www.toride.com/~roshiashi/koganephoto.html

小金城主・高城氏の歴史
http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/takagi.htm


05. 五月晴郎 2011年10月15日 15:39:56: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
小金城(大谷口城・松戸市大谷口)

(小金城鳥瞰図)

http://otakeya.in.coocan.jp/info01/koganeooyaguti.htm

小金城はこの地の豪族で原氏の家老であった高城氏の居城で、戦国時代の下総地方を代表する巨城であった。 (略)

 高城胤吉は享禄3年(1530)から7年の歳月をかけてこの城を築いたという。比高20mほどの台地を空堀によって堀切り、郭を複雑に配置している。残念ながら、そのほとんどは現在では宅地化されてしまい、馬場曲輪の一部のみが「大谷口歴史公園」としてわずかに整備されている。小金城の落成の式典では、佐倉城主の千葉昌胤も訪れ盛大な宴が張られたという。(略)

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http://tomozoaruku.blog89.fc2.com/blog-entry-558.html

「鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。」

「天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。」


06. 五月晴郎 2011年10月15日 15:58:54: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
>≫3≫≫4 >>5
は、フォロー元記事の中の

「小沢一郎の知る闇1/2創価発祥の地:風魔一族の系譜」
http://www.youtube.com/watch?v=uBlN2z4k55Q
「小沢一郎の知る闇2/2創価発祥の地:風魔一族の系譜 」
http://www.youtube.com/watch?v=dCEvr3zxQ70

を聴きながら読むと(フォロー元記事も、投稿記事も)いいですかね。


07. 五月晴郎 2011年10月15日 18:33:12: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
金竜山一月寺

鎌倉時代の正嘉年間に創造され開基は金先(●先)居士である。
居士は正嘉2年(1258)10月13日入寂。
普化宗旧記一月寺の項によれば、次の如し。
開山は金先古山禅師也。金先と言うは人皇88代聖帝深草院の治天に建長の頃、紀州由良の法灯国師御入宋して帰朝の時普化禅師の四居士宝伏、国佐、理正、僧恕同船して我朝に至る宝伏居士暫く山城宇治の辺に居をしめ普化の禅を融通せんと庵室を結んで行住座臥の法容偏に普化の遺風を慕う居士専ら尺八を吹いて始祖振鐸の話に準拠す。
時に中秋の夜川辺にて一曲を催す。
其夜万里雲なく月光河水を照すこと金竜波におどるに似たり、爰において頓に水辺を起し一端をそめて一天清光満地金竜波と言句を設けたり其頃頭陀あり。
金先と名付く、宝伏の法莚につらなり倶に尺八を奏し行脚修行して所々を経巡り東に下り下総国小金の宿に止り光陰をすぎしむ。
然るに宝伏居士年を経て卒しぬ。
金先其法統をついで妙音また奇なり、聞く五感六欲の昔迷を照し本来無一物の順縁を結ふもの多し、髪に一宇を造立し宝伏の遣意に任て山を金竜山と号し寺を一月寺と号す。
此時の執権北条平経時、金先の碩徳を尊んで造立の大且那として之を経営し金竜山一月寺と言う。此の開山則金先禅師なり。
金先を以て菰僧の基とす。
「尺八筆記」には其後宝伏卒し金先一宇を造立し、宝伏の遺言により山を、金竜山と号し月は一翰万境を照す、普化の異名を取って一月寺と号す、普化を祖として益々尺八を吹き宝伏の素志を伝えん事を欲す。
正嘉二戊牛の春三月勅諚によって参内し尺八を奏しければ、天機叡慮ありて精舎、地並に禅師号を賜ひあまつさえ宸翰を染められ金竜山一月寺とす。
同年10月13日金先寂す。其徒金先の愈をつぎ二世の住職となる。
二世鼓岩了波のとき北条長時朝臣随喜し給ひ、新に堂塔を造営し霊仏庄園を寄附し給う。
また亀山天皇の文応元年(1260)三浦の一族戸部某其領地を没取され、家臣数十人と共に一月寺にかくれ行脚修行のうち、春が巡って北条時頼に召出されて旧主にかえった。
また文明年間(1470〜1486)50世住職覚祐の時代北条家没落で、堂中破損し寺領没落されたのを51世住職松滴と、二代の住職を助けて寺を再建したのが、狂僧小烏坊と言われる。
小烏は身長6尺3寸頭髪6尺6寸に及んだと言い、「文明の頃の人、頭髪は身に等し道を行く事、甚だ早く或る時箱根権現にて尺八を吹きしかば山谷鳴動す、吹終って八尺有余となり光明を放って去るといえり時人、多門天皇の化身なりと言う」一月寺の寺歴は同寺が慶応年間に焼けた為、殆ど不明であるが開山以来第115世は長田逸平と言い、その代で明治4年の廃宗となったが後にその娘婿が第116世として、一月秀興と名乗りその息正空117世をっいだ後また正空の兄がその跡をっいだが後逐には、寺は創価学会に売渡された。
また天文年中小金城落城して、一月寺破損したので大谷口から風早庄に移った。
この時豊臣秀吉が寺院保護の為「一銭切の制本山を下附した(万願寺に現存。
当時は方願寺の支配下にあった)之は矢張り明暗寺が興国寺の未寺である如く一月寺も万願寺の末寺となり指示を仰ぎ住職の任免をされていた。
一月寺最後の住織は宵海蚊竜で天保13年寂以後は住職なし。
http://www.yo.rim.or.jp/~kosyuuan/kosyuan/iida/iida17.htm
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「罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%84%A1%E5%83%A7
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http://www.hellomatsudo.com/jpn/unchiku/unchiku02.php3

一月寺と虚無僧の暮らし

松戸には昔すこし風変わりなお寺があったのを知ってますか?今回はそんなお寺と住民のお話です。

●どこからでも来い!

江戸時代の小金町には、普化宗金竜山一月寺という大変風変わりなお寺がありました。別名虚無僧寺といわれたこのお寺は、お経を読むものもなく、仏事らしいことはさっぱり、カラスがカーカー朝から鳴いているだけというお寺だったそうです。ただ虚無僧といわれる武士の平服に紺黒五条の袈裟をかけ、深編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚、托鉢をする半俗半僧、有髪の人々がどこからともなく集まり、そしてまた去ってゆくという、日本昔ばなしにでてきそうな感じだったそうです。

●もしかして迷惑寺?

一月寺は全国の普化寺院7派67箇所の中心的な位置にいました。お寺の住職は虚無僧と違って、普化宗門の宗主なので頭を丸め、香衣を着ることもありました。しかし前述のように仏事を行なわなく、経典の代わりに尺八を吹いている為、寺院活動での収入はありませんでした。主な収入は房総3ヶ国各村々の喜捨でした。それも、みすぼらしい虚無僧が托鉢に来ないように、という迷惑御免料という形で喜捨されたようで、昔の虚無僧の社会的な位置が低かったのが分かります。

●現在の一月寺

虚無僧寺で現存しているのは全国で一月寺だけで、由緒ある寺として松戸市小金に今でも住宅地にまぎれてひっそり建っています。

虚無僧とはなんぞや

唐代の風狂僧鎮州普化和尚の生き方にならい、世間は虚仮で実体がないと観じ、心を虚無にし、尺八を法器とし、尺八を吹くことで禅の奥義を窮めんとしたことから名付けられた。実際には、禅僧としての活動はせず、尺八を吹いて金銭を乞う遊芸人にすぎない者や、自由に旅をできる特権を生かし、浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用した。ぼろをまとって物乞いをしたので暮露や、こも僧ともいわれた。のちには美服を着用し、ビロードに金糸縫取りの尺八袋をもつ伊達姿の虚無僧も現れたという。「徒然草」にも言及されており、今もってテレビの時代劇や、街頭で大人気のキャラクターといえるでしょう。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%88%E5%AF%BA

起源と歴史

元々「一月寺(いちげつでら)」は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。伝承では正嘉年間(1257年 - 1259年)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めた。

『虚無僧略縁記』(年代不明・星咬輝蔵)には以下のような記載がある。

「宗旨を元祖とたて普化禅宗と申、然るに其弟子虚無僧金山金松覚て常に、どうしやうと言う、竹壱尺八寸(原註歩)穴の数12ある笛を吹、是尺八の初也、元祖有時船遊びしたまえば俄に霧ぶり四方かすみ、船頭是を悲めば普化和尚彼宙を取て観音経を祈させたまへぱ、霧はるゝと言う。真後八百年以前に日本の元祖法灯国師和尚比伊奈と云俗弟子を連れて入唐したまい、普化和尚に尊拝す。比伊奈は金山金松の笛を伝授し、後和尚を伴ぴ日本に帰り、比伊奈居士は諸国行脚を志し下総国にて清浄の地を求め小金といぶ所に金龍山一月寺と申寺を建立す(後略)」

ところが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体を廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。

昭和30年代(1955年 - 1964年)、妙縁寺総代(後に法華講連合会第三代委員長)であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗、「いちがつじ」と読みを変更して現在に至る。

ちなみに普化宗時代の寺宝は松戸市に寄贈されており、現在松戸市立博物館などで見ることが出来る。

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08. 五月晴郎 2011年10月15日 18:53:11: ulZUCBWYQe7Lk : bxtHsuzmZA
鉢屋衆は八切止夫がいう契丹系日本原住民と重なるような印象ですね。江戸期の大名では加賀の前田とか。
フォロー元記事中の橘孝三郎や立花隆の「橘」氏は、契丹系という指摘を八切止夫がしています。

上記You Tube内の「小金城を支配した一族」は、製鉄集団と関わりが深い印象が強い。


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