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株式日記と経済展望
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権力を絶対化する朱子学の伝統は明治以降にも継承された。日本が
近代化する上で、国家を安定させて産業化のスピードを上げる役に立った。
2011年9月28日 水曜日
徳川幕府から天皇への平和的な「大政奉還」は世界史的に珍しい現象である。
その原動力となったのは「慕夏思想」から転じた朱子学的理想主義だった。
二重の「回心」はどのように進められたのか。
◆朱子学と日本軍と反原発派 9月23日 池田信夫
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51743784.html
日本の官僚制度は明治時代にプロイセンの行政法をまねてつくったものといわれているが、官僚のみなさんと話していると、ドイツ的な伝統より儒教の伝統を強く感じる。これを指摘している人は少なく、私の知るかぎり坂本多加雄と本書の著者、山本七平ぐらいだ。
これは政治改革を考える上で大きな違いだ。日本の政治体制が西洋的な三権分立によるものだと考えると、その原則どおり「政治主導」でやろうということになるが、もともと「現人神」がその権力を官僚に委任していると考えると、むしろ官僚が政治家であり、国会議員はそれにたかる大衆の代表にすぎない。自民党政権は暗黙のうちにこういう儒教的な伝統に従っていたが、それを「前近代的」だと批判した民主党も、野田政権ではすっかり自民党と同じ官僚主導になってしまった。
なぜこのように儒教の影響がいまだに強いのか、という謎に本書は一つの答を出している。本来の朱子学は皇帝の正統性を絶対化する国家理論で、官吏は皇帝の権力を委任された代理人=士大夫である。朱子学が日本に輸入されたとき、それを教条的に理解すると、漢民族以外はすべて「夷狄」なので、日本の天皇家にも正統性がない。ところが山崎闇斎は「朱子学は原則論であって、どこの国でも昔からある王朝には正統性があるのだ」と解釈し、日本の場合は1000年以上続いている天皇家が正統だとした。
徳川幕府の正統性は、その天皇家から征夷大将軍という官位を授かる代理人としての権威にすぎないので、それが天皇家の正統性を脅かす場合は「革命」によって倒すべきだということになる。これが「大政奉還」の思想である。特に江戸末期には、幕府が「夷狄」である西洋諸国に妥協して開国したことが「逆臣」のふるまいだとして「尊皇攘夷」をスローガンにして明治維新が行なわれた。
ところが革命の過程で、いつの間にか本来の目的だった尊王攘夷は消えてしまい、むしろ明治政府は朱子学の代わりに西洋の官僚制を丸ごと輸入した。しかしそれは、いわば儒教という幹に西洋の制度を接ぎ木しただけで、権力を絶対化する朱子学の伝統は明治以降にも継承された。これは後進国である日本が近代化する上で、国家を安定させて産業化のスピードを上げる役に立った。
本来の朱子学は機能主義的な国家論で、日本でいう天皇機関説に近いものだったが、これが江戸時代に輸入されたとき「日本化」されて、天皇家という家系を正統とする「家産制」になった。特に平田篤胤などの国学では、現人神による天皇親政を理想とし、これがのちの「皇道派」青年将校の思想になった。そこにみられる国家を道徳的に絶対化する理想主義が日本軍の暴走の原因になった。
軍が敗戦によって壊滅したあとも、儒教的秩序の「本流」である霞ヶ関はほぼ無傷で残ったが、こちらは天皇機関説に近く、よくも悪くも現実主義だ。これに対して戦前の軍に似た「非武装中立」などの理想主義を掲げたのが、社会党などの「革新勢力」だった。それは軍と同じで、権力を批判しているときは美しい原則論なのだが、何かの間違いで権力を取ると、菅政権のように暴走する。(後略)
(私のコメント)
一昨日から、なぜ政治家よりも官僚が実権を持ってしまっているのか書いてきましたが、池田信夫氏は山本七平氏の「現人神の創作者たち」の著書をあげて説明しています。政治家は国民に選ばれた庶民の代表に過ぎず、それに対して官僚たちは現人神からその権力を官僚に委任していると言う朱子学的な思想があるのだろう。
戦前における「現人神」は天皇陛下でしたが、戦後においては「アメリカ政府」が現人神になっているのではないだろうか? 官僚は外務省、財務省をはじめとして防衛省までアメリカ政府の権威を借りて日本を統治している思想的な構造が浮かび上がってくる。思想的な構造とは朱子学であり、現代では皇帝=アメリカ政府なのです。
在日米軍の存在がある限りその構造は変わらないのであって、「株式日記」では駐留なき安保を主張しています。在日米軍がある限り日本の政治家は官僚とアメリカ政府には頭が上がらないのであり、官僚たちはアメリカ政府から権力を委任された政治家となっている。国会にいる政治家は単なるタレントであり首相や大臣と言う役を演じているに過ぎない。
西洋の三権分立の考えからすれば国会が一番の最高権力で無ければならないのですが、制度上はそうなっていても、朱子学的な思想から言えば官僚機構が現人神から委任された統治機関なのだ。だから官僚たちがマスコミを使って田中角栄を失脚させても、政治家たちはどうすることも出来ないのは国会を最高権力機関とする思想的なバックボーンが無いからだ。
本来ならば自民党から民主党に政権が交代すれば政策も変わらなければなりませんが、官僚統治機構はなんら変わる事がない。大臣が事務次官の言いなりだから自民党だろうと民主党だろうと変わりが無いことが分かった。アメリカなどでは政権が代われば幹部官僚なども交代して政策も政治主導が徹底されますが、民主党政権では局長クラス以上の辞表すら取り付けることが出来なかった。
昨日も藪中事務次官の出すぎた行為を書きましたが、藪中次官は処分されることは無くアメリカ駐在大使に出世する。だからこそ総理や大臣などは飾りに過ぎず、誰もが大臣になれるのは実権がないからだ。それでは何のために国会議員選挙を行なっているのか分かりませんが、西洋の制度を表向きに取り入れただけであり、実態は日本古来の権力思想で成り立っている。
戦前の軍部の暴走も、政治が無力だったためであり、帝国陸海軍は現人神から委任された軍隊であり、五一五事件や二二六事件を起こそうが、政府は大粛清することが出来なかった。政府は天皇の輔弼機関に過ぎず、軍隊は天皇陛下を最高の長とする機関だから、政府は手を出すことが出来ない。このような日本の統治システムを指摘したのは山本七平氏であり坂本多加雄氏ぐらいだそうだ。
このような朱子学的な見方からすれば、天皇機関説は矛盾しないのですが、天皇陛下は現人神でなければ軍部や官僚たちの権威が保てないから批判された。戦後は天皇陛下の人間宣言がなされて現人神ではなくなりましたが、アメリカ政府が現人神として官僚機構の権威となっている。だから外務省の藪中事務次官が総理や大臣に成り代わって出すぎたまねをしても処分することが出来ない。
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