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NEW「大化の改新」触れられたくない本当の姿(2)
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投稿者 manase8775 日時 2011 年 9 月 23 日 08:04:14: PZJnfOiEOPWZI
 

4)644年「乙巳の変の舞台」板葺宮の創作劇場

上宮家(山背大兄≒聖徳太子説)が滅ぼされ、いよいよ、悪役蘇我氏は増長して軍備を整えるストーリーが展開される。644年、蘇我大臣蝦夷、子の入鹿が甘樫の丘に家を並べて建てた。大臣の家を上の宮門といい、男女の子を王子といった。
家の外に城柵を作り、兵器庫(矢を集積した)を作った。火災などにも備え、武器を持たせて警備していた。

六四五年 正月ここで、都を難波に移し板ぶきの宮が廃墟となる予言が挿入される。

〈 旧本云。是歳、移京於難波。而板蓋宮為墟之兆也。 〉時人曰。此是伊勢大神之使也

伊勢神宮は、天武期に建造されたはずだからこれも嘘かも知れない。私は、最近明日香に行き、雪隠を見てきた。その感想は「掘り出された墓を転がして落としたもの」だった。田んぼから発掘された石人・猿石等、それまでの豪族の建造物を投げ捨てたものと見える。板葺き宮の周辺に、亀石、男女石人像、鬼の雪隠・鬼のまな板等、投げ捨てられているのは、新しい支配者による暴虐のように感じる。支配者は、大海人・多氏・秦氏と推測。

さて、6月8日、中大兄は、「三韓の調の日に入鹿を切ろう思う1)」と、蘇我倉山田麻呂に告げた。
6月12日、皇極天皇が大極殿に出てきた。(㊟板葺宮に大極殿は、なかったことが判明)
入鹿を俳優をして剣を解かせた。(演技をした人物が剣を預かった)さて儀式が始まると、蘇我倉山田麻呂が三韓の調を読み上げた。このとき12の通門を閉じさせた(㊟板葺宮に12門はなかった*B)
潜んでいた中大兄・鎌子・及び助太刀等は、不意打ちをして切りつけた。入鹿は。「何の罪かわからない」というと、皇極も「わからない、何事か、答えなさい」と中大兄に命令した。
「鞍作(入鹿)は、皇族を滅し尽して、天皇位を倒そうとしています。どうして、天孫を入鹿に変えることができましょう。」と答える。

(六四五)六月戊申【十二】戊申。天皇御大極殿㊟。古人大兄侍焉。…而教俳優、方便令解。入鹿臣咲而解剣、…。倉山田麻呂臣進而読唱三韓表文。於是。中大兄戒衛門府。一時倶〓十二通門㊟、勿使徃来。召聚衛門府於一所。

 つまり、「女帝の地位を奪うためにクーデタ−を起こした。」虐賊だという理由だ。新羅本紀の善徳女王も同じ目に合い、命を失う。しかし、金ゆ信と金春秋は,敗走したビドンとレンソウ以下30名を誅殺して鎮圧した。九族を滅ぼした・・・新羅は真徳女王が即位する。
皇極(女天皇)は、命は無事だった。中大兄と鎌子はヒーローなる。しかし、退位して孝徳が即位する。中大兄は天皇が生きているので、即位せず、叔父を推挙したことに。この叔父の名前が徳の字がある。

善徳の死→皇極の無事(差別化)真徳即位≒孝徳即位[男女での差別化]
その後、目撃者の古人大兄は「韓人が鞍作臣を殺した」と言い歩く。これは、上1)にあるように、三韓の調があったので彼らのせいにしたということだ。(こんな事実は、史書どこにもない)
このときの、賊の一味に東漢直一族がいて、武器を投げ捨て、逃亡したことになっている。(古の渡来人在地豪族の東漢氏は悪役に仕立てられた。)

 13日蘇我蝦夷は、殺されその際に、天皇記、国記、珍宝が焼失したが、国記だけは消失を逃れ、中大兄に奏献されたという。(後の天智天皇が国記を持っているのに、日本書紀にそこからの引用が全くないのは、創作の証拠)


5)「孝徳天皇」後半5年間の「白雉」と、太和(真徳天皇)の後半5年間「永徽」は、同じであった。

 孝徳天皇645年‐650~654年:真徳女王647年 -650~654年は、同じだが。違うのは、「永徽と白雉」
 毗曇(ピダム)の乱の結末は、あらためて日本紀の原本(名前はわからない)に載せてあったとしか思えない。*日本語では、毗曇(ビダム)
日本書紀の大化の改新が始まる直前の記事(孝徳紀初め)にクーデターにまつわるまとめ記事があるが、蘇我氏が女帝を廃しにしようとしたことへの戒め。内容は以下の通り、
645年6月19日
天皇、皇祖母尊(皇極)、皇太子(中大兄)が、大槻の木の下に、群衆を
集めて、誓っていった。
天神地祇に告げて、「天覆い、地は載せる。@帝の道は、ただ一つである。しかるに、末代になって(帝の道が)薄らいで、君臣の序が失われた。皇天は、我に手を貸して、暴虐を誅し尽くした。
今ともに心血を注いで、今から以後は、君に二政なく、、臣に二朝はない。もし、この盟に背くなら、天は災い、地は、妖、鬼は殺し人は伐だろう。(これは)日月のように明白である」といった。〉1)アマトヨタカラカシヒタラシ姫は、天皇4年を改めて、大化元年とした。                                      

一方、金ユシン伝では、善徳天皇16年
庾信は、星の落ちた場所に白馬はしり祭りをして、神に告げた。「天道では@、陽が剛で、陰が柔で、人道では、君が尊く、臣が卑しいことになっています。もしこれを変えるようなことがあれば、それこそ大乱となります。今毗曇(ピダム)達は、家臣でありながら君主を謀っています。これは下から上を犯す、いわゆる乱臣賊子で、人も神も等しく憎むところで、天地も容認しないところです。・・・今こそ天の威厳が人の欲心を抑え従い、善は善、悪はあくとし、神の羞(はじ)をしないでください。」かくしてすべての将兵を督励し、奪って賊軍を襲撃した。2) 続いて太和元年<真徳女王>

<真徳女王>、太和元年:647年 - 654年):650~654年5年間「永徽」唐の元号に改元 

<孝徳天皇> 645年‐ 654年)650~654年5年間 「白雉」
大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元

いかがでしょうか、この驚きの一致点。証明できました。元号が大化=太和である。そして大化がなぜか白雉に、太和が唐の元号、「永徽」に変わるのである。日本書紀は創作・改ざんだから白雉。なお、白雉にした顛末を、くどくどと、中国の古典を引用し作文している。(紀)
鹿島氏の主張とは、違いますから・・・続くは、しばらくしてから載せます。鎌足も…
参照
1)日本書紀(朝日新聞社本)
2)金庾信伝(列傳第四) 原文 
 
出典等は、こちら http://bian.in/manase8775/taikarefom.html 

1素人向け、わかりやすいかどうか?
http://bian.in/manase8775/yusin614new.pdf

2こちらのほうがすごい(私邸と私第)証拠を挙げてある。
http://bian.in/manase8775/kamatariF.pdf

太和と大化は、日本人には奈良の時代から現在も同じ音にしか聞こえません。
新羅最後の元号と日本最初の元号(最初の元号は大宝)は同じです。

 

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コメント
 
01. 2011年9月24日 18:53:11: ahSEOWAASg
三国史記って書かれたの12世紀なんですが。

単純に、三国史記が日本書紀等を取り込んだ可能性のほうが高いでしょう。


02. 2011年9月25日 01:05:27: WrBl7tYjLY
01>さん

三国史記は資料を厳選して、確かなものだけ載せたようです。それに、列伝、金ユシン伝は、ひ孫の著作で、ユシン家のことは詳しく10巻にしていたので、ぜい肉を落として大事なことだけ載せたのです。

ですので、どちらが、客観的(資治通巻・旧唐書・翰苑)に見て、正直かといえば

三国史記や列伝です。(8世紀~7世紀)に限っての話。新羅本記に登場する人物地名などは、ほぼ一致します。日本書紀の人名は粟田さんくらいだった。

それに、日本書紀孝徳紀の改新の詔自体、養老令の引用とか、中国の古典からの引用が目立ちます。評と郡とかも、あちこちで。
全てが作文といいませんが天武以前はね・・・


03. 2011年9月25日 12:50:22: so8IVUfdiE
>三国史記や列伝です。(8世紀~7世紀)に限っての話。新羅本記に登場する
>人物地名などは、ほぼ一致します。日本書紀の人名は粟田さんくらいだった。

国が変わり数百年経った上で地名、人名がほぼ一致するのは、そういう風に作られたからでしょ。
三国史記が作文以外の何物でもないということでは?
宗主国の資料を基に新羅本記等の三国史記を12世紀に作った。
地名・人名は一致させた、エピソードは他から取り入れた。
それだけのことでしょ。


04. 2011年9月25日 13:27:48: WrBl7tYjLY
03>
あなたのレベルの話に合わせれば
日本書紀/古事記は捏造/伝説文書という疑惑が史記以上に増大しますです。

05. 2011年9月28日 21:31:12: VRAX9ryGos
>捏造/伝説文書という疑惑が史記以上に増大しますです。
三国史記以上に増大する理由がわからんが?
そうしたいだけでしょ?

何百年も一切言葉が変わらないのが普通というのなら話は別ですが。


06. 2011年9月28日 21:49:12: WrBl7tYjLY
「日本では中国史料と対応する記事が認められない3世紀頃までの記事は、にわかには信じがたいというのが主流」
というのは、私も大納得だが
あなたのコメントは、絡みだけのようですね。
どこぞの人たちは絡むらしいが、・・・・

07. 2013年1月25日 01:45:27 : fqBBL7GJe6
金春秋来日の記事(人質)はどのように解釈しますか。

08. 2013年6月04日 22:51:23 : WrBl7tYjLY
<07

来ていないでしょう。日程的に無理、新羅には彼が倭国に言った記録がない。
「書紀」の質の記事は唐の記録にも全くないが・・・春秋が唐に行ったときのきじに似ている気がする。


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