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4)644年「乙巳の変の舞台」板葺宮の創作劇場
上宮家(山背大兄≒聖徳太子説)が滅ぼされ、いよいよ、悪役蘇我氏は増長して軍備を整えるストーリーが展開される。644年、蘇我大臣蝦夷、子の入鹿が甘樫の丘に家を並べて建てた。大臣の家を上の宮門といい、男女の子を王子といった。
家の外に城柵を作り、兵器庫(矢を集積した)を作った。火災などにも備え、武器を持たせて警備していた。
六四五年 正月ここで、都を難波に移し板ぶきの宮が廃墟となる予言が挿入される。
〈 旧本云。是歳、移京於難波。而板蓋宮為墟之兆也。 〉時人曰。此是伊勢大神之使也
伊勢神宮は、天武期に建造されたはずだからこれも嘘かも知れない。私は、最近明日香に行き、雪隠を見てきた。その感想は「掘り出された墓を転がして落としたもの」だった。田んぼから発掘された石人・猿石等、それまでの豪族の建造物を投げ捨てたものと見える。板葺き宮の周辺に、亀石、男女石人像、鬼の雪隠・鬼のまな板等、投げ捨てられているのは、新しい支配者による暴虐のように感じる。支配者は、大海人・多氏・秦氏と推測。
さて、6月8日、中大兄は、「三韓の調の日に入鹿を切ろう思う1)」と、蘇我倉山田麻呂に告げた。
6月12日、皇極天皇が大極殿に出てきた。(㊟板葺宮に大極殿は、なかったことが判明)
入鹿を俳優をして剣を解かせた。(演技をした人物が剣を預かった)さて儀式が始まると、蘇我倉山田麻呂が三韓の調を読み上げた。このとき12の通門を閉じさせた(㊟板葺宮に12門はなかった*B)
潜んでいた中大兄・鎌子・及び助太刀等は、不意打ちをして切りつけた。入鹿は。「何の罪かわからない」というと、皇極も「わからない、何事か、答えなさい」と中大兄に命令した。
「鞍作(入鹿)は、皇族を滅し尽して、天皇位を倒そうとしています。どうして、天孫を入鹿に変えることができましょう。」と答える。
(六四五)六月戊申【十二】戊申。天皇御大極殿㊟。古人大兄侍焉。…而教俳優、方便令解。入鹿臣咲而解剣、…。倉山田麻呂臣進而読唱三韓表文。於是。中大兄戒衛門府。一時倶〓十二通門㊟、勿使徃来。召聚衛門府於一所。
つまり、「女帝の地位を奪うためにクーデタ−を起こした。」虐賊だという理由だ。新羅本紀の善徳女王も同じ目に合い、命を失う。しかし、金ゆ信と金春秋は,敗走したビドンとレンソウ以下30名を誅殺して鎮圧した。九族を滅ぼした・・・新羅は真徳女王が即位する。
皇極(女天皇)は、命は無事だった。中大兄と鎌子はヒーローなる。しかし、退位して孝徳が即位する。中大兄は天皇が生きているので、即位せず、叔父を推挙したことに。この叔父の名前が徳の字がある。
善徳の死→皇極の無事(差別化)真徳即位≒孝徳即位[男女での差別化]
その後、目撃者の古人大兄は「韓人が鞍作臣を殺した」と言い歩く。これは、上1)にあるように、三韓の調があったので彼らのせいにしたということだ。(こんな事実は、史書どこにもない)
このときの、賊の一味に東漢直一族がいて、武器を投げ捨て、逃亡したことになっている。(古の渡来人在地豪族の東漢氏は悪役に仕立てられた。)
13日蘇我蝦夷は、殺されその際に、天皇記、国記、珍宝が焼失したが、国記だけは消失を逃れ、中大兄に奏献されたという。(後の天智天皇が国記を持っているのに、日本書紀にそこからの引用が全くないのは、創作の証拠)
5)「孝徳天皇」後半5年間の「白雉」と、太和(真徳天皇)の後半5年間「永徽」は、同じであった。
孝徳天皇645年‐650~654年:真徳女王647年 -650~654年は、同じだが。違うのは、「永徽と白雉」
毗曇(ピダム)の乱の結末は、あらためて日本紀の原本(名前はわからない)に載せてあったとしか思えない。*日本語では、毗曇(ビダム)
日本書紀の大化の改新が始まる直前の記事(孝徳紀初め)にクーデターにまつわるまとめ記事があるが、蘇我氏が女帝を廃しにしようとしたことへの戒め。内容は以下の通り、
645年6月19日
天皇、皇祖母尊(皇極)、皇太子(中大兄)が、大槻の木の下に、群衆を
集めて、誓っていった。
天神地祇に告げて、「天覆い、地は載せる。@帝の道は、ただ一つである。しかるに、末代になって(帝の道が)薄らいで、君臣の序が失われた。皇天は、我に手を貸して、暴虐を誅し尽くした。
今ともに心血を注いで、今から以後は、君に二政なく、、臣に二朝はない。もし、この盟に背くなら、天は災い、地は、妖、鬼は殺し人は伐だろう。(これは)日月のように明白である」といった。〉1)アマトヨタカラカシヒタラシ姫は、天皇4年を改めて、大化元年とした。
一方、金ユシン伝では、善徳天皇16年
庾信は、星の落ちた場所に白馬はしり祭りをして、神に告げた。「天道では@、陽が剛で、陰が柔で、人道では、君が尊く、臣が卑しいことになっています。もしこれを変えるようなことがあれば、それこそ大乱となります。今毗曇(ピダム)達は、家臣でありながら君主を謀っています。これは下から上を犯す、いわゆる乱臣賊子で、人も神も等しく憎むところで、天地も容認しないところです。・・・今こそ天の威厳が人の欲心を抑え従い、善は善、悪はあくとし、神の羞(はじ)をしないでください。」かくしてすべての将兵を督励し、奪って賊軍を襲撃した。2) 続いて太和元年<真徳女王>
<真徳女王>、太和元年:647年 - 654年):650~654年5年間「永徽」唐の元号に改元
<孝徳天皇> 645年‐ 654年)650~654年5年間 「白雉」
大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元
いかがでしょうか、この驚きの一致点。証明できました。元号が大化=太和である。そして大化がなぜか白雉に、太和が唐の元号、「永徽」に変わるのである。日本書紀は創作・改ざんだから白雉。なお、白雉にした顛末を、くどくどと、中国の古典を引用し作文している。(紀)
鹿島氏の主張とは、違いますから・・・続くは、しばらくしてから載せます。鎌足も…
参照
1)日本書紀(朝日新聞社本)
2)金庾信伝(列傳第四) 原文
出典等は、こちら http://bian.in/manase8775/taikarefom.html
1素人向け、わかりやすいかどうか?
http://bian.in/manase8775/yusin614new.pdf
2こちらのほうがすごい(私邸と私第)証拠を挙げてある。
http://bian.in/manase8775/kamatariF.pdf
太和と大化は、日本人には奈良の時代から現在も同じ音にしか聞こえません。
新羅最後の元号と日本最初の元号(最初の元号は大宝)は同じです。
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