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1》 日本書紀皇極紀から天智紀まで貫かれる改ざんの姿勢は、独特のものがあり日本書紀の中でも際立っている。元記事が鮮やかに見えるのだ。その元記事は、三国史記(新羅)からも感じることができる。
「金ゆ信は、金春秋に近づくという目的をもって自宅付近で蹴鞠をした。くつひもが切れたのを幸いに、妹を引き合わせたのだ。その頃、廉宗は女帝を排して国を取ろうとする企てがあり、ビドンの乱となる、善徳女王はその際の動乱で死亡する。それを金春秋と金ゆ信は打ち破る。」
それに対し、「紀」では、中臣鎌子が偶然を装って中大兄に近づき、ともに蹴鞠をした。脱げてしまった中大兄の履物を拾うのだ。そして恭しく手渡す。
その後、中大江と鎌子が結託し、蘇我山田万呂の裏切りを得て乙巳の変を企て成功した。軽皇子(孝徳)が即位して大化の改新となるこの改新で、日本では律令制の整備が行われたことになっている。。孝徳は654年まで生きたことになっている。その後、中大兄が在位せず、母の皇極に天皇の地位を譲渡した。これが有名な二重の即位。
一方新羅では、まさに律令制による国造りが行われた。この時の年号が「太和」である。第28代の真徳女王の元年(647年)から4年(650年)で使用されたが、唐の年号を使用しなければならず廃止した。新羅の真徳女王は、654年まで生きた。この天皇の時に「太和」から高宗の「永徽(5年まで続く)」に変更した。新羅最後の年号だ。
一方「紀」では我が国初の元号と云われた大化である。645年から650年までの期間を指す。始まった年は2年の誤差があるが、終了は同じである。その後なぜか、「白雉」である。孝徳はなくなっていない。なぜ大化ではないのか。あるいは、永徽を隠すためか。その白雉も同じく5年で終わる。
日本最初の元号などと、今でも信じる学者がいる。その孝徳が死んだ後に本来なら中大兄は即位しても良いが、天皇の地位を譲った。中大兄は即位せず、母の皇極に譲った。皇極は斉明と死後、名付けられたのだが、
新羅でも、善徳女王(皇極に当たる)が死んだ後、妹の真徳(新羅本紀は否定)を王に任命した。
金春秋は即位せず、に姉(新羅本紀は否定)の真徳女帝に王位を譲っているのも、似ている。中大兄と同盟者中臣鎌足は、蘇我倉山田麻呂長女を妃とした。金春秋は、金ゆ信の妹、文(明皇后)姫を娶った。その姉が寶姫だ。偶然にも母の皇極天皇は、寶姫という。重ねて天皇になった時は斉明と呼ばれた。
「明」は二人とも使っている文字、賽明とも書かれるこの字は寶と似ていないか?
2》「日本書紀皇極紀」は、α群(記録者は唐人)と云って、「紀」では、最初に書かれたものです。観14と同時にスタートして共に唐人により、正格漢文で記録された。(森)内容は、彼らが考えたものではない。
ここでは、「蘇我氏が国政を欲しいままにし、多くの無礼を行った。王でもないのに等」と非難した皇室の上宮(大郎姫王)家を滅ぼした記事がある。
続いて、皇極天皇二年(六四三)十一月丙子朔
山背大兄王らを斑鳩で襲(掩)った。山背大兄は、一旦、生駒山に避難したが、また斑鳩に戻ったのだが、山背大兄は「戦になって百姓を殺傷したくない」と言って、皆で焼け死んだことになった。(美談)
上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』で東宮・聖徳という言葉を使っていない。上宮太子・皇太子である。(皇太子豊聡耳尊トヨトミミミコト・舒明紀)
厩戸皇子は(621)推古29年[i]に斑鳩で亡くなっていることにしてある。「太陽や月が輝きを失くし、天地が崩れた」との誇大表現である。なぜ、このようなことになるか。(これらは、言うまでもなく創作であるからだ。β群推古紀は、後年、倭人習を持った方が書いたことが判明している)さて、この後、「入鹿がバカ息子でトンデモナイことをしでかした。お前の身命も危うい」というのが蝦夷の言葉だ。
<蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等惣被亡於入鹿。而嗔罵曰。噫、入鹿極甚愚痴。専行暴悪。爾之身命、不亦殆乎。>
このあたりから、中臣鎌子が登場してくる。[ii] 鎌子は、人となりが、忠正で、乱れを正して救う心があった。入鹿が社稷(国家)の隙を窺うので賢主を探し、心を中大兄に寄せたが近づけなかった。蹴鞠での出会い7をきっかけに親しくなり、親交をするようになった。中大兄は、同盟者、蘇我倉山田麻呂娘(妹)を妃とした。この蹴鞠自体この時代にはなかったと云われる。[iii]
厩戸は621年に亡くなったことになっている。天地が崩壊し、太陽も月も輝きを失くしたなどとは、621年には、科学的にいってもないことだし、643年山背大兄は、斑鳩寺で焼死したとあるが、これも架空のことにすぎない。これらを聖徳太子に仕立てるにはあまりにも酷な展開だ。ここ643年に登場する冠位12階も疑惑大だ。(阿毎多利思北弧(矛)朝廷のものであるのは、疑いの余地がない。本来なら天足彦とでも推古紀に載せてあればいいものを)
[i]《推古天皇二九年二月 半夜厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮。…日月失輝。天地既崩。…
[ii]中臣鎌子から鎌足となり、最後は藤原鎌足となる。
[iii]ウィキ「蹴鞠」
3》『大化改新』劇で、蘇我氏を倒すために、創作された『蹴鞠』の話も、『三国史記』[新羅」文武王に同じ話が登場する。統一新羅建国の立役者金管伽耶の末裔、金ゆ信は、金春秋と蹴鞠をしていて、春秋の服の紐(ひも)を踏んで、引きちぎってしまった。「幸い私の家が近いから縫わせましょう」と言って家に案内し、酒を出してもてなしたあと、それを縫わせようと、長女の宝姫を呼んだが、宝姫は出てこない。 末の妹の文姫が針と糸をもってきて紐を縫いつけた。春秋は、その美しい姫の態度や物腰に一目ぼれして求婚し結婚した。
これには、前置きがある。姉の夢(西岳の上で小用を足したところ、それが麓(ふもと)の都に流れて溢れて洪水になった )を買った妹(文姫)が王の妃となる。
一方、日本書紀では、蹴鞠がきっかけで親交を結ぶようになった二人(中大兄、鎌子)は、隠し事をせず、思うところ述べ合うようになった。…「この、謀りごとをうまく運ぶには、助けがあったほうがいい。蘇我の倉山田麻呂の長女を娶って妃として婚姻により(蘇我氏と)親しさを構築してください。その後に、謀を話して実行に移したい。」
鎌子は媒酌をかって出た。ところが、姉が盗まれたので倉山田臣はたいそう憂慮し、それを怪しんだ妹は、事情を聞いたの後、自分がかってでた。ついに妹が嫁いだ。C)
ポイント
・「日本書紀」・・・・中大兄に蘇我倉山田臣の長女が嫁ぐ予定が妹になった。
・「新羅本記」・・・・金春秋に金ゆ信の(姉の夢を買っった)妹が嫁いだ。
後の太宗武烈王(春秋)の妻・文明皇后*両者とも予定では、姉が嫁ぐはずが、妹に変わった点が一致する。この後の日本書紀皇極紀は、蘇我氏は逆賊とのストーリーが続き、秦氏の有名人「河勝」の話が登場だが、これなども秦氏の関与が感じることができる。
太秦(うずまさ)は 神の中の神と 聞こえも高い
禹都麻佐波。 柯微騰母柯微騰。 枳挙曳倶屡。
常世の神を うち懲らしめなさった。
騰挙預能柯微乎。 宇智岐多麻須母。
PDFのアップで失敗しました。リンクお許しください。簡単な表にしてあるのでこちらも参考に
1素人向けにしましたが、わかりやすいかどうか?
http://bian.in/manase8775/yusin614new.pdf
2こちらのほうがすごい(私邸と私第)証拠を挙げてあります。
http://bian.in/manase8775/kamatariF.pdf
A・Bは、新羅本記「文武王」から引用
後、數日 信與春秋公蹴鞠 因踐落春秋衣紐 信曰 吾家幸近 請往綴紐 因與倶往宅 置酒 從容喚寶姫 持針線來縫 其有故不進 其季進前縫綴 淡粧輕服 光艶人 春秋見而ス之 乃請婚成禮 *A
母金氏文明王后 蘇判舒玄之季女 信之妹也 其夢登西兄山頂坐 旋流國内 覺與季言夢 季戯曰 予願買兄此夢 因與錦裙爲直* B
C)日本書紀朝日新聞社版から引用7
請納蘇我倉山田麻呂長女。為妃、而成婚姻之眤。然後陳説、欲与計事。・・・中臣鎌子連即自徃媒要訖。而長女所期之夜被倫於族。〈 族 〉由是倉山田臣憂惶。仰臥不知所為。少女怪父憂色、就而問曰。憂悔何也。父陳其由。少女曰。願勿為憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悦。遂進其女。奉以赤心。更無所忌。C)
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