01. 2011年9月03日 21:20:07: MiKEdq2F3Q
デマを流したのは正力 「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。
民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 関東大震災に便乗した治安対策 陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒
正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。 このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。 この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。 月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。
この時、正力は官房主事兼高等課長だった。 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。 警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。 ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、
第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。 その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。 朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。
そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。
正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。 正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html 「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力
正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。
「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。 以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。 いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。 「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。 伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。
論理的な解明は不可能ではない。 ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。 「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。 字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。 詳しい研究は数多い。 『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、 すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。
では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。
シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。
石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。 震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。 ところが食料がまったくない。 石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。
『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。 ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、 『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』
と頼まれたということであった」
ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、 予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、
というのが下村の論拠だった。 下村は台湾総督府民政長官を経験している。 植民地や朝鮮人問題には詳しい。 そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見
ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。
内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。
『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。 『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。
この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。
わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。 念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。
報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。 各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。 各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。 戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。
要点はつぎのようである。 「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」
「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」
同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。
実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。
同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。 発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。 ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html 号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄
務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。
「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。 ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。 「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。
そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。 地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。 輪転機用の巻紙もない。 だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。 しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。
本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。
普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。 晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。 つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。
斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。 『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。 そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。 もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。 しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。 結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。 奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。
著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。 読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。 あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html 「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者 「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。
軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。 民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。
しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。 歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、 大森大尉は、 「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、 『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』 と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。
なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。 「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。 前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。 「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。
これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。
ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。 戒厳令には「敵」が必要だった。
警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。 その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。
震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。 さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。 正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺
戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。
前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。 「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ 『こうなったらやりましょう』 といきまき、阿部信行参謀をして 『正力は気がちがったのではないか』 といわしめたと語っている」 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。
これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。 正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。 「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。 森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。
だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。
だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。 警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。 その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html 「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁
関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。
第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。 前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。 背後には日本の最高権力の意思が働いていた。 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。
日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。 朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。 社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。 これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。 その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。 上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。
中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。 警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。 軍の方が虐殺業務の下請けなのである。 当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。 全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。 『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。
「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、 『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』 という通牒を出した。 さらに十一日には、正力官房主事名で、 『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』 という命令が発せられた」 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。
ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html 「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力
『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。
かれら八名の社会主義者が 「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」 時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。
署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。 古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。 『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。 「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、
軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、 今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。 警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。
まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。 つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、 そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。 「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。 正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。
正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。 だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。 『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。
警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。 引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。 古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。 結果は、違法なリンチ処刑だった。 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。
警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。 留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。 「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。 反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。 「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。 両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。
「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html |