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特別展:「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」 東京国立博物館であす開幕(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/519.html
投稿者 元引籠り 日時 2011 年 7 月 27 日 00:44:30: dkOnWN./sADdA
 

「孫文氏と共に大アジア主義を奉じて遂に革命を成功させた」。1934年11月24日の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊に掲載された梅屋庄吉の訃報記事だ。しかし、辛亥革命(1911年)を支援した日本人は今や忘れられた存在になったともいえる。東京国立博物館で26日開幕する特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」は、写真など約260点により、高い志を持って生きた2人とその時代に改めてスポットをあてる。【山田研】

 ◆孫文

 ◇革命、日本も拠点
 ひげを生やし、スーツ姿の孫文を中央に、中国と日本の革命家らが並ぶ写真が、特別展に展示される。撮影は1911年12月。この年の10月に湖北省武昌(現武漢市の一部)で上がった辛亥革命の火の手を米国滞在中に知った孫文が、欧州を経て香港まで戻った際の記念撮影だ。緊張感とともに晴れがましさが伝わるようなカット。上海で上陸した孫文は、革命派17省の代表から選ばれて、12年1月1日に南京で中華民国臨時政府の臨時大総統となった。翌2月には宣統帝溥儀(ふぎ)が退位して清朝は滅亡した。

 しかし革命家が歩んだ道はその前もその後も平たんでなかった。

 孫文は1866年、広東省の生まれ。マカオで医師になったころには救国の意識が強く、清朝に政治改革の意見書を出したものの取り上げられないとハワイへ渡航。革命を志して武装蜂起の準備を進めた。香港へ戻って「興中会」を結成。1895年10月には最初の武装蜂起を広州で企てたが、辛亥革命半年前までに10回失敗している。この間、清朝から逃れ、日本や東南アジア、欧米にも渡り、華僑らから革命資金を集めるとともに知名度を高めた。1905年には東京で、各地の革命派を集めた「中国同盟会」を結成した。

 孫文は臨時大総統の座を就任2カ月後に、共和制支持に転じた清の内閣総理大臣で列強の支持を集めていた袁世凱(えんせいがい)に譲った。

 しかし、北京を拠点にした袁が専制色を強め、独立を表明した諸省による第二革命を鎮圧すると、孫文は日本へ亡命。この時期に東京で写された写真からは、陳其美(ちんきび)、胡漢民(こかんみん)ら多くの革命家が逃れていたことが分かる。その後、17年には広州で軍政府を組織し、袁死後の北京政府と対決色を強めた。クーデターにより上海へ逃れた時期もあったが、ソ連や中国共産党との協調路線を進めるとともに、財政面から政権基盤を強化。24年4月には三民(民族・民権・民生)主義と五権(司法・行政・立法・監察・人事)憲法に基づく国造り方針を表明した。そして話し合いによる統一を視野に北京へ入ったが、病状が悪化。「革命尚(なお)いまだ成功せず」との言葉を残し25年に死去した。

 ◆梅屋庄吉

 ◇志に感激、生涯支援
 梅屋庄吉が孫文と初めて会った日を示すとみられる記述を、特別展事前調査で長崎歴史文化博物館の平岡隆二主任研究員が梅屋のひ孫、小坂文乃氏所蔵品から発見した。梅屋が備忘録的に記したとされる「永代日記」にある「孫文 (明治)二十八年三月十三日 香港中環大馬路第八号」の記述だ。1895年のことで、日清戦争終結前にあたる。

 「中日の親善、東洋の興隆将又(はたまた)人類の平等に就(つい)て全く所見を同じうし(中略)先づ(まず)大中華の革命を遂行せんとする先生の雄図、熱誠は甚しく我が壮心を感激せしめ(後略)」

 孫文支援者としての梅屋の存在をいち早く伝えた車田譲治氏の著作「国父孫文と梅屋庄吉」(1975年)によると、1929年にあった孫文の葬儀の追悼で、梅屋は出会いの感激で生涯の支援を決意したことをこのように振り返ったという。

 梅屋は「明治元年11月26日」(「永代日記」。旧暦表記と推定され1869年1月8日とみられる)に生まれてすぐ、長崎市の貿易商の養子となった。若くして海を渡り、香港で写真館を経営していた時に孫文に出会った。

 その後、革命軍支援が清朝側に発覚し、逃亡したシンガポールで映画興行を始めたという。1905年の帰国直後に東京でMパテー商会を設立、興行や製作にあたった。記録映画に熱心で、11年には辛亥革命や日本人初の南極大陸上陸の撮影に社員を派遣した。また、大手映画会社4社を統合して日本活動写真(日活)を12年に設立した。

 一方で、亡命中の孫文と宋慶齢(後の中国国家副主席)の結婚に妻トクとともに力を貸した。「賢母」と孫文が揮毫(きごう)した梅屋の羽織が残されている。小坂氏はこの言葉について、孫文が「革命の父」と呼ばれたことに絡めて「支援したことで曽祖父は『革命の母』と思われたのかもしれないし、トクへの感謝の表れかもしれない」と語る。

 梅屋邸で15年に開かれた孫文の披露宴には後の首相、犬養毅ら多くの支援者が集まったという。当時少なからぬ日本人が財政面や時には直接戦闘に参加して革命を支援。またその対象も中国革命にとどまらず、梅屋自身がインドやフィリピンの独立運動を支援した記録も残る。

 孫文の死後、梅屋は孫文の銅像を作り、中国に4基を贈った。さらに日中の関係改善を目指したが、34年に死去した。

 ◇辛亥革命の革命家と支援者
 梅屋庄吉

 犬養毅

 安川敬一郎

 許崇智

 胡漢民

 鄒魯

 写真の所蔵は「犬養」=犬養木堂記念館▽「安川」=北九州市立自然史・歴史博物館▽その他=小坂文乃氏

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http://mainichi.jp/enta/art/news/20110725dde010040035000c.html  

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コメント
 
1. 2017年1月10日 21:33:46 : zwncQA9nF6 : ZPfiA28jEqI[7]


            孫文を疑え

                     村上 学

 共産中国も台湾も「国父」と仰いで尊敬する「孫文」とは、わが国においても「南方熊楠、宮崎滔天、頭山満、内田良平などと親交があり、政府も兵庫県も神戸市も多大な経済援助を与え、東京で革命のための連盟を結成させ、日本人にアジア主義を指導した」などと書籍などで紹介され、まったく「歴史的偉人」扱いをされている。果たして、その評価は正当なものだろうか。伝えられていない事実はないのだろうか。ここでは、角度を変えて考えてみたい。

 孫文についてのアウトラインは、皆さんには説明の必要はないだろう。ほとんどの日本人が孫文を好意的に見ているようだが、一般には知られていない事実があった。それを知った上で、もう一度「孫文」を考え直して頂きたい。
 華僑博物館の館長として著名な「陳徳仁」先生が発行した孫文に関しての書籍の中に、驚きの事実が隠されていた。
 まず、孫文の歴史年表の中には「一八八八年(明治二十一年)三月二十四日、父親の達成が死去し、孫文二十二歳の時に郷里恵陽県(広東)に帰り「三合会」の会長に就任した」 と書かれている。孫文の父親・達成は、広東最大暴力団の「三合会」の会長であったが、死去したために息子の孫文が跡目を継いだのである。
 若くして広東最大組織の総長に就いた孫文は、「医者であり薬屋であった」という表面的な顔とは違うものを持っていたはずだ。現在でも中国では、広域暴力団の俗称は「三合会」と呼び、国際的にも中国や香港の黒社会の中核組織を「トライアド」と呼んでいる。
 「清朝を倒して満州族を絶滅させ、明朝の漢民族国家を取り戻せ」との合言葉は、清朝末期の阿片戦争中(一八四〇年〜)に華中と華南で大規模に発生した「洪門」と呼ばれた漢民族の右翼秘密結社が大義名分とした「反清復明」運動で大きく叫ばれた。「洪門」の中心だった「三合会」や「天地会」などは、一八五〇年に起こった「太平天国の乱」で治安が乱れたことをチャンスに、出身地や職業ごとに所属する下部組織を立ち上げて巨大化した。
 組織は麻薬、賭博、殺人、みかじめ料などで運営されていたが、ほとんどは福建、広東、香港に拠点を置いた。一八九五年に「三合会」から選抜された右翼突撃隊「興中会」(漢民族の中国を復興させる)が孫文の命令で革命に走るが失敗し、組織は香港に逃れ、孫文は日本に逃れた。この頃から、組織は日本軍「興亜機関」に協力して、後ろ楯に使うようになった。つまり孫文は「興亜機関」の「支那代理人」だったのである。
 これを見ていて学習した「蒋介石」の国民党は、上海と広東の中小組織を糾合して「洪発山」という連合組織を作ったが、国民党が共産党に敗れた後は香港に移り、現在の強力な暴力団「14K」に衣替えしている。

 さて、「大アジア主義」と一般に言われている大正十三年(一九二四年)十一月二十八日に神戸高等女学校講堂で行われた講演会のテーマは、孫文自身は「大亜洲論」と言っていたものだ。これの全文を読んだ人は少ないようだが、最後の部分「日本は西洋覇道の犬となるか、東洋王道の干城となるか、日本国民の慎重に考慮すべきことである」だけにスポットを当てて、さも孫文が偉大な哲学者だったとしている声をよく聞く。だが、この講演内容の骨子は、そんなありがたいものではない。
 大正十三年十二月一日に神戸で新聞報道された講演録では、いくつかの気になる点がある。(国父全集収蔵)

 「全欧州の人民はあたかも父母を失ったごとくに悲しみ憂えたのであります。英国は日本と同盟国でありましたが、この消息を知った英国の大多数はいずれも眉をひそめ、日本がかくのごとき大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります」と、日露戦争において日本がロシアを破ったことを、日本が白人種から忌み嫌われる原因になったと分析する。また、自ら漢民族の国家を「中心国(中国)」と呼んだ孫文は、「弱小民族および国家は、いずれも中国を宗主国となし、中国に朝貢することをもって光栄とし、朝貢できないことを恥辱としていた有り様であった」
と現在の中華帝国思想を誇っている。
 そして、日本が破ったロシアに共産主義革命が起こり、ソビエト連邦が発足するのに合わせて「日本は共産主義ロシアと手を結べ」と悪魔の囁きをするのである。

 「現在欧州には、欧州全部の白人から排斥され、毒蛇猛獣であって人類ではないように思われ、少しも接近されない国があります。わがアジアにも同様の考えを持っているものがかなりあります。然らばその国はどこであるかと言いますと、それはロシアであります。(中略)ロシアの新文化は、わが東洋古来の文化に合致するものであって、彼らは東洋と手を握り、西洋より分家しようとしているのであります。欧州人はロシアの新しい主義が、彼らの主張と合致せず、かつロシアの主張が成功する時は、彼らの覇道が打破せられるだろうことを恐れ、ロシアが仁義正道を説く国であることには目もくれず、かえってロシアは世界の反逆者であるとそしるのであります」
と、共産主義が「仁義正道」であり東洋古来の文化に合致する素晴らしいものだと宣伝しているのである。
 このような理論展開でもって、最終的に「西洋覇道、東洋王道」と言うのであるから、少なくとも共産主義が東洋王道であるという意味には違いないだろう。つまり、中共も台湾も「国父孫文」と呼ぶのは、あくまで「日本・欧州白人・共産ロシア」の三極を見据えた大規模なぺテンなのである。

 月刊中国の鳴霞さんが言っていた、「中国人には気をつけなさい。何から何まで全部偽物です。しかし、詐欺師だけは本物です」。
 孫文は壮大、遠大な歴史的詐欺師だったのかもしれない。その呪縛は今でも人々を縛り続けている。皆さん、孫文を疑うことで、日本と中国の真の関係を模索してみてはいかがだろ。

http://www.meix-net.or.jp/~minsen/kako/murakami/murakami2.htm


2. 2017年1月10日 21:38:46 : zwncQA9nF6 : ZPfiA28jEqI[8]

台湾は日本の生命線!

中国の軍拡目標はアジア太平洋での覇権確立。そしてその第一段階が台湾併呑。もし我が「不沈空母・台湾」が「中国の空母」と化せば日本は・・・。政府・媒体が敢えて語らぬ生命線防衛の重要性を考えたい。


戦う台湾独立勢力―国民党・洗脳支配の道具「孫文銅像」を引き倒し!(附:現地映像)

2014/02/23/Sun
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2312.html


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