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「孫文氏と共に大アジア主義を奉じて遂に革命を成功させた」。1934年11月24日の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊に掲載された梅屋庄吉の訃報記事だ。しかし、辛亥革命(1911年)を支援した日本人は今や忘れられた存在になったともいえる。東京国立博物館で26日開幕する特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」は、写真など約260点により、高い志を持って生きた2人とその時代に改めてスポットをあてる。【山田研】
◆孫文
◇革命、日本も拠点
ひげを生やし、スーツ姿の孫文を中央に、中国と日本の革命家らが並ぶ写真が、特別展に展示される。撮影は1911年12月。この年の10月に湖北省武昌(現武漢市の一部)で上がった辛亥革命の火の手を米国滞在中に知った孫文が、欧州を経て香港まで戻った際の記念撮影だ。緊張感とともに晴れがましさが伝わるようなカット。上海で上陸した孫文は、革命派17省の代表から選ばれて、12年1月1日に南京で中華民国臨時政府の臨時大総統となった。翌2月には宣統帝溥儀(ふぎ)が退位して清朝は滅亡した。
しかし革命家が歩んだ道はその前もその後も平たんでなかった。
孫文は1866年、広東省の生まれ。マカオで医師になったころには救国の意識が強く、清朝に政治改革の意見書を出したものの取り上げられないとハワイへ渡航。革命を志して武装蜂起の準備を進めた。香港へ戻って「興中会」を結成。1895年10月には最初の武装蜂起を広州で企てたが、辛亥革命半年前までに10回失敗している。この間、清朝から逃れ、日本や東南アジア、欧米にも渡り、華僑らから革命資金を集めるとともに知名度を高めた。1905年には東京で、各地の革命派を集めた「中国同盟会」を結成した。
孫文は臨時大総統の座を就任2カ月後に、共和制支持に転じた清の内閣総理大臣で列強の支持を集めていた袁世凱(えんせいがい)に譲った。
しかし、北京を拠点にした袁が専制色を強め、独立を表明した諸省による第二革命を鎮圧すると、孫文は日本へ亡命。この時期に東京で写された写真からは、陳其美(ちんきび)、胡漢民(こかんみん)ら多くの革命家が逃れていたことが分かる。その後、17年には広州で軍政府を組織し、袁死後の北京政府と対決色を強めた。クーデターにより上海へ逃れた時期もあったが、ソ連や中国共産党との協調路線を進めるとともに、財政面から政権基盤を強化。24年4月には三民(民族・民権・民生)主義と五権(司法・行政・立法・監察・人事)憲法に基づく国造り方針を表明した。そして話し合いによる統一を視野に北京へ入ったが、病状が悪化。「革命尚(なお)いまだ成功せず」との言葉を残し25年に死去した。
◆梅屋庄吉
◇志に感激、生涯支援
梅屋庄吉が孫文と初めて会った日を示すとみられる記述を、特別展事前調査で長崎歴史文化博物館の平岡隆二主任研究員が梅屋のひ孫、小坂文乃氏所蔵品から発見した。梅屋が備忘録的に記したとされる「永代日記」にある「孫文 (明治)二十八年三月十三日 香港中環大馬路第八号」の記述だ。1895年のことで、日清戦争終結前にあたる。
「中日の親善、東洋の興隆将又(はたまた)人類の平等に就(つい)て全く所見を同じうし(中略)先づ(まず)大中華の革命を遂行せんとする先生の雄図、熱誠は甚しく我が壮心を感激せしめ(後略)」
孫文支援者としての梅屋の存在をいち早く伝えた車田譲治氏の著作「国父孫文と梅屋庄吉」(1975年)によると、1929年にあった孫文の葬儀の追悼で、梅屋は出会いの感激で生涯の支援を決意したことをこのように振り返ったという。
梅屋は「明治元年11月26日」(「永代日記」。旧暦表記と推定され1869年1月8日とみられる)に生まれてすぐ、長崎市の貿易商の養子となった。若くして海を渡り、香港で写真館を経営していた時に孫文に出会った。
その後、革命軍支援が清朝側に発覚し、逃亡したシンガポールで映画興行を始めたという。1905年の帰国直後に東京でMパテー商会を設立、興行や製作にあたった。記録映画に熱心で、11年には辛亥革命や日本人初の南極大陸上陸の撮影に社員を派遣した。また、大手映画会社4社を統合して日本活動写真(日活)を12年に設立した。
一方で、亡命中の孫文と宋慶齢(後の中国国家副主席)の結婚に妻トクとともに力を貸した。「賢母」と孫文が揮毫(きごう)した梅屋の羽織が残されている。小坂氏はこの言葉について、孫文が「革命の父」と呼ばれたことに絡めて「支援したことで曽祖父は『革命の母』と思われたのかもしれないし、トクへの感謝の表れかもしれない」と語る。
梅屋邸で15年に開かれた孫文の披露宴には後の首相、犬養毅ら多くの支援者が集まったという。当時少なからぬ日本人が財政面や時には直接戦闘に参加して革命を支援。またその対象も中国革命にとどまらず、梅屋自身がインドやフィリピンの独立運動を支援した記録も残る。
孫文の死後、梅屋は孫文の銅像を作り、中国に4基を贈った。さらに日中の関係改善を目指したが、34年に死去した。
◇辛亥革命の革命家と支援者
梅屋庄吉
犬養毅
安川敬一郎
許崇智
胡漢民
鄒魯
写真の所蔵は「犬養」=犬養木堂記念館▽「安川」=北九州市立自然史・歴史博物館▽その他=小坂文乃氏
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http://mainichi.jp/enta/art/news/20110725dde010040035000c.html
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