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第九章
ギャランティ・トラスト、ロシアへ行く
ソ連政府は、ソ連のすべての事業のためにGuarantee[原文のまま] Trust Companyが合衆国における金融エージェントになることを望み、ソ連の資産をアメリカの金融財閥と完全に結びつけるという見地で、American purchase Eestibankを熟視している。
1920年6月1日、ロンドン駐在合衆国大使へのウィリアム・H・クームスのレポートより(合衆国国務省十進法ファイル861.51/752)
("Eestibank"はエストニアの銀行であった。)
1918年、ソ連は一続きの混乱した内部および外部の問題に直面した。彼らはロシアのほんの一部を占めていた。残りを征服するためには、彼らは外国の軍隊、輸入食料、外部の金融支援、外交上の承認、およびとりわけ海外貿易を必要としていた。外交上の承認および海外貿易を獲得するため、ソ連は先ず第一に海外での代表者を必要とし、代表者はさらに金または外貨を通しての融資を必要とした。既に述べてきたように、最初のステップはルドウィグ・マルテンスの下にニューヨークにおいてソ連支局を設立することであった。必要な商品を購入するため、合衆国および欧州に資金を送るための努力が同時になされた。その次に、合衆国において、承認を得るため、およびロシアへ商品を船積みするための輸出ライセンスを得るための影響力が行使された。
p. 145
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ニューヨークの銀行家および弁護士は、これらの仕事の各々に対して重要な ―数ケースでは決め手となった― 支援をした。ソ連支局におけるロシアの技術的専門家であるジョージ・V・ロモノッソフがスカンジナビアのソ連エージェントの長から資金を移動させる必要があったとき、著名なウォール街の弁護士が彼を助けるためにやってきて、公的な国務省のチャンネルや国務長官代理を仲介者として利用した。金銭を合衆国に送られねばならなくなったとき、その便を要求し、物事を円滑に運ぶためにワシントンへの影響力を行使したのは、American International Corporation、Kuhn, Loeb & Co.、およびGuaranty Trustであった。そしてそれが承認されたとき、アメリカ企業が議会および市民とともにソ連体制を是認するように申し立てているのが分かる。
もし、読者がこれらの主張から、ウォール街が本当に共産主義者に染まっていたとか、赤旗がウォール街で棚引いていた(口絵を参照)と推量しないならば、次章においてJ.P.モルガン商会がシベリアのコルチャック提督を金融支援したという証拠も提示する。アレクサンドル・コルチャックは権威主義的な規則という彼自身のブランドを据え付けるためにボルシェビキと戦っていた。モルガン商会は反共産主義の連合アメリカ組織にも貢献していた。
ウォール街、ロモノッソフ教授を援助する
ロモノッソフ教授の事例は、初期のソ連体制をウォール街が支援したという歴史の詳細が明らかな事例である。1918年末に、ニューヨークのソ連支局メンバーで、のちにソ連鉄道の初代代表になったジョージ・V・ロモノッソフは、合衆国において資金不足で彼自身が立ち往生しているのを知った。このとき、ボルシェビキの資金は合衆国に入るのを拒まれていた。確かにその体制の公的な承認は全くされてなかった。ロモノッソフは、合衆国司法省から国務省への1918年10月24日付けの手紙の主題であった。1 その手紙はロモノッソフのボルシェビキ的特質と親ボルシェビキ的発言に言及していた。司法省の調査官は、「ロモノッソフ教授の発言はボルシェビキの理想に対して明確な支援を構成しているけれども、彼はボルシェビキではない」と結論した。けれども、ロモノッソフは、(のちにChase Bankの副会長リーブ・シュレイの腹心の補佐人となった)スカンジナビアのソ連諜報員を通して、ソ連から2万5千ドルを送ってもらうために政府の最高レベルで糸を引くことができた。これはすべて弁護士達の著名なウォール街企業のメンバーの支援によるものだった!2
脚注
1 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/3094.
2 This section is from U.S., Senate, Russian Propaganda, hearings before a subcommittee of the Committee on Foreign Relations, 66th Cong., 2d sess., 1920.
p. 146
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その証拠は詳細に提示されている。なぜならば、今までは憎い敵として考えられてきたある財閥間の親密な関係をその詳細が指摘しているからである。ロムノッソフの問題の最初の指摘は、1919年1月7日付けのウォール街14番地のChadbourne, Babbitt & Wall(ウィリアム・ボイス・トンプソンと同じ住所)のトーマス・L・チャドボウルネから国務長官代理フランク・ポークへの手紙である。スカンジナビアの諜報員の長で後にロモノッソフの補佐官となった、アレクサンダー・ガンベルグという別名を持つミカエル・グルゼンベルグに対する親しみを込めた挨拶と打ち解けた関係に気付きなさい。
親愛なるフランク:もし、私が君にロモノッソフ夫妻に属している個人資産の2万5千ドルの費目の状態について知らせたら、彼らのためにここでそれを得るために組織を動かそうと、君は親切に言ってくれた。
私はそれに関してロモノッソフ氏と連絡したところ、彼は私に以下のように述べた。―バクメテフ大使とロモノッソフ氏の間の障害に先立って、ロモノッソフ氏のためにロシアに行ったミカエル・グルゼンベルグ氏は、最近スウェーデンから到着した3人のロシア人を通してこの金銭に関する情報を彼に伝えた。ロモノッソフ氏は、その金銭はストックホルムのMilmskilnad Gaten37番地のロシア大使館で所持されていると信じている。― もし、国務省の調査によりこれが預金してある場所でないことが明らかにされたならば、ストックホルム駐在のロシア大使がそれに関する適切な情報を与え得るグルゼンベルグ氏の正確な住所を示し得る。ロモノッソフ氏は手紙が書かれていたことを知らされていたけれども、グルゼンベルグ氏からの手紙を受け取っていない。グルゼンベルグ氏への彼の手紙が一通も届いていないことも彼は知らされている。こういう理由で、これ以上に明確にすることは出来ないが、資金の欠乏に対する夫妻の当惑を救うために何かできると思うし、水のこちら側にいる彼らを援助するために彼らに属するこの金銭を確保するのは少しの助けが必要なだけだと思う。
君がしてくれるであろうことに対し、前もって感謝する。変わらない関係を乞う。
敬具
トーマス・L・チャドブルネ
p. 147
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1919年、この手紙が書かれたとき、チャドブルネはワシントンにおけるその年のドル男で、U.S. War Trade Boardの法律顧問兼取締役で、更に合衆国政府の公式の最前線会社であるU.S. Russian Bureau Inc.の取締役であった。以前、1915年、チャドブルネは戦争ビジネスを利用するためMidvale Steel and Ordnanceを組織した。1916年、彼はDemocratic Finance Committeeの会長になり、のちにWright Aeronautical and of Mack Trucksの取締役になった。
ロモノッソフがグルゼンベルグからの手紙を受け取っていなかった理由は、その手紙は多分グルゼンベルグの活動に強い関心を持っていた政府機関の一つによって横取りされたということである。
1919年1月11日、フランク・ポークはストックホルムのアメリカ公使館に電報を送った。
省はあの2万5千ドルの個人資産の情報を得ている。もし、そのような金銭がかくのごとく保持されているならば、非公式にかつ個人的にロシア公使館へ問い合わせて頂きたく。もし、そうでないならば、この問題についての情報を持っていると報告されているミカエル・グルゼンベルグ氏の住所を突き止めて頂きたく。省は公式には関知していないのであり、この国の元ロシア役人のために単に問い合わせている。
ポーク、国務長官代理
ポークは、この手紙において、ロモノッソフのボルシェビキとの繋がりに気付いていないように思われ、彼を"この国の元ロシア役人"と呼んでいる。それはともあれ、3日以内にポークはストックホルムの合衆国公使館のモリスから返事を受け取った。
書番3492、1月14日3時 (書番1443、1月12日3時への返信)
合唱国におけるロシアのコミュニケーション方法委員会の前議長の2万5千ドルの金銭の件は、ロシア公使館では分からない。また、ミカエル・グルゼンベルグの住所も得られない。
モリス
どうやらフランク・ポークは、次にチャドボウルネへ手紙を書いたようで(その手紙は資料に含まれていない)、省はロモノッソフもミカエル・グルゼンベルグも調べることができなかったと知らせた。チャドボウルネは1919年1月21日に返事した。
親愛なるフランク:1月21日の手紙、有り難く拝読した。スウェーデンにはソ連の公使館とケレンスキーの公使館の二つがあると理解していて、手紙で示した住所はソ連公使館のそれ、すなわちストックホルム、ミルムスキルナド-ガテン37番地だったので、貴殿の問合せがソ連公使館に対してとなったのだと思う。
ミカエル・グルゼンベルグの住所は、ノルウェイ、クリスチアニア、ホルメンコーレン-サニタリウムであり、ソ連公使館が彼と連絡を取るならば、グルゼンベルグを通してその金銭について全て分かるだろうと思う。
この骨折りに対し感謝するとともに、私が深く貴殿に感謝していることを伝える。
敬具
トーマス・L・チャドボウルネ
p. 148
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国務長官代理とストックホルム駐在合衆国公使が住所の記録を持っておらず、公使館が追跡できないその時に、ウォール街の弁護士はスカンジナビアのボルシェビキのエージェントの長であるグルゼンベルグの住所を知っていたことに留意すべきである。その政府が合衆国によって承認されておらず、チャドボウルネのWar Trade Boardにおける公式な政府の地位は彼にそれを知ることを要求したであろうに、チャドボウルネはソ連がロシアの公式の政府だとも考えていた。
それから、フランク・ポークはクリスチアニアのアメリカ公使館に電報をして、ミカエル・グルゼンベルグの住所を知らせた。ポークがスパイ活動をしているエージェントの住所を知らせているのだと自覚していたかは不明であるが、彼のメッセージは次のようである。
アメリカ公使館御中、1919年1月25日。 ミカエル・グルゼンベルグはホルメンコーレン-サニタリウムにいるとの報告を受けている。彼の所在をつきとめられるだろうか。また、合衆国のロシアのコミュニケーション方法委員会の前議長であるロモノッソフ教授のものである2万5千ドルの資金の処置に関して、彼が何か知っているか問い合わせできないだろうか。
長官代理ポーク
クリスチアニアの合衆国代表者(シュメデマン)はグルゼンベルグを良く知っていた。実際、その名前は、ノルウェイにおけるグルゼンベルグの親ソビエト活動に関するシュメデマンからワシントンへのレポートに登場している。シュメデマンは次のように返答した。
1月29日、午後8時、書番1543、重要。 貴殿の1月25日の電報No.650
本日、ロシアに出発する前に、ミカエル・グルゼンベルグは我々の海軍大使館員に、数ヶ月前ロシアに居た時に彼は、ロモノッソフの要求で、ロモノッソフ教授が社長をしていたRussian Railway Experimental Instituteから2万5千ドルを受け取ったことを知らせた。グルゼンベルグは、本日ニューヨークのロモノッソフのために大使館員モリス・ヒルキット(Morris Hillquitt [原文のまま])に電報を送ったということ、および彼すなわちグルゼンベルグはその金銭を所有していて、それを送金する前に合衆国からの更なる指示を待っていて、ロモノッソフが、その金銭の受領を待つ間、ヒルキットによって彼自身および家族のための生活費を支給されるべきだという電報を要求していてると主張している。3
モリス大臣はグルゼンベルグと同じ列車でストックホルムへ旅行しているので、グルゼンベルグはこの問題についてモリスに更なるアドバイスをするであろうと述べていた。
シュメデマン
脚注
3 Morris Hillquit was the intermediary between New York banker Eugene Boissevain and John Reed in Petrograd.
p. 149
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合衆国の大臣がグルゼンベルグとストックホルムへ旅行し、そこでポークからの次の電報を受け取った。
クリスチアニアの公使館から、ミカエル・グルゼンベルグはG.ロモノッソフ教授に渡す予定の、Russian Railway Experimental Instituteから受け取った計2万5千ドルを持っているとの報告が入っている。もし、ボルシェビキのその筋に嗅ぎ付かれることなくできるならばであるが、この国にいるロモノッソフ教授にその金銭を渡すのを助けてくれたら有り難いと思う。返事を下さい。
長官代理ポーク
この電報は1919年2月5日に結果をもたらした。フランク・ポークは、"危険なボルシェビキ運動家"であるグゼンベルグについて次のような手紙を書いた。
親愛なるトム:私はクリスチアニアからの ―ミカエル・グルゼンベルグはロモノッソフ教授の2万5千ドルを持っていて、それはRussian Railway Experimental Instituteから受け取ったものである。また、問題の資金が彼に届くまでの生活費を工面するようにと、グルゼンベルグはニューヨークのモリス・ヒルキットに電報していた。― という内容の電報を所持している。グルゼンベルグは危険なボルシェビキ運動家と看做されてノルウェイを追放されたばかりなので、その国から電報を送るのは困難であった。彼はクリスチアニアに去ったと私は理解している。また、本省の職務の範囲を若干逸脱しているが、もし貴殿が望むならば、私がグルゼンベルグ氏にその金銭をストックホルムからロモノッソフ教授に送らせることが可能か喜んで試してみるし、現地の我が大臣に電報してそれがなされるか調べてみよう。
敬具
フランク・L・ポーク
このポークの手紙において言及されているクリスチアニアからの電報には、次のように書かれている。
2月3日、午後6時、電報No.3580、重要。ノルウェイのボルシェビキ前代表者の一人であるミカエル・グルゼンベルグによってロモノッソフ教授に送られるべき1万ドルは、私の指示によりストックホルムの口座に預けられている。私は、この金銭を受け入れる前に彼に、私は貴殿と連絡し、この金銭をロモノッソフ教授に送るのが貴殿の要望に適っているかを問い合わせると知らせた。それ故、私は職務に従い貴殿の指示を求めます。
モリス
p. 150
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引き続き、ストックホルム駐在のモリスはストックホルムの銀行に預けられている1万ドルの小切手の処置についての指示を仰いだ。彼の言い回し「[これは]その事柄に関しての私の唯一のコネクションである」は、この行為がそのような資金移動を合衆国が承認することを暗示したので、ソ連はこれを公式に迅速に資金移動するように要求でき、多分要求するであろうと、モリスが気付いていたことを示唆している。この時までは、ソ連は金銭を合衆国にこっそり持ち込むしかなかった。
2月12日、午後4時、電報No.3610、通常。
私の2月3日午後6時のNo.3580および貴殿の2月8日午後7時のNo.1501に関して。ロモノッソフ教授への1万ドルを貴殿を通して送金するように私は求められているのかが明白ではない。グルゼンベルグから聞いた話では、彼はこの金銭をロモノッソフのためにストックホルムの銀行に預け、その小切手が私を通してアメリカに送られ得るとその銀行にアドバイスした。私がそのように指示されたと仮定するならば、その事柄にに関しての私の唯一のコネクションである。電報で御指示下さい。
モリス
その後、1万ドルの送金に関して、A/B Nordisk Resebureauからニューヨーク市パーク・アベニュー520番地のトーマス・L・チャドブルネ(Chadbourne)への国務省を仲介しての一連の手紙が続く。最初の手紙は送金の手順に関してのポークからの指示を含み、2番目はモリスからポークへのもので1万ドルを含み、3番目はモリスからA/B Nordisk Resebureauへのもので小切手を要求していて、4番目は小切手とともにその銀行からの返書であり、5番目は受け取り通知である。
貴殿の2月12日、午後4時、電報No.3610。 金銭はニューヨーク市パーク・アベニュー520番地のトーマス・L・チャドブルネへ直送されて良い。
国務長官代理ポーク
* * * * *
速達便 No.1600、1919年3月6日
ワシントンの国務長官閣下
拝啓、2月12日の私からの電報No.3610、およびロモノッソフ教授の計1万ドルに関する2月19日の貴省からの返信No.1524に関して。この金銭が預けられている銀行のA. B. Nordisk Resebureauに宛てて2月25日に私が差し出した手紙のコピー、2月26日付けのA. B. Nordisk Resebureauからの返事のコピー、2月27日付けのA. B. Nordisk Resebureauへの私の手紙のコピーを同封させて頂きます。
p. 151
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その銀行はこの金銭がロモノッソフ教授に送られることを望んでいるということが、この往復書簡からお分かり頂けるでしょう。しかし、2月27日付けの私の手紙からお分かり頂けるように、私は彼らに、私はニューヨーク市パーク・アベニュー520番地のトーマス・L・チャドブルネへ直送して良いという許可を得ていることを説明しました。ニューヨークNational City Bankの1万ドルの小切手とともに、チャドブルネ氏への手紙を入れた同氏宛の封筒も同封させて頂きます。
敬具
貴殿の忠実なるしもべ
イラ・N・モリス
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A. B. Nordisk Resebureau
No. 4 Vestra Tradgardsgatan, Stockholm.
拝啓:私の要求でG.V.ロモノッソフ教授に支払うべき1万ドルを受け取ったで始まる1月30日の貴社の手紙を受け取って直ぐ、この金銭がロモノッソフ教授に送られることを良しとするかを尋ねるため、私は我が政府に電報した。本日、私はそれに対する返事を受け取り、ロモノッソフ教授に支払うべき金銭をトーマス・L・チャドブルネへ直送すべしとの指示を受けた。我が政府が指示するようにそれを送って頂けると有り難い。
敬具
イラ・N・モリス
* * * * *
I.N.モリス殿
合衆国大使、ストックホルム
拝啓:G.V.ロモノッソフ教授への1万ドルの支払いに関しての昨日届いた書簡に対して感謝申し上げ、G.V.ロモノッソフ教授への上記金額の小切手を同封することを喜びとします。それを貴殿が御親切にその紳士に転送して頂けるであろうと我々は理解しています。今回も同じく受け取り通知をお願いします。今後とも宜しく。(We shall be glad to have your receipt for same, and beg to remain,)
敬具
A. B. Nordisk Resebureau
E.モリン
* * * * *
p. 152
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A. B. Nordisk Resebureau
Stockholm
拝啓:G.V.ロモノッソフ教授に支払われるべき1万ドルの小切手を同封した2月26日付けの手紙、受領しました。2月25日の私の手紙で述べたように、私はこの小切手をニューヨーク市パーク・アベニュー520番地のトーマス・L・チャドブルネ氏に送るように指示されていた。もし、貴社から異存がないようならば、2〜3日以内にそれをその紳士に転送します。
敬具
イラ・N・モリス
次に、国務省の内部メモとチャドブルネの礼状が続く。
フィリップ氏からチャドブルネ氏へ、1919年4月3日
拝啓:貴殿がストックホルムの合衆国公使館を通して送金されることを求めた、A. B. Norsdisk Resebureauからロモノッソフ教授への1万ドルの送金に関しての以前の通信の件であるが、1919年3月6日付けの速達便をストックホルムのアメリカ公使から受け取ったこと、それに貴殿宛の手紙が同封されていること、および言及された通りの金額でロモノッソフ教授の指示で引き出され得る小切手も入っていることを、本省は貴殿にお知らせする。
敬具
貴殿の忠実なるしもべ
ウィリアム・フィリップス
国務長官代理
同封物:スウェーデンから1,600で同封された、トーマス・L・チャドブルネ宛ての封印された手紙
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チャドブルネ氏の返事、1919年4月5日
拝啓:私宛の手紙が同封され、またロモノッソフ教授の指示で引き出され得る1万ドルの小切手が含まれた4月3日付けの貴殿からの手紙をお受け取りしました。その小切手は本日届けたところです。
今後とも宜しく
敬具
トーマス・L・チャドブルネ
その後、ストックホルム公使館は、合衆国でのロモノッソフの住所について尋ねたが、それに対して、国務省から「本省が知る限りでは、ジョージ・V・ロモノッソフ教授へは、ニューヨーク市パーク・アベニュー520番地トーマス・L・チャドブルネ氏気付で到着する」と知らされている
p. 153
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ポークとチャドブルネの間の個人的な親交のためか、あるいは政治的な影響力のためであろうか、国務省がノルウェイを追い出されたばかりのボルシェビキ工作員と折り合っていて、手先として振舞っているのが明白である。しかし、何故、 一流の支配階級法律事務所がボルシェビキの密偵の健康と福祉にそんなにも懇意に関心を示すのであろうか? 多分、同時代の国務省レポートがその手がかりを与える。:
ボルシェビキの代表者マルテンスおよびロモノッソフ教授は、ビルキットおよび彼の党がソビエトロシアにおける状況について、その使節団および団長に好ましい報告をするであろうという事実、およびその報告に基づいて合衆国政府はマルテンスが提案したようにソビエト政府に対して好意的に対応するであろうという事実の上で銀行取引をしている。
1919年3月29日4
ロシアの商品市場開拓の局面
ウォール街を興奮させたのはロシアの商品市場開拓で、ウォール街はそのプログラムを用意するのに時間を無駄にしなかった。1918年5月1日 ―共産主義革命にとって縁起の良い日― に、ロシアに対する援助と協力のためのアメリカン・リーグが設立され、そのプログラムはワシントンD.C.の上院事務所の建屋で開催された会議で承認された。そのリーグの職員および実行委員会は表面上は異なった派閥で代表された。その会長はジョンズ・ホプキンス大学の学長フランク・J・グッドナウ博士であった。副会長はいつもながら活動的なウィリアム・ボイス・トンプソン、オスカー・S・ストラウス、および独占者が社会をコントロールするためのルールブック「独占者の告白」の著者フレデリック・C・ハウエであった。経理部長はVacuum Oil Companyの副会長であるジョージ・P・ホエーレンであった。連邦議会は、上院外交委員会のウィリアム・エドガー・ボラー上院議員およびジョン・シャープ・ウィリアムス上院議員、ウィリアム・N・カルダー上院議員、銀行・通貨委員会の会長であるロバート・L・オーウェン上院議員で代表された。議会のメンバーは、ヘンリー・R・クーパー、および議会外交委員会議長のヘンリー・D・フラッドであった。アメリカのビジネスは、ヘンリー・フォード、General Electric Companyの取締役会長チャールズ・A・コフィン、およびGeneral Electric社の外国部長であったM.A.オウディンであった。ジョージ・P・ホエーレンはVacuum Oil Companyの代表者で、ダニエル・ウィラードはBaltimore & Ohio Railroadの会長であった。より公然と革命的な構成分子はレイモンド・ロビンス夫人で代表され、その名前は後にソビエト支局ファイルおよびラスク委員会聴聞会において著名であることが分かった。;ヘンリー・L・スロボディンは"著名な愛国的社会主義者"と記述していて、リンカーン・ステフェンスは注目に値する国内の共産主義者と記述している。
脚注
4 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/4214a.
p. 154
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換言するならば、これはハイブリッドの実行委員会であった。それは、国内の革命的分子すなわち合衆国連邦議会、および主にロシアの事情に関与した金融財閥を代表していた。
"強い男達"によって指導される、合衆国政府の公式のロシア部門の創設を力説するプログラムが実行委員会によって承認された。この部門は、"ロシア問題"を研究するために大学、科学機関、および他の研究所の援助を求めようとし、"ロシアの安全保護のために"合衆国内の組織を連携一体化しようとし、"ロシア問題研究のための特別な諜報委員会を用意しようとし、更に一般的に"ロシア問題"とは何であると思われているかを研究調査しようとした。それから、実行委員会はモスクワのソビエト議会へのウッドロー・ウィルソン大統領のメッセージを支援する決議を通し、アメリカン・リーグは新ソビエトロシアに対するそれ自身の援助を肯定した。
2〜3週間後の1918年5月20日、そのリーグの代表者であるフランク・J・グッドナウとハーバート・A・カーペンターは、ウィリアム・フィリップ国務長官代理を訪問し、全てのロシア問題を連携させるために政府の公式のロシア部門を創設する必要性を彼に説いた。彼らは、この問題に関して大統領に進言すべきかどうかを私に尋ねた[とフィリップは書き残している]。5
フィリップはこれを直接、国務長官に報告し、その翌日、ニューヨーク市のチャールズ・R・クレーンに手紙を書き、ロシアを援助・協力しようとするアメリカ・リーグについて彼の見解を求めた。フィリップはクレーンに懇願した。:「私は、我々がそのリーグをどのように扱うべきかについて本当に貴殿の助言を求める.......我々は彼らと協調するのを拒絶することで波風を立てたくない。それはそうとして、それは奇妙な委員会であり、私は全くそれを理解していない。6
6月の初め、American International Corporationのウィリアム・フランクリン・サンヅからロバート・ランシング国務長官宛の手紙が、国務省に届いた。サンヅは、合衆国はロシアに使節よりもむしろ行政官を任命することを提案し、「目下のところロシア駐留連合軍の提案は非常に危険なものと私には思える」7と意見を述べた。サンヅは、ロシアとの貿易の可能性や、この可能性が"政府の揺るぎない信任を有する厳選された行政官によって"前進させられ得るということを力説した。彼は"フーバー氏"がその役に適任であろうと述べた8。その手紙は、サンヅの以前の仕事仲間であるバシル・マイルスによって、「長官は読むに値するとお分りになると思います」との言葉を添えてフィリップスに渡された。
脚注
5 Ibid., 861.00/1938.
6 Ibid.
7 Ibid., 861.00/2003.
8 Ibid.
p. 155
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6月の初め、国務省下部組織である戦争貿易局(War Trade Board)が決議案を通し、トーマス・L・チャドブルネ(ロモノッソフ教授の連絡員)、クラレンス・M・ウーレイ、およびジョン・フォスター・ヅレスからなる取締役会は国務省に"合衆国とロシアの間の商業的関係をより親密により友好的にするための方法・手段を講じるようにとの催促の"メモを出した。取締役会はロシアへの使節派遣を推奨し、これがソビエト政府からの要請でとすべきかどうかという問題を再度提起した。
その後、6月10日、General Electric Companyの外国部部長M.A.オウディンはロシアについての彼の見解を表明し、ロシアの"経済的援助についての建設的な計画"が望ましいという立場を明らかにした。9 1918年8月、International Harvesterのサイルス・M・マコーミックは国務省のバシル・マイルスに手紙を書き、ロシアに対する会長のプログラムは"黄金色の機会"であると賞賛した。10
このように、1918年の半ばにおいて、アメリカのビジネスの一片によって、明らかに貿易を開始するための準備であり、ソビエトに関してそれ自身の好ましい地位を利用するための協調した努力がなされたのが分かる。
ドイツとアメリカ合衆国はロシアビジネスで奮闘する
1918年、未発達のボルシェビキ体制へのそのような援助は、ドイツを打ち負かし、ドイツによるロシアの開拓を阻止するという根拠で正当化された。これは、1918年にボルシェビキ革命家とプロパガンダチームをドイツに送る際に、W.B.トンプソンとレイモンド・ロビンスが使った論法である。その論法は1917年にもトンプソンによって使われていて、新興のボルシェビキ体制に対する英国の支援を得ることについてロイド・ジョージ首相との協議の際のことであった。1918年6月、フランシス大使と彼のスタッフは、ロシアから帰国し、ウィルソン大統領に"ロシアのソビエト政府を是認し支援するよう"説得した。11 その大使館スタッフが国務省に提出した報告書は新聞社にリークされて、広い地域で印刷された。ソ連を是認することの遅れは、ドイツに利し、ドイツの計画が反動と反革命を促進するのを助けることになるということが、取り分け主張された。 12 誇張された統計データがその提案を支持するために引用された。たとえば、ソビエト政府はロシア人の90%を代表しているとか、残りの10%は旧体制の富裕層と支配者階級からなるというような偽りのデータである。当然ながら、彼らは気分を害される。13 「もし、我々が何もしないならば、すなわち流れに任せたならば、ロシアのソビエト政府の弱体化を支援することになる。そして、それはドイツのゲームを上演することになる」とのアメリカの元公務員の発言が引用された。14 それで、「信用と良いビジネスの助言を装備した使節が大いに役立つ」ということが推奨された。
脚注
9 Ibid., 861.00/2002.
10 Ibid.
11 Ibid., M 316-18-1306.
12 Ibid.
13 Ibid.
14 Ibid.
p. 156
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暫くしてロシア内部において経済情勢が危機的になり、資本主義との抱擁が避けられないことが共産党およびその計画者に明らかになり始めた。レーニンはロシア共産党の第10回大会の前にこの気付きを明確な形にした。
資本家の援助が無いならば、圧倒的多数を占める農民もボロボロになっている信じられないほど荒廃した国において労働者階級の権力を維持することは不可能であろう。そして、この援助があれば、資本家は我々は100%搾取することになるであろう。これは我々が理解しなければならないことである。それ故、このタイプの経済的関係か無関係か・・・・15
その後、レオン・トロツキーは、「我々がここで必要とするのは、ベルナード・M・バルチのようなオーガナイザーである」と言ったとされた。16
経済的な破滅が切迫していることにソビエトが気付いたということは、アメリカおよびドイツのビジネスがロシア市場を必要な商品のために開拓する機会によって引き付けられたことを示唆している。実際、ドイツ人は1918年に早くもスタートした。ニューヨークのソビエト支局が最初にした取り決めは、より早いアメリカのボルシェビキに対する金融上および倫理上の支援が契約の形で期待の成果を上げていたことを示す。
1919−20年における最大の注文は、シカゴの精肉業者のMorris & Co.が契約したもので、5千万ポンドの食料品に対して1千万ドルという値段であった。モリスの精肉業関連一族は、スィフト家と親戚関係にあった。後にAbraham Lincoln Center "Unity"と結びつくヘレン・スィフトは(精肉会社の)エドワード・モリスと結婚し、1917年のトンプソンの赤十字ロシア派遣団の"少佐"であったハロルド・H・スィフトの兄弟でもあった。
脚注
15 V. I. Lenin, Report to the Tenth Congress of the Russian Communist Party, (Bolshevik), March 15, 1921.
16 William Reswick, I Dreamt Revolution (Chicago: Henry Regnery, 1952), p. 78.
p. 157
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Table:1919年にソビエト支局が合衆国の会社とした契約の一覧表
クリック → CONTRACTS MADE IN 1919 BY THE SOVIET BUREAU WITH U.S. FIRMS
ルドウィッグ・マルテンスは、ニューヨーク市ブロードウェイ120番地のWeinberg & Posnerの元副会長で、その会社は3百万ドルの注文を取っていた。
p. 158
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ソビエトの金と、アメリカの銀行
金(ゴールド)は、ソ連が海外からの購入品の代金として支払いできる唯一の実際的な手段であり、国際銀行家はソビエトの金の輸送を大いに喜んで手助けした。ロシアの金、主に皇帝の金貨の輸出は1920年の初頭に始まり、ノルウェイとスウェーデンに輸出された。これらは、合衆国を含む世界の他の目的地に向けて、オランダおよびドイツへ積み替えられた。
1920年8月、合衆国のNiels Juul and Company による3,000トンのソビエト政府向け石炭の支払いに対する保証金として、船積みされたロシア金貨はノルウェイのDen Norske Handelsbankによって受け取られた。これらの金貨は安全保管のためにNorges Bankへ転送された。その金貨は検査・計量され、1914年の戦争勃発前に鋳造されたことが分かったので、本物の皇帝ロシア金貨であった。17
この最初のエピソードのあと間も無く、サンフランシスコのRobert Dollar Companyは3千9百万スウェーデン・クローネの価値のある金の延べ棒をそのストックホルムの口座に受け取った。その金には"旧ロシア皇帝政府のスタンプがあった"。Dollar Companのストックホルム駐在員はその金を合衆国に運ぶための船の手配をAmerican Express Companyに依頼したが、American Expressは断った。ロバート・ダラー(Robert Dollar)はAmerican International Companyの取締役であって、かくしてAICは金を直接アメリカに送るという最初の試みに関わっていたということは注目に値する。18
合衆国に運ぶためのソビエトの金を搭載した3隻の船がバルト海のリーバル(Reval)を出発したということも同時に報告されていた。蒸気船Gauthod は、合衆国に今は帰国しているロモノッソフ教授の監督の下で金216箱を積んでいた。蒸気船Carl Line は3人のロシア人エージェントの監督の下で金216箱を積んでいた。蒸気船Ruheleva は金108箱を積んでいた。各箱にはそれぞれ6万ゴールドルーブルの値打ちのある3個の16.38kgの金塊が入っていた。この後、蒸気船Wheeling Mold での搬送が続いた。
Kuhn, Loeb & Companyは、明らかにGuaranty Trust Companyのために動いていたが、ソビエトの金を受け取ることに対する公式な態度に関して国務省に要求していた。レポートによれば、もし、受け取りが拒否され、"金が戦争省(War Department)の手に戻るならば、直接的に政府の責任問題が発生し、当惑を増大させるであろう"19ため、国務省は関心を示した。ケリーおよびギルバートと相談してマーレ・スミスによって書かれたそのレポートでは、所有者が所有権を不完全にするための明確な知識も持っていないならば、受け取りを拒絶することは不可能だろうとされていた。合衆国はその金を分析試験室で溶融することを要求されるであろうと予期されていて、その結果、ソビエトの金を合衆国に輸入することに関して制限は課せられないであろうと、Kuhn, Loeb & Companyに電報することが決定された。
脚注
17 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/815.
18 Ibid., 861.51/836.
19 Ibid., 861.51,/837, October 4, 1920.
p. 159
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その金はニューヨークの分析試験室に届けられ、 Kuhn, Loeb & Companyではなくニューヨーク市のGuaranty Trust Companyに預けられた。それからGuaranty Trustは連邦準備制度理事会に受け取りと支払いを要求し、順繰りに理事会は合衆国財務省に要求した。ニューヨーク分析試験室の室長は財務省に、約7百万ドルの金は識別番号がなく、預けられている延べ棒は既に溶解されて合衆国造幣局の延べ棒になっていることを知らせた。連邦準備制度理事会は、Guaranty Trust Companyが"その金を差し出すにおいてそれ自身のためか他のためだったか"を規定し、"信用または交換の取引の何らかの名義書き換えがその金の輸入または保管から生じたか否か"を特に規定するということを、財務省は示唆した。20
1920年11月10日、Guaranty Trustの副会長A.ブレトンは、財務省の副長官ギルバートに手紙を書き、"還元処理のあとに残る黄色の金属"の保管に対しての通常の迅速な申し出を、Guarantyは分析試験室から受けていないと不満を述べた。その手紙には、金の延べ棒はオランダで購入したものであるが、フランスおよびベルギーの金貨を溶かせたものであるという満足な確証をGuaranty Trustは得ていると述べている。その手紙は財務省がその金に対する支払いを迅速に処理することを要求していた。それに対し、「合衆国造幣局または分析試験室に提出された金貨はソビエトを起源としていると知られているかまたは疑われるので、その金を買わない」と財務省は返答している。また、オランダではソビエトの金が売られているとの見地からして、Guaranty Trust Companyによって提出された金は"ソビエト起源が示唆される疑わしい事例"であると判決されるとも言っている。Guaranty Trust Companyは望むならいつでも分析試験室からその金を引き出すことができ、"ニューヨークの連邦準備銀行または国務省がその金に対するソビエト起源疑惑を晴らす必要があるならば、財務省に更なる証拠を提出"できたことがうかがわれる。21
脚注
20 Ibid., 861.51/837, October 24, 1920.
21 Ibid., 861.51/853, November 11, 1920.
p. 160
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この件で最終的な保管に関して記録したファイルはないが、多分Guaranty Trust Companyがその輸送に対する支払いをしたのであろう。明らかに、この金の保管はGuaranty Trustとソビエト政府間の財務上の契約を実行したものであり、その契約の下でその会社は合衆国におけるソビエトのエージェントになっていた訳である(本章の題辞を参照のこと)。
後日、ソビエトの金はスウェーデンの造幣局にも送られるべきと決定された。スウェーデンの造幣局は、"ロシアの金を溶解し、分析し、スウェーデンの銀行あるいはその金を借りている他の対象の要求でスウェーデン造幣局の刻印を押す"22。そして同時に、Svenska Ekonomie A/B (ソビエトにおけるGuaranty Trustの仲介機関にして支部)の長であるオロフ・アシュベルグは、スウェーデンの銀行を通して"限りない量のロシアの金"を提供しようとしていた。23
要約すると、American International Corporation、顔のきくロモノッソフ教授、Guaranty Trust、および(既に同定済みの)オロフ・アシュベルグを、ソビエトの金を合衆国に輸入する最初の試みに結びつけることができる。
ギャランティ・トラストのマックス・メイ、ルスコム銀行の重役になる
ソビエトロシアにおけるGuaranty Trustの興味は、1920年におけるGuaranty Trustの外国部副部長ヘンリー・C・エメリィから国務省のデ・ウィット・C・プールへの手紙の形で一新された。その手紙は1920年1月21日付けで、外国部部長アレン・ウオーカが悪意のある反ソビエト組織United Americans(p. 165参照)を作ることにおいて活動する2〜3週間前であった。エメリィはロシアにおけるソビエト政府および銀行の法的根拠について夥しい質問を提示し、ソビエト政府がロシアの現存政府であるかを問うた。24 "共産主義者によって計画された1922年以前の反乱"は1920年にUnited Americansの権利を主張したが、Guaranty Trustはこれらの同じ共産主義者との交渉を開始していて、1920年半ばにおいて合衆国におけるソビエトのエージェントとして振舞っていた。
脚注
22 Ibid., 316-119, 1132.
23 Ibid., 316-119-785. This report has more data on transfers of Russian gold through other countries and intermediaries. See also 316-119-846.
24 Ibid., 861.516/86.
p. 161
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1922年1月、商務省長官ハーバート・フーバーは、Guaranty Trustの計画のため、"モスクワのNew State Bank"との交換関係を整えるように、国務省に嘆願した。ハーバート・フーバーが書いていたことであるが、この計画は「彼らの所有となる全ての金銭が合衆国における市民の日常品の購入に使われるという状況が作られれば、反対されるべきではないであろう。」 また、そのような関係は一般的な政策と整合するように思われると力説したあと、フーバーは「現行の崩壊した取引に代わってその運動がどうなるかが分かるようにこれらの取引を組織化することは有利であろう」25と付け加えている。 勿論、そのような"崩壊した取引"は自由市場の取引と一致しているが、ハーバート・フーバーはニューヨークにおける特殊で制御可能な筋を通して取引を進めるためにそのアプローチを拒絶した。国務長官チャールズ・E・ヒュージスは、フーバーとGuaranty Trustの計画に対して嫌悪を表したが、その計画は、要求されている外国の信用が合衆国の不利に使われる一方、ソビエトの事実上の是認と看做されると彼は考えたからである。26 国務省はGuaranty Trustに当たり障りの無い返答をした。しかし、Guarantyは(ハーバート・フーバーの支援の下)前進し27、最初のソビエト国際銀行の設立に参画し、Guaranty Trustのマックス・メイが新Ruskombankの外国部部長になった。28
脚注
25 Ibid., 861.516/111.
26 Ibid.
27 Ibid., 861.516/176.
28 本書のp. 161参照
p. 162
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap9.html
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