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第六章
革命の強化と輸出
マルクスの偉大なる書「資本論」は、推論の記念碑であると同時に、事実の宝庫でもある。
1919年英国戦時内閣のメンバーにしてLondon Joint Stock Bankの取締役、ミルナー(Milner)卿
ウィリアム・ボイス・トンプソンは20世紀の歴史において名を残していないが、ボルシェビキ革命において決定的な役割を演じた人物である。1 実際、もし1917年のロシアにトンプソンがいなかったとしたならば、その後の歴史は全く異なったコースを辿ったかも知れないであろう。トンプソン、ロビンス、および彼らのニューヨークの仲間達によってトロツキーとレーニンに提供された資金、更に重要なものとして、外交上および宣伝活動上の援助が無かったとしたら、ボルシェビキはたぶん衰え、ロシアは社会主義ではなく、立憲的な社会に発展したであろう。
脚注
1 For a biography see Hermann Hagedorn, The Magnate: William Boyce Thompson and His Time (1869-1930) (New York: Reynal & Hitchcock, 1935).
p. 89
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ウィリアム・ボイス・トンプソンって何者だったのだろうか? トンプソンは高リスクビジネスの最右翼の一つである鉱業株のプロモータであった。第一次世界大戦の前に、彼はグゲヘイム銅業財閥のために株式市場操作を扱った。グゲヘイム(Guggenheim)家がジョン・D・ロックフェラーとの株式市場での争いのために即座に元手を必要としたとき、350万ドルの軍資金を集めるために疑わない公衆の前でYukon Consolidated Goldfieldsをくどいたのがトンプソンであった。トンプソンはケネチカットのシンジケートのマネージャで、別のGuggenheim 操作で2億ドルまで値を吊り上げた。一方、裕福なネバダ連合銅会社に関するトンプソンのオプションを引き受けたのは、グゲヘイム探査会社であった。創立当時のグゲヘイム探査会社の約75%は、グゲヘイム家、ホイットニー家(ボルシェビキ主義者のジョン・リードを雇っていたMetropolitan magazineの所有者)、およびジョン・ライアン(John Ryan)によって支配されていた。1916年にグゲヘイム財閥はGuggenheim Brothersに再編成され、以前はグゲヘイムの米国溶解精錬会社にいて、1916年にはGuaranty Trust社の初代副会長であったウィリアム・C・ポッター(William C. Potter)を参加させた。
リスクのある鉱工業プロモートのための資本を集めることにおける非凡な手腕は、トンプソンに個人的な財産およびインスピレーション連合銅会社、ネバダ連合銅会社、ユタ銅会社と言った全ての主要な国内の銅製造業における取締役の職をもたらした。銅はもちろん軍需品の製造における主要な素材である。トンプソンは、Chicago Rock Island & Pacific Railroad、Magma Arizona Railroad、およびMetropolitan Life Insurance Companyの取締役でもあった。そして、この本の特別な関心事であるが、トンプソンはChase National Bankの大株主の一人であった。連邦準備制度における地位にトンプソンを押したのは、Chase Bankの会長アルバート・H・ウィギン(Albert H. Wiggin)であった。そして1914年にトンプソンは、連邦準備制度における最も重要な銀行であるニューヨークの連邦準備銀行の最初の全任期の取締役になった。
その後1917年までに、ウィリアム・ボイス・トンプソンは相当な資金量を扱う金融相場師であって、資本家プロジェクトの振興と履行のための才能に関しての能力を実証するとともに、政治的および金融的権力の中心に素早く近付く能力も実証した。この人物は最初にアレクサンドル・ケレンスキーを援助し、次にボルシェビキの熱烈な支援者となったのと同じ人物であるが、この支援の残存する象徴は、ロシア語の賛美小論文"Pravda o Rossii i Bol'shevikakh"2に伝承されている。
脚注
2 Polkovnik' Villiam' Boic' Thompson', "Pravda o Rossii i Bol'shevikakh" (New York: Russian-American Publication Society, 1918).
p. 90
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1917年の12月初旬にロシアを去る前に、トンプソンはアメリカ赤十字社派遣団を副官のレイモンド・ロビンスに引き継いだ。その後、ロビンスはボルシェビキプロパガンダを欧州に広めるというトンプソンの計画を実行するためにロシア人の革命家達を組織化した(Appendix3を参照)。フランス政府文書はこれを裏付けている。すなわち、"ロビンス大佐...はロシア人ボルシェビキからなる破壊的な団体をドイツに送り、そこで革命を始めることができたように思われる"3とある。この団体がもとで、1918年に不首尾に終わったドイツのSpartacist 騒乱が起こった。全体の計画には、ボルシェビキの文献を飛行機で撒くことや、あるいはそれをドイツ国境を越えて密輸するという企みも含まれていた。
トンプソンは1917年後半において、ペトログラードを去り、欧州の政府および合衆国にボルシェビキ革命を売り込む準備をした。それを考えて、トンプソンはモルガン商会の仲間であり、E・M・ハウスとともにその時パリにいたトーマス・W・ラモントに電報を送った。ラモントはこの電報を受け取ったことを彼の伝記に記している。
ハウス代表団が1917年12月パリでその議論を丁度終えようとしていたとき、私は、ペトログラードでアメリカ赤十字社派遣団を管理中の、古い学友でビジネス仲間のウィリアム・ボイス・トンプソンから興味を引く電報を受け取った。4
ラモントはロンドンへ旅行して、12月5日にペトログラードを去り、ノルウェーのベルゲンを経由して12月10日、ロンドンに到着したトンプソンと会った。ロンドンにおけるトンプソンとラモントの最も重要な業績は、その時明らかに反ボルシェビキであった英国の戦時内閣に、ボルシェビキ体制が留まるようになること、および英国の政策が反ボルシェビキを止めるべきで、新しい現実を受け入れるべきで、レーニンとトロツキーを支援すべきであることを納得させたことであった。トンプソンとラモントは、12月18日にロンドンを出発し、1917年12月25日にニューヨークに到着した。彼らは合衆国において同じ転向のプロセスを試みた。
脚注
3 John Bradley, Allied Intervention in Russia (London: Weidenfeld and Nicolson, 1968.)
4 Thomas W. Lamont, Across World Frontiers (New York: Harcourt, Brace, 1959), p. 85. See also pp. 94-97 for massive breastbeating over the failure of President Wilson to act promptly to befriend the Soviet regime. Corliss Lamont, his son, became a front-line domestic leftist in the U.S.
p. 91
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ボルシェビキによって発行されたトンプソン大佐のパンフレットのカバー
p. 92
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ロイド・ジョージとの協議
秘密であった英国戦時内閣の新聞は今では入手可能で、英国政府を親ボルシェビキ政策に売り払うためにトンプソンが使った議論が記録されている。大英帝国の首相はデイビッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)であった。ロイド・ジョージの私的で政治的な謀略は、タマニーホール(訳注:1789年に組織されたNew York市の民主党の政治団体)の政治家と張り合っていた。けれども、彼の生きている間および死後数十年間、伝記作家達はそれらを理解できなかったか、あるいは理解しようとしなかった。「Mask of Merlin」はその秘密のベールを上げた。1917年までにデイビッド・ロイド・ジョージは、自由な仲介人としてであったが国際的な兵器に関する密計の網の目に余りにも深くはまり込んでいて、数件の戦争で両者に兵器を売ることで相当な資産を成していた国際兵器商人バシル・ザハロフ(Basil Zaharoff)卿に注視されていたということをマコーミック(McCormick)が示している。5 ザハロフは巨大な陰の権力に影響力を持っていて、マコーミックによれば、連合国の指導者から戦時政策について相談されていた。ウッドロー・ウィルソン、ロイド・ジョージ、およびジョージス・クレメンソー(Georges Clemenceau)はザフォロフのパリの家で1回以上会っていると、マコーミックは報告している。「連合国側の政治家や指導者は何らかの大攻撃を計画する前に彼と相談することを義務付けられていた」と、マコーミックは記している。マコーミックによれば、"英国諜報部"は"国王の召使達をロイド・ジョージの承知の下、バシル・ザハロフの秘密工作員として巻き込んでいたという文献を発見した。"6 1917年にザハロフはボルシェビキと手を繋いだ。彼は反ボルシェビキから軍需品を迂回させようと努め、ロンドンとパリの両方においてボルシェビキ体制のための干渉を既にしていた。
その後1917年の後半、ラモントとトンプソンがロンドンに到着したとき、ロイド・ジョージ首相は、ボルシェビキと同盟関係にあってロシアにおいてボルシェビキ勢力を広げようと支援していた強大な国際軍需業者に借金があった。1917年にウィリアム・トンプソンと会った英国首相はその時には自由な仲介人ではなかった。ミルナー卿は影の権力者であって、この章の題辞が示唆するように、社会主義およびカール・マルクスに対して好意的に傾斜していた。
その"秘密の"戦時内閣新聞は、ロシアから戻ってきたアメリカ人トンプソン氏との会話についての首相の解説7、およびトンプソンとの会合後の戦時内閣への首相報告8を掲載している。内閣新聞には次のように書かれている。
脚注
5 Donald McCormick, The Mask of Merlin (London: MacDonald, 1963; New York: Holt, Rinehart and Winston, 1964), p. 208. Lloyd George's personal life would certainly leave him open to blackmail.
6 Ibid. McCormick's italics.
7 British War Cabinet papers, no. 302, sec. 2 (Public Records Office, London).
8 The written memorandum that Thompson submitted to Lloyd George and that became the basis for the War Cabinet statement is available from U.S. archival sources and is printed in full in Appendix 3.
p. 93
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首相がアメリカの旅行者で相当な金持ちであるトンプソン氏との会話について報告した。トンプソン氏とは、ロシアから帰ったばかりの人物で、その国における事情について一般に信じられていることと幾分異なる印象を伝えた人物である。彼の論評の要点は、革命は存続していて、連合国は革命に十分な好意を示しておらず、トロツキー氏とレーニン氏はドイツに雇われておらず、後者は相当に優秀な教授であるとの趣旨である。トンプソン氏は、その目的のために特別に選ばれた男達で構成されている連合国協議会のある形式によって達成された積極的なプロパガンダを連合国がロシアで行うべきと考えていると付け加えた。更に、事実上存在するロシア政府の性質に敬意を持って、数カ国の連合国政府はペトログラードに適切な代表者を送るということをしていないと考えるとも付け加えた。トンプソン氏の意見では、ロシア軍および人民は戦争から離脱しており、連合国はロシアを友好国としてかまたは敵対的な中立国として選ばなければならないということを連合国は悟る必要があるとのことであった。
トンプソン氏によって反ドイツであると述べられている、事実上存在するボルシェビキのロシア政府に関する連合国の政策を変えないべきかどうかという問題が議論された。これに関係して、ロバート・セシル(Robert Cecil)卿は、とりわけ二国間の貿易、およびオデッサ(訳注:ウクライナの黒海に臨む都市)における購入委員会の創立をもたらすドイツ軍とロシア軍間の停戦条件 ―その全体の調整は明らかにドイツ人によって指示されている― に注意を向けた。ロバート・セシル卿は、ロシア軍が溶けて消えるまで休戦を続けようとドイツは努めているという見解を表明した。
エドワード・カーソン(Edward Carson)卿は、Vauxhall Motor Companyのロシア支店のマネージャーでロシアから帰ってきたばかりの一英国民によって彼に送られて来た、トロツキー氏の署名入り書類[Paper G.T. — 3040]を読んだ。このレポートは、トロツキー氏の政策は少なくとも見せかけ上、親ドイツ的というよりもむしろ文明的社会の組織に敵対するものであるということを示していた。一方、この種の見せかけの態度はドイツ人スパイであるトロツキーの態度と決して矛盾しておらず、彼の目的はドイツがロシアにおいて欲することを為すがため、ロシアを破滅させることであったということが示唆された。
ロイド・ジョージの報告および擁護議論を聞いたあと、戦時内閣はトンプソンおよびボルシェビキと一緒に進むことを決定した。ミルナーは、ロシアの前英国領事であるブルース・ロックハート(Bruce Lockhart)を準備して待ち構えさせていた。ロックハートは大要を伝えられ、ソビエトと非公式に働くようにとの指示を受けてロシアに送られた。
ロンドンにおけるトンプソンの仕事の綿密さ、およびその状況に進むように運びえる彼の圧力は、信用の出来る情報源から戦時内閣の手に入っている次のレポートによって示唆される。そのレポートは、トロツキーとボルシェビキについて、トンプソンが表明したのと全く異なる見解を与えているけれども、それらは内閣によって無視された。1918年4月にジャン・スマッツ(Jan Smuts)将軍は、ロシアから戻ったばかりのフランス陸軍派遣隊長ニーフェル(Nieffel)将軍との彼の会話について戦時内閣に報告していた。
p.94
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トロツキーは....親ドイツではないかも知れないが、完全に親トロツキーで親革命派で、決して信頼されえない途方も無い悪党である。彼の影響力はロックハート、ロビンス、およびフランスの代表者を服従させるに至った方法で示される。彼(ニーフェル)は、ロシアにおける唯一の本当に有能な男だと認めているトロツキーに対処することにおいて十分慎重であるべきと忠告している。9
数ヵ月後、ウォール街の弁護士でアメリカ赤十字派遣団の一員であったトーマス・D・タチャーはロンドンに居た。1918年4月13日にタチャーはロンドン駐在アメリカ大使に、彼がモルガンの仲間であるH.P.ダヴィソンからロシアの状況について"ノースクリフェ(Northcliffe)と話し合い"、その後"他の話し合いのために"パリへ行くようにとの要請を受けたという趣旨を書き送っている。ノースクリフェ卿は病気であって、タチャーは彼がロンドンに戻ったら直ぐにノースクリフェに提出されるべきメモをモルガンの他の仲間であるヅウィト・W・モロー(Dwight W. Morrow)に残した。10 このメモには、トンプソンの地位を支援するロシアの政策について明確に示唆されていただけではなく、「志願兵からなる革命軍を組織する努力において最高最大限の支援をソビエト政府に与えるべきである」とさえ述べられていた。このタチャーのレポートにおける4つの主要な提案は次の通りである。
先ず第一に.....連合国はシベリアにおける日本の干渉を妨害すべきである。
第二に、志願兵からなる革命軍を組織する努力において最高最大限の支援をソビエト政府に与えるべきである。
第三に、いかなる外国の権力による支配からも自由な彼ら自身の政治システムを機能させるための努力をしているロシアの人々に対して、連合国政府は倫理的な援助をすべきである。
第四に、ドイツ政府とロシアのソビエト政府の間に公然とした対立が生じるその時まで、ロシアにおけるドイツ人スパイによる平和的な商売上の進行の機会が存在するであろう。公然とした仲たがいが無い限り、そのような商売を完全に妨げることはたぶん不可能であろう。したがって、ロシアからドイツへの穀類および原材料の輸送を出来る限り遅らせるための複数のステップが取られるべきである。11
脚注
9 War Cabinet papers, 24/49/7197 (G.T. 4322) Secret, April 24, 1918.
10 Letter reproduced in full in Appendix 3. It should be noted that we have identified Thomas Lamont, Dwight Morrow, and H. P. Davison as being closely involved in developing policy towards the Bolsheviks. All were partners in the J.P. Morgan firm. Thacher was with the law firm Simpson, Thacher & Bartlett and was a close friend of Felix Frankfurter.
11 Complete memorandum is in U.S. State Dept. Decimal File, 316-13-698.
p. 95
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トンプソンの意図と目的
何故、著名なウォール街の金融家と連邦準備銀行の取締役がボルシェビキ革命家を組織化し支援したかったのであろうか? 何故、一人ならず数名のモルガンの仲間が協力してソビエトの"志願兵からなる革命軍" −トンプソン、トーマス・ラモント、ヅウィト・モロー、モルガン商会、および全ての彼らの仲間を含むウォール街による征服のための軍と思われる− の形成を助成したかったのであろうか?
少なくともトンプソンはロシアにおける彼の目的について率直であった。彼はロシアをドイツとの戦争に留めて置きたかった(英国戦時内閣の前では、ロシアはとにかく戦争を離れたと論じていたが)し、戦後のアメリカの事業のための市場としてロシアを保有したかった。1917年12月のトンプソンからロイド・ジョージに宛てられたメモにおいて、これらの目的について述べられている。12 メモは、「ロシアの状況は見失われていて、無競争のドイツによる搾取に全くオープンな状態である」で始まり、「懸命で勇気のある働きをすれば、ドイツがその分野を占有すること、および連合国の費用でロシアを搾取することをまだ防げると私は信じる」で終わっている。したがって、トンプソンが恐れ(これはまたタチャーのメモにも示されている)、トンプソンとニューヨークの仲間をボルシェビキとの同盟に引き込んだのは、ドイツによるロシアの貿易および産業上の搾取であった。更に、この解釈はトンプソンの補佐官であったレイモンド・ロビンスによって作成された、英国人スパイのブルース・ロックハート宛のうわべだけ冗談に見える言明に現れている。
あなたは、私がウォール街の代表者である、ウィリアム・B・トンプソンの召使で彼のためにアルタイの銅を手に入れようとしている、ロシアの最良の森林地帯のうち既に50万エーカーを独力で手にした、シベリア横断鉄道を既に掠め取った、ロシアのプラチナの独占権を手に入れた、これはソビエトに対する私の仕事を説明している、と言われるのを聞くだろう。あなたはそんな話を聞くだろう。理事殿、今、私はそれが本当とは考えていませんが、それが本当だと仮定してみましょう。ウォール街およびアメリカのビジネスマンのためにロシアを捕捉する為に私がここにあると仮定しましょう。あなたが英国の狼で私がアメリカの狼であること、およびこの戦争が終わったとき我々がロシア市場をお互いに平らげようとしているとしましょう。完全に率直な男の流儀でそうしましょう。しかし、同時に、我々は見事に懸命な狼であって、もし我々がこの時刻に一緒に狩猟しないならば、ドイツの狼が我々の両方を平らげるであろうことを我々は知っているとしましょう。13
脚注
12 See Appendix 3.
13 U.S., Senate, Bolshevik Propaganda, Hearings before a Subcommittee of the Committee on the Judiciary, 65th Cong., t919, p. 802.
p. 96
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これを心に刻んでおいて、トンプソンの個人的な動機を探ってみよう。トンプソンは金融家でプロモータであり、以前はロシアに興味がなかったにもかかわらず、ロシアへの赤十字派遣団に個人的に資金援助し、その派遣団を政治的な策略の手段として利用した。全体像から我々はトンプソンの動機が主に金融および商売がらみであると推論できる。特に、トンプソンはロシアの市場に興味があり、この市場がウォール街のシンジケートあるいはシンジケート群による戦後の搾取のために、如何にして影響されえるか、流用されえるか、および攻略されえるかに関心があった。確かにトンプソンはドイツを敵とみなしていたが、政治上の敵というよりも経済上および商売上の敵と見ていた。ドイツの産業と銀行業が本当の敵であった。ドイツを出し抜くため、トンプソンは、彼の目的を達成するであろう如何なる政治力手段にも元手を喜んで出した。換言するならば、トンプソンはドイツ帝国主義と闘うアメリカ帝国主義者であって、この闘争はレーニンとトロツキーによって抜け目なく認識され、利用された。
その証拠はこの政治に無関係なアプローチを支持している。1917年8月初旬、ウィリアム・ボイス・トンプソンは合衆国のペトログラード大使館においてケレンスキー、テレスチェンコ、およびアメリカ大使フランシスと一緒に昼食をとった。昼食の間ずっと、トンプソンはロシア人の来客に、彼がJ.P.モルガンのニューヨーク事務所に送ったばかりの、新しいRussian Liberty Loan への個人的な出資を賄うための42万5千ルーブルの送金を要求した電報を示した。トンプソンはまたモルガンに「これらの債権は私の知る限り最良の戦時の投資であると私が推奨している −報酬なしで喜んでここで彼らの購入の面倒をみるつもりである− ことを私の友人達に知らせて」くれるように頼んだ。その後、彼は5百万ルーブルのロシア債権を買うニューヨクシンジケートのうちの20%を個人的に引き受けることを申し出た。予想に反することではないが、ケレンスキーとテレスチェンコはウォール街の支援に"大喜び"した。そしてフランシス大使は即座に国務省に電報を送り、赤十字派遣団は「私と強調して活動している」こと、およびそれが"優れた効果"を与えるであろうことを知らせた。14 他の作家は、トンプソンが彼自身の百万ドルの資金、およびプロパガンダ活動における同規模の合衆国政府資金を融資することによってケレンスキーを支援することを、どのようにしてロシア農民に納得させるよう努めたかを詳述している。その次に、革命の"祖母"ブレシコフスカヤを長とし、ダヴィッド・ソスキス(ケレンスキーの個人秘書)を行政官とする自由ロシアの市民教育委員会は、"皇帝と戦い、革命を救え"というアピールを促進するために、新聞、新しい支局、印刷工場、および演説所を設立した。ボルシェビキへのトンプソンの金融支援と同様、トンプソンの融資に基づくケレンスキーのキャンペーンも同じアピール"ロシアの戦争を続行せよ"を持っていた。ケレンスキーへのトンプソンの支援と、トロツキーおよびレーニンへの彼の支援の間の共通点は、"ドイツに対する戦争を続行せよ"およびロシアからドイツを排除せよであった。
脚注
14 U.S. State Dept. Decimal File, 861.51/184.
p. 97
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要約すると、第一次世界大戦の軍事的、外交的、および政治的見方の背後および水面下に、別の戦闘が荒れ狂っていた。すなわち、著しい圧力および影響力を持った国際的な相場師による戦後の世界経済力のための作戦行動があった。トンプソンはボルシェビキ主義者ではなく、親ボルシェビキでさえない。親ケレンスキーでないし、親アメリカでさえない。最も重要な動機は戦後のロシア市場を獲得することであった。これは商売上の目的であって、イデオロギー上のものではない。イデオロギーはケレンスキー、トロツキー、レーニンなどのような革命の運営者に影響を与えることができたが、金融業者は影響されなかった。
ロイド・ジョージのメモは、ケレンスキーとボルシェビキ主義者のいずれに対しても、トンプソンの偏愛がなかったことを立証している。「最後のケレンスキー政府の転覆のあと、我々はボルシェビキのビラを工作員を通してや、飛行機によってドイツ軍に配布することで、ビラを散布するのを大いに助けた」。15 これは、1917年12月中旬に書かれたものであるが、ボルシェビキ革命が始まって僅か5週間後で、アメリカ大使館における昼食の間にトンプソンがケレンスキーを支援すると表明してから4ヶ月以内である。
トンプソン、アメリカ合衆国に戻る
その後、トンプソンは帰国し、ソ連承認を請願しながら合衆国を漫遊した。1918年1月ニューヨークのRocky Mountain Clubでのスピーチにおいて、トンプソンは誕生しつつあるボルシェビキ政府の支援を訴え、大半が西部の人からなる聴衆にアピールし、アメリカの開拓精神を喚起した。
これらの男達は、承認の手を差し伸べ、ロシアの労働者による政府への完全なる援助と共感を与えることについて、あまり長い間、躊躇しないであろう。なぜならば、1819年以降の数年において、そこでボルシェビキ政府を持っていたし....良い政府も持っていた....16
脚注
15 See Appendix 3.
16 Inserted by Senator Calder into the Congressional Record, January 31, 1918, p. 1409.
p. 98
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我々の西部辺境の開拓経験を、ロシアにおいてその時進行中の政治的抗争による無慈悲な皆殺しと同等とみなすことは、想像力の限界である。トンプソンにとって、これを振興することは、過ぎ去りし日々における鉱業株のプロモーションに類似して見えたのに間違いないであろう。トンプソンの聴衆におけるあれらはどうかと言うと、我々は彼らが何を考えたのか知らないけれども、だれも異議を申し立てなかった。話し手は、ニューヨーク連邦準備銀行の尊敬すべき重役であり、自力で出世した大富豪であった(そしてそれが大いに物を言った)。そして、結局、彼はロシアから帰ってきたばかりではなかったろうか? しかし、すべてがバラ色であった訳ではない。トンプソンの伝記作家ヘルマン・ハゲドーン(Hermann Hagedorn)は、ウォール街は"仰天し"、彼の友人は"ショックを受け"、"彼は頭を失って、彼自身がボルシェビキ主義者になったと彼らは言った"と書いている。17
彼は本当に"ボルシェビキ主義者になった"のだろうかとウォール街が疑問に思っている間に、トンプソンはニューヨーク連邦準備銀行取締役会の役員仲間の間で共感を見出していた。 Ingersoll-Rand社の会長で、FRBの取締役であるW・L・サンダース(Saunders)頭取代理は、1918年10月17日にウィルソン大統領に手紙を書き、彼は"ソビエトの政府形態に共感している"と述べている。同時に彼は、戦後の世界貿易をその手にするという準備を今しているというような、いかなる秘めた動機も否定した。18
トンプソンの仲間である取締役のうちで最も興味深いのは、ニューヨーク連邦準備銀行の副頭取で、社会主義者ヘンリー・ジョージの親友であるジョージ・フォスター・ピーボディであった。トンプソンが銅関連株の不正操作で資財を築いている時、ピーボディは鉄道の不正操作で資財を築いていた。その後、ピーボディは鉄道の国有化のために活動し、公然と社会主義を借用した。19 ピーボディは国有化の振興と彼の私企業の成功をどのように調和させたのであろうか? 彼の伝記作家ルイス・ウェアー(Louis Ware)によれば、「私的な大企業の利益のためよりもむしろ、公共サービスとして運営されるというこの輸送形式が重要であると、彼の理性は彼に告げた。」 この大げさな世のため人のためという論法はほとんど本当らしく響かない。ピーボディと彼の仲間であるワシントンの金融業者の卓越した政治的影響力があれば、政府の鉄道支配によって、厳しい競争をより容易に避けることができたと主張するのがより正確であろう。政治的影響力を通して、民間企業のもとでは達成不可能かまたはコストが掛かり過ぎることを達成するために、彼らは国の警察力を操ることができた。換言するならば、国の警察力は私的独占を維持するための手段であった。これはフレデリック・C・ハウエが提案していたことと正確に同じである。20 中央集権的計画主義の社会主義ロシアというアイデアをピーボディは気に入ったに違いない。それについて、すなわち巨大な国家による独占について考えてみよ! そして、トンプソン、彼の友人、および取締役仲間は、その操作をしている子分達とともに内側の走路を走った。21
脚注
17 Hagedorn, op. tit., p. 263.
18 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/3005.
19 Louis Ware, George Foster Peabody (Athens: University of Georgia Press, 1951).
20 Seep. 16.
21 If this argument seems too farfetched, the reader should see Gabriel Kolko, Railroads and Regulation 1877-1916 (New York: W. W. Norton, 1965), which describes how pressures for government control and formation of the Interstate Commerce Commission came from the railroad owners, not from farmers and users of railroad services.
p. 99
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非公認大使:ロビンズ、ロックハルト(LOCKHART)、およびサドール(SADOUL)
彼らに関する限り、ボルシェビキは三カ国の主要西洋諸国、合衆国、英国、およびフランスのペトログラードにおける代表者の間での共感の欠如を正確に評価していた。合衆国はあからさまに革命に共感していないフランシス大使によって代表されていた。英国は皇帝君主制に強い絆を持っていて、革命のケレンスキー局面を進展させたと疑われていたジェームス・ブチャナン(James Buchanan)によって代表されていた。フランスは公然と反ボルシェビキであるパレオログ(Paleologue)大使によって代表されていた。1918年の初頭に三人の新たな著名人が出現した。彼らはこれらの西洋諸国の事実上の代表者になり、正式に認定されていた代表者に取って替わった。
レイモンド・ロビンスは1917年12月初旬にW.B.トンプソンから赤十字派遣団を継承したが、貧窮に喘いでいたロシアを解放援助するよりもむしろ経済的および政治的問題に関心があった。1917年12月26日にロビンスはアメリカ赤十字社の暫定的な社長であった、モルガンの仲間であるヘンリー・ダヴィソンに、次の内容の電報を送った。「ボルシェビキ政府との我々が交流を続ける必要性を大統領に説得して下さい」。22 1918年1月23日にロビンスはその時ニューヨークにいたトンプソンに電報した。
ソビエト政府は、今日において、これまでと比較して強い。その権威と権力は憲法制定会議の解散によって大いに強固になった。ボルシェビキの権威を即座に承認することの重要性をいくら強く説得したとしても、説得し過ぎることはない。シッソンはこの文章に賛成しており、あなたがこの電文をクリールに見せることを求めている。タチャーとワードウェルは同意見である。23
脚注
22 C. K. Cumming and Waller W. Pettit, Russian-American Relations, Documents and Papers (New York: Harcourt, Brace & Howe, 1920), doc. 44.
23 Ibid., doc. 54.
p. 100
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ロビンスは、その後1918年に合衆国に帰国し、国務長官ロバート・ランシング宛てに「ロシアとのアメリカの経済協力:ロシアは経済再構築においてアメリカの援助を歓迎するでしょう」という文言で始まる報告書を提出した。24
ボルシェビキのための ロビンスの 不屈の努力によって、ボルシェビキ陣営におけるある名声、および多分何らかの政治的影響力さえ、ロビンスは手にした。ロンドン駐在合衆国大使は、「サルカインドはスイスへのボルシェビキ大使としての彼の任命に関して、レイモンド・ロビンス以外には考えられないアメリカ人に恩恵をこうむっている」ということを1918年11月に断言した。この頃、ロビンス自身がボルシェビキ主義者であるという報告がワシントンに徐々に流れ始めていた。たとえば、1918年12月3日付けのコペンハーゲンからの次の報告がある。
機密事項。 前モスクワ駐在オーストリアハンガリー総領事ジョージ・デ・パトポワリィ(George de Patpourrie)宛のラデック(Radek)の文面によれば、アメリカ赤十字社ロシア派遣団の前盗人ロビンス大佐は目下モスクワにいて、ソビエト政府と交渉中で、ボルシェビキと合衆国における彼らの友人の間の仲介者として振舞っている。印象はある筋において、他の人々は彼はそうでないと主張するけれどもロビンス大佐自身がボルシェビキ主義者であり、ロシアにおける彼の行動は連合政府の利益に反してきたように思われる。26
ニューヨークにおけるソビエト支局のファイル内の、1919年にラスク委員会によって押収された資料によれば、ロビンスとその妻が合衆国におけるボルシェビキ活動およびニューヨークにおけるソビエト支局の設立に関して、緊密に関わっていたことが明らかである。27
英国政府はロシア語を話す若いエージェント、ブルース・ロックハートを送ることで、ボルシェビキ体制との非公式な関係を確立した。ロックハートは事実上ロビンスの反対側のメンバーであったが、ロビンスと違って外務省への直接のチャンネルを持っていた。ロックハートは外務大臣または外務省によって選ばれたのではなかった。外務大臣および外務省はその任命で愕然とした。リチャード・ウルマンによれば、ロックハートは「ミルナーとロイド・ジョージ自身によって彼の任務のために選ばれた。..」 大英帝国駐在の非公式ソビエト代表者マキシム・リトヴィノフはロックハートのためにトロツキー宛の紹介状を書いたが、そこで彼はその英国エージェントを「我々の立場を理解し、我々に同情する完全に正直な人物だと呼んでいる。」28
脚注
24 C. K. Cumming and Waller W. Pettit, Russian-American Relations, Documents and Papers (New York: Harcourt, Brace & Howe, 1920), doc. 92.
25 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/3449. But see Kennan, Russia Leaves the War, pp. 401-5.
26 Ibid., 861.00 3333.
27 See chapter seven.
28 Richard H. Ullman, Intervention and the War (Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1961), t). 61.
p. 101
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親ボルシェビキの立場を取るようにとのロイド・ジョージへの圧力、特にウィリアム・B・トンプソンからの圧力、およびバシル・ザハロフ卿およびミルナー卿からの間接的な圧力について既に述べた。この章の題辞が示唆するように、ミルナーは極めて親社会主義者であった。エドワード・クランクショー(Edward Crankshaw)は簡潔にミルナーの二重性の要点を述べている。
産業と社会に関しての[ミルナーの]数節は...いかなる社会主義者も書いたことを誇るであろう節である。しかし、それらは社会主義者によって書かれたのではなかった。それらは"ボア戦争を引き起こした人物"によって書かれた。帝国主義および白人の重荷についての数節は保守的な頑固者によって書かれたのかも知れない。それらはカール・マルクスの学生によって書かれた。29
ロックハートによれば、社会主義者の銀行重役ミルナーは彼に"最大の愛情と英雄崇拝"を吹き込んだ人物であった。30 どのようにミルナーは彼のロシア任命を個人的に後援し、それを内閣レベルまで売り込み、彼の任命が決まったあとは、ロックハートと"ほとんど毎日のように"話をしたかをロックハートは詳述している。ボルシェビキ承認の道を開けている間に、ニューヨークにおいてモルガンがしたように、ミルナーは南ロシアやその他の地域で彼の敵に対して金融的な支援を推し進めてもいた。この二重の政策は、ミルナーやトンプソンのような政治を利用する国際主義者の手口は勝者になるかも知れない革命家の馬および反革命の馬のいずれにも国の金を置くことであるという主張と一致している。国際主義者は勿論何らかの続いて来る利得を要求した。手がかりはたぶん、ミルナーは"高度に組織化された国の存在を信じていた"人物であったというブルース・ロックハートの観察の中にある。31
フランス政府は、よりオープンにボルシェビキ同調者でトロツキーの旧友であるヤクエス・サドウル(Jacques Sadoul)を任命した。32
脚注
29 Edward Crankshaw, The Forsaken Idea: A Study of Viscount Milner (London: Longmans Green, 1952), p. 269.
30 Robert Hamilton Bruce Lockhart, British Agent (New York: Putnam's, 1933), p. 119.
31 Ibid., p. 204.
32 See Jacques Sadoul, Notes sur la revolution bolchevique (Paris: Editions de la sirene, 1919).
p. 102
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要するに、連合国側の政府は彼ら自身の外交上のペトログラード駐在代表者を中立化し、彼らをボルシェビキに多かれ少なかれ同調する非公式のエージェントと入れ替えた。
これらの非公式大使のレポートは、内部ロシアから西洋に宛てられた援助嘆願と全く異なっていた。マキシム・ゴルキィ(Maxim Gorky)は、ロシアにおける警察国家の確固とした支配を押し付けていたレーニン-トロツキーのグループによる革命の理想に対する裏切りについて抗議した。
我々ロシア人は、自由の中で決して働いたことがなく、全ての力と才能を発展させる機会を決して持ったことがなかった人々から成っている。そして、革命が我々に自由な仕事の可能性、およぼ創造における多面的な喜びの可能性を与えることを思うとき、血とアルコールで汚されているこの呪われた日々においてさえ、大いなる希望と喜びで私の心は耕される。
人民委員会の正気でない行動からの私の断固たる妥協の無い分離の方針が始まる。概念としての最大限要求主義は限界の無いロシア人の魂のために非常に有益であると考える。その仕事は、この魂に偉大で勇気ある欲求を発展させること、必要な闘争心と活動力を引き出すこと、この怠惰な魂に進取の精神を呼び起こすこと、および一般論としてその形と命を与えることである。
しかし、無政府共産主義者およびスモーリヌィ(Smolny)修道院出身の空想家の実際的な最大限要求主義はロシア人にとって、とりわけ労働者階級のロシア人にとって破壊的である。人民委員会はロシア人を実験材料のように扱っている。ロシアの人々は、抗発疹チフスリンパ液が血液中に生じるように、学究的な細菌学者に発疹チフスを植えつけられた馬のような存在である。今や、人民委員会は痛めつけられ、半分飢えた馬が死ぬかも知れないということを考えないで、ロシアの人々にそのような失敗に終わる運命の実験を試みている。
スモーリヌィ修道院出身の改革論者はロシアについて心配していない。彼らは、世界中および欧州の革命という彼らの夢の名において、冷血にロシアを犠牲にしている。そして、私はできる限りにおいてロシアの労働者階級にこれを印象付ける。すなわち、「汝は破滅に導かれつつある。汝は非人間的実験の材料として使われようとしている!」33
同調的な非公式大使のレポートと対照的に、保守的な外交上の代表者からのレポートもあった。1918年初期にワシントンに送られてくる多くのメッセージ −特に、ウッドロー・ウィルソンがボルシェビキ政権の援助を表明してから− のうちの典型は、スイス、ベルンの合衆国公使館からの次の電文であった。
脚注
33 Maxim Gorky, The New Life, April 1918.
p. 103
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ポーク殿 大統領のモスクワ領事へのメッセージはここでは理解されず、人々は何故大統領がボルシェビキへの援助を表明したのか尋ねている。これらの群れが略奪、殺人、混乱をもたらしているのにという観点においてである。34
ウィルソン政権によるボルシェビキに対する継続する支援は、アークエンジェル(ロシア)の有能なアメリカ人の世話人であったデ・ウィット・C・プール(De Witt C. Poole)の辞職を招いてしまった。
大統領の提案に沿って1月22日の平和会議で採用されたロシア政策に関する声明によって私が投げ入れられた当惑について、国務省に率直に説明するのが私の義務である。
その声明は非常に喜んで革命を認知していて、ずっとロシアにおけるアメリカの政策の主眼であった、反革命の如何なる形への同調も全く存在しないことを確認するものであるが、それはボルシェビキ政府という革命の他の敵に対するとがめ立ての言葉を一言も含んでいない。35
このように1918年の早い日々においてさえ、自由論者革命の裏切りはマキシム・ゴーリキーやデ・ウィット・C・プールのような鋭い観察者に気付かれ済であった。プールの辞任は国務省を驚愕させたが、国務省は"あなたの辞任願いに関して最高度の沈黙"を要求し、「アメリカ人の生命の損失に繋がるかもしれない、アークエンジェル地区におけるアメリカ軍の士気の消滅および多分その士気への破滅的影響を避けるために、あなたを自然で正規の方法で交代させる必要があろう」と述べた。36
連合国政府は彼ら自身の政府代表者をそのように中立化させただけではなく、合衆国はボルシェビキ支援を止めるべきとのロシア内外からの請願を無視した。有力なソ連援助はニューヨーク金融地区から大量にやって来た(国内の合衆国革命家からの援助はほとんど影響しなかった)。特に、アメリカの国際企業である、モルガン支配の会社からやって来た。
革命の輸出:ヤコブ・H・ルビン(JACOB H. RUBIN)
事例は決してそれだけだという訳ではないが、アメリカ市民であるヤコブ・ルビンとロバート・マイナーが革命を欧州とロシアの他の地域に輸出することにおいて支援した2つの事例を比較しよう。
脚注
34 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/1305, March 15, 1918.
35 Ibid., 861.00/3804.
36 Ibid.
p. 104
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ヤコブ・H・ルビンは、彼自身の言葉で言えば、"オデッサのソ連政府樹立を助けた"銀行家であった。37 ルビンはニューヨーク市19 West 34 StreetのRubin Brothersの社長で、経理部長で、かつ秘書でもあった。1917年に彼はミルウォーキーのUnion BankおよびニューヨークのProvident Loan Societyと提携した。Provident Loan Societyの受託者には他の箇所で述べた、ボルシェビキ革命と繋がりのあった人物、すなわちP.A.ロックフェラー、モルタイマー・L・シフ、およびジェームス・スペイヤーが含まれていた。
何らかの方法によって −彼の著書「私は告げるために生きている」38において曖昧に物語られているが− ルビンは1920年2月にオデッサに居て、マッカリー提督から国務省へのメッセージ(1920年2月13日付け、861.00/6349)の主題になっていた。そのメッセージの趣旨は、ミルウォーキーUnion Bankのヤコブ・H・ルビンはオデッサに居て、ボルシェビキとともに居たがっている ―"ルビンは去りたがっておらず、ボルシェビキへの奉仕を申し出ていて、明らかに彼らに同調しているということであった。その後、ルビンはやっと合衆国に帰国し、1921年下院外交委員会の前で宣誓証言した。
オデッサにて私はずっとアメリカ赤十字社の人々と一緒にいました。赤軍がオデッサを占領したとき、私はそこにいました。その時、私は好意を持ってソ連政府に心を惹かれました。なぜならば、私は社会主義者で、20年間その政党のメンバーでした。オデッサのソ連政府樹立を助けたことを私は認めざるを得ません。39
彼は南ロシアのデニキン政府のスパイとして逮捕されたことがあると付け加えるけれども、ルビンについて我々はそれ以上ほとんど知らない。しかし、その活動によって捕らえられたが、ハリファックスの戦犯キャンプからのトロツキーの釈放を思い出させるメカニズムによって釈放されたロバート・ミルナーについては我々は遥かにより多く知っている。
革命の輸出:ロバート・マイナー
ウィリアム・ボイス・トンプソンおよびレイモンド・ロビンスによって資金援助され組織化されたドイツにおけるボルシェビキポロパガンダ活動40は、トロツキーの人民外交委員会の監督の下、アメリカ市民によって実際に実行された。
脚注
37 U.S., House, Committee on Foreign Affairs, Conditions in Russia, 66th Cong., 3d sess., 1921.
38 Jacob H. Rubin, 1 Live to Tell: The Russian Adventures of an American Socialist (Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1934).
39 U.S., House, Committee on Foreign Affairs, op. cit.
40 See George G. Bruntz, Allied Propaganda and the Collapse of the German Empire in 1918 (Stanford, Calif.: Stanford University Press, 1938), pp. 144-55; see also herein p. 82.
p. 105
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外務省におけるトロツキーの最初の改革の一つは、カール・ラデックの下に報道局、ボリス・レインスタインの下に国際革命宣伝局を設立することであった。彼らはジョン・リードおよびアルバート・リス・ウィリアムスに支援され、これらの精力家のフル操業はドイツ軍を敵にした。
ドイツの新聞Die Fackel (The Torch)は1日当たり50万部印刷され、特別列車でミンスク、キエフ、および他の都市の中央軍委員会に送られ、委員会はそれらの新聞を最前線の他の地点に配布していた。41
ロバート・マイナーはレインスタイン宣伝局の諜報員であった。マイナーの先祖は初期のアメリカの歴史において有名であった。テキサス共和国の初代大統領サム・ヒューストン(Sam Houston)将軍はマイナーの母親ルーテズ・ヒューストン(Routez Houston)の親戚であった。他の親戚は、ジョージ・ワシントンの叔母マイルドレッド・ワシントン(Mildred Washington)、およびトーマス・ジェファーソンの選挙マネージャのジョン・マイナー(John Minor)将軍であった。マイナーの父親はテキサスに移民したバージニアの弁護士であった。 少ない顧客との辛い年月のあと、彼はサンアントニオの判事になった。
ロバート・マイナーは才能ある風刺漫画家で社会主義者であった。彼は東部に行くためテキサスを去った。彼の寄稿のいくらかは親ボルシェビキ雑誌Massesに載った。1918年、マイナーはPhiladelphia Public Ledgerの職員としての風刺漫画家であった。マイナーは1918年3月にボルシェビキ革命をレポートするためにニューヨークを去った。ロシアにいる間、ミルナーは、Daily Herald and Manchester Guardianの特派員フィリップ・プライスや、非公式のフランス大使でトロツキーの友人であるジャクエス・サドウルと一緒に、レインスタインの国際革命宣伝局(図表を参照)に加わった。
プライス、マイナー、およびサドウルの活動についての優れたデータが、ワシントンD.C.の国務省ファイルのレポートにおけると同様に、"フィリップ・プライスとロバート・マイナーの事例"というタイトルの形でスコットランドヤード(ロンドン)機密特別レポートNo.4の形で残存している。42 このスコットランドヤードレポートによれば、フィリップ・プライスはボルシェビキ革命前の1917年中頃、モスクワに居て、"私は革命運動に首まで浸かっている"ということを認めた。その革命と1918年秋頃の間、プライスは外交委員会においてロバート・マイナーとともに働いた。
脚注
41 John W. Wheeler-Bennett, The Forgotten Peace (New York: William Morrow, 1939).
42 There is a copy of this Scotland Yard report in U.S. Start' Dept. Decimal File, 316-23-1184 9.
p. 106
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1918年における海外宣伝活動の組織
人民外交委員会
(トロツキー)
報道局
(ラデック)
国際革命宣伝局
(レインスタイン)
現地諜報員
ジョン・リード
アルバート・フィス・ウィリアムス
ロバート・マイナー
フィリップ・プライス
ジャゥエス・サドウル
1918年11月に、マイナーとプライスはロシアを去って、ドイツに行った。43 彼らのプロパガンダの生産物はムルマン前線で最初に使われ、ウィリアム・トンプソンのプログラムに従って、英国、フランス、およびアメリカの軍隊の中へボルシェビキの飛行機によってビラが落とされた。44 サドウル、プライス、およびマイナーをドイツに派遣するという決断は共産党の中央執行委員会によって為された。ドイツにおける彼らの活動は英国、フランス、およびアメリカの諜報機関の知るところとなった。1919年2月15日に合衆国軍のリュテナント・J・ハバスが、その当時、Spartacist革命グループの支配下にあったデュッセルドルフに派遣された。彼はアメリカ軍からの脱走兵を装い、Spartacistsへの奉仕を申し出た。ハバスはフィリップ・プライスおよびロバート・マイナーを知るようになり、アメリカ軍にばら撒く目的でいくらかの小冊子を印刷するように示唆した。スコットランドヤードのレポートは、プライスとマイナーが英国およびアメリカの軍隊向けの数冊の小冊子を既に書いていたこと、プライスがウィルヘルム・リーブクネッチの作品を英語に訳していたこと、および両者が更なるプロパガンダ地域で活動していたことを述べている。ハバスの報告したところによれば、マイナーとプライスはアメリカと英国の軍隊に飛行機からばら撒くための英字のボルシェビキ新聞をシベリアで彼らが一緒に印刷していたと言った。45
脚注
43 Joseph North, Robert Minor: Artist and Crusader (New York: International Publishers, 1956).
44 Samples of Minor's propaganda tracts are still in the U.S. State Dept. files. See p. 197-200 on Thompson.
45 See Appendix 3.
p. 107
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1919年6月8日、ロバート・マイナーはパリでフランス警察に逮捕され、コブレンツのアメリカ軍職権に引き渡された。同時に、ドイツ人のSpartacistsがケルン地域における英国軍の職権によって逮捕された。その後、Spartacistsは連合軍内に反乱と治安妨害を引き起こした容疑で有罪を宣告された。プライスは逮捕されたが、マイナーと同様直ぐに釈放された。この性急な釈放は国務省において書き留められていた。
ロバート・マイナーは全く訳の分からない理由で釈放された。というのは彼に対する証拠は有罪判決を得るに十分であったように思えるからである。その釈放は不幸な結果になるであろう。というのはミルナーはアメリカにおけるIWW(世界産業労働者組合)と親密に関係してきたと信じられるからである。
彼が釈放を勝ち取ったメカニズムは国務省ファイルに記録されている。最初の関連文献は1919年6月12日付けで、パリ駐在合衆国大使からワシントンD.C.の国務長官宛のもので、緊急で機密とマークされている。47 フランス外務省はその大使に、6月8日に"アメリカの特派員"ロバート・マイナーがパリで逮捕され、コブレンツの第三アメリカ軍総司令部に送られたことを知らせた。マイナーに関する新聞記事は「彼の活動に関して供給されたレポートを確証するように思われる。それ故、マイナーがボルシェビキの支持者を自認する者達とパリで関係を持ったということが確証されているように思われる。」 大使はマイナーを"特に危険な男"と看做した。アメリカ軍職責による尋問がなされていた。大使はこれを単に軍の裁判権以内の問題と信じたので、教示すれば歓迎されたであろうにもかかわらず、如何なる行動も取られなかった。
6月14日、テキサス、サンアントニオのR.B.マイナー判事は国務省のフランク・L・ポークに電報を送った。
新聞社は、パリにいる私の息子ロバート・マイナーが分からない理由で監禁されていると報じている。私がテキサス出身の上院議員に任せている彼を出来る限り守って下さい。
[署名]R.P.マイナー、地方裁判所裁判官、サンアントニオ、テキサス48
脚注
46 U.S. State Dept. Decimal File, 316-23-1184.
47 Ibid., 861.00/4680 (316-22-0774).
48 Ibid., 861.00/4685 (/783).
p 108
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ポークはマイナー判事に、国務省も戦時局もロバート・マイナーの監禁についての情報を持っていないこと、およびその事件はコブレンツの軍職権の前にあることを電報で伝えた。遅れて6月13日、国務省はパリからの"極めて機密で緊急の"メッセージを受け取ったが、それはロバート・ミルナーの監禁に関しての軍諜報機関事務所(コブレンツ)の言明、すなわち「マイナーは英国軍諜報機関の要求によりフランス職権によってパリで逮捕され、直ちにコブレンツのアメリカ軍総司令部に引き渡された」49ことを報告したものであった。彼はボルシェビキ革命文学の執筆と普及を担当していたが、それらは占領地域における英国軍およびアメリカ軍の中でデュッセルドルフで印刷されていた。軍の職権はマイナーに対する告発を検討するつもりであった。そして、もし立証されたならば、彼を軍法会議で裁くつもりであった。もし、その告発が立証されないならば、「フランス人が彼を彼らに引き渡すよう最初に要求した」英国職権にマイナーを返すのが彼らの意図であった。50 テキサスの判事マイナーはテキサス出身の上院議員モーリス・シェパードと独立にコンタクトし、シェパードはパリのハウス大佐とコンタクトした。1919年6月17日、ハウス大佐はシェパード上院議員に次のものを送った。
アメリカ大使と私はともにロバート・マイナーの事件をフォローしている。重大な容疑でケルンのアメリカ軍職責によって彼が留置されていると知らされているが、その正確な性質を知るのは困難である。とは言っても、彼への配慮を請け負うためのあらゆる可能な手段を取ろう。51
シェパード上院議員とカルロス・ビー連邦議会議員(テキサス14番地区)はともに国務省に知られた興味ある事をした。1919年6月27日、ビー連邦議会議員はマイナー判事が彼の息子に350ドルとメッセージを送ることができるように担当部署に要求した。7月3日、シェパード上院議員はフランク・ポークに手紙を書き、彼がロバート・マイナーの事件に"非常に興味がある"ことを述べ、国務省がその状況を確かめることができるかどうか、およびマイナーが適切に軍の職権の裁判権の下にあるかどうかと思っていると述べた。その後、7月8日、パリ駐在大使はワシントンに、"機密:マイナーはアメリカの職権から釈放され、最初の船で合衆国に帰国"との電報を送った。この突然の釈放は国務省の好奇心をそそり、8月3日、ランシング国務長官はパリに、"機密:先ほどの電報に関してだが、軍の職権からマイナーが釈放された理由を是非知りたい"という電報を送った。
脚注
49U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/4688 (/788).
50Ibid.
51Ibid., 316-33-0824.
p. 109
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最初、合衆国軍職責は英国がロバート・マイナーを裁くことを望んでいた。というのは、「もしその囚人がアメリカの軍法会議で裁かれたならば、合衆国の政治権力が有罪判決を避けるために干渉するかもしれないと恐れた」からである。しかし、英国政府は、マイナーが合衆国市民であること、彼が何よりも先ずアメリカ軍に敵対するプロパガンダを準備しているという証拠があること、およびそれ故 −英国参謀長がそう示唆したのである− マイナーはアメリカの法廷で裁かれるべきであることを主張した。英国参謀長は、「もし可能ならば、有罪判決を得ることが最も重要であると考えていた」。52
第三軍参謀長室の文献はマイナーの釈放についての内部における詳細について述べている。53 1919年6月23日付けの第三軍参謀長ハーボード(Harbord)少将(その後、 International General Electricの取締役会の会長になった人物で、その執行中枢もまた偶然にもブロードウェイ120番地であった)から第三軍を指揮する将軍への電文には、最高司令官ジョン・J・パーシング(John J. Pershing)が「更なる指示があるまで、マイナーの事件に対する訴訟を延期せよと命じている。」と記されている。また、法務官室の准将W.A.ベセル(Bethel)が署名しており、日付は1919年6月28日で、"Secret and Confidential"とマークされ、"ロバート・マイナー、第三軍司令部軍委員会による裁判待ち"というタイトルのメモもある。そのメモはマイナーに対する法律上の訴訟事実をレビューしている。たとえ、マイナーが咎められている厄介な犯罪が"人の犯しえる最大級の"重大事であったとしても、欧州における戦争犯罪に対するアメリカ人のそれらによる裁判事件へのアメリカの評価を彼らが恐れたため、英国はマイナー事件を取り扱うのを明らかにしぶったというのが、ベセルが下した指示の中にある。これは意義深い言明である。トンプソン自身のメモ(Appendix 3参照)によって確証された事実であるが、マイナー、プライス、およびサドウルは連邦準備銀行重役トンプソンによって設計されたプログラムを実行していた。それ結果、トンプソン(およびロビンス)は同じ容疑に、ある程度において、さらされなかったのか?
マイナーに対する証人シーグフライド(Siegfried)にインタビューし、その証拠をレビューしたあと、ベセルは次のようにコメントした。
私はマイナーが有罪であると完全に信じている。しかし、もし、私が法廷に座っているならば、現在入手可能な証拠 −探偵で情報提供者の地位にあるとして振舞うただ一人の人物の宣誓証言− だけでは有罪としないであろう。
脚注
52 U.S. State Dept. Decimal File, 861.00/4874.
53 Office of Chief of Staff, U.S. Army, National Archives, Washington, D.C.
p. 110
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ベセルは続けて、シーグフライドの宣誓証言の信憑性を確証するための十分な事実が手に入るかどうかは、1週間または10日間以内に知られるであろうと述べている。もし、それが手に入れば、「マイナーは裁かれるべきと私は考える」が、「もし確証されえないならば、その訴訟を却下した方が良いであろうと考える」。
ベセルによるこの声明は異なった形でハーボード将軍によって7月5日の電報でマリン・クレイグ将軍(コブレンツの第三軍参謀長)にリレーされた。
マイナーに対する訴訟に関して、シーグフライド以外の証人がこの時まで現れないならば、はその訴訟を却下し、C in Cはマイナーを釈放するように指示する。受け取り通知を下さい。また、行動を決めてください。
クレイグからハーボード将軍への返事(7月5日)には、マイナーがパリで釈放されたことが記されていて、「これは彼自身の願いと一致しており、我々の目的にも適う」とも書かれている。クレイグはまた、他の証人が現れていたとも記している。
この電報の交換はロバート・マイナーの訴訟却下を急いでいる程度を示唆しており、急ぎは圧力を暗示している。証拠を集めるために十分な努力がなされなかった。ハウス大佐とパーシング将軍によるパリの最高レベルでの干渉、およびハウス大佐からモリス・シェパード下院議員への電報は、ハウスとウィルソン大統領の両者がマイナーの裁判無しでの早急な釈放を招いたというアメリカの新聞記事に重みを与えている。54
マイナーは合衆国に帰国し、彼に先立ちトンプソンとロビンスがしたように、ボルシェビキロシアの奇跡をプロモートしながら合衆国内を旅行した。
脚注
54 U.S., Senate, Congressional Record, October 1919, pp. 6430, 6664-66, 7353-54; and New York Times, October It, 1919. See also Sacramento Bee, July 17, 1919.
p. 111
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総括として、連邦準備銀行重役ウィリアム・トンプソンは、様々な手段 −ロシアでのパンフレット作成、ボルシェビキの操作・スピーチの金融支援、(ロビンスとともにした)ボルシェビキ革命のドイツ(および多分フランスも)への派遣団の組織化、およびモルガンの仲間ラモントとともにした英国の政策転換を計るためのロイド・ジョージと英国戦時内閣への影響力行使− においてボルシェビキ勢力を促進することにおいて活動したことを我々は知っている。更に、レイモンド・ロビンスはドイツ革命のためにロシアのボルシェビキを組織化したことに対して、フランス政府によって法廷に召喚された。ロビンスはロシアおよび合衆国におけるソ連の利益のためにあからさまに働いていたことを我々は知っている。最後に、トンプソンのプログラムにおいて使われた革命宣伝者の一人であるロバート・マイナーは、合衆国政府の最高レベルからの干渉を暗示する状況の下で釈放されたことが我々には分かる。
明らかに、これは遥かにより広い画面の一部に過ぎない。これらは、偶発的で成行任せの事件では到底ありえない。それらは、数年以上に亘って、首尾一貫した連続するパターンを構成している。それらは、数カ国の政府の最高レベルでの強大な影響力を暗示している。
p. 112
http://www.nn.em-net.ne.jp/~komoda/chap6.html
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