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下村湖人と田沢義鋪
下村湖人は昭和30年の4月20日に脳軟化症のため71歳で死去した。「次郎物語」第五部に登場する田沼先生のモデルは田沢義鋪(たざわよしはる、1885-1944)といわれる。田沢は大正・昭和の官僚・社会運動家。明治18年7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村高津原に父・田沢義陳(よしのぶ)、母・すみの長男として生まれた。佐賀中学鹿島分校、熊本第五高等学校を経て明治42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、高等文官試験に合格し、内務省に入り、明治43年4月、静岡県に赴任し、8月、25歳の若さで静岡県安倍郡長となる。この時代に農村青年教育に意を注ぎ、農村を基盤とする青年団を育成し、さらにその活動範囲をひろげ修養運動とも連携し、農村青年の人間形成を目的とする天幕講習会などを開き、全国的青少年運動の下地をつくった。大正4年7月、明治神宮造営局書記官兼内務書記官として内務省本省に戻ると、全国の青年団員の勤労奉仕によって明治神宮の造営を行なうというプランを立て、実行した。一人一円運動を起こし、大正14年青年団の全国組織・大日本連合青年団を結成し、東京における拠点として日本青年館を建設する。しかし、昭和になると軍部の力が強くなり、青年団の軍事利用を企てる軍部と対立する。反軍演説で議員の地位を追われた斉藤隆夫の応援演説をしたり、軍部や政府のあり方に批判的で、大政翼賛会にも入会しなかった。昭和19年、四国の善通寺で開かれた地方指導者講習会で日本は敗れると語り、その直後、脳溢血で倒れ、11月24日、59歳で他界した。
下村は田沢義鋪の第五高等学校の1年後輩にあたり、同郷の寮生として親しかった。下村は「この人を見よ」で、
明治以後で真に尊敬に価する人を、私も数多く知っている。その中から三人あげよと言われるならば、私は躊躇することなく、福沢諭吉、新渡戸稲造、とこの田沢義鋪とをあげるであろう。かれの人としての誠実さ、何らの邪念を交えず醇乎として信念つらぬいた生涯、毅然たる清節、私は百代にわたって、あえて「この人を見よ」といいたい。
と書いている。しかしながら、田沢義鋪の名前が現在あまり知られていないことは遺憾である。道義を重んじ、人類愛と平和主義者であり、理想と行動力を備えた田沢義鋪の思想と事績を学ぶことは大切であろう。
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-abc2.html
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