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山本五十六が日本を敗戦に導いた ?
山本五十六が日本を敗戦に導いた
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/tsubuyaki004.html
『山本五十六は生きていた』は私にとって「目から鱗が落ちる」思いのする本でした。私の読書法は、特に参考になると思う部分があると、そのページの耳(上の角の部分)を折り曲げておくのですが、この本は約370ページもある中で2〜3ページしか曲げていないのです。ということは、10年前に読んだときは、やはり感じるところが少なかったものと思われます。私の問題意識がそこまで及んでいなかったということでしょう。
しかし、最近になって改めて目を通して見ますと、私が先の戦争(太平洋戦争)に関して疑問に思っていたことの答えがすべて書かれていました。
その疑問とは、まず「日本はなぜ勝ち目のないアメリカとの戦争に踏み込んでいったのだろうか」ということです。もちろん、それは「陰の世界支配層」に操られたルーズベルトの陰謀により、ABCD包囲網などで嫌がらせをされ、最後通牒としてのハル・ノートを突きつけられて、戦争に踏み切るしかないところまで追い詰められたからだ、という程度の知識は持っていました。
当時アメリカ国民は、ヨーロッパでの戦争にアメリカが参戦することには強く反対していたのです。ですから、ヨーロッパにおいてヒトラーのドイツと戦っているイギリスを支援をするには、ドイツと同盟を結んでいる日本を挑発して、先に攻撃をさせる必要があったのです。そのために仕組まれたのが、日本海軍による真珠湾への先制攻撃でした。しかも宣戦布告なしの攻撃ということで、アメリカ国民の心に怒りの炎を燃え立たせる必要があったのです。
日本の宣戦布告が遅れたのは、駐米日本大使館員の不手際だったということになっています。大使館員がへまをしたために、アメリカ政府に届けるのが遅れてしまったというのです。そのことも、私には疑問に思えてなりませんでした。相手の国に宣戦布告をするような重要な文書が、翻訳に手間取って時間までに届けられなかったというようなことが考えられるでしょうか。まるで子供だましの世界です。その証拠に、そんな不手際をしたとされる大使館員たちは、その責任を問われることもなく、戦後は全員が栄進しているのです。
さらに不思議だったのは、日米の戦局を大きく左右することになったミッドウェー海戦です。どう考えても意味が理解できないおかしな作戦になぜ踏み切ったのでしょうか。この作戦は山本五十六が徹底的にこだわったと言われています。反対の意見が多かったにもかかわらず、この作戦が採用されなければ自分は司令長官を辞任する、とまで言って強引に通しているのです。
そして、もうひとつ疑問に思ったことは、日米の戦力が全くの互角だったあの海戦では日本が勝利する可能性もあったはずなのに、アメリカがあたかも勝利を確信しているかのように落ち着いて日本の艦隊を待ち受けていたのはなぜなのかという点です。もし、あの戦いで日本が勝利を収め、アメリカの主だった空母が沈められることになれば、戦争は圧倒的に日本が有利になっていたからです。
この本によれば、その答えは、日本の艦隊を指揮していた山本五十六や南雲忠一はフリーメーソンだったから、アメリカは安心していたのだというのです。必ず日本が負けるような作戦をとってくれるとわかっていたのだとか。これで全ての謎が解けました。つまり、山本五十六は最初から負けるためにミッドウエー海戦を仕組んだのでした。もともとあの戦争は日本を負けさせるためだったのです。そのことが具体的な情報に基づいて、大変な説得力をもって書かれています。
要するに、日本の政界や軍部の中枢にはフリーメーソンの信奉者が数多くいて、日本を敗戦国にすることを目的として戦争に突入していったということなのです。これでは、純粋に日本の国益を守るために命を捧げた多くの兵士の魂は浮かばれない気がします。
そう言えば、戦後、東京裁判で戦争責任が問われたのは陸軍ばかりで、真珠湾攻撃を計画した山本五十六や、その指揮を執った南雲忠一らは全く罪に問われていないどころか、その後まるで英雄扱いをされているのです。この落差は異様だと思いませんか?
☆ ★ ☆
そしていま、日本の政治・経済を取り巻く情勢はあの時と同じような局面を迎えつつあるのです。「知らぬは国民ばかり」という事態が密かに進行しつつあります。2005年夏の総選挙で小泉自民党が圧勝したことによって実施されることになった「郵政民営化」も、そのひとつと見てよいでしょう。
しかし、郵貯や簡保の350兆円が外資の餌食になるということだけが問題なのではありません。日本の国そのものが抹消されようとしているのです。世界を陰で支配する勢力に屈し、操られているわが国の政治家や官僚、マスコミ、財界人などによって、いまこの国はその方向に誘導されつつあるのです。
山本五十六は生きていた
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骨の髄まで親米派のフリーメーソン [TOP]
山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。
(中略)
大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て大正8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。
真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。
被害を受けた戦艦はいずれも1910〜1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。
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こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。
この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。
山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。
ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官ひとりは、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。
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