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満州事変(1931年)は、何故起きたのでしょうか?
今日、この事変は、世界恐慌で経済が行き詰まった日本が、その経済的行き詰まりを打開する為に行なった「侵略行為」として語られる事が多いと思はれます。
私自身、そう思ひ込んで居ましたが、真実は、本当に、そんな単純な物だったのでしょうか?
物事には、前史が有ります。1931年9月18日の柳条湖事件だけを取り上げて見れば、その様に思はれても仕方の無い面は確かに有ります。しかし、今日、その前史が何故これほど語られないのか?中国で、反日デモが広がる中で、満州事変の前史を振り返る事は、無意味ではないに違い有りません。
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そもそも、満州は、歴史的には、漢民族(中国人)の土地ではありませんでした。
皆さんは、中学や高校の世界史で、歴史地図と言ふ物を見た事が有ると思ひます。もし、家に歴史地図が有ったら、是非見て下さい。殷や周の時代から、隋、唐、宋の時代でも、満州が漢民族の王朝によって支配された事は一度も有りません。満州に在ったのは、常に漢民族以外の民族の国家ばかりで、高句麗、渤海、切丹、元(モンゴル)、清、など、中国人(漢民族)がこの地域を支配、統治した時代は、20世紀以前には無かった事を、先ずは、思ひ出さなければなりません。
満州が、中国人(漢民族)の支配に入ったのは、1911年の辛亥革命以後の事です。つまり、北海道が日本の領土に成ったのよりずっと新しい事なのですが、その辛亥革命後、満州が中国人の支配に置かれた経緯には、大きな問題が有ったのです。
辛亥革命(1911年)は、満州族の王朝であった清を中国人(漢民族)達が打倒し、中華民国を建国した革命でした。満州族による漢民族(中国人)支配に対して中国人が不満を抱き、新しい国家を打ち立てた事自体は理解出来ます。しかし、問題は、その過程で、中国人(漢民族)の土地ではなかった満州までもが、中国人の支配を受ける様に成ってしまった事でした。即ち、漢民族(中国人)が、満州族(清)の支配に反抗して立ち上がった事自体は正当であったにせよ、その漢民族が、今度は、満州族を逆支配し、中国人の土地ではなかった満州までをも支配する様に成った事が、新しい摩擦を引き起こして居たのです。
辛亥革命後、満州を支配したのは、日露戦争中日本のスパイであった馬族の頭目、張作霖でした。辛亥革命後、打倒された清の領土は分裂状態に陥り、中華民国と言ふ新国家の全国統治は名ばかりでしたが、そんな分裂状態の中でも、国民党は満州を新国家の領土であると主張して居ました。例えて言へば、アフガニスタンで、カブール周辺しか支配して居ないカルザイ政権が、建前ではアフガニスタン北部も統治して居るとしながら、実際には全く統治して居ないのと同じです。南京で誕生した新国家中華民国の政府は、満州を実効支配した事は一度も無く、満州は、辛亥革命後、名目上は中華民国の一部と成りましたが、その中華民国政府は何ら満州を統治しておらず、実際には、地方軍閥である張作霖とその息子張学良が、満州を私物化し、君臨して居たのです。
その張作霖とその息子張学良は、満州に軍政を敷き、満州の住民を苦しめて居ました。特に、彼らは軍票の乱発によって満州をインフレに陥らせ、このインフレは、現地の住民を過酷な状態に置いて居ました。今の北朝鮮の様な親子による支配と経済破綻に加えて、満州の治安は悪化し、例えば万宝山事件と言ふ満州に移住した朝鮮人が現地人の襲撃を受けて虐殺される様な事件も発生して居たのです。
それに加えて、日本にとって重大だったのは、この張作霖・張学良親子の支配下で、日本が清と結んで居た条約が守られなく成り、日本が経営権を持って居た南満州鉄道について、条約で約束されて居た平行線建設の禁止が守られなく成った事でした。張学良は、イギリス資本を導入して南満州鉄道と競合する鉄道を建設し、これによって日本は、日露戦争後、条約で権利を保障されて居た南満州鉄道の経営悪化と言ふ問題に直面して居ました。
その上、張学良は、満州の住民に反日運動を扇動し、満州に在住する日本人は、南満州鉄道の経営悪化のみならず、治安の悪化による危険にさらされる状況に追ひ込まれて居たのです。
つまり、辛亥革命後、満州は、責任ある国家の統治下に無く、そこを支配して居ると主張する中華民国政府は、現実には何ら現地の治安にも条約の継続にも責任を果たして居ませんでした。まさに、当時のアフガニスタンだった訳で、責任有る政府は無く、ただ軍人親子が暴政を続ける真空地帯と化して居たのです。
こうした状況を一気に解決したのが、満州事変だったのです。
確かに、南満州鉄道を自分で爆破してそれを理由に満州を一気に占領したやり方は問題です。しかし、この満州占領の結果、暴君であった張学良は満州から追放され、現地では治安の回復とインフレの終息が実現しました。
その結果、満州事変後の満州に、中国から多くの中国人が流入した事は、その方法はともかく、満州事変が、満州に治安と経済的安定を実現した事の証明と言って間違い有りません。
更に、満州事変後、建国された満州国は、1945年に終焉を迎えるまでの短期間に、戦後の日本の経済成長を彷彿とさせる様な経済発展を遂げ、満州の民生を向上させて居ます。
柳条湖事件だけを取れば、確かに、「侵略」と言はれて仕方の無い面が有った事を私は否定しません。しかし、アメリカがイラク戦争を開始した際の経緯と比較しても分かる通り、この程度の謀略は、国際政治の中で何度も繰り返されて来た事です。そして、結果に注目するなら、アメリカのイラク統治等とは較べ物に成らない治安と経済発展が、満州では実現されて居ます。
こうした事を総合的に考える時、そもそも歴史的に中国人の土地ではなかった満州に居座った張作霖・張学良親子の支配を排除して満州を満州族の手に戻し、日本の影響下に在ったとは言へ、満州族中心の国家を建設して、治安の回復と急速な経済発展を実現した満州事変を、ただ単に「侵略」呼ぶ事は、本当に正しい事なのでしょうか?
皆さんの御意見をお聞かせ下さい。
平成22年9月21日(火)
西岡昌紀
(この日記に対する中国の方たちの御意見、御批判を歓迎します。)
(関連するミクシイ日記)
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柳条湖事件から79年、北京などで反日デモ
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柳条湖事件から79年、北京などで反日デモ
(日テレNEWS24 - 09月19日 02:23)
沖縄・尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件で日中関係が悪化する中、満州事変の発端となった柳条湖事件から79年を迎えた18日、中国では北京など各地で反日デモが起きた。
抗議活動は北京や上海、瀋陽や深センなど各地で起きた。北京の日本大使館には、反日活動家やインターネットでの呼びかけに応じた若者らが集まった。日本大使館前を排除されたデモ隊は、市内をデモ行進した。約50人が約2時間、デモを続けたが、多くの市民は遠巻きに眺め、デモ隊の人数も増えなかった。再び日本大使館に近づこうとしたデモ隊は警察に阻止され、その後、デモは解散した。各地で警察はデモの拡大は許さず、力で押さえ込み、大きな混乱はなかった。また、18日の国営テレビなど主要メディアはデモを報じていない。政府の指示とみられる。
中国政府が恐れるのは、デモがコントロールできなくなり、何かのきっかけで格差や腐敗といった国内問題と結びつき、怒りの矛先が自らに向くことだ。衝突事件をめぐり、中国政府は今後も強硬姿勢を貫くとみられるが、その足元では社会の安定維持とのバランスで苦慮している。
★深センの「セン」は土へんに「川」
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