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間違いなく日本の朝鮮統治は全てが悪
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/392.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 8 月 22 日 21:10:11: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 日本の朝鮮統治は全てが悪であったのか?    西岡昌紀 投稿者 西岡昌紀 日時 2010 年 8 月 22 日 19:00:45)


朝鮮人が反日になった理由

1.飢餓輸出させた
2.農民の土地を奪った
3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた
4.朝鮮の財産をすべて奪った
5.朝鮮女性を性奴隷にした

_______


1.飢餓輸出させた


日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。朝鮮や台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)

こうした努力の結果が、朝鮮の食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm007.html#No.61

当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と思われます。

米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版


この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定されました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。
それに加え、タイなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億8500万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしんりき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。

   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。


こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放さざるを得ませんでした。

その実体を表すのが次の表です。これは米どころの全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でどのように変化したかを示すものです。

          全羅北道、五水利組合の土地移動
                       (単位は町歩)
      日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計
 1920年    3,674    4,181    2,694    10,549
 1931年    8,999    3,545    7,292    19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)

  この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。

  この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年にかけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大しました。

  灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていったのが植民地の現実でした。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

要するに、日本人が酷使する農奴の数が増えただけ.

できた米はすべて日本に持って行かれる.

李朝時代は独立農だったのが食うや食わずになった.

感謝するバカは一人もいない.


_________

1.農民の土地を奪った


1910年の併合強行後、日本は朝鮮の植民地化を進めるが、その第1歩は、
土地の所有権の確定を目的とした土地調査事業であった。

国内における地租改正がそうであったのと同じように、それは植民地財政の基盤を固める意図からでたものであったが、その過程で耕作関係があいまいな多くの土地が、総督府に奪われることになる。

国有地に編入された耕地面積は朝鮮域内の全耕地の20分の1に達し、その多くは日本人に安価に払い下げられ、大規模な日本人地主が誕生した。

土地を失った朝鮮の民衆は、小作農化するか、あるいは日本や中国大陸へと流失していく。

民族の自立を損なう弾圧的な植民地か政策の展開は、第一次大戦後になると、
激しい独立運動の展開による抵抗に遭遇することになった。

1919年3月1日に朝鮮では独立を宣言して蜂起した民衆運動によって、それまでの植民地支配の枠組みを見直さざるを得なくなる。

 歴史上、「文化統治」への転換と評される斉藤総督の統治政策は、一方で「同化政策」を柱とする「民族としての抹殺」を意図するものであると同時に、農業振興政策による民衆生活の改善によって、日本による支配への不満を融和させようとするものであった。


朝鮮からの人口流失    人  

  日本へ 中国へ

1914 4,179 10,631
1915 5,046 13,281
1916 7,225 13,501
1917 17,463 18,911
1918 27,640 36,627
1919 35,975 44,344
1920 40,759 22,210


産米増殖計画の推進には、日本市場に適した品種の米を生産するという、輸出志向型の農業への切り替えが必要であり、この品種転換の強制と輸出志向は、朝鮮域内での食糧供給の不足、つまり「飢餓輸出」に帰結する。

日本国内では、1920年代に入って、つまり産米増殖計画が軌道に乗って、日本向けの米の輸出(移出)が増加しはじめるころには、当初の思惑とは異なって米の価格は低迷していたからである。

こうした農業振興政策の展開は、植民地を日本経済の一環に組み込み、日本への食糧供給基地化するという役割を果たすものであった。

しかも、このような飢餓輸出を生むような食糧供給基地化は、代替的な食料としての粟や高梁などの供給を、満州に求めることによって、東アジアにおける独自の経済圏を形成させることになる。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-06.htm

1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために
1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、
そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。

大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。

2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。

ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、
日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116883&servcode=100§code=140


日本の土地調査事業であぶり出された農民たちが職を求めて日本へ渡った。
具体的にはこの政策で新しく地主になった日本人の所有する鉱山や工場の労働者としていったり、先に渡って生活基盤を作った親戚を頼って渡った。

世界史で習った土地の「囲い込み政策」を。あれとほぼ同じ現象だ。

日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。

 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。

また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。
登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。


耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。
多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。

総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会
社に払い下げられた。

東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。

朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。

 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口
が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人
を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万
人近くにのぼる。

総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は 450万町歩であり、約3%である。

 これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2ー7朝鮮における内地人』)。

__________


3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた


朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。

昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。

貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html

___________

3.朝鮮の財産をすべて奪った

1910年に朝鮮は完全に従属させられた。
公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。


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5.朝鮮女性を性奴隷にした

これを読んで下さい:

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

従軍慰安婦は売春婦ではあり得ません。

未成年者はたとえ本人が同意していても売春婦にしたら犯罪です。

 

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コメント
 
01. 2010年8月22日 21:34:48: MiKEdq2F3Q

昔の日本はアメリカ並みのあくどさ:


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。

 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。

植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


02. 2010年9月30日 01:43:55: sUpHQ8Q75g
当時はそういうことをやるのが先進国の証だったんじゃないのか?
現代のモラルを過去に適用すること自体無意味と思うがね

03. 2010年10月07日 04:02:31: EuxaAd0Fno
笹川も児玉も朝鮮人だろ笑。

04. 中川隆 2010年10月10日 11:24:17: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。

もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。

http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html


要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。

1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 

当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


05. 2010年10月14日 22:40:13: MiKEdq2F3Q

李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:

1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


06. 中川隆 2010年10月16日 10:08:59: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

関連投稿


日本の朝鮮統治は摂取と収奪の地獄だったとは歴史の捏造、朝鮮は一番、得をした。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/414.html


アホ?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/415.html


朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/416.html


07. 五月晴郎 2010年10月17日 22:45:38: ulZUCBWYQe7Lk : 3TceM4k07M
>>4
学生の時、本を読み進めていくうちに「朝鮮産金」に当たり、資料を読んだことがあります。
設立後の日銀は、「朝鮮産金」を使い(日本が奪った金は準備高として英国に、準備高を基にして英国の銀行内で日銀口座に数字だけ移動)英国の金融システムにより作られたこと。
英国の金融システム傘下の日本が、同じシステム(今度は金の準備高は必要とせず、口座の数字の移動だけ)で朝鮮銀行を作ったこと。
この朝鮮銀行からのシステムで日本の軍や産業が展開する旧満州等の地域で銀行を幾つか作り戦費を調達し戦争を遂行していったこと。
無論、上位システムに利益が流れるようになっていたこと。
を、思い出しました。

08. 2010年10月21日 23:40:58: vaH6a2XRzk
>06
コピペでのネタが無くなったから、こっちに逃げ込んでたのかw

09. 中川隆 2011年1月02日 10:46:30: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

歴史は繰り返す


米韓FTAに盛られた「毒素条項」


今日のNBonlineで、米韓FTAに盛られた「毒素条項」が取り上げられいました。

参考までに、引用紹介しておきます。


::::::引用ここから


(1)サービス市場開放のNegative list:
   サービス市場を全面的に開放する。例外的に禁止する品目だけを明記する。

(2)Ratchet条項:
   一度規制を緩和するとどんなことがあっても元に戻せない、狂牛病が発生
   しても牛肉の輸入を中断できない。

(3)Future most-favored-nation treatment:
未来最恵国待遇:今後、韓国が他の国とFTAを締結した場合、その条件が
米国に対する条件よりも有利な場合は、米にも同じ条件を適用する。

(4)Snap-back:
自動車分野で韓国が協定に違反した場合、または米国製自動車の販売・流
通に深刻な影響を及ぼすと米企業が判断した場合、米の自動車輸入関税2.5%
撤廃を無効にする。

(5)ISD:Investor-State Dispute Settlement。
韓国に投資した企業が、韓国の政策によって損害を被った場合、世界銀行
傘下の国際投資紛争仲裁センターに提訴できる。韓国で裁判は行わない。
韓国にだけ適用。

(6)Non-Violation Complaint:
米国企業が期待した利益を得られなかった場合、韓国がFTAに違反していな
くても、米国政府が米国企業の代わりに、国際機関に対して韓国を提訴で
きる。例えば米の民間医療保険会社が「韓国の公共制度である国民医療保険
のせいで営業がうまくいかない」として、米国政府に対し韓国を提訴するよ
う求める可能性がある。韓米FTAに反対する人たちはこれが乱用されるので
はないかと恐れている。

(7)韓国政府が規制の必要性を立証できない場合は、市場開放のための追加措置
を取る必要が生じる。

(8)米企業・米国人に対しては、韓国の法律より韓米FTAを優先適用
  例えば牛肉の場合、韓国では食用にできない部位を、米国法は加工用食肉と
して認めている。FTAが優先されると、そういった部位も輸入しなければな
らなくなる。また韓国法は、公共企業や放送局といった基幹となる企業にお
いて、外国人の持分を制限している。FTAが優先されると、韓国の全企業が
外国人持分制限を撤廃する必要がある。外国人または外国企業の持分制限率
は事業分野ごとに異なる。

(9)知的財産権を米が直接規制
  例えば米国企業が、韓国のWEBサイトを閉鎖することができるようになる。
韓国では現在、非営利目的で映画のレビューを書くためであれば、映画シー
ンのキャプチャー画像を1〜2枚載せても、誰も文句を言わない。しかし、米
国から見るとこれは著作権違反。このため、その掲示物い対して訴訟が始ま
れば、サイト閉鎖に追い込まれることが十分ありえる。非営利目的のBlogや
SNSであっても、転載などで訴訟が多発する可能性あり。

(10)公企業の民営化

::::::引用ここまで


何か、「日米修好通商条約」の亡霊に出くわしたかのよう…

もしかすると20〜30年後には、「関税自主権」の回復、「最恵国条項」の撤廃、
「治外法権」の返上を求める、韓国版小村外交が必要となるのかも(^_-)

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/221220.htm


10. 中川隆 2011年1月16日 13:37:22: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

ニッポンと諸外国の過去未来 2009年末収録

新春スペシャル鼎談!『没落と発展』
日下公人 武田邦彦 宮脇淳子

http://www.youtube.com/watch?v=UrWbRzt4Q-Y
http://www.youtube.com/watch?v=hxutf1Tk-WA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=6IT6h4_dJzA&feature=related


韓流ドラマの見方

『世界史はモンゴル帝国から始まった』 #4
監修・出演:宮脇淳子

http://www.youtube.com/watch?v=jJzrpRYb8Ochttp://www.youtube.com/watch?v=8jORQLVaCPM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GlgPveDepwI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=3dn3s5cPScM&feature=related


韓国ドラマの歴史観 (シアター・テレビジョン 2009.05 放送)
 監修・出演:宮脇淳子

前編
http://www.youtube.com/watch?v=dazJbEyRq8w&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=no5QQ8fBSyE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=z1tAMXT43Ts&feature=related

後編
http://www.youtube.com/watch?v=qs-4feL-TRw
http://www.youtube.com/watch?v=hemSdQcqtcA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=o2p7qDKLFgI&feature=related


11. 2011年8月17日 11:16:55: NVoKPXambM
餓死者が野に満ちていた朝鮮時代から
日本統治時代になって餓死者が根絶したのは何故でしょうね?(苦笑

国民の90%以上が農民であった朝鮮において米は生産者という観点から
見るべきでしょう。

インフラを整備し、国民の1/3が奴婢であり識字率10%台の国民に
教育を与え、朝鮮の西太后・閔妃が蕩尽した国家の借金。
これらをどのように解決するか。

韓国も北朝鮮を併合すれば、日本の苦労が分かることでしょう


12. 2012年8月31日 10:01:48 : TONnjuN18c
間違いだらけ方向性では??

反日感情の原因を作り続けた朝鮮人

万宝山事件

1931年7月2日、長春近郊に入植した朝鮮人と中国人との用水路をめぐるトラブルから武力衝突が発生。
朝鮮人による報復暴動へと発展し、中国人100人以上が殺害されるという惨事が起きた。
同年6月27日に起きた「中村大尉殺害事件」(日本の中村震太郎大尉が中国軍に射殺された事件)と相まって、日中戦争の原因へと発展して行く。

1923 年9 月16 日、大阪の海軍の通信所の電報

中国各地で傍受された日本国籍を与えられた朝鮮人の道徳の無い行動が、中国や世界でニュースに取り上げられ、ヨーロッパで反日宣伝の材料になっている。
注意が必要であり、充分な取り調べが必要であると考える。

今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3 年)

朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる

「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年
アルフレッド・スムラー著(フランスの雑誌パリマッチ特派員)

別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。

「日本軍は香港で何をしたか」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁

最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
(中略)
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。


142頁

(日本軍占領下の香港では)
アヘン販売や売春市場は朝鮮人が中心となって取り仕切っていた

注意)上記の「日本軍は香港で何をしたのか」の全体の内容は、日本軍の蛮行を告発したもの。
しかし、その内容たるや、朝鮮人将校が存在していたにも関わらず、朝鮮人は日本軍では二等兵以下の地位に処されていたとか、日本の奴隷化政策のせいで朝鮮人のほとんどは読み書きが出来なかったとか(終戦直後の朝鮮人の就学率は61%。参考)「『韓国併合』とは何だったのか」 中村粲著 日本政策研究センター 1997)、250万人の朝鮮人が強制徴用されていたとか、ウソだらけである。
上記に転載した142頁の記述は、他の資料にも多く見られる話だが、36~37頁の記述の真偽は不明である。



13. 2014年11月08日 08:07:51 : Fkr5GOjJ2c
所有者が曖昧な土地が全耕地の20分の1も日本に編入されたのか。
確かに全朝鮮人が日本を恨むのもわかる。
きっとそれまで、公有地を勝手に耕したり、土地所有権の概念が曖昧なため両班に搾取されることなんてなかったんだろう。

日本人に所有が移れば朝鮮の小作農が増えるのか。
きっとそれまでは朝鮮人の地主が搾取することなく、自作農がほとんどだったんだろうな。

朝鮮の失業者を出した日本の責任は重いな。
過酷な搾取により朝鮮人だって減っていただろうに、それすら養えなくなった政府の責任は重い。
第一次世界大戦後の世界的な供給過剰、ブロック経済による世界的不況は言い訳にならないだろう。
日本本土のみで徴兵大量動員したために本土だけ失業者が減り、朝鮮人が本土に働きに行かざるを得なかったのは、
日本が本土のみを優遇していた事実を示している。

未成年者はたとえ本人が同意していても売春婦にしたら犯罪というのは同意したい。
なのに、日本が無理やり法律で合法にしていたんだろう。
きっと、日本が去った後直ちに法律で違法にしたんだろうな。
韓国軍や米軍相手の未成年の売春婦なんておらず、
たとえ自主的に売春しようとした人がいても取り締まっていたんだろうな。


14. 2015年2月26日 13:29:47 : LrBVR6wzao
未成年者人身売買で潤っていた韓国奴隷商。
台湾の蓬莱米の輸入で潤っていた韓国商人。

それを黙認した日本。

全て調べなければならないが何で日本だけ悪役?
まず慰安婦狩りに協力した韓国奴隷商を締め上げ
るのが先では?


15. 2015年6月17日 15:32:38 : FPTVL1C65w
中川隆さんは一回↓の在日朝鮮人のブログ主さんの記事を読んでみられたらいいと思います。


在日朝鮮人の戯言


2月2013

在日朝鮮人と在日韓国人とニューカマー在日コリアンと
http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx/archives/23365491.html


16. 2016年4月27日 01:41:41 : 2JFPJvwng1 : PYI_Py8fC38[6]

戦後も韓国のインフラは、なんとすべて日本のODA

2013-03-05 20:28:30
http://ameblo.jp/smalldemo/entry-11484096170.html(1を抜粋)


1: キングコングニードロップ(庭)@\(^o^)/:2016/04/25(月) 18:21:15.34 ID:WVuwdygL0?BRZ(11000)

「ひるおび!」で放送トラブル 菅義偉官房長官の会見で字幕スーパーにミス

25日放送の「ひるおび!」(TBS系)で、

菅義偉官房長官の会見中、北朝鮮国営放送用の字幕スーパーを使用してしまうミスが発生した。

番組内の「JNN NEWS」コーナーでは、

北海道5区で行われた補欠選挙の結果を取り上げた。

この選挙では、与党推薦の和田義明氏と野党が推薦する池田真紀氏が激しい戦いを展開し、
和田氏が僅差で勝利を収めた。与党側は今夏予定の参院選に向けて引き締めを図っているという。


そして、管官房長官が記者会見の席上、「今回の結果におごることなく」と発言した場面で、致命的ミスは発生した。
管官房長官は「謙虚に、国家国民のために、政府与党としては一致して一層の緊張感を持って、 有権者の付託に応えられるよう…」と続けていたが、

それまで正しく「今回の結果におごることなく」 と表示していた

画面下部のテロップが

「南朝鮮の傀儡(かいらい)らとアメリカの後頭部をいつでも

 攻撃できる刀を刺せるようになった」

と切り替わったのだ。

(略)


17. 2016年4月27日 01:44:39 : 2JFPJvwng1 : PYI_Py8fC38[7]
>>16

ごめん。タイトルと内容が別だった。


18. 2017年1月15日 03:14:50 : ZkXzvBnoNc : P@mlj2dD7@Y[11]
↑の続き


ironna

日本の朝鮮統治は民族差別ではなかった

朝鮮統治時代、日本は朝鮮人にも参政権を付与し、日本人とほぼ同等の権利を有する「同化政策」を推進した。人種差別や搾取が横行した欧米列強の植民地支配とは異なり、日韓統治は民族差別を助長するものではなかったが、韓国の反日勢力はこうした歴史的事実から目を背けようとする。それはなぜか。


もし、今も朝鮮統治が続いていれば、日本はどうなっていたか

『一色正春』
http://ironna.jp/article/3975


(本気で朝鮮半島出身者の政治参加を進めた日本)
http://ironna.jp/article/3975?p=2

(日韓併合以来、一貫して差別解消を目指した日本)
http://ironna.jp/article/3975?p=3

(「徴兵制」を始めると何がどれほど必要になるのか )
http://ironna.jp/article/3975?p=4

(徴兵制の適用なしに不満を抱く朝鮮系日本人)
http://ironna.jp/article/3975?p=5

(大東亜戦争を共に戦った韓国人に敬意を)
http://ironna.jp/article/3975?p=6


19. 2017年3月09日 15:32:50 : CbzvCsKqpF : FKG4608VdvE[5]
いまさらこんな写真持ち出してどーしたのよ?!
只々呆れるしかないわ。


【韓国発狂】日帝の過酷な植民地支配がウソだと一発で理解できる写真集をご覧くださいwww【画像あり】

2017.03.08
http://www.news-us.jp/article/20170308-000009k.html(ちょっと抜粋)


1 :蚯蚓φ ★@\(^o^)/:2017/03/07(火) 14:06:14.84 ID:CAP_USER*.net
日帝強制占領期間平安道(ピョンアンド)と平壌(ピョンヤン)一帯の生活像を取った写真らが公開
2017年 03月 06日 14時 15分 KST

(略)

「1930〜40年代、北方平安道地域の生活風景、子供たちと少女の日常、結婚・葬儀・栽培などの暮らしを集めたアルバムが出た」

「白い歯を見せてにっこり笑いながら縄跳びをする短い髪の女の子」

「平壌付近の畑の堤防の道を歩いて三々五々遠足に行く少年少女たちの春の花のような微笑」

「新式結婚式を挙げる新郎新婦。彼らの横に高級ウェディング・カーが見える」

「1930年代の写真に写った少女たちは併合後に生まれた計算になる」

【韓国】 楽しい遠足、輝く笑顔、日帝強制占領期の朝鮮の生活を撮影した写真集『私たちの神父様は写真家』公開(写真) [03/06]

元スレ:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1488863174/


4 :(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2017/03/07(火) 14:08:09.57 ID:4MddruWq.net
なんて酷い統治なんだ!!!
信じられん!!!

頭おかしくなりそう

47 :(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2017/03/07(火) 14:35:57.21 ID:WC10Lfko.net
終わった話だ。どうでもいい。
反日が基本的価値観の宗教国家に改宗を期待する事は無い。
数十年生きてきたが、あの国の愚劣さは何も変わらなかった。
現実的に今の問題を解決し
未来に禍根を残さないようにするには
断罪を日和る要素など排除した方が良い。
もはや慈悲など無い。

今更、韓国に和解や謝罪や理解など求めていない。
今更、だ。こんな写真があったからどうだというのだ。

240 :(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/:2017/03/07(火) 22:17:13.14 ID:Mfg7npsH.net
>>47
超同意する
今のあいつらどうせ写真見たところで
捏造だと言ってなかった事にされるだけだ
完全断交こそが日本の取るべき選択だ


(万能壁画もびっくりのテロップをつけてもらいたいね)


(以下略)


20. 2017年5月30日 19:21:00 : 06kLSSsAaY : R7e4CyN@Fko[1]
>5.朝鮮女性を性奴隷にした

リンク先を読んでも「性奴隷」の話などなかったですよ
日本軍が朝鮮人を「性奴隷」にした証拠はありません。
逆に慰安婦が戦時売春婦だった証拠は山のようにあります。
この矛盾をどう捉えてるのかしら。


21. 中川隆[-13528] koaQ7Jey 2018年10月02日 07:49:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18964] 報告

最近、意見変えました。朝鮮学者の研究は信用しない方がいいです:

韓国、「過剰民族主義」過去を引きずり未来を見ない議論「衰退国家」2018年09月09日
http://hisayoshi-katsumata-worldview.livedoor.biz/archives/12036296.html

きょう9月9日の『朝鮮日報』は、韓国の将来を暗澹とさせる二つの記事を掲載した。ひとは、韓国建国論である。現在の韓国政府の起源は、1919年の海外での「亡命政権」か、1948年の李承晩政権の発足時かをめぐって争っていること。もう一つは、朝鮮半島の鉄道建設が日本政府の資金負担である事実を曲解する議論を展開している。

詳細は後で取り上げるが、いずれも過剰な民族主義が前面に出ており、「朝鮮民族の偉大性」を宣言していることだ。いかなる民族も独自の誇りを持って当然である。他民族はそれを尊重して初めて、国際関係がスムースに動くことも事実。ただ、その誇りが合理的な根拠を持たなければ、独り善がりとして批判を浴びて当然だろう。

韓国の建国はいつか。こういう議論の際、国家とはどういう定義であるかを明確にすることが前提だ。韓国では、この大前提の議論を素通りしている。日韓併合に反対した朝鮮の有識者が、海外で実態のない「臨時政府」を宣言した。これが、韓国政府の始まりであると韓国左派は主張している。

国家成立の条件とは、領土・国民・主権の三つである。朝鮮の臨時政府は、海外で小さな事務所を開き看板を掲げたにすぎない。前記三点の項目には一つも該当しないのだ。よって、この臨時政府は到底、建国とは言えないもの。中国が、共産党創立時(1921年)を建国とせず、新中国が発足した1949年10月を中華人民共和国の創立時としている。これは、国家成立三条件からみて当然のこと。他国からの承認条件となる。

こう見ると、韓国の1919年建国論は、国際的に見てもありえない空論である。1948年が正しい議論だ。

『朝鮮日報』(9月9日付)は、「『建国節論争』を脱しなければ『建国問題』は解決しない」と題するコラムを掲載した。筆者は、李先敏(イ・ソンミン)先任記者である。

(1)「三・一独立運動(1919年)および大韓民国臨時政府樹立100周年を迎える来年は、こうした(建国)議論を行うのに適切な時期だ。三・一運動、漢城・上海・露領臨時政府樹立、統合臨時政府樹立と目まぐるしい1919年の民族史を振り返り、それが1948年の大韓民国政府樹立で完成するプロセスを深くたどってみれば、過去100年にわたり韓国が歩んできた道がはっきりと見えるだろう」

1948年の韓国建国は、日本の敗戦によってもたらされた「棚からぼた餅」であることを忘れてはならい。毛沢東は、日本の敗戦があったから予想外に早く中華人民共和国を創立できたを認めている。韓国の場合も同じだ。自力で得た政権ではない。日本敗戦によって、米国から与えられた政権だ。自ら勝ち得た政権ではない。

朝鮮半島の鉄道建設についても民族感情論が充満している。

『朝鮮日報』(9月9日付)は、「日本 北京 果ては欧州ともつながっていた国際交通都市・京城」と題する記事を掲載した。

これは、東北アジア歴史財団の理事長も務めた歴史学者の鄭在貞(チョン・ジェジョン)ソウル市立大学名誉教授(67)が、新たな歴史書『鉄道と近代ソウル』(国学資料院刊)を出版した関連記事である。5年にわたり韓国と日本の資料およそ1000点を集めて研究した成果で、600ページにもなるという。

(2)「1979年に鄭教授が日本留学へ出掛けた際、日本の歴史学界では植民地支配を美化し、「日本が韓国に鉄道を敷いてやったではないか」という見方が広く存在していた。『実にとんでもないことだった。鉄道敷設の過程で韓国がどれほど多くの労働力と土地を収奪されたか…』と。鄭教授は、『鉄道は、一言でいえば利器であると同時に凶器だった』と語った。1899年から1945年までの間、日本は総延長6400キロに及ぶ鉄道を韓半島に敷設し、その鉄道網を通して支配力を強化・拡大し、物資を持ち去った。『徹底して日本帝国主義の利益のために作られた鉄道路線は、『侵略』と『開発』、『収奪』と『近代』という両方の属性を併せ持っていた』という」

ここでも、過剰民族主義に災いされ、日本による朝鮮半島の鉄道建設の意義を曲解している。なぜなら、経済統計に基づかず感情論の赴くままに分析しているからだ。

先ず、日本の技術と資本が、朝鮮半島に投下された事実を認識することだ。当時の朝鮮には、本格的な鉄道を建設する技術も資本も存在しなかった。日本の財政資金が投じられたのだ。日本国民の税金である、理由は、朝鮮半島の近代化を推し進め、中国とロシア(後のソ連)の影響力を防ぐ目的であった。日本の安保体制と深く関わっていたのだ。

朝鮮半島を経済的に豊かにすることが、中露の影響を防ぐ目的である以上、朝鮮は日本の収奪目的でなかった。これが、日本の植民地政策が列強のそれと根本的に異なる点である。そういう分析・認識が完全に欠如した研究が、ここに上げられている韓国人学者の著作である。

朝鮮で米作を奨励したのは日本政府である。これによって、朝鮮の農民が潤い人口出産率が高まった。この朝鮮米が、日本の昭和初期の恐慌時に日本へ「移入」された。日本の農村は、さらなる米価低下に苦しんだ。こういう関係を全く無視した「日本収奪論」は架空の議論である。米(コメ)の「日本移入」を事情が分らず、単純に収奪と結びつけているのは完全な誤り。対価を得ての移出結果だ。ちなみに、移入・移出とは、当時の朝鮮が日本領であったので、「輸出入」なる言葉を用いない慣例だ。

日本では当時、「植民地放棄論」が盛んであった。朝鮮半島や台湾を領有することの財政負担が、日本経済に大きかったからだ。韓国の学者は、過剰な民族主義を捨てて、事実に基づく研究成果を世に問うべきである。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.livedoor.biz/archives/12036296.html


19. 中川隆[-13535] koaQ7Jey 2018年9月30日 13:00:37: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18922] 報告
▲△▽▼

韓国の高校の歴史教科書はすべて嘘八百、 「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」と連発するだけ

ダメダメ家庭の目次録 05年4月22日
韓国の高校の歴史教科書
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-04/05-04-22.htm


歴史を眺めていると、ちょっとおもしろいことがあったりします。

ある国が滅んだ後で、別の体制となるわけですが、その滅んだ国の形式的後継者と、実質的というか心理的な後継者が違っていたりする事態が発生することもあります。

たとえば、最近の例では、ナチスドイツの形式的な後継者は、昔の西ドイツという国でした。正式な名称はドイツ連邦共和国・・・今の統一ドイツがこの国です。しかし、実質的にはナチスドイツの後継者は東ドイツの方でしたよね?

ナチスドイツと東ドイツは、権威主義だったり、秘密警察が暗躍する恐怖社会だったり、反米というスタイルにおいても同じと言えるかも?
ナチスドイツは共産主義に反対する立場の政府で、東ドイツは共産主義社会という意味では、本来は全く反対の統治システムになるはずですが、実質的には同じ社会。

同じようなことが、日本でも言えます。

現在の日本は、かつての大日本帝国の形式上の後継者であると言えますし、元首である天皇は共通していますが、その統治形態としては実質的にはかなり違っています。

かつての大日本帝国の実質的な後継者は、むしろ韓国だったり、北朝鮮だったりするわけ。

それこそ、言論弾圧の統制社会だし、権威主義だったり、妙な民族主義があったりするでしょ?それに反米だし、秘密警察が大活躍。

それにコンプレックスが強く、ムダに「大」の字を使いたがるところとか。

「日本が大嫌い!」の韓国や北朝鮮は、大日本帝国の統治システムを十分に受け継いでいるわけです。

さて、メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」では、一種の総集編として、「作品の中に描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーで、種々な「作品」の中に描かれているダメダメ家庭の具体的事例をピックアップしたりしています。

今回はその「作品」として「韓国の高校の歴史教科書」を取り上げます。

「オイオイ!!教科書が『作品』かよ?」
と思われる方も多いでしょう?

しかし、これがまた目眩がするぐらいに、ダメダメなスタイルが詰まった「作品」なんですね。

よく韓国や中国が、日本の歴史教科書についてイチャモンをつけて来ますよね?
まあ、どうしてそこまで「人のすること」に関心を持ったりするのでしょうか?これって典型的なクレーマーの所業でしょ?クレーマーは「自分がやらなければいけないこと」には関心がなく、「人のやっていることに文句をつける。」そのような習性があるわけ。

では、日本の歴史教育に文句を付けてくる韓国の方は、どのように歴史を教えているのでしょうか?
何も「あら探し」と言うわけではないにせよ、韓国の歴史教科書を読んでみるのも悪くはないでしょう。

ちなみに、歴史的事件に限らず、事件を記述するのには、一種の定石があります。
よく言う「5W1H」というヤツです。「いつ(=WHEN)」、「どこで(=WHERE)」、「誰が(=WHO)」、「何故に(=WHY)」、「何を(=WHAT)」、「どのように(=HOW)」の6つを中心に記述していくものです。

たとえば、日本の有名な歴史的事件である戦国時代の長篠の合戦を例にしてみましょう。

「いつ」は1575年。「どこで」は今の愛知県の長篠の地で。「誰が」は織田信長と武田勝頼が。「何故に」は、織田家と武田家の領土争いで。「何を」は、合戦をした。「どのように」は武田家の側は、伝統的な騎馬軍で、織田軍は先進的な鉄砲部隊で・・・という記述になります。

また、歴史的事件だったら、上記の記述の他にも、「その影響」という事項も付け加える必要があります。長篠の合戦においては、織田家は最大のライバルを打ち破って、天下付武への強力な前進となりました。勿論のこと、軍事的戦法の革新という影響もあります。

と同時に、歴史的事件の記述に際しては、重要なことがあります。
資料名です。

たとえば、織田家では正式な記録として「信長公記」という記録があります。当然のこととして武田家にも正式な記録があり、その資料に、この長篠の合戦の公式の記録が収められているわけです。

そのような正式な記録だけでなく、部下たちによる非公式な日記のようなものもあるわけです。それらの資料をつきあわせることによって、歴史的事件の全貌がわかってくることになる。

だから、歴史的事件をまとめた、いわゆる歴史書では、上記の「5W1H」だけでなく、その結果と影響に関する記述や、資料名についての記述も必要なわけです。それは歴史教科書のような類の歴史書でも全く同じです。

何もこれは日本だけでなく、世界の文明国には共通の発想です。文章の言語自体は違っていても、歴史を記述する文章の記述の仕方、考え方には大きな違いはありません。

ところが韓国の国定歴史教科書では、そんな文明国の基本的スタイルとは無縁なんですね。

たとえば、例に挙げた長篠の合戦を記述する場合では、片や鉄砲部隊という最新鋭の戦法。片や騎馬戦という伝統的な戦法。その違いを記述することが不可欠でしょ?

ところが、韓国の歴史教科書では、そのような歴史的事件を記述する際に「どっちの側に愛国心があったか?」と言った記述だったり、「どっちが正義なのか?」と言った記述ばかりで、事件についての5W1Hのような具体的で客観的な記述が少ないわけ。

「どっちが正義だったか?」なんて、判断する人によりけりでしょ?人にはそれぞれの立場があるわけですからね。それこそ長篠合戦で、織田軍は武田軍を「敵」だと思っていたのは当然ですが、「悪」だとは思ってはいませんよね?
その点は、武田軍だって同じ。織田軍を「悪」だとは思ってはいないでしょ?
ただ、己の使命と野心に従って戦っただけでしょ?
それが「もののふ」の生き様であり、死に様でしょ?

韓国の国定歴史教科書の記述は、まるで「スポーツ根性モノのマンガの原作」のような趣なんですね。客観的な記述ではなく、ひたすら「ウヮー!」という叫び声が聞こえてくるよう。

客観的に事実を記述するというより、作者の「思い」を伝えることに主眼があるわけ。そんな「作品」なんですね。

まあ、そんな本で歴史を勉強させられていたら、バカになるのも当然ですよ。

では、そのような作者の「思い」に満ちた、韓国歴史教科書という「作品」を、具体的に、客観的に検証してみましょう。

検証に当たっては、「教科書の記述の問題点」というカテゴリーと、「教科書の記述から浮かび上がる韓国人のメンタリティー」そんな感じで分類して記述してみます。


【教科書の記述の問題点】

1.年号が出てこない・・・この韓国歴史教科書では年号の登場が実に少ない。何ページにもわたって、○○年と言う具体的な年号が出てこないわけ。事件の羅列があっても、その事件が西暦何年のことなのか?記述されていないわけです。チョット日本の方には信じられないことでしょうね。だって「なくよウグイス平安京」で794年・・・なんて年号をゴロで覚えるのに苦労しましたものね。年号が出てこない歴史教科書なんてこの世に存在すること自体、不思議でしょ?

韓国の歴史教科書でも、ほんの少しは年号が出てきたりしますが、後で年表の形でまとめられていて、今現在記述している歴史的事件が何年に起こったのか?分らないようにできているわけ。

年号というものは、覚えるのは面倒ですが、歴史的事件の客観的指標としては重要でしょ?年号を覚えていると事件の順番が明確になると同時に、外国の同時期の事件と比べることもできる。この時代に外国はこんなことをやっていたのに「我々の国は遅れているなぁ・・・」などと感想を持つこともあるでしょう。しかし、年号が記述されないと「我々は先進的だ!」と記述されていると、思慮の浅い人は盲目的に信じてしまうんですね。

2.資料名が出てこない・・・この韓国国定歴史教科書では、出典の資料名がほとんど出てきません。もしかしたら朝鮮半島では、資料を作るという習慣がないのかもしれません。データーを取るという習慣の欠落については、後で触れます。この韓国歴史教科書では出典の資料名もなく、「我々は正しい!」の一点張り。まるでカルト宗教のような趣になっている。資料名が無いので、疑問を持った読者が自分自身で調べ直すこともできないわけ。

3.差別用語の乱発・・・高校生が勉強するというこの教科書には、意図的な差別用語が乱発されています。日本を「倭」とか言うのはともかく、ヨーロッパ人を西洋蛮人と書いたり、清を建国した女真族をオランゲという差別用語で呼んだり・・・まあ、こんな差別意識丸出しの本は、日本だったら発禁処分でしょうし、当然のことに、他の一般の文明国でも発禁処分は確実でしょう。そんなアングラ本程度の本が教科書なんですね。そもそも、ヨーロッパ人を示したいのなら、西洋蛮人と書くのではなく、単に西洋人とでも表記すればいいだけですよ。しかし、わざわざ「蛮」を入れて勝手に喜んでいるんですね。

4.漠然とした記述・・・たとえば、上記で年号が出てこないと書きました。しかし、歴史書なんだから当然のこととして、時期に関する記述もあります。そのような場合では10世紀中葉とかの記述になっていて、漠然としてあいまいな記述になっています。しかし、10世紀中葉なんて書かなくても941年とか明確に年号を書けばいいじゃないの?しかし記述が漠然としているので、作者が意図的に読者を誘導することができているわけです。

年号の問題だけでなく、資料名も「ある民政文書」とかの表記になっている。そんな表記にするより、「△△が○○年にまとめた、☆☆という資料」と記述するのが文明国の歴史書のスタイルでしょ?
それこそ「1920年代のはじめ、全国の青年運動は100余りあり」・・・などと記述されています。しかし、文明国の歴史書だったら「政府による1922年の統計では、全国の青年運動は105団体あった。」と記述するものです。どうしてそんなにあいまいに記述するのかなぁ?

5.政治家がなかなか登場しない・・・歴史書だったら、当然のこととして多くの政治家が登場するだろう・・・と思われるでしょ?ところが韓国の歴史教科書では政治家の登場が実に少ない。その代わりに政治論者が実に多く登場するわけ。「国家はこうあるべきだ!」とワイワイ論じる人は多く登場しても、実際に政治を運営する人が出てこない。

6.やたら「べき」論・・・上記の実際の政治家より政治論者の数が多いことと関係していますが、この韓国歴史教科書はやたら「べき」論が多い。「こうすべき」「ああすべき」と、やたら説教くさい。

7.法律名が出てこない・・・具体的な人名は多く出てきますが、法律名は出てこない。上記のようにすべて「べき」論で片付けているので、具体的な法律を制定するという形で、実際的に国家を運営する気がないわけですね。

8.個人的感想がいっぱい・・・教科書と言うものは客観性が第一と考えてしまうのは、文明国の常識でしょう。しかし、さすがに韓国の教科書は作者の主観的な「思い」が詰まっている。

たとえば「高麗時代の石塔は安定感が不足し、造形感覚面では新羅時代の石塔に比して多少劣る気がする。」なる記述があったりする。しかし、執筆者が「気がする」のは勝手だけど、教科書の記述として書かれても、読んだ側は何を理解すればいいの?

あるいは後に中国で清王朝を作った女真族との戦争では「意外にも」負けた・・・との記述があります。アンタが「意外」に思うのは勝手だけど、そんなことは教科書に書く内容ではないでしょ?
それとも「気がする」とか「意外にも」とかが、試験に出たりするのかな?

9.ヴィジュアルが少ない・・・上記の石塔に関する記述だって、文章にするより、それぞれの写真を載せればいいじゃないの?ところが韓国の歴史教科書はヴィジュアルが実に少なく、文字ばかり。まあ、その文字による文章も、やたら説教くさいわけです。画家についてウダウダ説明するより、その画家の作品を載せればいいじゃないの?しかし、そのような客観的な記述を放棄して、ひたすら作者の「思い」を書き込んでいく・・・それが韓国の歴史教科書のスタイルなんですね。

10.やたら民族意識・・・この教科書には「民族意識」という言葉が実に多く出てきます。逆に日本だとそんな民族意識なんて出てこないでしょ?まあ、大日本帝国の教科書なら出てくるかもしれませんが・・・
韓国の歴史教科書では「民族意識」「民族文化」・・・そんな言葉ばかり。
しかし、ではその「民族意識」って具体的にどんな意識なの?

教科書を読んでいても、さっぱりわからないんですね。

どうやら、私がよく書いていますが「集団的被害者意識」と「オレたちはすごいんだ!」というエリート意識の混じったもののようです。しかし、「オレたちはすごいんだ!」と思うのはいいとして、具体的に見てどの辺りがスゴイのか全然書いていないわけです。まさにカルト宗教のような趣になっている。

「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」と連発するだけ。

そして、そんな「本来はスゴイはずの我々がうまくいかないのは、全部○○のせいだ!」と被害者意識になるわけでしょうね。

11.経済に関する記述が少ない・・・この教科書には経済的なマターに関する記述が実に少ない。やたら「べき」論をぶつ政治論者がワイワイ言うだけ。使用していた貨幣とか税制とか、生産技術など実際的な問題についてほとんど触れていないわけ。だから読んでいても当時の人の暮らしぶりなど全然わからないわけです。

12.都合の悪いことは書かない・・・「朝鮮半島の進んだ文物が日本に伝えられた。」この韓国の歴史教科書に頻発する文言です。しかし、先進的な文物って、具体的には何なの?それが書いていないんですね。しかし、ちょっと離れた箇所で貿易に関する文言があって、朝鮮から日本への輸出品は米、木綿、人参だったとか書いてある。米、木綿、人参かぁ・・・たしかに『先進的』だねぇ・・・。しかし、先進的という言葉と米、木綿、人参という具体例が離れて記載されているので、「素朴」な韓国の高校生だったらダマされてしまうんでしょうね。

あるいは豊臣の朝鮮半島の侵攻のあと、朝鮮がロシアと戦争して朝鮮の鉄砲部隊が大活躍したとの記述があります。その鉄砲はどこから来たの?そんなことも書いていないわけ。あるいは、その豊臣軍の侵攻の後の時期に、朝鮮の農業技術が飛躍的に向上したらしい・・・この韓国の教科書では、いつものように「農民の民族意識」云々で片付けられてしまっています。

しかし、現実的に考えると違うでしょ?豊臣軍の中で農民出身の足軽が、朝鮮半島の遅れた農業技術に見るに見かねて実地でレクチャーした、と考えるのが現実的な思考でしょ?違うのなら、データーとか資料を出さないとね。農民の民族意識がどのように農業技術の発展に貢献したのか?とかの資料があるとでも言うのかな?しかし、この韓国歴史教科書ではそんなマトモな疑問には答えてくれないわけ。

13.データーが載っていない・・・この教科書にはそれぞれの時代の人口とか、生産量とかのデーターがほとんど出て来ません。これは前記のように政治を運営する気がなく、政治を論じることにしか興味がないので、データーを取る習慣がないのでしょうね。

しかし、韓国の歴史で突然に豊富なデーターが出てくる時期があります。それは日本統治時代。この時代になると、韓国の人口とか生産量の詳細なデーターが出てくるばかりではなく、事件における年号や被害などの詳細なデーターも記録されている。この時代になって初めて「政治」が行われていたことがわかるわけ。

14.判断が先に来る・・・たとえば、韓国人による伊藤博文の暗殺事件がありました。日本だと「暗殺」という言葉で記述されますよね?ところが韓国の教科書では「処断」という言葉になっている。「悪をやっつけた!」というわけでしょう。この手の価値判断を伝えるのが教科書の役目と認識しているようです。しかし、それは文明国の歴史教科書ではないでしょ?読者が自由に考えることができなくなりますよね?

しかし、この手の判断が先に来る歴史教科書は、大日本帝国の歴史教科書がそうだったはずです。たとえば足利尊氏と後醍醐上皇が争った南北朝時代の記述において、足利尊氏は一方的に「悪」にされていたそう。
文明国の歴史書のスタイルだったら足利尊氏の政策と、後醍醐上皇の政策を記述することに重点が置かれることになります。まあ、こんな感じで判断が先に来るような教科書で歴史を学んでいたので、大日本帝国の人間はバカになってしまったのでしょうね。

15.具体例が乏しい・・・たとえば「ハングルは優秀だ!」そんな記述が多く出てきます。しかし、ハングルで書かれた「おもしろい文章」の作品名は中々出てこない。ひたすら「ハングルは優秀だ!」「ハングルは優秀だ!」それだけ。文明国の書物だったら、ハングルで書かれたおもしろい作品の写真でも載せるでしょ?ひたすら判断を押しつける形なんですね。美術でも文学でも具体的作品名がなかなか出てこないわけ。

16.感情的表現・・・教科書は作者の「思い」を伝えることが韓国での常識なので、作者の感情的な表現が頻発している。・・・日帝の悪辣な・・・とかの言葉が頻発。しかし、その日帝が何年にどんな法律を作ったのか?とは記述していない。ただ「悪辣」とか「冷酷」とかの扇情的で感情的な文言が並ぶだけ。


【教科書から浮かび上がる韓国人のメンタリティー】

1.内輪もめ・・・それこそ新羅、高句麗、百済以降も、半島の人はやたら内輪モメをしている。いつの時代もこの内輪もめの記述がいっぱい。それだけ、「小山の大将」になりたがるようです。以前にも書きましたが、会話のできない人間は「手下はいても、味方がいない。」もの。どうしても「自分が大将」になりたがるわけです。

2.情報軽視・・・当事者として政治を進める人よりも、傍観者として政治を論じる政治論者が威張っていられるのは、やっぱり当事者意識の欠如が社会に蔓延しているからですね。実際に政治を進めるとなると、情報を集めて、情報を分析して、政策を立案して、法律化して、周知させ、実行する・・・そんなプロセスが必要でしょ?単なる「べき」論では片付きませんよ。地道な作業が必要なんですね。

朝鮮の歴史では情報というかデーターを集めている様子がない。情報もないのに、どうやって政策を立案するの?この韓国歴史教科書では「儒教の教えに従って、『○○のような政策をすすめた』・・・」なる記述が多くあります。しかし、マトモな政府だったら儒教の教え以前に、国家の人口とか生産量とか周辺国に関する情報を集めるものでしょ?そんな情報軽視の姿勢だからこそ、歴史のデーター資料も少ないわけでしょうね。

3.原理主義・・・当事者意識がなく、傍観者然なので、現実無視で原理原則を押し通そうとする。そしてうまく行かなくなったら、「アイツが悪い!」と他者に原因を押しつけることになってしまう。しかし、現実を無視して自分の原理原則を押し通してしまっても、うまくいかないのは当たり前でしょ?

4.対抗心が強い・・・ダメダメ家庭ではやたら対応心が強く「アンチ○○」なんて発想をしがちであることは以前にも書いています。韓国人が「アンチ日本」の発想をするのは勝手ですが、韓国人同士でもやたら対抗心が強いわけ。儒教の流派同士で対抗したり、儒教と仏教で対抗したりと、そんな記述ばかり。対抗する以前に、民衆のことを考えてみるとかそんな発想が全然ないんですね。

政治対立、学問対立、宗教対立、地域対立、身分対立・・・そのような記述ばかりが多くなる。自分自身を主張する方法として、まず最初に「私はあの○○に対立している!」と一声あげるのが、韓国人の流儀のようです。スグに排除の論理が出てきて、「お互いが、得意分野で一緒に協力してやっていこう!」とは行かないわけ。

5.排他的な愛国心・・・民族意識という言葉がやたら頻発するのに、では「その民族意識って、具体的には何?」という質問には答えられない。しかし、そのように強圧的に民族意識を押しつけるので、どうしても排他的な発想になってしまうことになる。20世紀になってアメリカなどの海外に移住した韓国人もいたそう。それはそれで結構ですが、その移住した人は韓国に対する強い愛国心を持ち続けたそう。

韓国にシンパシーを持つのは当然として、そんなに強い愛国心を持つのならアメリカに移住しなければいいでしょ?海外でそんな、「オレたちはスゴイんだ!」というような排他的な愛国心を持っているから、関東大震災やアメリカのロス暴動で焼き討ちにあうわけでしょ?アメリカに移住したらアメリカに忠誠を誓えばいいじゃないの?ねっ?

6.身分秩序・・・・ダメダメ人間は人間を序列化することが大好きのようです。まあ、カルトではこの手の序列化が好きなのはオウム真理教でもありましたよね?韓国もオウム真理教と同じように、やたら細かく身分が別れている。それにその身分間の移動が不可能のようです。妾腹の子供は絶対に出世できないとかが、あったそう。あるいは男尊女卑なども・・・そのような秩序を「倫理的」措置などとも記述してある。そんな身分体系は制度かもしれないけど、倫理とは言えないでしょ?

7.理屈をこねくり回す・・・現実を無視して理屈をこねくりまわすことが大好き。そしてその理屈も、権威主義で、おまけにすべて善悪で片付けてしまうので、思考に広がりがないわけ。教科書におもしろい記述があります。李氏朝鮮時代の農民の離脱に関するものです。
「農民の離脱は名分上、民生を安定させなければならないという儒教の王道政治論にあわないだけでなく、現実的にも、国家の財政を危うくするものであった。」
・・・しかし、一般の文明国だったら、記述の順序が逆でしょ?儒教の名分などより、国家財政の方が重要でしょ?

8.知識欲が乏しい・・・理屈をこねくり回すことは好きでも、新たな知識を得ようとはしない。まあ、目新しい学説には興味を持つようですが、知識って学説だけではないでしょ?たとえば世界地図を韓国が入手したのは17世紀末。しかし、日本にはイエズス会の宣教師より16世紀には入手していますよね?だから豊臣軍による朝鮮侵攻は、最新鋭の軍事設備と、世界全体に対する豊富な知識を持つ日本軍と、軍事的にも知識的にも乏しく、ただ「オレたちはスゴイんだ!」と自画自賛しているだけの朝鮮軍の戦いだったわけ。20世紀での太平洋戦争では、日本の立場は全く逆になってしまいましたが・・・戦争の善悪はともかく、何事でも事前準備は重要でしょ?

9.何でも反対・・・今のイラクのように何でも悪く取り、反対するのが韓国人。日本統治時代に貨幣の共通化をやろうとしたら、それに反対し、ブチブチ文句を言っている。勿論デメリットもあるでしょうが、本来は韓国人自身で貨幣の共通化なんてやらないといけないでしょ?他人にやってもらって感謝するどころか、文句を言う始末。
それに、そんなに貨幣の共通化がイヤだったのなら、今からでも元のバラバラの状態に戻せばいいじゃないの?
反対することには熱心でも、「で、結局は、どうしたいのか?」という点は何も考えていないんですね。

10.危機意識が乏しい・・・自分自身を自分で守ろうという当事者意識がないので、危機意識もない。だから周辺国の情勢にも気を配らない。だから簡単に侵略されてしまう。中国とか日本にスパイくらい派遣して情報収集するのが、マトモな国でしょ?そんな当然のこともやっているそぶりもないんですね。それに危機感がないので、優秀な人間を抜擢する必要がない。だから社会も停滞する。

11.ダメダメの連鎖・・・根拠のない「オレたちはスゴイんだ!」という思いこみや被害者意識だけの人・・・それに人の話を聞き、相手に自分の意向をわかりやすく伝える意欲のない人間を相手にしてくれる人って、一体全体誰がいるの?結局は、相手をしてくれるのは自分の子供・・・というか子孫だけになってしまうわけ。だからこんな教科書を作って子供たちをダメにしたがるわけです。
もし韓国人の子孫がマトモな発想をしてしまったら、こんな教科書を疑問もなく読んでいるような祖先は相手にしませんよ。
ダメダメな人間は、そのダメダメな集団から脱却しようとする人間の行動を妨害するものなんですね。この教科書はそのような効果があるわけ。

12.クレーマー・・・具体的にモノを考える習慣がないし、他者に対して具体的な説明をする習慣が身に付かないので、他者と上手に会話することができないわけ。その上に被害者意識が加わるので、どうしてもクレーマーになってしまう。

「一体、どうして欲しいの?」
「一体、アナタたちはどうしたいの?」

そう聞いても答えられないものでしょ?

そもそもそのような具体的な思考をするようには訓練されていないわけ。
しかし、こんな教科書で勉強した人たちが、他者とどのようにコミュニケートするの?
まさにこの教科書のように、感情的なスタイルで文句を言うだけで終わってしまうわけ。だってクレームをつけることくらいしかネタもないでしょ?


【トホホな記述】

韓国の教科書には結構トホホな記述が多くあります。まあ、狙ったユーモアではないでしょうが、笑えますよ。

1.新羅の王様の記述・・・「王が自ら藩田を耕して農事の規範を示したりした。」・・・今でも将軍様が何かと模範をお示しになりますよね?

2.16世紀頃の農民の食料に関する記述・・・・「政府は雑穀、ドングリ、木の皮などを加工して食べる方法を提示した。」・・・今でもやっていますよね?

3.陽明学に関する記述・・・「理屈をこねくり回す」だけではダメだ!これからは知行合一(知識と行動が一体になること)の陽明学だ!と言うことで、李氏朝鮮時代に陽明学の研究が始まり、結果的に立派な陽明学の学問体系が完成したとのこと。しかし、そんな立派な学問体系に意味はないというのが知行合一の陽明学じゃあないの?日本の大塩平八郎のように実践してみたら?

4.文盲率・・・日本が統治を始めた頃の、韓国の文盲率は80%だったそう。日本統治前までそんな統計も無かったようです。しかし、80%が字を読めないのなら、日本語で教えるのも理にかなっていますよね?ちなみに日本が韓国人に行ったとされる創氏改名だって、それ以前はほとんどの韓国人は苗字がなかったのだから、当然といえば当然ですよね?それに強制ではないわけですし。だからこの教科書では、その法律名も年号も出てこないわけ。

5.税制・・・16世紀頃の韓国の税制は「租庸調」を基礎にしていたらしい。それって日本だと大化の改新で制定された制度でしょ?韓国人が経済的な面を全然考えていない人間であることが実によくわかります。1000年も進歩がないわけ。

6.満州開拓についての記述・・・韓国人は満州の開拓を行ったらしい。その記述が秀逸です。「現地土着民から圧迫を受けながらも、荒蕪地を開拓した・・・」とのこと。しかし、これって、まさに侵略じゃあないの?それこそ現地土着民に謝罪しないとね。


私は何も偏見を持って、この「韓国国定歴史教科書」を読んだわけではありませんよ。

この教科書は図書館などで借りることができると思いますので、読者の方々も一度、虚心坦懐にお読みになられると、興味深いと思います。

何でも韓国では教科書は、この国定教科書一種類しかないそうです。まさに大日本帝国そのものですよね?

こんな教科書で歴史を学んでいる韓国人が、「ああ」なってしまったのも当然と言えば当然。そんな「おバカ」な韓国人が選んだ大統領のノ・ムヒョン氏が「おバカ」なのも当然と言えば当然。

だいたい大統領になる前に一度もアメリカに行ったことがない、なんて文明国では考えられないことでしょ?

しかし、今まで検討してきた韓国の教科書から見て、そのような人間が大統領になってしまうことも理解できますよね?それに、私が提示したこの教科書の特徴を思い起こすとノ・ムヒョン氏の発言が実に理解しやすいでしょ?

この教科書を読んでいると、「作者」が頭から湯気を出して怒って書いているのはわかりますが、何が言いたいのかさっぱりわからない。それに・・・この本からどうやって試験問題を作るのかな?だってこの教科書には「客観」がなく「主観」だけなんですからネ。

他者に対して物事を伝えるのは、客観的な5W1Hを伝えることが先で、次に個人的見解でしょ?そのようなスタイルでないと、聞いている側の人間は、「この人・・・いったい何が言いたいの?」となってしまいますよね?
まさにこの教科書はダメダメの聖典と言えるくらいです。

この教科書は人にわかりやすく伝えようとする意欲そのものが無く、ただ自分の思いを勝手に言い放しているだけの本なんですね。

実際のダメダメ家庭に育った読者の方の中には、ご自分の両親の「語り口」を思い出す人もいらっしゃるでしょう。

この教科書の文章と、ダメダメ家庭でのおなじみのセリフ

「一体誰のためにこんな苦労をしたと思っているんだ?!」とか

「オマエのために人生を棒に振ってしまった・・・」

とは実に近い位置にあります。あるいは、「悪いのは全部○○のせいだ!」という犯人認定にも近い。まあ、そのグチや犯人認定を言う対象がどこになっているのか?

この点は、日本人には悲劇的なことですね。

日本の会話不全のダメダメ人間が往々にして、韓国にシンパシーを持っている例が多く見受けられるでしょ?会話のできない人は、会話ができなくてグチばかり言っている人間と一緒になって、自分自身もグチを言いたがるもの。

まあ、私がよく書いていますが、それってハエやゴキブリが腐臭に吸い寄せられるようなもの。

グチを言うことが、一時的な楽しみになっていることはわからないでもありませんが、自分自身の尊厳を大切にすることが、ダメダメからの脱却の第一歩でしょ?こんな「人の話を聞くつもりもない」人たちと一緒にいて何が楽しいのかな?

いずれにせよ、図書館で借りて、実際にお読みになってみることを是非お勧めいたします。

まあ、読んで不快になることは・・・請け合いますが・・・
韓国を考える際に参考になるだけでなく、日本のダメダメ家庭を考える際にも非常に参考になると思います。

(終了)
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発信後記

メルマガの文章作成には、結構準備時間がかかったりします。
今回の文章だって、そもそもこの教科書自体が、日本語で500ページもあって読むのも大変。
ということで、取りかかった頃には中国や韓国での反日デモもまだ起きてはいませんでした。

今回のお題は、良くも悪くもグットタイミングになってしまいました。

多分、中国の教科書も、韓国と同じように異常な教科書なんだろうと思います。
だって、卒業した生徒があのザマなんですからね。

何も日本の教科書に問題が無いというわけではありませんが、韓国の教科書は100%の異常と言えると思います。というか、日本だったらこの執筆者は変質者扱いですよ。変質的なクレーマーが執筆した教科書で勉強?させられている韓国の生徒は、ある意味お気の毒ですが、そのうっぷんを日本に向けてくるのは、はた迷惑ですね。

以下に管理者による追加文章 (10年12月21日 アップ)

さて、本文においては、韓国の歴史教科書に表れている、韓国人のメンタリティーについて考えております。

私としては、何も韓国人の問題そのものを指摘したいと思っているわけではありません。

韓国人というスクリーンに映っているダメダメのメンタリティーを考えているだけです。

韓国人なり韓国の歴史教科書そのものに意味があるわけではなく、ダメダメの問題を映すのにあたって出来がいいスクリーンというだけです。

だから、今回言及したメンタリティーに近い様相は、別のところでも見えたりするもの。

それこそ、インターネットの掲示板において湯気を出しながら書き込んでいるような人間のメンタリティーと共通しているわけですし、別の国との共通性もあったりする。

それこそ、別のところでまとめておりますが、ヨーロッパのポーランドのメンタリティーとも実に近い。

あるいは、日本だと、茨城県の歴史を調べてみたら、なんとも、同じようなことをやっている。

ここで、その共通性をピックアップしてみましょう。

ちなみに、このようなメンタリティーは、水戸藩に関わる幕末での大事件である「天狗党事件」では典型的に見出されたりします。この「天狗党事件」については、皆さんも、例のウィキペディアでも使ってチェックしてみてくださいな。

ということで、茨城県と韓国の歴史において共通してみられるダメダメの様相をピックアップしてみましょう。

1. 対抗心・・・何かと言うと、スグに「あの○○に対抗する!」と息巻く。そして、それこそ平安時代の平将門のように乱をおこしたり、論争を起こしたりする。

2. 身近なものを否定・・・それこそ、「尊皇攘夷」だって、長州や薩摩のような外様の大名が言うのなら分りますが、御三家が尊皇攘夷というのはヘンでしょ?

しかし、自分の父親が嫌いなことを自分で認めたくない人間が、「お祖父さんは立派な人だった・・・」と過剰に言ったりする例があることを考えれば、その尊皇攘夷の心理的な意味も理解できるようになるわけです。より遠くのものを肯定することで、目の前のものを否定しているわけです。

3. 政治家よりも、政治論者・・・水戸藩には色々な政治論者が出てきますが、実際の政治家はほとんどいない。実際に出てくる政治家も、「善政を行った。」とかの漠然とした記述になって、「どんなデーターをもとに、どのような施策を進め、どのような効果を得たのか?」という点が出てこない。「べき論」を用い、現実を否定しているだけの学者さんが多いんですね。そして、現実否定的な主張をすると改革派とか言われてしまう。そんな流れは、韓国の歴史教科書ではおなじみのもの。

4. 各派対立・・・それぞれの考え方について、データーを取って検証するという発想がないので、「議論のための議論」になるばかり。だから、政治論者の各派対立が深刻になってしまう。だって、主義主張の有効性を検証しようがないんだから、論争になったら収まりようがありませんよ。

5. 内輪もめ・・・ということで、内部対立が頻発することになる。水戸藩の前の時代から、やたら内輪もめが多い。

6. 報復・・・内部対立が深刻化するので、自分の側が被害者だと確認する儀式としての報復行為が頻発し、その規模も過激になってしまう。親類縁者を皆殺しするという凄惨な報復行為が習慣化してしまう。

7. 芸術の不在・・・自分の内面を見るよりも、対立している相手方を見てしまうので、自己逃避が進行してしまう。だから、自分の内面を厳しく見つめた成果といえる芸術作品が生まれない。まあ、茨城県出身で有名な芸術家となると画家の横山大観くらいとなるわけですが、その名前の大観の中の「大」の字は、当人のコンプレックスを示すことが多いもの。大きいことを肯定したのではなく、「小さい自分がイヤ。」という二重否定的な心理状態につながることも多いんですね。そもそも、その大観の作品も、芸術的に見ると「悪くはない」と言った二重否定的な価値でしょ?

目の前の現実を踏まえ、自分の意向を自覚して、異なった見解を持つもの同士でも、会話によって合意形成を進めていくという発想がない。

現実無視のご高説を「べき論」で連呼するだけ。

そして、気に入らない相手に対しては、スグに武力に訴えることになる。
そして、武力に訴える自分に酔ってしまう。

それこそ、「桜田門外の変」もその典型と言えます。
茨城の歴史は、犯人認定と報復行為ばかりの歴史なんですね。

それこそ、「尊皇攘夷」だって、「悪いのは全部、今の江戸幕府のやつらだ!」とか「外国のヤツらが諸悪の根源だ!」という発想でしょ?
それはいいとして、「では、結局は、アンタたちはどうしたいの?」となってしまうでしょ?

まあ、そんなことばかりしているから、水戸藩は尊皇が実現された明治政府に対して人材を提供できなかったわけでしょ?敵が共通となっている時点では一緒にやれていても、達成目標を共有することはできないわけです。

クレームを付けることには優秀であっても、自分たちの理想を実現させるという肯定方向には何も貢献できない。

まるで、革命家チェ・ゲバラのできそこないが集まったような人物ばかりが登場してくる歴史なんですね。

ちなみに、私としては、何も茨城県の方を蔑視しているわけではありませんよ。
幸か不幸か、ダメダメを映すにあたって、優秀なスクリーンというだけです。
そして、その点について自覚できれば、現在茨城県にお住いの方がコケないように注意することができるわけですし、芸術家も出てくることにもなるでしょう。
R.10/12/21
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-04/05-04-22.htm

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宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画
- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=LRWxkBoY4xo


2016/11/30 に公開
SakuraSoTV チャンネル桜 さくらじ#118
2014年1月10日 「宮脇淳子の広い世界、歴史と学会とカルチャーギャップ」 より抜粋 出演:古谷経衡、saya.

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朝鮮人は今も昔もクルクルパーだった

じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%AD%A6%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%81%E6%97%A5%E9%9F%93%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%90CGS+%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%91


【東京発信・cool eyes】歴史学者・宮脇淳子氏 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xb2imC_A2Co

22. 中川隆[-13585] koaQ7Jey 2018年11月12日 18:17:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20575] 報告
徴用工問題の本質

僕はチョンとチャンコロが大嫌いなんだけど、阿修羅は右翼の悪質な嘘ばかりで、もう黙っていられないから、真実を書いておくね

朝鮮人が反日になった理由 _ 日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた


朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html

野添憲治  地崎組東川事業場――北海道上川郡東川町・東旭川町・東神楽町
2007年10月27日

北海道の大雪山の麓には、入植者たちが労苦を重ねて開拓した広大な水田がひろがっている。だが、上川郡東川町・東旭川町・東神楽町の約八〇〇〇ヘクタールの水田は、灌漑の源流忠別川が北海道の屋根といわれる大雪山の雪溶け水や岩清水を集めて流れ下るので、「水流は火山帯・函廊下・峡谷を奔流する急流のため、温度の上昇する区間がなく、ほとんど地下水融雪水そのままの低温を持続して流下する(略)ため、水温上昇を阻止している有様であった。したがって冷害による深刻な凶作の経験をなめてきた」(『東川村史』)立地条件のところである。

こうした悪条件のなかへ、さらに忠別川の上流に江卸発電所の建設が決まり、水温の低下にいっそう拍車をかけることになった。しかも太平洋戦争のまっただなかで、農民たちは国から食糧増産を要請され、厳しい労働に明け暮れていた。

そこに発電所の建設問題が起きたため、コメがさらに減収になるのは目に見えていた。農民たちは驚き、関係官庁に陳情をはじめた。食糧不足が深刻になっていたので政府は、食糧増産のため発電所の下流に遊水池の建設を具体化し、一九四三年から地崎組東川出張所が工事を請負った。しかし、戦争で労力や資材が不足しており、新しく集めることが出来ない地崎組では、鴻ノ舞鉱山で強制労働をさせていた朝鮮人連行者を、東川・東神楽の両遊水池工事にまわした。それでも労力が大幅に不足し、翌年までに遊水池を完成させるメドがつかないため、中国人連行者を三〇〇人導入する契約をした。

第一次連行は一九四四年九月に二九七人が塘沽から乗船したが、船中で一六人が死亡、大阪に上陸して東川出張所に着くまでに一七人が死亡している。補充の第二次は一〇月に四一人が塘沽から乗船し、船中で一人が死亡し、四〇人が東川出張所に着いたのが二五日だった。三〇四人の中国人は、入所していた朝鮮人を移したあとの東川収容所に入所した。

「それまでは逃亡を防ぐためのへいもなかったが、高いへいが収容場所を囲い、さらにそのへいの上にはバラ線まで張りめぐらされ、窓という窓はすべてタルキをうち、監獄部屋と変わった」(『中国人強制連行事件』)。

内には鍵がかけられ、旭川警察署から来た四〜五人の特別駐在員が見張所に配置された。収容所の中の床板の上にはムシロを敷いてあるだけで、風の強い日はムシロが吹き上げられた。風の強い冬になるとムシロを通して、床板に雪が飛んでくることもしばしばだった。

中国人が東川事業場に到着した時は、北海道はもう秋であった。だが、中国人が着ているのは破れて体が見える、国防色の汚れた夏服一枚の人が多かった。栄養失調で体が浮腫になっていたり、目がへこんでいる人も相当いた。やせてふらふら歩く人もいた。大陸での収容所生活と長期の輸送の疲れが、体全体をおおっていた。

遊水池づくりの作業は、スコップ、ツルハシで平地を二メートル掘り下げた。土や石はモッコに入れ、二人でかつぎ上げた。土を掘るのも、モッコをかつぐのも重労働だった。疲れているうえにろくな食事もとっていないので、ちょっと休んだり、モッコをかついで転んだりすると、八番線ぐらいの太い針金で殴りつけた。

遊水池を掘る工事のほかに、池に水を出し入れする入水溝と排水溝をつくる仕事もあった。土が崩れないように斜面に蛇籠を並べたが、蛇籠につめる石は忠別川に入って集めた。すでに冬が訪れ積雪も深くなった季節に、ワラで編んだワラジで川に入り、素手で石を拾って川岸に運んだ。寒さで手がしびれ、石を落としたりした。中国人の五人がひと組になり、日本人指導員や警察の監視のもとで働いた。石をそりに積んで運び蛇籠につめたが、全身水びたしになって震えながら働いた。

冬は寒さが厳しいうえに重労働で、しかも食糧が少ないので、次々と死んでいった。少しでも生きのびようと、逃走する人が多くでた。六人が集団逃走した時は、地崎組の幹部や警察、村の警防団も駆り出されて翌日に捕らわれた。宿舎の庭に座らされ、「警官が彼らの首をしめて仮死させる。するとカツを入れて蘇生させるのだった。これが何回となく繰り返された。六人共青い鼻汁を出して死んだようになっていた」(佐藤幸子)と目撃した人は語っている。十代の時のことを思い出すと、いまも胸がつまって涙がこぼれるという。

二回にわたって塘沽から乗船した中国人連行者は、船中で一六人、上陸後に東川事業場に着くまでに一八人、事業場では中国へ送還されるまでに五四人の総計八八人が死亡した。事業場死亡者の大部分の死亡原因は「栄養不良兼胃腸カタル」で、事故死はいない。事業場での死亡者は火葬のうえ、法城寺に保管したことになっていた。ところがこの遺骨は一九五三年に慰霊祭

ののち、中国へ送還することになった。在道華僑連合会で遺骨の有無を確かめたところ、寺からは預ってないと回答があった。しかし、地崎組ではトラックで八八の遺骨を札幌駅に運び、そのまま列車と船に積まれて中国に渡った。ところが翌年に五体の遺骨と多数の残骨や遺品が工事現場の裏山で発掘され、前年に送還した遺骨はニセ物の疑いがでた。この問題を国会に持ち出す動きもあったが、円満裏に解決する方向に向かい、中国紅十字会に陳謝のうえ、発掘した遺骨は送還され、ニセ物問題は明らかにされなかった。

中国人・朝鮮人を酷使し、多くの生命を奪って造った遊水池の用水で、いま豊かな農業を営んでいる。だが、『東川村史』『東旭川町史』『東神楽村開基六〇年史』『上川開発史』などの関係史誌には、この事実が全く書かれていない。
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2843&syosekino=52


旭川 中国人墓地 心霊スポット - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%A2%93%E5%9C%B0+%E5%BF%83%E9%9C%8A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88

旭川 中国人墓地(上川郡)

とても有名な心霊スポット。

日本人に強制連行され労働させられ死亡した中国人たちのお墓が密集している。とある一つの墓にある裏にある文字を読むと死んでしまうという。

墓の入り口にはなぜか倒れてる地蔵が放置されていてこれだけならよくある心霊スポットなのだが、この中国人墓地が恐ろしいのは目撃した人の多数いることだ。
https://matome.naver.jp/odai/2141196042705461601/2141207737036401203


日本の最怖心霊スポット、旭川『中国人墓地』には「お前ら行くな!」
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


いわゆるホンモノです。

心霊スポットは、全国各地に数多く点在します。オカルト好きは、廃墟や廃病院などに肝試しに行ったこともあるでしょう。

しかし、数ある心霊スポットの中には”ガチ”で行ってはいけないスポットがあります。

その1つは、北海道の「中国人墓地」です。

北海道旭川市近郊にある中国人墓地。地元の方も避けるようなこの場所は、正式名称を「中国人殉難烈士慰霊碑」と言います。

日本に強制連行され、過酷な状況の中労働させられていた中国人のお墓です。


彼らは日本人に強い怒りや憎しみを持ちながら亡くなっているので、特に日本人が軽い気持ちで肝試しに行くのは危険すぎます。

実際に、中国人墓地に肝試しに行った方が多数被害に遭っています。
行ってはいけない‼多数の被害

1.車に白い手形がビッシリとついた
2.肝試しに行った日、夢の中で中国人に追いかけられた
3.肝試しに行ったメンバーが行方不明になった
4.撮影していたスマホが突然故障した
5.肝試しに行った帰りに交通事故に遭った


また一部で、墓石にすがる霊や夜に行くと錯乱状態になるなどの話も実しやかに囁かれています。

ここまで見ると「よくあるパターン」と笑ってしまうかもしれません。しかし、軽い話で済まされません。

なぜ、中国人墓地に行ってはいけないのか、それは大きな事件を引き起こした事実があるからです。


極秘情報 中国人墓地にまつわる事故

中国人墓地は、旭川市近郊の上川郡東川町にあります。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92071-1471+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E9%83%A1%E6%9D%B1%E5%B7%9D%E7%94%BA%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%B3/@43.6625413,142.5913463,12z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f0cd9f2b6fe409f:0x4492a267c5a4f525!8m2!3d43.6640765!4d142.6600564?hl=ja


この東川町というのは、本当にド田舎。都会に住んでいる方が想像もできないような場所なのです。

このような場所は、若者たちにとって格好の遊び場。それは、危険な無謀運転でドライブを楽しむのにピッタリです。

そして興味本位で「このまま肝試しに行くか!?」なんて話もよくあるパターン。

当時、旭川市ではけっこうな話題になったのですが、5年くらい前に大きな事故がありました。若者たちが定員オーバーの状態でドライブし、事故。そして全員死亡。

ニュースで画像も出ていましたが、車は悲惨な状態でした。
奇妙な噂と口を閉ざす地元民
実は、この事故には噂がありました。

それは、中国人墓地に行った帰りの事故、だということ。

当時、事故を目撃した地元の方の話によると、絶対にあり得ない事故、だそうです。

確かに定員オーバーでスピードも出ていた。しかし、ブレーキ痕などからわかる状況としては、死亡事故にまではいたらない。また、運転手が運転をミスした理由が曖昧なのだそうです。

しかし、それ以上に話を地元の方から伺うことはできまでした。皆一同に口を閉ざすのです。詳しく話を聞こうとしても地元の方は……

「ごめん、ご遺族のためにもこれ以上は話せない…K察にも口止めされてるんだ」

それはつまり、中国人墓地に行った若者がありえない状況での事故で亡くなった、ということではないでしょうか。

全国各地にある心霊スポット。興味本位で遊びに行くことも、若気の至りであることでしょう。しかし、中国人墓地だけはやめたほうがいい。これが本音です。
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


北海道中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭in旭川


2016年7月7日、北海道旭川上川郡東川町東14号共同墓地で、第44回中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭が行われました。

今年7月7日は盧溝橋事件勃発79周年、日中友好正常化44周年、慰霊碑建立44周年、日中平和友好条約締結38周年です。北海道各地から70名余りの参列者が慰霊祭に参加しました。「再び中国と日本が争うことなく、ともに友好を深めていくことを誓います」と犠牲者の冥福を祈りました。NHKの取材も入り、当日の全国ニュースに放送されました。

北海道中国会は去年から会員花島徳夫さんが東川町長松岡市郎さんとの関係で、北海道中国会が始めて慰霊祭に参加することになりました。今年は快晴の天気で、北海道中国会の運営委員長陶恵栄院長と鈴木国夫さんが慰霊祭に 参加しました。

東川町仏教会会長栄禅寺の大久保孝英住職から「法語」をしていただき、参列者が焼香しました。中国人強制連行事件殉難烈士慰霊碑管理委員会代表委員、外山弘美さん、東川町長松岡市郎さん、西川将人旭川市長(代読)、撫順の奇蹟を受け継ぐ会北海道支部長大原雅樹さんがそれぞれ追悼文を読み上げました。旭川日本中国友好協会理事藤原一朗さんが弔電を読み、最後に旭川日本中国友好協会会長鳴海良司さんからお礼の言葉と閉会の挨拶を頂きました。

慰霊祭終了後、旭川市内の華僑総会会員さんが経営する北京楼菜館で、駐札幌領事館の張毅領事を囲む交流会をしました。札幌から来た北海道日中友好協会の古本理事長から、旭川日中友好協会、旭川華僑総会、旭川ハルビン友好 協会、旭川市議会日中友好促進議員連盟、留学生など30名近い人が参加して、日中友好の二度と戦争を起こさない決意を固めました。

資料:

中国人強制労働による殉死の墓

戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。

1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。

うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。

戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。

しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。

残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。

こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。

戦後、多くの人々や心ある人達によって何回かの大法要がおこなわれ、特に東川町はこうした行事にも力を入れまして、昭和47年7月7日、旭川市の日中友好協会の方々と共に「中国人強制連行事件殉難慰霊石碑」を除幕するに いたったのであります。

そして遊水地は今もなお東川町、旭川市に及ぶ美田をうるおし、農産業に多くの貢献をにない、日中の友情と平和のちぎりをむすんでいるのであります。
http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494


旭川中国人墓地


昔、中国から強制連行されてきた労働者の墓がある。
戦前に一家惨殺された家族の墓がある。
車に無数の手型がつく。
白い車が特に狙われる。
車の上に無数の幽霊が見える。など。


地図
https://mapfan.com/map?c=43.65136515839951,142.58872269128318,15&s=std,pc,ja


この地図のおおむね中心付近にあります。

 
北海道旅行の「目玉」として、北海道内有数の心霊スポットといわれる中国人墓地を選んだ。

私は行くのが怖かった。なぜなら・・そう・・・
私は白い車に乗っているのだ!!
それゆえ、もしかしたら狙われるのかも・・・と心配していた。
しかし、自分の車がまさかあんな姿になろうとは・・・・

8月1日
内地(爆)では猛暑だと言うのに
この北海道では相変わらず涼しい
私とSKYLINE氏は中国人墓地の正確な場所を割り出すため、
東川町にある、北海道ローカルコンビ二【セイコーマート】にて
詳しい場所を聞くことにした。
ちなみにこのセイコーマート、茨城にも多数ある・・・

コンビニの店員曰く、

この中国人墓地は「東8号の第3小学校付近だったと思うのですが・・」

我々は早速、現地へ向かった。

しかし、それらしいものは何処にも無い。
その代わり、なぜかヘリコプター十数機が保管されている
ヘリコプター基地にたどり着いてしまった。
これは見たい!!見なければならない!!
早速車から降り、ヘリコプターを見物しようとしたそのとき!!

『ごるぅぁぁああああ!!!!』

天地を揺るがす雄叫と共に突如、前方の扉が開き、
中から怪物が飛び出してきた!?
これはもしや?北海道名物「クマ!?」


驚いた私は「スイマセン!スイマセン!」と平謝り・・・

出てきた熊・・・ではなく警備会社のオッチャンに
事情を説明したところ、ヘリにいたずらする奴がいるため警備中との事だった。
早速オッチャンに中国人墓地の場所を聞くと
山の上で、なおかつ隣町の東神楽に近いところだと言う・・
ちなみにヘリは農薬散布用とのこと。

我々は早速東神楽へ向かったが、それらしい場所は無い。
やっぱり夜に探すのは厳しいのか!?
我々はいったん撤収し、明日昼間に探すことにした。

そして次の日、
旭川ローカルデパート「マルカツ」にて1/25000地図を購入。
東川の墓地という墓地をすべてチェック、
しらみつぶしに探す作戦に出た。


【小高い丘、峠道、東神楽の近く】
事前情報からこの3つの条件をみたす墓地を探すことにした。

一つ目、二つ目ははずれだった・・・

そろそろガソリンも無くなって来たので
ガソリンを入れるため北海道ローカルGS【ホクレン】にて給油することにした。

給油中、私は「北海道大学 歴史研究会」を名乗って
店長らしき人物に中国人墓地の場所を尋ねる。
すると、


店長:「ああ、あそこね・・・あんまり遊び半分で行かないほうがいいよ・・
中国人の慰霊碑と、あと【一家惨殺の墓】があるんだよ・・・
行くんなら、道わかんないだろうから、後ついてきて・・」

とのこと。
早速我々は店長の車の後をつけた。
交通量の多い(北海道にしては)道道(=県道)から、
丘の上に登っていく狭い(北海道にしては)道を進むと
店長は車を停め、我々の方へ向かってきた。

そして右手の細い(本当に)砂利道を指差し、

店長:「この先が墓地だから。あんまりふざけた気持ちはもたないこった」

と言い、再び車に乗ると、細い砂利道を進んでいった。もちろん我々も後に続く。

細い森の中の道を100mくらい進んだところに墓地があった。

店長:「これが中国人の慰霊碑で、こっちの7つの地蔵が一家惨殺の奴ね・・
じゃあ、気ィつけてね・・・」

そして、店長は去っていった。

我々は墓地を一通り見た後、帰る事にした。
特に、霊的にヤバイ感じは無かったが、
車のリアガラスを見た我々は凍りついた!!

 沢山の手形が着いているではない
か!!!!!

私は恐怖と共に車のリアガラスを見つめると

「ポタッ、ジワ〜」
「ポタッ、ジワ〜」

なんと手形の正体は上の木の枝から落ちてきた雨水であった・・・

ボンネットを見ると、確かに雨水が無数の「手形」を作っている。
確かに噂どおり、水垢がつきやすい「白い車」のほうが手形は目立つだろう。
そして夜ならば夜露が雨水の代わりをし、同じように手形を作るに違いない。

でも、夜なら夜露が手形を作る瞬間は暗くて見えないだろうし、
帰ってからこの手形を見つけたのではビビるのも無理は無かろう。

ふと、ボンネットに目をやると、エンジンの熱で温められ、白い湯気が立っていた。

「なるほど、これが幽霊か・・・・」

幽霊の正体を暴いた我々は、意気揚揚と引き上げ、そして夜にもう一度行くことにした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4641/page013.html

91. 中川隆[-6460] koaQ7Jey 2017年9月09日 10:50:07: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (1) [北の街] 2005-10-14
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14

 旭川市から南東(空港から少し東側方向)に向かうと東川町があります。市から外れるとすぐ穏やかな田園が広がっていて車で走っていても心が和む場所です。

 ところが、そこは戦前戦中をとうしてや朝鮮半島から、騙されたり、強制的に連れてこられた人が過酷な労働を強いられて、多くの人が命を落とした所でもあります。その人たちは、ある所では石炭掘り、山林の伐採などをさせられました。

 そしてここでは、田んぼに必要な水を溜めておく遊水池を掘らせれていました。また、それに必要な道路整備やその水を市内に流す放水路作りにも強制的携わらせられたのです。その過酷さは、聞いただけでも見もよだつ思いです。さぞや辛かったろう、さぞや日本人を憎んだろうと思わせます。

 その一つの証言を紹介します。そのTさんは、その当時中学生ぐらいでした、御年77歳になります。学徒動員でその年なりの仕事をしたいたそうで。そのとき見た光景は今でも脳裏から離れずに記憶は鮮明に残っているそうです。

 何があったのか!!その頃は何につけ「兵隊のために」が合言葉のようになっていました。ここは農地ですので当然お米の生産に全力を上げていました。お米には水が欠かせません。それには雄大な大雪から湧き出る水やつき解けで流れる水をどこかで堰き止め、溜めておく必要があります。

 そこで遊水池が必要になったわけです。働き盛りの青年や成人の男どもは戦地に持っていかれていますから、残っているのは一部の兵隊さんと農家の女性と子どもしかいません。そこに、連れてこられたのが中国人や朝鮮人の人たちだったのです。その過酷さは次で紹介します。

このに見える放水路がその一つです
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。 

 どんな戦争でも、領土の奪い合いは民族間の支配関係を露わにします。支配する側は、支配される方を奴隷同様の扱いをし、自らの国家を「神の国」扱いにしたがります。だから、お前らは俺達の言うことを聞けと。

 しかし、歴史を見ても、たとえ一時それが最頂期を迎えたとしても、いずれは廃れます。そこに、また新しい怨念の連鎖が始まるだけなのです。

 3日にわたって、旭川の近郊で起きたことを書きました。是非、戦争の悲惨さを若い人に伝えたくて書きました。今、イラクでも同じようなことが起きています。


中国人殉難裂士慰霊碑                           

忠別発電所

中国人墓地
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24


92. 中川隆[-6462] koaQ7Jey 2017年9月09日 11:41:05: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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朝鮮人強制動員被害のはなし 過酷な た こ部屋は 11カ所あ っ た - 東川町
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/.../2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf

太平洋戦争前の戦前から戦後にかけて、忠別川流域の東川町内であったといわれる朝鮮人強制労働の実態解明調査を行っている「江卸発電所・忠別川 遊水池・朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る会」(近藤伸生代表)は昨年 10 月、掘る会メンバー6人と、東川町から企画総務課長も同行して慶尚南道に 調査へ行きました。


タコ部屋近くに住んでいた方、仕事 でたこ部屋に出入りしていた方からの 証言では、東川町内 11 カ所、旭川市東 旭川忠別地区遊水池の近く1カ所、東 神楽町3カ所の存在が今までに明らか になっている。およその位置は以下のようだった。

@東9号第一遊水池側(東川の方の証   言)


A東8号第一遊水池の向かい(同)   遊水池工事は、中国人を強制連行し てくる前は朝鮮人が働かされていた。 韓国で聞き取りの中でも当時朝鮮から 動員された方が証言している。


B東6号南(同)   第2頭首工から東川の 第2遊水池に向かう用水 路の一部では朝鮮人が働 かされていた。当時、中国人や朝鮮人がとてもひ もじそうだったので、工 事現場近くの農家の方が 日本人監督の分も含めて かぼちゃ、じゃが芋を蒸 かしたものを鍋に入れて人数分用意し、 そっと差し入れしたこともあった。


C志比内橋のふもと、東川寄り(元忠   別村の方の証言)   鉄条網を周りに張り巡らし、逃亡を 防ぐため囲いの中に犬が放されていた。 複数の方から犬と金網の証言が出てく る。江卸の工事現場から逃げ出した朝 鮮人を探すため、山狩りにはよく犬が 使われていた。

D熊の沢つり橋の手前(東川の方の証   言)


Eピウケナイ取水口の近く=2つたこ   部屋(同)


Fノカナンの沢取水口(同)


G小桧山温泉近く=ノカナンの沢の奥 (同)


H旧江卸発電所放水路の上(札幌市内   在住の方の証言)   学徒動員の学生と発電所技術者用の 小屋、その隣に朝鮮人のたこ部屋があ った。当時現場で学徒動員の学生と朝 鮮人が一緒になることはなかった。


I旧江卸発電所放水路の下(東川の方   の証言)


Jノカナンの沢と忠別川の合流点そば (元忠別村の方の証言)  


ノカナン、ピウケナイから出た土砂 で大きなずり山ができている。忠別湖畔の散策広場から対岸のずり山が見え る。親からは工事でなくなった朝鮮人 もあの中に埋まっていると聞かされた ことがある。  

当時、忠別村には江卸発電所の工事 現場から逃げてきた朝鮮人が何人もい たようだ。戦後、村の中で戦時中のこ とを自由に話せるようになって、初め てかくまって逃がしていた家が何軒もあったことが分かったという。

この村 では、朝鮮人が逃げてきたという密告 は一件もなかった。  

戦後しばらくたってから、

「逃げてきた人にご飯を食べさせ、母親が夜なべしてその人に合うように父親の服を 縫い直して着せて逃がした、というこ とが数回あった」

と親から聞いて当時 の事情を初めて知ったという人もいた。 逃がした朝鮮の人が、戦後お礼にやっ てきたことがあったという。   逃げてきた朝鮮人も、逃がした日本人も命がけの時代だった。  

母親から

「やせてシラミだらけの服 で命ごいをする朝鮮人を見て、『人間 をこんなにまでして』と思うと、とて も警察に突き出すことはできなかった」

と聞かされた。


江卸発電所・忠別川遊水池・朝鮮人強 制連行・動員の歴史を掘る会 代表 近藤伸生 


93. 中川隆[-6458] koaQ7Jey 2017年9月09日 18:08:37: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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北海道で行われた強制労働について 2011年06月19日


 北海道は今やクルマ社会であるといえるが、かつては、鉄道があちこちに張り巡らされて、道路が完全に整備されていなかった昭和30年代頃までは、鉄道が地域住民の足として機能していた。その鉄道建設工事の影には、たいてい強制労働がつきまとっていた。

 ここでは、北海道の強制労働の歴史について触れながら、私が入手した資料と現地で見聞きして得た、強制労働の実態を取り上げるものとする。

 北海道は、明治時代になって本州から移住民による開拓が行われるようになった。だが、未開の地であった為に道路がなかったので、まず囚人を使って道路を敷設する事にした。

 小樽から札幌の北を経て旭川方面に至る道路、旭川から北見峠を越えてオホーツク海の湧別・網走に至る道路、更に網走から標茶を経て釧路に至る道路等は、囚人の手によって造り上げられ、開拓民や屯田兵は、囚人の造り上げた道路を使って奥地を開拓し、入植をしていった。

 また、北海道の森林資源や鉱石・石炭資源が着目されて、鉱山等でも囚人労働が行われ、あらゆる土木工事で囚人労働が行われるようになった。

 ここで、鉄道トンネルに人柱が立てられた石北本線の常紋トンネル付近の鉄道工事がいかに過酷であったか、湧別線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …奔無加上生田原間ハ北見国常呂、紋別両郡境前後ノ深山幽谷ナルヲ以テ分水嶺ニ延長千六百六十余呎ノ隧道ヲ穿チ上リ下リ共四十ノ一乃至五十分ノ一ノ急勾配ヲ設クルモ尚ホ高築堤、深切取ヲ要シタル

此ノ区間ハ密林鬱蒼トシテ昼尚ホ暗ク時ニ猛獣出没スルアリ
人跡未タ至ラス固ヨリ既成道路ノ材料ノ運搬ニ特別ノ考慮ヲ要シ工事施行上困難ヲ極メタリ…

 この強制労働で使われた囚人は、明治政府の方針に反対して捕らえられた政治犯が多かったという。鎖に繋がれて死ぬまで労働をさせるので、死刑よりも過酷であるこの刑には反対の声が上がり、また、土木工事での労働力の不足から、明治中期には囚人労働はなくなった。

 しかし、未開の地であった事から、人を募集しても人が集まらない事は目に見えていたし、途中で脱落者が生ずる事も考えられた。また、公共の職業斡旋の形態ができあがっていなかった事もあり、民間業者が労働力をかき集めてある場所に幽閉し、劣悪な労働環境下で酷使する、いわゆるタコ部屋労働が行われるようになった。

 本州でも、タコ部屋労働はあったが、北海道では未開の地であった等の理由で労働者が敬遠する為に、後々まで行われたのである。

 民間の職業斡旋業者が、騙したり強引に連れ去ったりして確保したタコは、土木業者に引き渡されて、監獄のように鉄格子を窓にはめ込んだ建物に閉じ込められた。

 このように、強制労働は、囚人を使った囚人労働から、騙す等の違法な手段によって集めて働かせたタコ部屋労働へと変貌していったが、これだけでは終わらず、ついに外国人を強制労働に使うようになった。

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

 私は、そのような思いで、鉄道の跡地の探索の時間を削ってでも聞き取り調査を優先している。ここで、私が実際に聞いた目撃談を2つ紹介する。


北海道河西郡更別村 国鉄広尾線鉄道工事現場における事例

 この辺りでもタコ部屋労働が行われ、労働者には朝鮮の人も含まれていた。朝、小学校に通学する際に、仕事場へと向かう労働者(7時位から仕事をしていたらしい)とすれ違っていたが、10月(※当時 現在の十勝地方の11月位の気温に相当か?)なのに衣服は赤い腰巻だけであった。

 この付近の工事は難航し、南4線川になかなか橋を架ける事が出来なかったので、とうとう6人の人柱を立てる事にした。人柱は、橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。また、この付近の工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった。

 広尾線が開通し、戦争もたけなわになって村から多くの男子が兵士として出征していった頃の事、駅長が終列車に老男性が乗っていたのを見たはずなのに実際には乗っていないとか、終列車の後に線路の点検をしながら歩いていると、火の玉を見たり足音を聞いたりしたとか、変な事が立て続けに起こった。

 あまりにもこのような事が続いたので、当時の更別駅長が地元の方々に慰霊碑の建立を依頼してきた。そこで、ささやかな祠を建立したところ、このような事はなくなった…。


北海道宗谷郡猿払村 旧軍浅茅野飛行場建設工事現場における事例

 当時は重機もないので、飛行場の滑走路は人の手で土を運んで均していった。この作業は真冬でも除雪しながら行われたが、彼らの服装は、むしろ(?)を体に巻きつけただけで、裸足(?)のままで作業を行った。

 滑走路は複数用意しようとしたらしく、滑走路が1本完成したのに続いてもう1本着工したが、完成までには至らなかった。

 今回聞き出した事例は、暴行の事例ではなかったものの、季節に関係なく服装が粗末であった点が共通している事から、タコ部屋労働は劣悪な環境であった事がうかがえる。実際、雨竜ダム建設工事を始めとするタコ部屋労働における犠牲者の死亡原因は、ビタミン不足が原因で起こる脚気が多かったらしい。

 空知民衆史講座のパンフレットによれば、胆振縦貫鉄道(→国鉄胆振線)建設工事では、温泉がある大滝村北湯沢の熱湯の湧き出すトンネル工事で1時間に50人の朝鮮人労働者の突入を繰り返した事例があったそうだ。

 「人柱」の事例は、科学が発達していなかった迷信や神仏が信じられていた時代ならともかく、人類が空を飛ぶ20世紀になって「人柱」がまかり通っていた事実は信じ難い。

 人柱に関する情報として、国鉄瀬棚線の建設工事では、花石〜北住吉間の鉄橋(一説には、第一白川橋梁)に人柱が埋められたという噂がまことしやかにささやかれているが、既に撤去された今となっては、確認のしようがない。

 また、前出のパンフレットによれば、自衛隊の矢臼別演習場の前身である陸軍種馬場建設工事で、朝鮮人労働者を人柱にした等の残虐な行為があったらしいし、北海道雨竜郡幌加内町の雨竜ダム建設工事では、コンクリートに埋め込まれた人もいるとの証言がある。

 さて、住民から国鉄広尾線建設工事のタコ部屋労働の事例をとりあげてみたが、広尾線建設概要では当該工事現場を含めて全ての工区で犠牲者が出たとか工事が難航した事は書かれていない。という事は、故意にとりあげなかったのではなかろうか? ここで、タコ部屋労働が行なわれた国鉄瀬棚線の鉄道建設工事について、瀬棚線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …国縫起点自三一粁五○○米至三二粁,自三五粁七○○米至三六粁三○○米,自三六粁六七○米至四五粁二○○米附近の場所は何れも泥炭地帯にして築堤の沈下を見又三三粁○五○米附近の切取箇所は流水甚しく工事の進捗を阻ぐるものがあつた

殊に大正一五年一一月一四日本線二粁四○○米附近の切取に於て又同年一二月十二日五粁八○○米附近用地外土取場に於て更に昭和二年四月十二日二粁三○○米附近用地外裏込石採集場に於て何れも岩石崩壊し之が為め前後三日を通じ人夫三名の死者と重傷者二名を出した事は昭和五年九月四日二五粁五七○米附近「下ハカイマツプ」川橋梁四○呎四連の架渡工事中桁転落の為め職員一名即死人夫二名の重軽傷者を出した事と共に本線建設工事の一大犠牲であつた…

 この文書を単純に読むだけでは、鉄道工事が容易ではなかった事しか読み取れないだろうが、瀬棚線の工事現場は凄惨を極めた。

 昭和50年代後半から本格的に始まった国鉄赤字ローカル線の整理に対して、瀬棚線を守る住民会議が設立された際に、住民会議の事務局の仕事をしていた方がタコ部屋労働に関する噂を聞きつけ、工事に従事したり工事に関係した人達を探し出して、当時棒頭をしていた方からやっと聞き出す事ができた工事の実態は、ひどいものであった。

 何でも、1号トロに3分間で1.5リューベ積みこむ、今の10倍位の労働であったそうで、少しでも遅れれば殴られた。また、労働時間は06時から18時までという名目であったが、実際には03時から始められたそうだ。

 また、逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれたと確信している。

 また、工事の際には人柱もあちこちに立てられたと思っている。人柱が立てられるようになった歴史的経緯を考えると、鉄道工事では地形の険しい箇所の長大トンネル工事や主要橋梁に人柱が立てられたのではなかろうか。

 過去に自分が体験した事が余りにも荷が重過ぎるかも知れないし、タコは親不孝者や怠け者の成れの果てと教え込まれて無意識のうちにタコの話をしたくない方もいるかも知れない。タコ部屋労働が過ちであったと思う気持ちが少しでもあれば、今からでも遅くはない。誰かに伝えるべきである。

 過ちを過ちと認めないのは愚かな事であり、同じ人間なのに人格を否定されてタコとしてむごい最期を遂げられた労働者がいつまでも浮かばれない。もし、今からでも歴史の過ちを後世に伝える気持ちがあったら、情報をお願いします。

 ささいな情報でも構いません。あなた自身若しくはあなたの先祖が見た光景が、歴史の重要な証言となります。

 最近、後世に「負の歴史」を伝える行為を「自虐的」であるとする風潮があるようだが、私は決してそのように思わない。

 人間は高度な知識と知恵を有する動物だが、人間がとる行動は全て正しい訳ではない。長い間生きていれば失敗する事も必ずある。過去の失敗を振り返って反省する行為は、人間がより賢くなろうとする純粋な行為であり、決して恥ずべき行為ではないと確信している。
http://blog.goo.ne.jp/80k700/e/0285e5b12f4510db384f391e977c8287


【笹の墓標】

戦前、北海道の雨竜ダム建設工事で亡くなった強制労働犠牲者の遺骨発掘に参加した神沼公一郎は、作業中に腐乱死体を発見。

遺体はなんと神沼の元恋人で、東京で変死した葦原奈美のいたクラブ「銀馬車」の従業員・上月良彦だった! 

道警の星野と宮川は「銀馬車」の顧客リストを捜査、その中に、強制労働に関係し、奈美とも接点を持つ北海道政財界の大物三人の名を発見した! 五十数年前の悪夢と現在を結ぶ忌まわしい過去とは? 時間と空間を超えて投影された運命の非情を描く森村文学の神髄!


序章

 深夜、山の方角の中腹に火が見えた。通常、火を焚く場所ではない。

 火が見える夜は、工事現場や飯場に死者が出たときである。労働者たちは、あそこで死体が焼かれているのだと噂し合った。だが、噂の真偽を確かめた者はいない。労働者たちは、自分がいつ、
あの火の燃料にされるのかとおののいた。

 宿舎の格子窓が白むころ、労働者は叩き起こされる。

「起きろ。働け」

 棒頭や取締人と呼ばれる班長が、六角棒を手に容赦なく労働者を叩き起こす。中にはせんべい蒲団をまくられ、六角棒で叩かれても動かない者がいる。ほとんど虫の息になっていて、動きたくとも動けないのである。時には、夜のうちに死んでいる者もいた。

 土工夫(労働者)たちからタコ部屋と呼ばれている宿舎は粗末な仮小屋で、逃亡を防ぐために窓には鉄格子がはめられ、夜間出入口には閂がかかる。板張りの床には筵が敷かれただけで、冬は容赦なく吹き込む隙間風が筵を吹き上げた。

 タコ(強制)労働者と強制連行された朝群人労働者の宿舎は分けられているが、実態はほとんど同じである。

 宿舎は中央の土間を挟んで左右両翼に分かれる。左手が親方や棒頭の個室、右手が労働者の寝室に当てられていた。

 前日の重労働が重く澱んでいる睡眠不足の身体を無理やりに奮い立たせ、洗面器1杯の水で何人もが顔を洗う間もなく、「飯上げ」(朝食)の号令がかかる。

 食事の内容は米3、麦、芋等7の割合の飯盛り切り1杯、味噌2、塩8の味噌汁1杯、漬物2切れ。弁当は前記割合の握り飯1個である。労働者たちはいずれも栄養失調で、腹が脹らんでいた。

 食事も食物を味わう余裕などはない。ただ、最低限の生命を維持するためだけに動物の餅にも劣るような粗食を大急ぎでかき込む。労働実績のよい者は上飯台と呼ばれる部屋で食べ、中程度の者は中飯台と称するテーブルに座って食べ、最下級の老は下飯台と呼ばれ、立って食う。

「おれはもうだめだよ」

 朝鮮の郷里から騙されて連行されてきた李景信が、朴命水に力なく言った。

 李は48歳で、この朝鮮人部屋では最年長である。李の衰弱は最近とみに著しい。李は風邪をこじらせ、熱があった。だが、そんなことは仕事を休む口実にはならない。

 高齢に、粗食と重労働を重ねて、もはや李の身体は使いものにならなくなっていた。これまで若い朴が庇ってきたので、辛うじて今日まで生きてこられたのである。

「李さん、なに言ってるんだ。そんな弱音を吐いちゃいけない。頑張れ。生きてさえいればチャンスはある」

 朴は李の耳に口を寄せて励ました。

 朴は信用人夫と呼ばれる自由契約の労働者であるが、タコ部屋に入れられて、信用人夫もタコ労働者もほとんど差のないことを知った。信用人夫は契約であるから、いやならばいつでもやめられるはずであるが、そんなことを言い出そうものなら、棒頭のリンチが待っている。

 今日は労働者がアヒルと呼んでいる水中作業である。厳寒期の水中作業で、李の足は凍傷が悪化して肉が崩れ、足の指の骨が見えている。骨が露出した部位に藁を巻きつけて作業現場まで這いずるように歩いて行き、水中に入るので、凍傷は悪化する一方である。

 厳寒期にもかかわらず、衣類はジュート麻の生地で、豆や米を入れる南京袋の繊維である。保温性はきわめて低い。ジュート作業衣をまとったタコ労働者が並んで歩いていると、南京袋の行列のように見えた。

 李景信は朴命水に担がれるようにして、とにかく作業現場まで行った。

 現場に着いたところで、李の体力は尽きた。身体は高熱を発して燃えるように熱い。

「この身体ではアヒルは無理です」

 朴は棒頭に訴えた。

「なんだと、この野郎。ふざけやがって。仮病をつかってサボろうとしやがっても、そうはいかねえぞ。立て。働け」

 労働者たちから鬼頭と呼ばれて恐れられている北山という棒頭は、持っていた鞭で李を殴りつけた。だが、李は動けない。棒頭はますます激しく殴りつけた。

「棒頭、李さんが死んでしまいます」

 朴は鞭を振るう棒頭の手を押えた。

「この野郎。きさまも痛い目を見てえのか」

 棒頭の容赦ない鞭が朴の顔面を打った。火を当てられたような苦痛に耐えながら、

「李さんの分まで私が働きますから、休ませてやってください」

 となおも訴えた。さすがの鬼頭も死なせてはまずいとおもったらしく、舌打ちをして、

「きさま、いまの言葉を忘れるな。その役立たずを小屋に運んで、2倍働け」

 と朴に命じた。

 宿舎に担ぎ込まれた李は、奄々たる気息の下から言った。

「朴さん、おれはもう助からない」

「なにを言うんだ。ちょっと熱が出ただけだよ。すぐ元気になる。2人で一緒にこのタコ部屋から逃げようと言った約束はどうしたんだ。頑張れ」

「おれはもう約束を果たせない。あんた1人で逃げてくれ」

「おれが李さんを残して逃げるとおもっているのか」

「一緒に行きたいが、おれはもうついて行けないよ。頼みがある」

「1人で逃げろと言ったって、だめだよ」

「おれは遅く結婚したので、郷里に今年10歳になる娘がいる。娘の名は貞媛。あんた、このタコ部屋から逃げられたら、おれの郷里へ行って、娘にこれを渡してくれ。娘にいっぱい土産物を買って帰ろうとおもっていたが、これしか買えなかった」

 李は1本の赤い珊瑚の櫛を差し出した。

「李さん」

「世話になった。あんたに会えてよかった。あんたは若い。こんなタコ部屋で死んじゃあいけないよ。あんた1人ならきっと脱走できる。この戦争は間もなく終わる。平和になったら、あんたのような若い力が必要になる。あんたの活躍をあの世から見守っているよ」

 朴の手を握った李の手が急速に弱くなった。李はその夜死んだ。

 死体は近くの寺の本堂に一夜仮安置された後、いずこかへ運ばれて行った。

 翌日の深夜、朴は山の方角の山腹に火を見た。その火を見つめながら、朴は、

「李さん、許してくれ。あんたと一緒に逃げるという約束を守れなかった」

 と涙をこぼした。闇の奥の火がまたたいた。朴にはそれが、

「約束を守れなくなったのはおれのほうだよ。許してくれ」

 と李が答えたようにおもえた。

 朴は幼いころ両親に連れられて来日した。23歳のとき、横浜で沖仲仕をして働いていたが、仕事がなくてぶらぶらしているとき、1人の男から肩を叩かれた。

「兄さん、閑そうだね。いま、なにをしているんだい」

 一見40代の上等な服を着た羽振りのよさそうな男が問いかけてきた。

「べつになにもしていないよ」

 朴が答えると、

「北海道へ来ないかい。いい仕事を世話してやるぜ。1日5円、働きぶりによっては8円、10円も稼げる。いま北海道は人手が足りないから、いい金になるよ」

 当時、公務員の初任給が75円の時代である。庶民の食べ物であるカレーライスも20銭から30銭である。

「1日5円から10円だって」

 朴は目を丸くした。

「そうとも。それもうまい飯付きだ。白い飯を腹一杯食って、肉や魚や酒も付くぞ」

 男は甘い餌を、仕事にあぶれていた朴の前に並べ立てた。朴はその場で男と1年の契約をした。

 だが、男に北海道の雨竜ダムのタコ部屋に送り込まれた朴は、男に騙されたことを知った。1日5円どころか2円50銭。しかもその日給から食費、蒲団代、地下足袋代などを差し引かれると、ほとんど手許に残らない。前借りのある者は利子を差し引かれるので、必死に働いても賃金が利息においつかない。朴は契約して出稼ぎに来たつもりであったのが、朝鮮人狩りに引っかかったことを悟った。

 朴が送り込まれたのは、北海道北部山間の雨竜発電所工事現場であった。この工事は陸海軍の拠点飛行場建設にも匹敵するような、北海道最大の土建工事である。折から戦時下の労働力不足もあって、大量の人間が朝鮮や東北地方、また京阪の都市部から「人間狩り」と言えるような募集によってかき集められてきた。

 朴は契約労働者であったが、李景信は郷里の朝群南部の村から北海道北部の工事現場に強制的に送り込まれたのである。工事を担当した元請けの下に、下請け、孫請けと多数の業者が犇めき、人狩り屋(周旋業)と提携して不法に集めた労働力を確保していた。

 雨竜ダム工事の飯場に送り込まれた朴と李は騙されたことを悟り、逃亡の機会を狙っていたが、監視が厳しく、果たせないでいる間に、李は死んでしまった。

 飯場からの逃亡者はあとを絶たなかった。厳しい監視の目を潜って逃亡しても、たいてい警察や憲兵、棒頭や犬の追っ手に捕まって連れ戻された。強制連行労働者の5分の1は逃走を図ったが、北海道の逃走成功率は全国平均の半分以下で、極めて逃走が困難である。逃亡を企てた者は見せしめのために凄まじいリンチに遭う。

「お国のための工事から逃げようなんて、太え了見だ。その根性を叩き直してやる」

 棒頭は全労働者の見守る中で、連れ戻された労働者を六角棒や鞭で殴りつけ、気を失えば水をかけ、水を一杯に入れた洗面器を捧げ持たせてコンクリート床に正座させた。姿勢を崩すと、また六角棒や鞭が飛ぶ。あまりの苦しさに自殺を図る者もあった。

 逃亡を決意した朴に、朝鮮人の強制労働者が耳打ちした。

「旭川手前の近文にあさひ屋食堂といううどん屋がある。そこは夕張炭鉱に連行された朝群人たちが結成した救援委員会の出先だ。そこへ逃げ込めば、逃走の手引きをしてくれるぞ」

 朝鮮人労働者の救援委員会があるということは密かにささやかれていたが、具体的な出先を聞いたのは初めてである。仲がよかった李に死なれて、朴は逃亡の意志を固めた。この飯場から逃亡に成功した者はほとんどいない。

 飯場の監視に油断はなかった。脱走の機会をつかめぬまま、朴に過酷な日々がつづいた。

 起床は夏が午前5時、冬は5時半、食事は常に下飯台で立ったまま。6時ごろから日没まで重労働を強いられ、夜は垢と脂でてかてかに光る、綿が団子のように固まったせんべい蒲団にくるまって眠る。いつも腹をへらし、番犬の飯を盗み食いした。

 冬は寒さに耐えられず、労働者同士で衣服を盗み合った。稀に許される入浴も、衣服を盗まれるので入らない。枕にする四寸角の木材も暖をとるために燃やしてしまい、枕なしで眠る。人間性を無視した最底辺の環境でも、労働者は生きていた。

 ようやく長い冬が終わって、北辺に短い春が訪れると、労働者はほっと一息つく。ともかく寒気という最強の敵から逃れた。

 だが、春から夏にかけては逃亡が多くなるので、監視も厳しくなる。逃げるとすれば冬季以外にはなかった。凍死は免れたものの、また次の冬がくるまで自由は遠ざかる。

 現場で作業開始に際して、棒頭から言い含められた上飯台が立ち、

「シャツを脱げ。ズボンを取れ」

 と命じて、褌1本でしばらく働いた後、

「褌を取れ」

 と号令が下る。全裸の異様な男の集団がスコップを振るい、土を運ぶ。疲れてくると、棒頭の合図によって、

「気合いを出せ」

 と号令がかかる。労働者たちは一斉に、えいえいえいと掛け声を発する。全裸ならば逃亡できない。人間性を無視した牛馬に劣る労働であった。

 異様な労働者の集団が泥塗れになって働いているかたわらを、若い女子作業員が通り過ぎて行くことがあった。近くの女学校から動員された女子奉仕隊である。若い娘の群は面を伏せて、強制労働者の方を見ないようにして通り過ぎて行ったが、朴にとっては全身が震えるような屈辱であった。

日が没して飯場へ帰る途中、数人の動員女子奉仕隊が歩いていた。

 まったく女っ気のないタコ部屋労働で、若い女性と遭遇して、労働者たちの心は久し振りに和んだ。南京袋ながら、いまは衣服を身に着けている。緑濃い山のかなたにまだ夕映えが残り、湖の方角から涼しい風が吹いてきている。

 そのとき前を歩く娘たちが新聞紙の包みを落として行った。なにかとおもって棒頭の目を潜って拾い上げた朴たちが、新聞紙を開いてみると、中から握り飯が出てきた。朴たちが夕闇の中に遠ざかる娘たちの一群に、感謝の意をこめて手を振ると、娘たちも手を振って応えた。

 そんなことがあってから、娘たちはときどき新聞紙に包んだ握り飯を落として行ってくれた。言葉こそ交わさなかったが、強制労働者と若い娘たちの淡い交流であった。

 強制労働者にまた恐ろしい冬がめぐってきた。女子奉仕隊も帰ってしまった。山は雪に覆われ、ダムにせき止められて出現した湖が氷結した。だが、朴にとっては待ち望んでいた冬であった。

 朴は春から秋にかけて逃走路を充分に研究していた。

 まず、南方の深川の方へ逃げる。追っ手を躱すために道路は避け、山を越えて行く。雪中の厳しい山越えとなるが、朴は体力には自信があった。安全圏にたどり着いたところで列車に乗る。深川まで行けば成功の確率は高くなる。

 朴は脱走に備えて、密かに食糧を溜めた。飯や握り飯を少しずつ残して団子をつくり、雪の中に隠しておいた。食糧は約3日分備蓄した。

 飯場に送り込まれてから爪に火を灯すようにして25円はど貯めた。このころは上野・青森間が7円25銭であるから、列車に乗りさえすれば交通費は充分である。

 南京袋の作業衣ではすぐ露見してしまうので、飯場に送り込まれて来たとき着てきた私服を、この日のために隠し持っていた。

 朴は脱走に備えて、棒頭や取締人に気に入られるように従順に、熱心に働いた。日本語も自由に操れるので、彼は棒頭や取締人の信頼を得ていた。

 若いながら上飯台に昇格した。鬼棒頭も朴には心を許し、上飯台の上の模範台への昇格をほのめかした。

 模範台になれば食事内容も幹部並みになる。平土工夫のように泥に塗れてスコップを振るい、もっこを担ぐこともない。入浴や洗面も頻繁に許される。なによりも監視の目が緩む。棒頭や取締人も、まさか模範台侯補者が脱走の機会を狙っているとはおもわない。そこがつけ目であった。

 冬は監視が緩むといっても、厳寒期は無理である。山に雪は残っていても、気温の緩む3月下旬から4月上旬にかけてが狙い目である。このころになると、厳寒期のような凄まじい風雪はなくなる。

 4月5日の夜、飯場が寝静まったのを待って、朴は便所へ行くふりをして、便所の窓から宿舎を抜け出した。便所の窓の格子を1本、用便の都度緩めておいた。外から見ただけではわからないが、はずせるようにしておいた。抜け出した後、格子は元どおりにはめた。

 最も恐ろしいのは犬であるが、平素から犬を手なずけておいた。番犬も朴が手を出すと舐めるまでに懐いている。

 首尾よく宿舎を抜け出した朴は、雪明かりを頼りに山中へ入った。途中まで雪の解けた道を歩き、足跡をたどれないようにする。これまでの経験からこの天気が2、3日つづくことを知っている。

月はないが、雪明かりで充分明るい。

 おそらく明日の朝の起床時間までは時間を稼げるであろう。その間にできるだけ遠方まで距離を稼ぐ。もし脱走に失敗すれば、尋常のリンチではすまないだろう。鬼頭が信頼していただけに、裏切られた怒りがどんなものか、描まったら命はないものと覚悟しなければならない。

 朴は歩きに歩いた。私服の上にジュート麻の作業衣を重ね着していた。零下に冷え込んでいるにもかかわらず汗にまみれるほどであった。

 かなり距離は稼いだが、道路や集落に出るのは危険である。朴は食糧のつづくかぎり、3日間山中で過ごす覚悟であった。

 これまで飛びっちょ(逃亡者)が出ると、駐在所に通報すると同時に、作業を中止して、上板台2、3人を留守番に残して、棒頭以下、全員が捜索に出る。3日間探して見つからないと、あとは警察や憲兵に委ねて、作業へ戻るのが常であった。

 警察や憲兵は不審の者を見かければ、尋問したり捕えたりするが、積極的に捜査をするわけではない。3日間逃げ延びられれば、まずは第一関門はクリアしたことになる。

 山中を3日間歩き通して4日目に、朴は疲労でふらふらになりながら里へ出た。農家の納屋から作物を盗んで胃袋を騙し、4日目の早朝、駅の待合室に入った。ジュート麻の作業衣は山中に脱ぎ捨てたので、一般人と変わりない服装になっているが、そのぶん寒い。

 駅の待合室にはまだだれもいなかった。下りの1番列車が間もなく来る時間である。駅員が出札口のカーテンを開き、窓口に眠そうな顔を見せた。ちょうど折よく1人の老女が待合室に入って来た。朴は咄嗟におもいついて、老女に5円札を渡して、

「お婆ちゃん、悪いけど、稚内まで1枚切符を買ってくれないかな」

 と頼んだ。これまでの逃亡者のほとんどは、駅までたどり着いても札幌方面へ逃げる。朴は逃亡先を隠すために、故意に逆方向の稚内までの切符を買ってもらった。

 老女はなんの疑いも持たず、稚内までの切符を一緒に買ってくれた。

 1番列車が白い蒸気を吐きながらホームに入って来た。脱走後最も緊張する瞬間であった。車内に追手が待ち構えていたら、万事休すである。だが、追っ手らしい気配はなく、朴は無事に乗り込んだ。

 客室内にいるのは危険なので、便所に隠れていた。早朝の車内は乗客はまばらで、追っ手が来れば一発で捕まってしまう。

 幸いになにごともなく、救援委員会の出先があるという近文駅に降りた。あさひ屋食堂は駅の近くの狭い路地にあった。早朝であったが、起きている気配であった。

 朴が表のガラス戸を叩くと、戸が開かれて、若い娘が顔を出した。

「あっ、あなたは」

「あのとき握り飯の新聞包みを落としてくれた」

 顔を見合わせた2人は、同時に声を発した。若い娘は作業現場で出会った女子奉仕隊員の1人であった。

 娘は朴を見て、直ちに事情を察したらしく、周囲に目を配ると、家の中に招き入れた。彼女の両親もすでに起きていて、飢えて冷えきっている朴のために、温かいうどんをつくってくれた。

 肉と野菜をたっぷり入れた熱いうどんを、朴はつづけて3杯おかわりした。朴は生まれてからこんなにうまい食物を食したことがなかった。細胞の1つ1つに沁み渡っていくような味であった。

「ゆっくり食べなさい。まだいくらでもあるよ」

 娘の父親が言った。

 ようやく人心地ついた朴に、娘の父親は、

「私はこの娘の母親と結婚して、日本人の名前を名乗っていますが、じつは徐東雲という朝鮮全羅

南道の出身者です。妻は清美、娘は朝子と申します」

 と徐東雲は自己紹介を兼ねて、妻と娘を朴に引き合わせた。

「申し遅れてすみません。私は朴命水と申します。両親と一緒に横浜に住んでいましたが、人買いに騙されて雨竜ダムの飯場に送り込まれました。飯場で仲間から密かに救援委員会のことを聞いて、逃げてまいりました。お嬢さんと飯場近くの路上で出会って、握り飯を何度かもらいました」

「ここへ来たからには、もう安心です。安全なところへ逃がしてあげますから、うちでゆっくりと疲れを癒やしていってください」

 と徐はいたわるように言った。

 地獄の飯場から決死の雪中脱走を試みて、ようやく救援委員会の徐の許にたどり着いた朴は、ほっとすると同時に緊張が解け、これまでの疲労がどっと発した。彼はそれから死んだように眠った。

ときどき朝子に起こされて食事を摂ったが、また昏々と眠り込んだ。

 2、3日眠ったかとおもわれたところで、朴は激しく揺り起こされた。

「朴さん、すぐ逃げてください。どうやらうちが目をつけられたらしいの。朴さんが捕まったら命はないわ。警察が来る前に、これを持って逃げて。ひとまず北竜の本島組の現場を頼って。本島組の親方は救援委員会の1人よ」

 と朝子は慌しく告げて、握り飯の包みといくばくかの金を渡した。

「金はあるよ。それより、朝子さんやお父さんはどうなるの」

「私たちのことは心配しないで。お金はいくらあっても邪鹿にならないわ。さあ、早く行って」

 そこへ徐東雲が来た。

「朴さん、すまないね。もう少しうちで休ませてあげたかったが、ここも安全ではなくなった。どうやら協和会に嗅ぎつけられたらしい。本島組を頼れば大丈夫だ」

 と徐東雲は言った。

 朴は事態の深刻なことを悟った。もし朴がこの家で捕まれば、徐東雲一家は言い逃れができなくなる。救援委員会は貴重な拠点を1つ失ってしまう。

「お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

「礼などいいから、早く行きなさい。協和会にはくれぐれも気をつけなさい」

 協和会とは、朝群人でありながら同胞をタコ部屋に売っている人狩り屋である。

「元気でね」

 朝子が言った。

「また機会があれば、お会いしたいとおもいます」

「朴さん、絶対捕まらないでね」

 朝子がすがりつくように言った。

「捕まるもんか。またきっと会いに来るよ。この戦争は間もなく終わる。それまで皆さんも元気で」

「待ってるわ」

 朴は徐東雲一家3人に見送られて、あさひ屋食堂を去った。

 間一髪で協和会に先導された警官隊があさひ屋食堂に踏み込んで来た。

 そして50数年が経過した。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~mo0405/s/16.htm

23. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2018年11月12日 18:21:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20575] 報告

日本統治時代の朝鮮人徴用(抜粋)
日中戦争期

労務動員計画

「労務動員計画」を参照

1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[24][18]。1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[25])。同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][18]。1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[27]。水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[27]。

山口公一[28]もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった。」と説明している。山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、@39年1月からの「募集形式」A42年からの「官斡旋方式」B44年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[29][30]。

≪↑募集で応募した場合でも、実態は強制連行だったという事 ≫


松代大本営建設の徴用

1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[50]。

「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[51]。しかしその労働は過酷であり[52]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたという[53]。

「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいた[54]。しかし一方でその生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたという[55]。

また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[56][57]。そして天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害されたとも言われている[58]。

≪↑こりゃ なんぼ やり玉に挙げられても文句は言えないな ≫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
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以上 このリンクを 徹底的に読めば 弁解の余地など微塵もない労働搾取であった事は明白である

24. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2018年11月12日 18:22:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20575] 報告

朝鮮人が反日になった理由 _ 日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた


朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html

25. 中川隆[-13582] koaQ7Jey 2018年11月12日 19:13:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20581] 報告

「日韓併合」の正当性を唱える人たちへの最終メッセージ
2013年10月28日 松本 徹三


ここ数週間はデジタル教科書問題を書いてきたが、その前の6週間は日韓問題ばかり書いた。その為に今でも私のTwitterではこの関係の議論が多い。

そこでの最も典型的な私への反論は、「日本による韓国の併合は正当なものであり、あの時代に韓国が自らの力で完全な独立を維持する事は元々不可能だったのだから、韓国にとってもむしろ一番良いシナリオだった。だから日本があれは悪い事だった等と認める必要はないし、謝罪等は論外」という趣旨のものだ。


しかし、日本人がこう言い募っている限りは、日韓のわだかまりは永久になくならないだろう。しかも、こういう人たちに限って、当時の韓国人の近代文明への理解の低さをあげつらって、無神経な論調に終始するのだから、反発が収まらないのは当然だ。

いつも申し上げているように、私は歴史問題を議論する時には「事実関係」と「評価(善悪)」を明快に切り分けて議論すべきだと考えている。

「慰安婦問題」などで韓国側が言い立てている事(元を質せば、一人の奇妙な日本人が売名の為に言い出し、朝日新聞などが自らの思惑によって拡散し、最後は宮澤首相—河野官房長官が「臭いものに蓋」の感覚で認めてしまった事なのではあるが)は、「事実関係」が歪められている故に、韓国と韓国人に対して相当強い親近感を持つ私自身でさえも承服し難いのだが、「日韓併合の正当性」という事になると、これは「評価(善悪)」の問題になるから、これを肯定する多くの日本人と私は真っ向から議論したい。

「日韓併合の正当性」を肯定する論者の論点は、
1.遅ればせながら世界の列強の仲間入りをしつつあった日本としては、至極当たり前の行動であり、列強もこれを認めたのだから、今から遡ってとやかく言われる筋合いのものではない(まして「謝罪」を求められるのは筋違い。それなら、欧米各国は、アジア、アフリカ、中南米の各国にそれに数百倍する謝罪を繰り返さなければならない事になる)。

2.当時の日本にもしそうするだけの国力がなかったら、当然ロシアが韓国を支配下に置いたであろうし、自国と合体させて多額の投資を行った日本に比べ、ロシアの場合は単に植民地として収奪の対象としただけだっただろうから、韓国民にとっては遥かに良かった筈だ。そのように考えると、日本による併合は、結果として韓国民の為に良かった筈なのだから、感謝こそされ、恨まれる筋合いはない。
3.日韓併合は、「二国間の条約」に基づいてなされたものであり、国際法に照らしても合法である。韓国の皇帝はハーグの国際司法裁判所に密使を送ってこの非をなじろうとしたが受け入れられず、頼みのロシア皇帝の支援も取り付けられなかったのだから仕方がない。当時の韓国は国際世論から見捨てられていたのだから、その事実を遡って覆そうとしても無理。

上記の何れに対しても、私は、特に「事実関係」が歪められているとは思っていない。しかし、上記に言われていない事が下記の通り幾つかあるので、その事をきっちりと付け加えた上で、あらためて「評価(善悪)」の議論に進みたい。
1.当時の大韓帝国(清の冊封国家だった李氏朝鮮が、日清戦争の結果として清がその地位を失った為、清と同格の帝国となった)の主権者は皇帝の高宗であり、彼と彼を支える人たちは日本の支配を望まず、むしろロシアとの関係強化を望んでいた。

2.しかし、日露開戦を間近に控えた日本にとっては、兵站の輸送経路である韓国が「局外中立」であっては絶対に困るので、武力を背景に威嚇し、日本側が望む形での「議定書」を締結。日露戦争に勝利した後は、欧米諸国の暗黙の了承のもとに、次第に権益を拡大して、遂には「併合条約」の締結に至った。その全ての局面で、韓国政府は常に武力による恫喝の下で交渉せざるを得なかった。
3.「併合条約」締結後は「大韓帝国」は国号を「朝鮮」と改称させられ、朝鮮総督府が支配する「植民地」として運営された。伊藤博文等は、悪質な日本人が善良な韓国人の利益を不当に害する事のないように気を使ってはいたが、実際には悪質な日本人も多かったので、恨みを買う事も多かった。
4.また、この間、日本の歴史学者たちは、「日韓同祖論」をベースに、強引な「同化政策」の推進に加担した。「同祖論」といっても、「神功皇后による三韓征伐(日本書紀)」という真偽も定かでない一つの「伝承」だけをベースに「古来日本は韓国を支配下においていた」と論ずるとか、その時点での経済力のみを比較して「日本は成功した本家で、朝鮮は落ちぶれた分家」と勝手に決め付けたりしての議論であり、際立って公正さを欠いていた。

さて、私は、「日韓併合条約」は「日本が自らの利己的な目的(国益)の為に、独立国であった大韓帝国の主権者の意志に反して、武力による威嚇を背景に強制的に締結したものである」と理解している。この理解が正しくないと考える人は、上記に含まれる「利己的な目的」「主権侵害」「武力による威嚇」の三要素がなかったと主張されるのだろうから、もしそうであるなら、その根拠を示して頂きたい。先ずは、「それが事実だったかどうか」のみに絞って議論して頂き、その上でその事の「善悪」についてのコメントが欲しい。

次に、私は、日韓併合を正当化する論者に、私が追加した上記四点の最終項目である4)と、日韓併合期間中に日本人の多くが持っていたと思われる「日本人の優越意識と朝鮮人蔑視」についてのコメントを聞きたい。先ずは「そういう事実はあったのかなかったのか」についての考えを聞かせて頂き、次に、その事の「妥当性」及び「善悪」についてはどう考えられるかを聞きたい。

そして、最後に、正当化論者が常に挙げる前述の三点についての私の見解を下記の通り申し上げたい。
1.当時は列強による植民地争奪戦が世界の常識だったのだから、日本人がこの事に何等「道義的な罪悪感」を持っていなかったのは当然であり、私もその事を難詰するつもりはない。しかし、もし現時点で、「それが道義的に良い事だったかどうか」と問われれば、控え目に言っても「現時点での道義観から言えば、良い事ではなかったと思う」と答えるのが当然ではないだろうか?

ちなみに、「インカ帝国を滅ぼして大量の金を奪ったスペインの行為をどう思うか」「清国に対してアヘン戦争を仕掛けた英国の行為をどう思うか」という質問も同時にすればよい。肯定であれ否定であれ、この二つの質問に対する答えは、「日韓併合」についての質問に対する答と同じであるのが当然だ。

要するに、これまでの人類の歴史は、「基本的に暴力が全て正当化される歴史」だった訳だが、現代においてはそれが反省され、暴力ではなく「法と正義」「人道と人権」が全ての行動規範となるべきだというのが世界の常識になっている。そうであれば、「日韓併合」を今の時点で論じるに際しては、そのような「現時点での道議的評価」がなされて然るべきだ。

「謝罪」については、「英国やスペインが謝罪していないのだから、我々も謝罪する必要はない」とするのは全く意味をなさない。他者がどうであれ、自らが「謝罪に値する」と考えれば謝罪すればよく、そう思わなければしなければよいのだ。それは自らの認識と評価の問題である。その上で「欧米列強も過去の行為に関しては、日本同様に公式に遺憾の意を表するべきだ」とコメントするのは一向差し支えないし、むしろそうするべきだろう。

(なお、かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」と今なお強弁する人もいるが、こんな欺瞞に満ちた綺麗事を言うのはやめてほしい。もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。「欧米の真似をして植民地が欲しかった」と正直に言った方が、余程話が簡単になる)

2.当時の日本が韓国を支配下におさめようとしなかったら、ロシアがそうしたであろう事は勿論だろう。しかし、当時の韓国の主権者がそれを望んだのだとしたら、それが結果として韓国の民衆の為になったかどうかは別として、それを尊重すべきというのが道義的には妥当である。
当時は「民主主義」は普遍的な価値観としては未だ確立されていなかったので、「絶対君主が民衆の利益を害している事が明らかなら、周辺国がその事態を正そうとするのは道義的に妥当」という論議は、誰が「民衆の利益」についての判断をするかが明確でないので、容易には受け入れられないだろう。

現在でも、「他国の主権尊重の原則」に優先するのは、「自国の主権に対する侵害」「自国の安全への直接的な脅威」「国際法への明確な抵触」「人道と人権の侵害」「核兵器、生物兵器の拡散の可能性」位である(「民族自決原則の侵害」は微妙なところ)。また、これらの理由があっても、実力行使に至るまでには、国際連合等の場での誠実な協議が求められている。

しかし、この議論に関連してそれ以上に問題なのは、「ロシアの支配より日本の支配の方が良かった筈」という「日本人の立場からの決め付け」をする「独断的な姿勢」である。そんな事は、日本人ではなく、当の韓国人が考える事だ。

成る程、「支配層だけと手を結んで、ひたすら民衆からの収奪だけを考えただろう当時の帝政ロシアの支配」よりは、「資本主義に目覚めつつあった日本の支配」の方が、経済的には韓国にプラスとなったかもしれないが、人間は経済のみによって生きるものではない。

日本人の優越性を露骨に前面に打ち出して、一方的な同化政策を推進し、先祖伝来の姓を捨てさせたり、神社への参拝を強制したりする日本よりは、そんな事には関心のないロシアのほうが、韓国人にとっては「誇りを傷つけられる」事がないだけ良かったかもしれないではないか。

3.これは簡単な問題で、条約の形式的な合法性などには、誰も関心を持っていない。誰がやろうと、外部からの批判を受けぬよう、形式を整えるのは当然の事だからだ。武力による威嚇をもってすれば(場合によれば反対者を事故を装って謀殺したり、或いは決定的な場面に居合わせる事が出来ないように幽閉したりすれば)このような形式を整える事は比較的容易である(アメリカのハワイ併合条約も、反対者だった女王を監禁する事によって締結が実現したと聞いている)。

以上、私がこの問題に殊更熱心なのには理由がある。自己本位で、「相手の心情を推し量ろう」等という考えはさらさらなさそうな「国粋的(国家主義的)な人たち」の、過去を引き摺った「上から目線」の「論の立て方」と「言葉遣い」に、心底辟易しているからだ。この人たちの存在は、日本が「公正で偏らない判断をベースにした是々非々の議論」を行い、近隣諸国との友好関係を確立する事の阻害要因になっている。
http://agora-web.jp/archives/1565424.html

26. 中川隆[-13593] koaQ7Jey 2018年11月14日 14:46:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20665] 報告
安倍首相が「徴用工でなく労働者」と言い換えを命じても強制労働の歴史は消せない! 麻生家の炭鉱は「朝鮮人地獄」と…
https://lite-ra.com/2018/11/post-4368.html
2018.11.14 安倍「徴用工でなく労働者」と言い換えも麻生家の炭鉱は「朝鮮人地獄」 リテラ

     
朝鮮人徴用工虐待は麻生財務相の一族経営の炭鉱で!(自由民主党HPより)


 いわゆる徴用工問題で、安倍政権が歴史修正主義的攻勢を強めている。先日、韓国の大法院(最高裁)が、植民地時代に強制的に動員された元徴用工にたいして新日鉄住金の賠償を命じる判決を下したが、安倍首相の「ありえない判決」「請求権協定で解決済み」なる大号令のもと、新聞やテレビ、週刊誌などの国内メディアは口を揃えて猛批判。これに乗じて政府は原告らの呼称を「徴用工」から「朝鮮半島出身労働者」に統一した。

 安倍首相は1日の衆院予算員会で、「当時、国家総動員法上、国家動員令には『募集』と『官斡旋』『徴用』があったが、実際、今回の裁判の原告は(徴用でなく)全部『募集』に応じたため、『朝鮮半島出身労働者問題』と言いたい」と述べた。河野太郎外相も「原告は徴用されたのではなく『募集』に応じた人だ」と強調している。

「徴用工」という言葉がもつ“強制性”のイメージをかき消そうとの狙いは明らかだろう。

 たしかに、戦前の労務動員計画と国民動員計画に基づく朝鮮半島からの動員は1939年からの「募集」と1942年からの「官斡旋」、そして1944年の「徴用令」に分類される。ようするに、安倍首相らは「この元徴用工と呼ばれている原告らは民間企業が募集し、自由契約によって日本での労働を選んだ人たちであって、日本政府の命令ではない」と印象づけたいわけだ。

 完全なる詭弁だ。そもそも「募集」の実態は「民間企業が自由に朝鮮人を集めて日本に連れてきた」というようなものでは決してない。その手続きは、各企業から申請された「移住朝鮮人」の数を厚生省が査定し、内地からの指示で朝鮮総督府が自治体に割りふり、その指定を経て、現地の日本人警察官らと一体となって行うというもの。朝鮮人の労務動員は、大日本帝国政府の方針に従い、明確に当局が管理した“国策”に他ならなかった。

 また、政府が「募集」形式から「官斡旋」(42年実施)に移行したもっとも大きな理由は、事業主を各企業から事実上の官製組織である「朝鮮労務協会」とするなど、動員手続きの簡略化だった。当時、日中戦争の長期化と緊迫する国際情勢を目の当たりにしていた政府は、炭鉱や軍事関連施設での労働力を補填するための迅速な動員を望んでいたのである。そして、アジア太平洋戦争で消耗するなか、戦争継続と軍事物資増産を目的に1944年、国民徴用令による「徴用」を朝鮮半島でも実施し、強制連行を強化したわけだ。

 いずれにせよ、「募集」「官斡旋」「徴用」の形式に限らず、これらはみな政府の正式な方針に基づき、当局管理下で行われた動員であって、さも「自由契約によって日本で働いただけだ」とするような安倍政権の主張は誤りであり、歴史修正主義と断じざるをえない。戦時中の朝鮮人の動員に詳しい外村大・東京大学大学院教授は、著書『朝鮮人強制連行』でこのように指摘している。

〈徴用実施以前において朝鮮総督府、内務省、雇用企業の関係者自身が「強制的」「拉致同然」と言うような要員確保は行われていた。また労務動員実施の初期の段階では、経済的な理由から離村を希望していた朝鮮人が日本内地にやって来たことは事実であるが、これも日本政府の国策が背景にあること、職場の移動を禁止されていたこと、就労期間延長が強いられ、戦争末期まで炭鉱等での労働を続けていた場合には徴用された扱いとなっていたという事情がある。これらの点から、一九三九〜一九四五年度の労務動員計画・国民動員計画によって日本内地の事業場に配置された朝鮮人のすべてが、なんらかの意味で強制力を持つ日本国家の政策的関与のもとで動員されたと言うべきである。〉

■麻生財務相の一族経営の炭鉱で行われていた朝鮮人徴用工虐待

 ところが、新聞やテレビ、週刊誌などの大手メディアは、こうした政権による見え見えのプロパガンダに対して、批判はおろか追及する素振りすらみせない。繰り返すが、安倍政権の“代弁者”のように韓国政府や韓国司法を攻撃し、ネット右翼を煽り、元徴用工を貶めるような報道を続けている有様である。

 それどころか、マスコミはもっと重要なことすらネグっている。それは、当時、連行された徴用工たちが、どのような目に遭わされたのかという歴史的な事実だ。

 前述したように、朝鮮人たちのほとんどは、石炭鉱業や軍需関連工場に送られ、財閥系の炭鉱を中心に、暴力による強制労働や過酷な環境での生活を余儀なくされた。ここでは、当事者の証言からいくつかの例を具体的に紹介しよう。

 たとえば、福岡県の麻生鉱業だ。現在の麻生太郎財務相兼副総理の出身でも知られる麻生家は、もともと炭鉱で巨大な財を築き上げた。厚生省の集計によれば、1939〜45年にかけて麻生鉱業へは少なくとも1万623人が連行された。麻生系の炭鉱では「朝鮮人地獄」と呼ばれるような光景が広がっていたという。

 複数の元朝鮮人徴用工の証言によれば、麻生系の赤坂炭鉱では、朝鮮人寮の周囲は針金のついた板壁で囲まれており、監視所と番人に見張られて外部との面会もできなかった。労務事務所には留置所のような監獄部屋があったという。坑道内は暑く、臭気がこもった。日中戦争が始まると扱いは酷くなり、休みも認めず、逃亡したりサボったりした坑夫は木刀やベルトなどで殴打されるなど、暴力的な強制労働が行われたという。

「官斡旋」の時代には、このような証言もある。隔離された朝鮮人寮で朝の5時に起こされると、広場で点呼を受け、君が代などの斉唱が行われた。6時に入坑し、夜の9時までの15時間労働だった。「これから敵のトーチカを攻撃する。突撃進め!」と坑口に追い立てられた。労務係は見せしめに死ぬほど叩き、給与は強制的に貯金され、故郷への送金は最初の200円が送られただけだった。労務係に糾すと、逆に木刀で叩かれた。

 事故や激務による重症も、本人の不注意とされたり、もみ消しが行われたという。朝鮮人への傷害致死事件も起きた。赤坂炭鉱での複数証言によれば、1944年秋、第二直轄寮の労務が飲酒の上で朝鮮人を虐待して、事故死に見せかけるために線路上に放置した。その遺体を発見した朝鮮人たちは激怒し暴動を起こした。朝鮮人の数名が逮捕、強制送還された一方、労務への刑事罰はなかったとされる。逆に、抗議した朝鮮人のリーダーが検挙され、憲兵隊が監視するようにすらなったという。

■世界遺産「軍艦島」でも…「汁かけ飯一杯で栄養失調」「脱走者に拷問」

 もちろん、こうした強制労働の悲惨な実態は麻生系炭鉱だけの話ではない。たとえば、三菱系の長崎・崎戸炭鉱では、朝鮮人はガスが多く崩落の激しい現場に送られた。食堂の内側にある小部屋でリンチされ、鞭を打たれた。労務係に抗議したら半殺しにあった。釘を打った板の上に正座させられ、軍靴で蹴り上げられ、ケーブル線で殴られたなど、連行された複数の朝鮮人徴用工たちによる証言が残っている

 もうひとつ、長崎の端島(通称、軍艦島)での元徴用工の証言もあげておきたい。周知のように軍艦島は、2015年に安倍首相の肝いりでユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれている。

 1943年に14歳で連行された崔璋燮さんは、高等国民学校での木銃の訓練の最中、いきなり捕まえられて益山の郡庁に連れて行かれた。翌日、汽車で釜山へ運ばれた。釜山からは原田という名前の日本人よって船で博多まで引率され、長崎に向かい、再び船に乗せられて着いたのが端島だった。「端島がどんな所か何も話さず、無条件に良い所だと騙して、あの手この手で逃亡を防ぎながら連行した」という。2010年の市民団体関係者によるインタビューのなかで、崔さんは端島での強制労働や生活をこう語っている。

「石炭を掘り出す仕事、採炭だ。わずか一週間だけ採炭現場を見学させて、仕事に就かせた。一番方、二番方、三番方というふうに三交代で一日一六時間労働のときと、二交代で一日一二時間労働のときとあった。一度に四〇人ずつ、坑口から三、〇〇〇尺もの地下にものすごいスピードで降下して、身の縮む思いがした。現場は暑くて汗だくなので、一年中、褌一丁で働いた。(中略)汁かけ飯一杯食っただけで長時間働くのだから、みんな栄養失調状態になった。仕事が終わって、七メートルはある防波堤の上に毛布を敷いて体を休めていると、脚が痙攣を起こした。『俺、死にそうだ』という呻き声も聞こえた。しかも賃金をもらったことはない。私の記憶は確かだ」

「(島から脱出した人は)いたけれども、ひどい目に遇った。木浦や井邑の水泳が上手な人たちが丸太で筏を作り、海を渡ろうとしたが、途中で疲れ果てて捕まったり、陸地まで行って捕まった人もあり、ゴムのチューブで皮膚も剥げるほど叩かれた。悲鳴を聞いて駆けつけた私たちの目の前でさんざん拷問された。六七号棟のところに当時あった空き地でのことだ。大体一一名ほどで、彼らは投獄されたらしく、島からいなくなった」

「(端島を世界遺産にすることについて聞かれ、)端島がわれわれにとってどんなところだったと思っているのか。騙して強制連行して、こき使い、人間として行きられないところだったのだ。四面海で逃げ出すこともできず、自分自身を放棄して、生きた心地がしなかった。人生を台無しにされた。あの地獄は忘れようとしても忘れられない」

■徴用工問題と安倍政権の入国管理法改正には共通点が

 朝鮮や中国から連行された徴用工たちは、給与や生活環境、割り当てられた現場の危険性などで、日本人よりも劣った差別的待遇を強いられることが多かった。徴用工問題は、植民地支配と侵略戦争をめぐる問題であると同時に、差別意識に根ざした「外国人」労働問題の側面がある。

 実は、これはいま、安倍政権がゴリ押ししている、外国人労働者の受け入れを拡大する法案=入国管理法改正にも関係している話なのだ。

 言っておくが、強引に繋げているわけではない。周知の通り、国会では、入国管理法改正案の内容が極めて曖昧であることや、外国人たちの生活支援等の整備がおざなりであることが追及されている一方で、ネトウヨなどの右派からも「移民政策だ」として批判の声があがる。安倍首相は「深刻な人手不足に対応するため」などとその緊急性をアピールするが、現実には、労働者が集まりにくい業種に低賃金で外国人を使いたい財界の要望だ。

 この状況は戦前の日本に重なっている。実際、1930年台の終わりに日本政府が戦時労務動員の方針を策定する以前は、朝鮮人の渡日は政府の手で抑制されていた。そして国内世論のなかにも、日本が植民地支配をしている朝鮮の人々への恐怖から「労働者としての受け入れ」を拒絶する風潮があった。ここから日本政府が朝鮮人などを労働力として動員していった流れについて、前述の外村教授はこのように説明している。

〈朝鮮人渡日抑制方針が存在したなかで、その緩和を求め、朝鮮からの労働力導入に積極的であったのは石炭産業の経営者だった。そうした動きはすでに日中戦争開始前に存在していた。言い換えれば、戦争による絶対的な労働力不足のなかで、もはや他に選択肢がないとして朝鮮からの労働者導入が要望されたわけではないのである。
 この段階で石炭産業が朝鮮に労働力を求めたのは、その経営のあり方が関係していた。炭鉱では、機械化による生産性向上ではなく、人力に依存しての石炭の採掘が続けられていた。そこでは、できるだけ安い賃金で働く労働力の確保が経営のカギとなった。そして、福利厚生や安全対策、賃金をはじめとする労働条件の改善を図ることで労働力を集め、熟練労働者を留めおく施策は行われず、したがってそれゆえに労働者の確保がますます困難になるという悪循環に陥っていた。〉

 戦時下において、朝鮮人は日本政府の方針で強制的に動員され、日本人とは異なる差別的な環境で働かされた。だが、外村教授は〈これは日本帝国のマジョリティたる日本人がマイノリティの朝鮮人を犠牲にすることで恵まれた立場にいたということを意味するわけではない〉と指摘する。〈むしろ、朝鮮人の存在によって日本人民衆に対する抑圧もまた続けられていたと見ることが可能であ〉り、〈そのような状況をマジョリティが自覚し改善し得ずにいたことが、朝鮮人強制連行のようなマイノリティに対する加害の歴史をもたらしたのである〉と。

 徴用工問題を通じて振り返るべきは、日本の植民地支配における朝鮮人への差別的扱いはもちろんのこと、政府が奴隷的な労働を担う人々をつくりあげることで、それ以外の人たち待遇を改善しなかったという事実である。安倍政権の歴史修正主義が塗りつぶそうとしているのは、朝鮮半島への加害事実だけでない。メディアもわたしたちも、そのことに気がつかねばならない。
(梶田陽介)

■主な参考文献
『朝鮮人強制連行』(外村大/岩波書店)
『調査・朝鮮人強制労働@炭鉱編』(竹内康人/社会評論社)
『〔増補改訂版〕軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶』(長崎在日朝鮮人の人権を守る会・編/社会評論社、文中で引用した崔璋燮さんの証言は同書に収録されている)
『労働力動員と強制連行』(西成田豊/山川出版社)
『朝鮮人戦時労働動員』(山田昭次、古庄正、樋口雄一/岩波書店)

27. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年11月16日 08:01:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20773] 報告

2018年6月1日
「解決済み」の徴用工問題で誤解が多い理由
澤田克己(毎日新聞記者、元ソウル支局長)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12997

 韓国の労働団体が釜山の日本総領事館前に設置しようとしていた徴用工の像が当局によって撤去された。対北朝鮮政策で日本の協力を得ることを優先させ、日韓関係を適切に管理していくという文在寅政権の基調が維持された形だ。日本との外交問題に発展することを避けた妥当な判断である。


撤去される徴用工像(写真:YONHAP NEWS/アフロ)

 ただ、この問題では「元徴用工の個人請求権が消滅しているのか」という肝心のポイントで誤解が多いようだ。個人請求権が残っているというのは、実は日本政府が国会答弁でも繰り返し表明してきた公式見解である。一方で、1965年の国交正常化時に締結された日韓請求権協定によって「解決済み」という立場を日韓両国政府は共有してきた。この「個人請求権は残っているのに解決済み」という分かりにくさが誤解を生む元凶だろう。なぜ、そんなことになっているのだろうか。

ちゃぶ台返した後、判断先送りに転じた韓国最高裁

 戦時中に日本企業の工場などに動員された元徴用工は、未払い賃金の支払いなどを求めて裁判を起こしてきた。日本では2007年に最高裁で原告敗訴が確定し、韓国で起こした裁判でも各地の地裁、高裁で原告敗訴が続いた。ここまでは日韓両国政府の立場を裁判所が支持してきたということであり、外交的には問題となりようがなかった。

 状況を変えたのは、韓国大法院(最高裁)が2012年に原告敗訴だった高裁判決2件を破棄差し戻しとしたことだ。新判断の理由は「日韓両国が植民地支配の合法性について合意しないまま協定を結んだ状態で、日本の国家権力が関与した反人道的な不法行為や植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権が請求権協定で解決されたと見ることは難しい」とされた。

 日本は強く反発した。韓国外交通商省(現外務省)報道官も記者会見で「韓国政府の立場は一貫して維持されており、変わりはない」と答えたものの、裁判所の判断を行政府が批判するわけにもいかず頭を抱えてしまった。

 ソウル高裁と釜山高裁で2013年に下された差し戻し審判決は当然ながら原告の逆転勝訴となり、被告の日本企業側が改めて上告した。韓国大法院はすぐに確定判決を出すかと思われたが、いまだに判決を出していない。このまま確定させたら日韓関係に重大な悪影響を及ぼすことが分かったけれど、自らの判断を否定するのも難しいというジレンマに陥って判断を先送りしていると考えられている。


準備不足の答弁で日本側に疑念を持たせた文大統領

 昨年5月に就任した文在寅大統領は、日本に対して歴史認識問題で厳しいというイメージを持たれていた。実際の政権運営ではそこまで強い思い入れを感じられないのだが、先入観というものは怖い。日本では現在も、対日強硬派というイメージを持っている人が少なくない。

 ただ、日本側の反応をきちんと考慮しないまま「思いつき」のような発言をする傾向は見られる。これは文氏に限った話ではなく、韓国の国力が強くなったという自意識の裏返しで日本を軽く見る風潮が広がっているからだろう。

 徴用工問題に関する当初の文氏の発言は、そうした韓国社会の雰囲気を見せる典型的なものだった。

 文氏は昨年8月15日の「光復節」演説で、慰安婦問題と徴用工問題を並べて「未解決の問題」として取り上げた。さらに同月17日の記者会見では、慰安婦問題が請求権協定で解決されていないと述べたうえで徴用工問題に言及し、「徴用された強制徴用者個人が三菱をはじめとする相手方の会社に対して持つ民事的な権利はそのまま残っているというのが韓国の憲法裁判所や大法院の判例です。政府はそのような立場から歴史問題に臨んでいます」と語ったのだ。

 慰安婦問題についても2015年の日韓合意で解決済みとせざるをえないはずなのだが、それは置いておくとしても、そもそも慰安婦問題と徴用工問題を同列に語ること自体が韓国政府の立場を逸脱するものだった。韓国政府は盧武鉉政権だった2005年に請求権協定の効力について再検討を行い、慰安婦問題と在韓被爆者、サハリン残留韓国人という三つの問題には協定の効力が及ばないという判断を下した。その時に、徴用工問題については協定で解決済みと再確認しているのだ。

 しかも憲法裁判所は2015年12月、元徴用工の訴えを「憲法訴訟の対象にならない」と却下している。

 文氏が2012年に出した著書では慰安婦訴訟と徴用工訴訟を混同しているような記述もあった。文氏は記者会見から1週間後に行った安倍晋三首相との電話協議では、「請求権協定で解決済み」という立場を再確認した。記者会見との整合性を意識したのか、「国家間の問題解決とは別に、個人と企業の間での個人請求権は存在するというのが韓国大法院の判断だ」と付け加えたという。

 その間の経緯を考えれば、記者会見では準備不足の即興答弁をしたように思われた。私は同僚から「一国の大統領となれば発言は重い。これから徴用工問題で日本に責任を取れと迫ろうというロードマップを描いた上での発言のはずだ」と言われたが、とてもそこまで考えているとは思えなかった。その時に効果的な反論を見つけられなかったのだが、ある韓国専門家の大学教授には「そんなのトランプ大統領を見てみろ、と言えばいいじゃない」と笑われた。トランプ氏ほどではないにしても、文氏の日本関連の発言は軽いのである。

 なお記者会見を報じた日経新聞は、2005年の再検討について「当時、大統領首席秘書官だった文氏は政府委員メンバーだった。17日の記者会見ではその点に関する見解をただされたが、答えなかった。」と書いた。私の周囲にはこの記事を真に受けて「文氏が痛い点を突かれたのに、だんまりを決め込んだ」と受け止める人がいたが、それは事実と異なる。そうした読後感を持つ人が多かったとしたら、誤解を招く困った記事だったと言えるだろう。質問者は再検討が行われたことを踏まえた回答をしてほしいと求めたものの、文氏が再検討チームに入っていたことには触れていなかったのである。


日本政府の理屈は「請求権はあるが、救済はされない」

 では日本政府の立場というのは、どんなものか。

 日本政府は、(1)請求権は消滅していない、(2)国家によって国民の権利が守られるという外交保護権は消滅した、という立場を取っている。

 背景にあるのが、日本国民が連合国軍の空襲などで被った被害への補償問題だ。

 日本政府はサンフランシスコ講和条約での日本国民の連合国に対する請求権放棄について、「外国における国民の権利を保護しないという消極的な決定をしただけだ」と国会で答弁している。対米請求権を放棄した日本国に原爆被害への補償を求めた被爆者訴訟でも、同様の論理で国に補償義務はないと主張した。日本政府はその後、個人の請求権は消滅していないが、相手国・国民がこれに応じる法的義務は消滅しているので「救済されない権利」であるという説明をするようになった。

 日韓請求権協定で個人請求権が消滅していないという解釈は、これを踏襲している。日本国民に補償しないですむように考えられた論理が、韓国人にも適用されたということだ。

 外務省の柳井俊二条約局長は1991年8月の参院予算委員会で、日韓請求権協定と個人請求権の関係について明確に表明している。

 柳井氏は「日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。(中略)これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます」と述べた。

 さらに安倍政権下でも、岸田文雄外相が2013年11月の参院外交防衛委員会で「日韓請求権、そして経済協力協定の下では、個人が裁判所に対して個人として訴えを提起すること自体は妨げられていないものと理解をしています。しかしながら、この協定に基づきまして、このような個人の請求権は法的には救済されないということになる」と答弁している。

 どちらにしても「請求権協定で解決済み」という結論が変わるわけではない。韓国大法院がこれを否定する判決を出すのなら、日韓関係は最悪の状況に陥ることになる。多くの日本企業に直接の影響を与える問題であるだけに、日韓の経済的関係にも重大な悪影響を及ぼすことは目に見えている。

 そんなことになっては困るのだが、一方で思い込みだけで「個人請求権が残っているという文大統領はけしからん」と息巻いても仕方がない。もっと冷静に事実関係を見極める姿勢が大切だろう。

28. 中川隆[-13623] koaQ7Jey 2018年11月24日 08:31:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21052] 報告
現在の「技能実習生」の扱い方を見れば、かつての「徴用工」や「慰安婦」の実態も容易に想像できる(読む・考える・書く) 2018-11-17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/17/134003

日本で働く外国人技能実習生の悲惨な実態が次々に明らかになっている。

ある寺院には、2012年以降に死亡したベトナム人の若者たちの位牌だけで81柱が並んでいる。

https://www.asahi.com/articles/ASLBF53B0LBFUTIL00J.html
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 東京都港区にある寺院「日新窟」。棚の上に、ベトナム語で書かれた真新しい位牌がぎっしりと並ぶ。2012年から今年7月末分までのもので81柱。この寺の尼僧ティック・タム・チーさん(40)によると、その多くが、20、30代の技能実習生や留学生のものだ。今年7月には4人の若者が死亡。3人が実習生、1人は留学生で、突然死や自殺などだった。

 7月15日に自殺した25歳の技能実習生の男性は、会社や日本に住む弟、ベトナムの家族に遺書を残していた。塗装関係の仕事をしていたが、「暴力やいじめがあってつらい」とつづられていた。「寂しい。1人でビールを飲んでいる」と弟に電話があった翌日、川辺で首をつっているのが見つかった。
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もちろんこれは氷山の一角に過ぎない。ベトナムでは、現地の日本大使館書記官が、技能実習生制度は「ベトナムの若者の人生をメチャクチャにしている」と警鐘を鳴らすほどの事態に至っている。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241236/1

さらに、今年前半の半年だけで4,279名の技能実習生が失踪。

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長妻昭氏「外国人技能実習生、失踪者は今年1〜6月までで何人いるか」
山下法相「4279名です」
長妻昭氏「これ、異常ですよ。逃げた方が悪いのか。私はそう思わない。逃げざるを得ない。こういう現状を放置して新たに外国人労働者を受け入れる。非常に無責任だ」#kokkai #国会中継 #国会2018
— shinkai10911 (@jubilee0710) 2018年11月1日
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失踪の背景には、最低賃金以下の異常かつ違法な低賃金、職場での差別やいじめ、暴力(性暴力含む)の横行がある。

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https://t.co/6VQe6M5DBe"茨城県のシソ生産農家が中国人女性の技能実習生(25)に深夜2時3時まで時給300円の深夜残業を強いただけでなく、セクハラ行為を働き、実習生側から未払い賃金などの賠償を請求されている。この裁判で被告訴訟代理人を務めているのが丸山議員"
— 外教 (@yuantianlaoshi) 2016年2月24日
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東京新聞1面。技能実習生たちの証言。

・飛び降り自殺を図った中国人女性「職場でいじめに遭いました。仕事を頑張っても認めてもらえない」「今、うつ病の治療を受けています」

・指を切断し治療費の自己負担と帰国を求められた中国人男性「けがをしたら、なぜ帰らないといけないのか」 pic.twitter.com/sM39kAjh6Z
— 望月優大 (@hirokim21) 2018年11月8日
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しかも、在留資格の制約で技能実習生には転職の自由がなく、過酷な職場から逃げようとするとそれ自体が違法行為となり、入管収容→強制送還となってしまう。

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外国人技能実習生にも最低賃金は適用されるから、300円は当然違法ですよ。問題は、外国人がその違法な企業での実習を辞めて自分で転職すると、それ自体が別な違法行為(入管法違反)になり日本から追い出されてしまうということです。 https://t.co/rJOAmLSfEd
— Shin Hori (@ShinHori1) 2018年11月9日
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ブラックな実習先にあたった技能実習生は転職の自由もなくまずその実習先に閉じ込められる。

実習先から逃走して在留資格を失った元実習生は次に入管に摘発され収容所に閉じ込められる。

これだけ転職の自由やジョブマッチの大切さが語られる時代に「人手が足りない」だけで残していい制度ではない。
— 望月優大 (@hirokim21) 2018年11月9日
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「外国人技能実習制度」の実態は、「我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力する」(by厚労省)などというご立派な建前とはまるで違う。これは、弱い立場の外国人を、搾取されても逃げることのできない安価な労働力として企業や農家に供給する現代の奴隷制度にほかならない。

その背景には、自分たちより「遅れている」と見なすアジア諸国の人々への、日本人の根深い差別意識がある。

そういえば、安田浩一氏の著書『差別と貧困の外国人労働者』の中に、次のような印象的な一節があった。[1]

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 本文へ入る前に、結論めいたことをひとつだけ述べたい。
 外国人労働者の姿、置かれた環境は、その国(受け入れ国)の民度を測る重要なモノサシになるのではないか、ということだ。少なくとも私は、外国人労働者が漏らすため息と憤りの言葉から、あらためて「日本」を思った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

敗戦による「民主化」から70年以上が経っても、なおこのザマなのだ。「人権」など問題にもされなかった戦時中における「徴用工」や「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)たちへの扱いがどのようなものだったかは、容易に想像できる。

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徴用工が高給取りだっただの、相変わらず汚物のようなデマが湧いてきているが、教育実習生を時給数百円で搾取したうえに、住居費だ制服代だのとハイエナのようにむしり取る今の日本をみてれば、一瞬で出鱈目だと分かりそうだけどな。
— ペロンパー (@klezmer722) 2018年11月1日
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「日本の外で甘言で騙して若者を集めて、連れて来たら日本人でないことを利用して好き放題に搾取する」ってやり口、従軍慰安婦から技能実習生までこの国の常套手段なんだよな。そうやって日本がアジアに振り撒いた被害の事実はその後何十年にわたって日本への不信と摩擦を生み続けてる。
— シュナムル (@chounamoul) 2018年11月3日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

[1] 安田浩一 『差別と貧困の外国人労働者』 光文社新書 2010年 P.7
 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%83%9D-%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%A8%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/433403568X

29. 中川隆[-13195] koaQ7Jey 2019年1月05日 17:59:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告
>>20
>20. 2017年5月30日 19:21:00 : 06kLSSsAaY : R7e4CyN@Fko[1]
>5.朝鮮女性を性奴隷にした
リンク先を読んでも「性奴隷」の話などなかったですよ
日本軍が朝鮮人を「性奴隷」にした証拠はありません。
逆に慰安婦が戦時売春婦だった証拠は山のようにあります。
>この矛盾をどう捉えてるのかしら。


答えはここに纏めておきました:

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html


30. 中川隆[-13076] koaQ7Jey 2019年1月11日 19:26:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020


子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。

そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母­親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・


慰安婦強制連行は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。

女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。

「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」

と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。

 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・

女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。

____


日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。

http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm


『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』


耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/


日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。

ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。
 
私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。

弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。

私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。

私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。

私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。

あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。

それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 

ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に

「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」

と言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。

そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。

私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。


  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。

私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。

私はここの「慰安所」に8年間いました。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。
http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html


日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:


A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で

『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』

と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm


朝鮮人「慰安婦」の証言


12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。


○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした


 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101200.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/


拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html


12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。


○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首


 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。


 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
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使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
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チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。


○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました


守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html
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ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2


李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。


十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。


 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。


 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。


 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。


 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/



▲△▽▼


従軍慰安婦強制連行 _ 吉田清治の話はやっぱり事実だった

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

31. 中川隆[-13073] koaQ7Jey 2019年1月11日 21:07:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

日本は多民族国家で

縄文系日本人と弥生系日本人は温かく優しいが社会の底辺層

日本の支配層になった朝鮮からの渡来人は残虐で極悪非道

なんですね。戦争中に滅茶苦茶やったのは朝鮮からの渡来系日本人でしょう。

____


弥生人は長江から来たが、極少数ですぐに縄文人の嫁を貰って混血した

縄文人も弥生人も二重瞼

一重瞼の朝鮮人は弥生後期から昭和まで連続して日本に移民して来た:


大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html

●日本人Y-DNAハプログループ比率 (2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

D1b--32% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1b2-32%(旧表記O2b): 長江の稲作民・弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O2---20%(旧表記O3) : 漢民族、縄文人・長江の稲作民・弥生人と混血していなければ一重瞼

C2----6% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

C1----5% : 縄文人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1b1--1%(旧表記O2a): 長江の稲作民・弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

O1a---1% : 長江の稲作民・弥生人、漢民族と混血していなければ二重瞼

N1----1%

D1a,Q1--1%未満


▲△▽▼


詳細は

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

32. 2019年1月11日 22:48:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

朝鮮からの渡来人は冷酷で極悪非道だった

在日の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記

北九州監禁事件では


大便排泄を1日1回に限定し

全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した

勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った

一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります


朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります


殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


【尼崎大量殺人】角田美代子4【コンク李ドラム缶死体】


角田美代子

これだけの凶悪事件を起こした重大犯罪人にしては、こいつの過去が一つも晒されていない。

犯人が日本人の場合は、親戚、何十年も前の同級生、会社関係、全てを晒して追及するハズ。

主犯格に韓国籍の李正則がいることから在日犯罪である事は間違いない。
報道機関、特にテレビメディアは印象操作や犯人隠避の罪で放送免許を剥奪するべき。


民事不介入を盾に見て見ぬ振りをしてきた警察もだらしないけど
所謂『被差別者』に対して強行な捜査をすると、人権派やマスコミがうるさいんだよね
こういう事件が発生するようなシステムが着々と作り上げられてきた


日本人なら微罪でも逮捕するのに、ZやBなら殺人などの重罪でも野放しって
なんかおかしくない?

この国は異常だと思う。


自分が住む部屋でよく殺すよなあ
その辺の神経がやっぱり日本人じゃないって感じ


一部報道では、女性親族が

「女の私からは言えないような猥褻な格好をさせられていた」

と言っていたな。


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、

「私は、松永の性奴隷です。松永のチンポが欲しくてたまりません」

と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。


尼崎のコンクリート殺人で捕まってだいぶたってるのに主犯の情報がほとんどでてこない

いつもなら犯人の過去を喜んで暴くマスゴミに在日か同和団体から圧力がかかってるのだろう

もう法律で本当の国籍、本名で報道するようにしないといけないな


☆在日につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/96a6656d746c7425de9a2d31c0b09e19


北九州一家監禁殺人事件では、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、

「私は、松永の性奴隷です。松永のチンポが欲しくてたまりません」

と何回も言わせていたらしい。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1350881970/

33. 中川隆[-13069] koaQ7Jey 2019年1月12日 08:00:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

戦前・戦中の軍隊・官僚の上層部、政治家、資産家、貴族、皇族は全員朝鮮からの渡来系日本人だった

南京大虐殺や慰安婦強制連行をやらせたのも朝鮮からの渡来系日本人という事になります。

在日朝鮮人は戦後 GHQの分断統治政策で日本の中枢を支配する様になりましたが、実は戦前・戦中もその前も日本の支配階級は一貫して朝鮮からの渡来人だったのです。


昔の朝鮮からの渡来系日本人は農耕民(弥生人)ではありません.

朝鮮からの渡来人は元々韓国ソウルの近くに住んでいた百済の支配階級の一員で漢民族です。

最初は弥生時代後期に北九州伊都国に植民市を作って日本と朝鮮との交易で稼いでいたのですが、弥生時代末期に天孫降臨と呼ばれる征服戦争で瀬戸内、畿内の縄文・弥生人を征服・支配したのです。

朝鮮からの渡来人はその後も引っ切り無しに朝鮮から日本に移住してきて、畿内は殆ど朝鮮からの渡来人に乗っ取れ、先住民はエタ部落に押し込められ現在まで被差別同和部落民として社会の底辺の生活をしています。


詳細は


大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html

日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html

天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/103.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

日本を支配する漢民族は収奪と悪徳の限りを尽くした
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html

34. 中川隆[-13067] koaQ7Jey 2019年1月12日 08:02:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html
35. 中川隆[-13066] koaQ7Jey 2019年1月12日 08:06:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222] 報告

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html
36. 2021年1月31日 11:40:20 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[1] 報告
英米からみた日本の朝鮮支配(1)
- 戦間期領事報告を中心に -
梶 居 佳 広
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm

 

 目    次

はじめに

第一章  朝鮮と英米の関係−日本支配期を中心に

第二章  斎藤総督−「文化政治」−期(一九一九−三一年)の報告  (以上本号)

第三章  宇垣総督期(一九三一−三六年)の報告

第四章  南総督−「皇民化」政策−期(一九三六−四一年)の報告

第五章  太平洋戦争勃発後(一九四二−四五年)の報告

お わ り に


は  じ  め  に

  周知のように、日本は欧米以外で近代植民地帝国を形成した唯一の国家であったが、それは欧米の事例を摂取した「模倣」の産物であった(1)。さりながら、一方で日本の植民地支配は欧米のそれとは「似て非なるもの」とのイメージ・評価が定着しているのもまた事実である。近年、欧米研究者の間で日本と欧米植民地の類似性を踏まえた研究も進められているが、植民地帝国日本を国際比較の中で検証する作業は未だ発展途上と言わざるを得ない(2)。
  本稿は「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する作業の「手掛かり」の一つとして、戦前日本にとって最重要の外交相手であり植民地保有国でもあった「イギリス・アメリカ(以下英米と略記)が日本の最重要植民地である朝鮮支配をどう見ていたか」について、一九一九年三・一運動以降を中心に検討する。本稿で検討する時期は、併合以前や「解放」以降と比べ朝鮮に対する英米の動向に関する研究は乏しく、三・一運動や太平洋戦争の戦後構想を除くと殆ど「空白」といってよい。三・一運動については、外交史料を用いた研究があり英米は朝鮮に同情は示したが具体的支援は行わなかったとしている(3)。また戦後構想については、カミングス氏ら多くの研究があるが、これらは「英米、特にアメリカは朝鮮をどう扱おうとしたか」に関心が集中しており、当時の英米が持っていた日本の朝鮮支配観についてはあまり触れられていないのである(4)。
  さて、「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する場合、冒頭で触れたように欧米の植民地支配との共通点(同質)・相違点(異質)の検討が重要な論点になると考えられるが、ここでは日本植民地支配の特異性(とされる側面)について最小限触れておきたい。
  即ち、日本植民地帝国の特異性としては、@植民地獲得が本国と近接した「同一」文明圏への同心円的拡大であった、A植民地支配の原則が「同化(assimilation)」であったことが指摘される(5)。特にAは第一次大戦後(「同化」を原則としていたフランス(6)も含め)欧米諸国が植民地自治に傾く中で「同化」に固執したこと、また三〇年代後半の所謂「皇民化」政策は被支配者の民族性を抹殺する性格を持ち「同化」の極限とされている。なお、第二次大戦中連合国が朝鮮の日本からの分離独立を初めて公式に承認したカイロ宣言では「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものとする」という表現になっているが、宣言中の「奴隷状態」は日本の植民地支配の持つ特異性をベースにしていたといえよう。
  私もこれらの特徴、就中日本の植民地支配の原則が「同化」であった事に異論はないが、留意すべき点もあるように思われる。まず「同化」について、百科事典での定義では「ある支配民族が他の集団を自己の文化になじませようとする(政策、考え(7))」となっているが、「同化」は文化的であると同時に法的・政治的なものでもある。また、「「同化」という言葉のインフレーションにより、植民地支配の理念も実態も見えにくくなっている(8)」という意見に代表されるように、実際日本の「同化」はほぼ一貫して唱えられたため却って曖昧な概念になった嫌いがある。近年、日本の「同化」について、@法制度の次元とA文化・イデオロギー的次元を区別して検証する作業が試みられており、既に幾つか研究がある(9)。この整理で「同化」について全てを説明できるかどうかはなお検討の余地もあるが、本稿では「同化」の本来の意味として「植民地を完全に宗主国の一部として統合しようとする政策・考えであり、具体的には法制面と文化面の二つが柱となる。そして法制・文化両面の同一化によって「同化」が完成することになる」と一応定義しておきたい。勿論、これはあくまでも一般的な定義であって、実際日本が進めた「同化」はこれとは異なる側面(例えば朝鮮人に対する差別待遇の維持)があったことは出来るだけ触れていきたい。
  一方、英米を含む欧米の場合、支配者=「文明国」が「未開」の植民地を「文明化」するという、所謂「文明化(の使命)」論によって支配を正当化していた。日本の場合、植民地独立を許容する論理になりうる「文明化」は採れなかったとされるが、例えば植民地参政権を日本が拒否する際、理由としたのは「内地」と「外地」の「民度」の差であった。つまり日本も「民度」≒「文明」の差異によって植民地支配を正当化しており「文明化」論と相通じる面を持っていたといえる(10)。この場合「同化」と「文明化」は対立するものではないと考えた方が自然であろう。
  そこで本稿では、「文明化」で植民地支配を正当化した当時の英米人に「同化」を原則にした日本の朝鮮支配はどう映ったのか、また先述のカイロ宣言での「朝鮮の奴隷状態」という認識がいつ、どのように形成されたかを可能な限り後づけながら進めていきたい。
  最後に、史料その他について(11)。本稿では在ソウル英米領事報告を中心に、本国官庁報告も対象とするが、イギリスの場合「年次報告書」が朝鮮について一九二〇年から三九年まであり主にこれを用いる。アメリカの場合『国務省記録』収録報告を検討するが、年次報告がなく、かつ『国務省記録』に未収録の報告も存在する。それ故、民間論説も一部加えたいが、全体にイギリス報告を軸にアメリカ報告にも言及する方法で進めていきたい。なお、本稿は「日本の統治を英米はどう見たのか」に重点を置いており、朝鮮人の動向や政治的側面以外については十分言及できない。また、今回は英米が描く日本の朝鮮支配観の「イメージ」の概観であり、「イメージ」と実際日本がとった政策の「実態」との間には当然乖離が見られることを予め強調しておきたい(12)。

(1)  ピーター・ドウス[浜口裕子訳]「想像の帝国」(ピーター・ドウス、小林英夫編『帝国という幻想』青木書店、一九九八年)一三頁。なお本稿でいう「植民地」は法制上植民地とされる「公式帝国」をさす(台湾、朝鮮、南樺太)。
(2)  木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七四頁。欧米の研究としては R. Myers, M.R. Peattie (eds.), The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, (Princeton 1984)、マーク・ピーティー[浅野豊美訳]『植民地』(読売新聞社、一九九六年)が代表的である。
(3)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)と姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)が国務省を含むアメリカ国内の動きを触れている。ベルサイユ会議中の朝鮮人組織の活動は、長田彰文「ベルサイユ講和会議と朝鮮問題」(『一橋論叢』一一五巻二号、一九九六年)参照。欧文ではイギリス外務省史料を駆使した労作である Ku Dae−yeol, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) 等を参照。
(4)  宮崎章「アメリカの対朝鮮政策(一九四一−一九四五)」(立教大学『史苑』四一巻二号、一九八二年)、ブルース・カミングス[鄭敬謨・林哲訳]『朝鮮戦争の起源』一(シアレヒム社、一九八九年)、クリストファー・ソーン[市川洋一訳]『米英にとっての太平洋戦争』全二巻(草思社、一九九五年)、李景a『朝鮮現代史の岐路』(平凡社、一九九六年)等参照。
(5)  山本有造「日本における植民地統治思想の展開」(『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会、一九九二年)、大江志乃夫「まえがき」並びに「東アジア新旧帝国の交替」(『岩波講座  近代日本と植民地』一、岩波書店、一九九二年)参照。
(6)  ただし同じ「同化」でもフランスと日本のそれとは相違点があるとされる。例えば、矢内原忠雄「軍事的と同化的・日仏植民政策比較の一論」(『国家学会雑誌』五一巻二号、一九三七年)、ピーティー、前掲書参照。
(7)  『世界大百科事典』第一九巻(平凡社、一九八九年)五三〇頁[星野昭吉執筆]
(8)  駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)一二頁。
(9)  春山明哲「近代日本の植民地統治と原敬」(春山明哲・若林正丈『日本植民地主義の政治的展開一八九五ー一九三四年』アジア政経学会、一九八〇年)、山中速人「朝鮮同化政策と社会的同化・上」(『関西学院大学社会学部紀要』第四五号、一九八二年)。山本有造、前掲書と駒込武、前掲書も参照のこと。
(10)  木畑洋一「イギリスの帝国意識」(『大英帝国と帝国意識』ミネルヴァ書房、一九九八年)参照。
(11)  史料について。イギリスの場合、日本並びに「植民地」の「年次報告書(Annual Report)」を集めた『駐日英国大使館報告資料集成(Japan and Dependencies:Political and Economic Reports 1906-1960)』(Archive Edition, 1994)があり、@第一一巻とA第一二巻が朝鮮関係である。以下、@を Annual Report Korea 1906-1923, Aを Annual Report Korea 1924-1939, と略記する。また、未公刊史料としてイギリス外務省(F.O.)史料のうち、大使館が外務省に送った文書 F.O. 371 General Correspondence:Political があり、以下、F.O. 371 と略記。一方アメリカは「国務省記録」デシマル・ファイルの内『朝鮮の国内情勢に関する国務省記録Records of the U.S. Department of State relating to the Internal Affairs of Korea』を用いる。@一九一〇ー二九年(Internal Affairs of Korea 1910-1929. Reel. と略記)。A一九三〇ー三九年(Internal Affairs of Korea 1930-1939. Reel. と略記)。B一九四〇ー四四年(Internal Affairs of Korea 1940-1944. Reel. と略記)。公刊史料は United States Department of States, Foreign Relations of the United States があり、以下、FRUS と略記。
(12)  なお日本の朝鮮支配に関する個別研究は膨大でありここで列挙するのは到底不可能である。差し当たり文献目録として戦前分は末松保和編『朝鮮研究文献目録』(汲古書院、一九八〇年)、戦後分は朝鮮史研究会『戦後日本における朝鮮史文献目録一九四五ー一九九一年』(緑陰書房、一九九四年)、それ以降は『朝鮮史研究会論文集』巻末の文献目録を参照。

第一章  朝鮮と英米の関係 −日本支配期を中心に

  本論に入る前に、英米が朝鮮にどの程度の関係を持っていたか、また日本の対朝鮮政策に対してどのような態度を取ったかについてごく簡単にみていきたい。

一  朝鮮在留英米人
  日本支配期、朝鮮在留欧米人は千数百人であった(表1参照)。これは朝鮮の総人口からみて極めて少数であるが、欧米人の中ではアメリカ、イギリスが一九四〇年まで一位、二位を占めていた。地域的には鉱山を除くと市部に偏りソウルを含む京畿道に約五百人在住していた。なお表1で慶尚南道、咸鏡道でイギリス人がアメリカ人より多いのはキリスト教(プロテスタント系)諸宗派間で布教地域を予め設定した結果である。職業別に分類すると、一九二一年現在、一二六五人中八五四人が宣教師関係、鉱山業一九九人、商業一〇四人となっている(1)。以下、これら職業について歴史的背景も含め簡単に触れておく。
  まず宣教師であるが、英米人の多くはプロテスタントに属しており、彼らは朝鮮各地に滞在していた。朝鮮におけるプロテスタントの本格的伝来は、一八八五年長老派アンダーウッド(H.G. Underwood)と監理教アペンゼラー(H.G. Appenzeller)入国に始まる。その後諸宗派が次々に朝鮮に入り信者も激増した。即ち、一八九五年に一五九〇人であったのが一九一〇年に二二万人(プロテスタントのみ)に達し(2)、日本支配期にはカトリックも含め最大五十万人にまで増加したのである。このような信者数急増の要因として、社会情勢の影響や布教活動の成果が挙げられるがここで詳細に検討することは行わない。ただ、朝鮮ではキリスト教が民族主義の宗教としての性格を持ち抗日・独立運動の拠点にもなったことは無視できぬ事実である。他方、日本にとってキリスト教は「要注意」であるが、外交上弾圧しにくい「厄介」な存在であった。ただ欧米人宣教師についていえば、彼らは非政治的立場を取り日本の朝鮮支配についても人道的立場からの要望に止めていた(3)。
  次に、鉱山業について。日本の支配期に英米人が運営していた鉱山としては、雲山、陽徳、遂安等があげられる。これらは日清戦争後の中国で展開された「利権獲得競争」と同時期に獲得したものだが、中国と違い、朝鮮の場合鉱山が唯一といってよい利権であった。しかも一九一五年朝鮮鉱業令が制定されるなど、鉱山経営は日本による制約を受けるようになった。結局、三九年雲山売却を最後に朝鮮における英米の鉱山利権は消滅した(4)。
  第三に商業についてだが、朝鮮進出の外国企業は鉱山業を除くとスタンダード石油会社、ライジング・サンなど極僅かにすぎず、通商についても、朝鮮の場合日本本国に集中し英米の占める比率は小さかった。この傾向は併合前からではあったが、一九二〇年代日本資本主義が発展したことで一層顕著なものとなった。例えば一九三〇年朝鮮への輸入の内、アメリカは二%、イギリスは「コンマ以下」であった(輸出はゼロに近い数字である)。
  なお、日本支配期朝鮮に領事館を設置していたのは英米の他、中国、フランス、ソ連であるが、このうち英米は総領事を筆頭に数名が赴任していた。表2は英米の主な領事をあげているが、ここで領事について触れておくと、イギリスは全員が横浜、神戸、長崎など日本各地の領事を経験した「知日家」(二〇年代前半までソウル総領事だったレイはむしろ「朝鮮通」といえるが)であり、特にレイ、ロイド、ホワイト、フィップスは日本の朝鮮支配について独自の意見を年次報告の中で展開していたのに対し、アメリカはアジアとは無関係の地域から赴任した領事もおり、日本や朝鮮の知識に乏しい者が多かった(尤もアメリカの場合も、三・一運動直後には国務省極東部長のミラーを総領事に任命しているし、また三〇年代前半に活躍したデイビスやラングドンのようにソウル駐在中に「朝鮮通」となる者もいた)。彼らは当然自国民の保護が主な職務であるが、同時に朝鮮情勢について情報収集し本国に報告していた。その際「情報源」となったのは朝鮮発行雑誌・新聞、総督府刊行物、それに宣教師や役人らとの接触などであった。

 

 

 

二  日本の朝鮮植民地化・支配に対する英米の態度
  次に、日本の朝鮮植民地化(とその後)に対する英米両国の態度を概観する。この問題については既に一定の研究(5)があるので、ここでは概略的事実を触れるに止めておく。
  @  併合(一九一〇年)前
  英米が朝鮮と国交を開いたのは、日本に遅れること数年、即ちアメリカが一八八二年、イギリスがその翌年であった。以降、韓国併合まで英米は朝鮮と関係を持つことになる。
  一九世紀後半以降、朝鮮半島は国際紛争地の一つであった。しかし朝鮮に直接関心を持っていたのは日本、中国(清)−清は朝鮮に対し宗主権を有していた−、ロシアであり、英米ではなかった。イギリスは一八八五年朝鮮南部の巨文島を二年間占拠する事件を起こしたが、これはロシアを牽制するためであり朝鮮に領土的野心をもっての行動とは言い難い。アメリカについても同様である。要するに英米共に朝鮮問題は二次的なものに過ぎず、故に日本にとって朝鮮「進出」のライバルは、やはり中国とロシアであり、日本はこの両国との戦争に勝利することで朝鮮における覇権を獲得した(その間に朝鮮における抗日の動きを弾圧したことは言うまでもない)。そして日露戦争では英米は日本支援に回ったのであった。
  一九〇五年日本は韓国を「保護国」としたが、イギリスは第二次日英同盟、アメリカは「桂・タフト協定」によって日本の行動を容認した。その後、満州問題で特に日米間で利害対立が発生することもあったが、この対立が日本の朝鮮「進出」に打撃を与えることはなかった。結果、一九一〇年八月日本は韓国併合を実行したが、その際日本は欧米諸国が旧韓国政府との間で得た経済権益の十年間維持を表明し、英米両国も承認したのであった。
  なお、併合時に日本が認めたこれら経済権益は、その後日本が不平等条約の完全撤廃を成就させたこともあり徐々に消滅することになるが、これに対し英米ら欧米諸国は日本との関係を悪化させるような抵抗を行っていない。このような態度の背景としてやはり朝鮮に対する関心の低さも関係しているように考えられる(6)。
  A  併合後特に三・一独立運動(一九一九年)での対応
  韓国併合後、英米両国は日本の朝鮮支配については黙認の姿勢をとり、朝鮮独立を一度たりとも支持しなかった。そしてこの姿勢は、先に触れたカイロ宣言まで続くことになる。
  ただし、この間英米が日本の支配に対し何の行動も取らなかったわけではない。併合直後から日本の「圧政」に関する報告が領事館から本国へ時々送られ、外交問題に発展することもあった。ただしこれらはキリスト教徒や自国民の保護を目的としていた。しかし、三・一運動では英米、特にイギリスは日本に対し朝鮮統治の改善を要請したのであった。
  周知のように、三・一運動は民族自決やロシア革命、日本の圧政に対する反発を背景に、朝鮮全土で起こった文字通り全民族的運動であった。これに対して日本は軍事力を用い死者約七千五百人という血腥い方法で鎮圧した。しかし、あまりにも苛酷な弾圧、特に四月に発生した堤岩里虐殺事件をカーチス(R.S. Curcis)米国領事やロイド(W.M. Royds)英国領事らが報告することによって日本非難の声が俄に高まった(7)。

1 アメリカ
  アメリカは「民族自決」を唱えるウィルソンが大統領であり第一次大戦戦勝国でもあった。それ故、アメリカは朝鮮人の期待を特に強く受けていた。事実、三・一運動参加者にはアメリカによる朝鮮の独立回復を期待する向きも少なからずあった。しかし、アメリカ政府が朝鮮独立を支持することはなかった。国務省当局は日本を弁護する主張を行い、ソウル総領事ベルグホルツ(L.A. Bergholz)に対し「朝鮮在住アメリカ市民が日本の内政に干渉することのないように」と再三指示していた(8)。新しい国際秩序の構築に奔走していたアメリカにとって、朝鮮というアメリカから見て「些細な」問題で日本との関係を悪化させたくなかったのが本音であったといえよう。
  しかし、提岩里事件が伝わるに従い、アメリカの各新聞は日本の行為を非難する記事を書き始め(9)、議会も六月に朝鮮問題を取り上げるようになった。このような状況に対し、ロング(B. Long)アメリカ第三国務次官は七月初め出渕駐米日本代理大使と面談し、朝鮮問題に対する意見と日本軍の「蛮行」に関する説明を求め、出淵から朝鮮支配を「リベラル」なものにするとの約束を引き出した(なおロングは、国務省としては朝鮮問題は日本の内政問題と考えるが、同時に日本の残虐な弾圧は人道上由々しき問題であるとも考えていると述べている(10))。会談後、出淵は朝鮮統治改革やキリスト教徒の待遇改善などの案を原首相に送り(11)、原首相も早速キリスト教会連合会東洋委員会に「統治の改善」を約束する電文を送った(12)。その後、上院では長老派教会ら作成の朝鮮に関する報告(米国キリスト教会連合協議会報告書)が議事録に収録され(13)、「朝鮮人同情法案」が提議されるに至った(ただし未採択)。なお、米国総領事のベルグホルツについては「鮮人カ自己ノ意見ヲ公表シ民族自決主義ヲ唱ウルハ人類ノ特権ニシテ彼ラノ主張ニ耳ヲ借リセス猥リニ高圧手段ヲ採ルハ当ヲ失ワセリ(14)」と主張したとして日本側が警戒する一方、欧米人宣教師の間では日本の弾圧に対して抗議を行わず「毎ニ吾人ヲ冷遇シ一点ノ誠意ヲ認ムル能ハズ(15)」と総領事更迭要求が持ち上がっていた。そのためか、彼はこの年の秋に総領事を離任している。

2 イギリス
  イギリスも朝鮮独立を認めない立場であった。周知のように当時イギリスはエジプトやインドでの独立運動に手を焼いており、民族自決にも否定的であった。このためロイド総領事代理は朝鮮に関する報告を度々打電していたが(16)、当初政府が朝鮮情勢に関心を示すことはなかった。
  しかし、アメリカと同様提岩里事件を契機にイギリス政府も五月頃から政策の見直しを進め、七月になり元インド総督であるカーゾン(E. Curzon)外相が珍田駐英大使に対し統治の改善を要請するに至った(17)。なおこの要請の際カーゾンは外務省極東部(Far Eastern Department)のミュラー(M. Muller)作成の「朝鮮における日本の政策に関する覚書」を用いている。この「覚書」について要約すると、運動発生の潜在的要因として(1)日本の統治が朝鮮を「日本化」するものであったこと(ここでいう「日本化」とは日本人が朝鮮の全分野を独占することをいう)、(2)日本語を強制したこと、(3)日本人の入植活動への反発、4裁判の不公正さを挙げている。そして、「処方箋」として「朝鮮独立は考慮の範囲外」であるが、@武官総督を文民に入れ替える、A何らかの自治の容認、B朝鮮語を日本語と同等の扱いにする、C言論・集会・出版の自由の容認を求めている(18)。イギリスの要請は断続的に翌年始めまで続けられたが、徐々に人道上の問題に力点が変化したとされる(19)。
  以上、英米は三・一運動時日本に対し統治改善の要請を行ったが、その際アメリカよりイギリスの方が具体的な統治改善を要請していた点は興味深い事実ではある。これに対し、日本は長谷川好道総督を引責辞任させ、後任に海軍出身の斎藤実を任命し「文化政治」と称する改革に着手することになった。この「改革」については次章に委ねるが、「文化政治」への政策転換を齎した要因として原首相の持論(内地延長主義)の他に英米の要請への対応もあったことは否定できないであろう。

(1)  朝鮮総督府「在鮮欧米人氏名表」一九二一年三月(国立国会図書館憲政資料室『斎藤実文書』一一〇ー一三)。
(2)  柳東植『韓国のキリスト教』(東京大学出版会、一九八七年)四七頁。
(3)  閔庚培『韓国キリスト教会史』(新教出版会、一九八一年)、韓国基督教歴史研究所『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版会、一九九五年)等参照。
(4)  S.J. Palmer,”American Gold Mining in Korea’s Unsan District. Pacific Historical Review 31 (1962) pp. 379-391 等を参照。
(5)  山辺健太郎『日韓併合小史』(岩波書店、一九六六年)、森山茂徳『近代日韓関係史研究』(東京大学出版会、一九八七年)、長田彰文『セオドア・ルーズベルトと韓国』(未来社、一九九二年)、海野福寿『韓国併合』(岩波書店、一九九五年)等参照。
(6)  Ku Dae−youl, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) pp. 20-23.
(7)  韓国基督教歴史研究所編著[信長正義訳]『三・一独立運動と堤岩里教会事件』(神戸学生青年センター出版部、一九九八年)に領事・宣教師報告が収録されている。Ku Dae−yeol, op. cit., pp. 169-198 も参照。
(8)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)二八八頁、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、、一九七九年)七〇ー七一頁。FRUS, 1919, Vol. II, pp. 458-463.
(9)  朴慶植、前掲書、二八六ー二九一頁、姜東鎮、前掲書、七一、八七ー九〇頁。なお朴殷植[姜徳相訳注]『朝鮮独立運動の血史』二(平凡社、一九七二年)によると、一九二〇年九月までにアメリカの新聞が載せた朝鮮関係記事は九千回以上という。
(10)  B. Long,”Memorandum of Conversation with the Japanese Charge D’Affairs, July 3, 1919, 895. 001/−, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 日本側史料では6月下旬出淵は国務次官と面談し、その内容を本国政府に送っている。外務省外交資料館所蔵『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対スル論評関係雑纂』二二八頁。「内田外務大臣宛出渕代理大使報告」。
(11)  同『韓国ニ於ける統監政治及び同国併合後帝国ノ統治策ニ関スル論評関係雑纂』二三八ー二四一頁。同報告。
(12)  同『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対する論評関係雑纂』二七一ー二七三頁。「米国東洋委員部宛原敬書簡案(七月一〇日)」。
(13)  朴殷植、前掲書、一三三ー二一四頁に収録されているのを参照。
(14)  『現代史資料』二六「朝鮮」(2)(みすず書房、一九六七年)、四三四頁。
(15)  『現代史資料』二五「朝鮮」(1)(みすず書房、一九六七年)、三八七頁。
(16)  Ku. Dae−yeol, op. cit., p. 142. なおロイドの活動は日本側史料でも確認できる。『現代史資料』二六「朝鮮」(2)、三三五ー三四二頁参照。
(17)  Ku. Dae−yeol, Ibid, pp. 155-160.
(18)  Memorandum by Mr. Max Muller on Japanese Policy in Korea. July 5, 1919, F.O. 371/3818 (F106971/7293). なお、Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 149-152. も参照。
(19)  イギリス政府は一九二〇年七、八月段階で朝鮮状況は概ね「改善」したと判断している。Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 235-246, 298.

 

第二章  斎藤総督  −「文化政治」− 期(一九一九−三一年)の報告

  本章は斎藤実総督、所謂「文化政治(1)」における英米報告を検討する。厳密には、斎藤は一九二七年四月ジュネーブ軍縮会議に出席後総督を辞任し、一九二九年八月に再登板するまで山梨半造が総督であった。しかし山梨は在任二年弱に過ぎず、辞任直後に朝鮮米の取引をめぐる収賄事件で起訴されている。故に二〇年代の朝鮮支配は斎藤によって特徴づけられるといってよい。
  ところで、前述のように三・一運動に対し英米は朝鮮独立は支持しなかったが、日本の弾圧には批判的であり何らかの統治の改善を要請していた。それ故英米にとって新総督斎藤については、まずこの「要請」にどう答えたかに関心があったといえる。

一  「諸改革」とその「成果」
  斎藤は朝鮮総督に就任するや様々な「改革」に着手した。このうち英米の要請に対応するものとしては総督府官制改革、地方制度改革、教育改革等が該当する。以下、総督府も「文明政治」の基礎とした警察・教育・地方三改革に関する英米報告をみていく。
  @  残酷な刑罰廃止と警察制度改革
  まず、三・一運動弾圧の際、英米が問題視した残虐な刑罰(鞭打ち刑)廃止と警察改革についてであるが、鞭打ち刑は一九二〇年三月に廃止された。当初鞭打ち廃止に日本は慎重であったが、英米側は鞭打ちが「野蛮」な刑罰であり、また朝鮮人のみに科される事もあげ廃止を強く要求した。従って鞭打ち廃止は当然の事ながら英米共に歓迎している(2)。
  次に警察改革、即ち憲兵警察から普通警察へ、行政機構から独立した警務総監部から総督府直属の警務局への転換は、一九一九年八月官制改革の一環として実施された。この改革について、イギリスは一九二〇年報告(レイ)で「国境地帯」を除き普通警察が実施され、警官数が増加した事実を紹介しているが、警官増大の是非は言及していない(3)。そしてその後の報告では警察改革を「朝鮮統治上重要な改革」と評価している。例えばアメリカ(デイビス)は「平時でも殆ど軍事政府のような異常かつ専制的であった警務総監部が廃止され、ほぼ西洋と同様の警務局になった(4)」と評していた。
  また、これらに関連して朝鮮人への拷問があるが、イギリス報告では拷問が「改革」後も存続し宣教師が見聞した事例紹介をしている(5)。ただ拷問の事実を否定してきた総督府対応の変化や暴力警官への裁判実施により一九二二年「朝鮮人の扱いに改善がみられる(6)」とも判断しており、二〇年代後半には拷問に関する言及がなくなっている。
  A  教育制度改革 −第二次教育令(一九二二年)−
  英米宣教師による朝鮮の教育への要請は大きく二点、即ち(1)専門学校に格下げされ宗教教育も禁止されたキリスト教系学校の待遇の改善、(2)(上級学校に進学できない)修学年限での差別、絶対的に少ない学校数など教育面での朝鮮人の待遇改善を挙げることができる。これらは第一次教育令(一九一一年)と諸規則に基づく制度の改定を必要としていた。
  これに対し総督府は一九一九年から改革に着手し、一九二二年第二次教育令を公布した。この改革は、(1)学制をほぼ日本本国と同一とし大学教育を認可、(2)朝鮮語教育を保障したが、それ以上に日本語教育を重視、(3)宗教教育を公認したが、ミッション系は専門学校のまま(ただし「条件」を満たす学校は普通学校=「指定学校」扱い)、(4)学校整備等を特徴とする。故にこの改革は教育拡充を掲げつつ朝鮮人を漸進的に「同化」させ、一方で朝鮮人を日本人の補助的存在として「教育」する狙いがあったとされる。
  この改革にも英米は高い関心を示し、法的整備終了の一九二二年頃迄報告を出している。イギリス報告では順次実施された改革を紹介し、新教育令公布では先に挙げた特徴に触れつつ「明確な進歩」と評していた(7)。ただ(3)についてはミッション内に戸惑いが見られたとしている(8)。というのも、宗教教育の未実施が普通学校の「条件」とされたことで教会内に混乱が生じたからである。一九二三年報告では「ミッション系も「指定学校」になるのが増える(9)」とみていたが、この点長老派は「専門学校」に甘んじたのであった(10)。
  一方、アメリカ(ミラー)も度々報告を出したが、一九一九年の時点で改革=「進歩」とみていた(11)。新教育令公布の際は学校・宗教関係者らとの接触を通じ「現実に運用される迄に評価を下すのは時期尚早だが、この教育制度は好意的に受け止められている。ミッション系学校の新制度への適応もうまくいくだろう(12)」とみている。翌年ミラーは「朝鮮における教育」との報告を作成した(13)。この報告は李朝期には未発達の教育が発展する過程を整理したものであるが、興味深い点としてアメリカ領フィリピンやイギリス保護国エジプトの例を挙げつつ朝鮮の現状を検討していることである。ミラーはエジプトの支配者クローマー(L. Cromer)の著作(14)を援用しつつ報告を進めている。即ち、植民地教育の問題として@物質的成長は急速だが「モラル」の成長は時間が掛かる。A学校整備は多額の資金が必要で却って教育の発展を阻害する。B高等教育は現地民の「政治的覚醒」を喚起する危険があると指摘し、日本も同様の問題に直面しつつあるとしている。ただミラーによると、日本の場合(1)学校整備に本国から援助を受け負担軽減がなされている。(2)実業教育が重視されている。(3)朝鮮の就学率はエジプトより高くフィリピンより低いが、現地民の教育熱は高く収容能力以上の志願者で溢れているのが実情としている。
  なおイギリスは二〇年代後半も年次報告で教育問題に言及しており(15)、一九二八年報告(ホワイト)では、教育を「朝鮮の三大問題」の一つとして財政事情ゆえに学校整備が遅れ朝鮮人に不満が燻っていることを強調している(16)。
  B  地方制度改革   −第一次改革(一九二〇年)・第二次改革(一九三〇年)−
  特にイギリスの要請では何らかの「自治」を朝鮮に与えるべきとしていたが、総督府は、一九二〇年七月の制令で地方制度改革を実施した。即ち、道(日本の府県にあたる)、府(日本の市にあたる)、邑・面(日本の町村にあたる)に公選諮問機関を設置した(但し、面は所謂「指定面」のみ公選。道評議会は2/3が府面協議会員が選んだ候補者から、残りは知事任命で構成)。何れも選挙権は原則五円以上の納税者に限られていた。
  第一次改革の評価であるが、報告に「自治(Self−government)」という表現を用いていることから、英米共この改革を朝鮮に対する自治権付与と考えたようである。但しイギリス(レイ)は「(地方制度が)実際どうなるかについて語るのは時期尚早(17)」とし、その後年次報告では一九二九年まで地方制度の記事が姿を消すことになる。一方、アメリカ(ミラー)は第一、二回(一九二三年)選挙に関し簡単な報告を出したが(18)、第一次改革施行後も「自治」問題に注目していた。例えば、一九二五年十一月副島道正京城日報社長が論説「朝鮮統治の根本義」で「朝鮮議会」設置・朝鮮人「自治」は考慮すべきであると主張した(19)のに対し、ミラーは「全面的に同意する」としていた(20)。
  一九二九年斎藤が総督に再任すると制度改正が検討され、翌年一二月に第二次改革が公布された。この間の事情−総督府は「朝鮮議会」も検討したという−は、先行研究も有りここでは触れないが(21)、結論から言えば、朝鮮議会は見送るが、府協議会・指定面評議会を議決機関に、道評議会を公選制(選挙権は各議員のみ)議決機関に拡充するものであった。
  第二次改革について、イギリス(ホワイト)は改革前から注目しており、第一次改革で実現した諮問機関は意外に影響力を持つが限定的な権限しか与えられていない。納税制限も問題である(条件を緩和するか、朝鮮人が金持ちになるしかないと皮肉っている)。そして第二次改革は評価できるが、現状を大きく変えるものでもないとする。というのも朝鮮地方制度は行政権優位の日本のそれを踏襲したものと考えられるためである(22)。なお一九三一年第二次改革施行については事実紹介(ロイド)に止まっている(23)。一方、アメリカはデイビスが報告をまとめており、改革は「成果」といえるが、納税制限で大半の朝鮮人の政治参加を閉ざしたため朝鮮人の感情とは隔りがある。とはいえ今回の改革は朝鮮人の「自治の実験」であり、改革の将来は制度を上手に行使し得る朝鮮人の能力と朝鮮人の活動を許容する日本の度量にかかっているとしている(24)。

二  朝鮮国内の諸状況
  @  朝鮮在留英米人との関係
  次に、朝鮮状況一般に関する報告に入るが、その前に朝鮮在留英米人と総督府の関係について触れておく。在留英米人と総督府の関係は三・一運動で険悪なものとなり、斎藤就任直後もその「余波」、即ち「アペンゼラー事件(三・一運動一周年の学校デモによるミッション系校長解任(25))」「ショー事件(独立運動援助容疑による在中国イギリス人逮捕(26))」の発生があった。しかし両事件が解決(アペンゼラーの校長復帰、ショーの釈放)すると、在留英米人と総督府の関係は良好なものへ変化した。イギリス報告では一九二一年頃から総督府の「誠意ある対応」により「明白な変化」=関係が良好になったとしている(27)。そして多数の反日的宣教師が方針転換したことや特に斎藤は宣教師に好意的であることなど、両者の良好な関係はその後も続くことになる(28)。なお一九二五年朝鮮神宮鎮座式出席を教会側が拒否し総督府が譲歩した事件がその例として英米報告の中で触れられている(29)。ただ総督府との関係とは「反比例」するように朝鮮人の反欧米感情が表面化した(一九二三年報告(30))。イギリス報告ではまず一九二四年(「反英米」が目的ではないが)領事館爆破未遂が発生した(31)。次いで二六年はアメリカ人宣教師暴行事件や救世軍内の朝鮮人信者除名事件(32)、二九年はイギリスの協力による独立運動家呂運亭逮捕に対する朝鮮人の反発を紹介している(33)。要するに、親日的になった英米に対する朝鮮人の失望が反外国感情を促したといえよう。
  A  朝鮮国内についての報告
  「文化政治」期の朝鮮の諸状況に関する英米報告は広範にわたっており、全てを紹介するのは到底無理である。ここでは幾つかのポイントに絞って整理することにしたい。

1  相対的安定
  まず英米共に朝鮮は安定の方向に向かっていると認識していた。まずイギリス報告によると「不穏な状況が続いた」朝鮮も「目立った出来事の無い」状況になり、斎藤総督の下「穏健な統治」が進行していることが二〇年代を通じ指摘されている(34)。一方アメリカの場合朝鮮情勢に関する報告自体一九二一年以降激減している。三・一運動時は大量の報告を打電した事を考えると、この事からもアメリカが朝鮮情勢を「安定」と認識した根拠になるといえる。なお一九二五年治安維持法適用に合わせ作成したミラー報告では、「改革」の結果平和が国境を除き達成され、争点が政治から経済・社会にシフトしたとしている(35)。
  しかし、これら状況の安定は相対的なものに止まっていると英米側はみていた。即ち、国内の安定は多くの朝鮮人が「外国による独立回復の可能性が消え、日本統治以外に選択984cが無くなったことからの諦め(36)」や「直接行動で独立回復は得られないと理解した(37)」ためであり「独立を求める感情、日本に対する感情に大きな変化はなかった(38)」のである。
  それでも、一連の「改革」で総督府が一部朝鮮人を取り込むのに成果をあげたのも事実であった。その点、イギリス報告では一九二四、二五年「親日派」の動向(39)や一九二九年地方制度に対する朝鮮人有権者の関心の高まりを紹介している(40)。また併合後十年以上経ち、日本支配しか知らない若い世代と古い慣習に固執する旧世代との対立が現れたが(一九二八年報告(41))、これは「一枚岩」と見られた朝鮮人内部で「民族分裂」傾向が生じた一例であり、日本にとって支配を維持するのに有利な状況になったことを意味した。
  なお朝鮮総督府発行の『朝鮮』には、この時期多くの外国人論評を紹介しているが(42)、欧米でも朝鮮支配についての論評が現れている。例えば一九二四年『フォーリン・アフェアーズ』にミシガン大学教授ヘーズン(R. Haydon)が「朝鮮と台湾における日本の新施政」を発表し(43)、またアイルランド(A. Ireland)が一九二六年『新しい朝鮮』を著したが(44)、両者とも、日本統治、特に「文化政治」を「フィリピン統治に引けを足らない(ヘーズン)」「李朝より遥かに成果を挙げた(アイルランド)」統治と主張していた。

2 「社会不安」・「危険思想」
  三・一運動以来の「社会不安」は「文化政治」になっても存続し、イギリス報告では、度々事例紹介をしている。一九二〇−二六年の事例を簡単にみると以下の通りである。
一九二〇年「社会不安継続、法律違反者・容疑者検挙は年中。三月独立運動一周年により各地で示威行動。学生ストは六、十月発生。八月平壌総督府施設と新義州鉄道ホテルに爆弾。アメリカ議員団の朝鮮訪問中、議員に面会を求めた朝鮮人と当局の衝突。九月元山で陰謀発覚(45)」
一九二一年「社会不安は相対的に沈静化。九月釜山で爆弾。六月ボルシェビキの陰謀発覚。十月ソウルでカリキュラム改善要求の学生スト(46)」
一九二二年「学生スト(主にカリキュラム上の問題)がたびたび発生(47)」
一九二三年「一月義烈団の爆弾テロが発生。学生ストは減少。中国人労働者問題(48)」
一九二四年「義烈団による事件、十一月ソウルで独立運動派の陰謀発覚。領事館爆破未遂。主な学生ストは二つ。ウラジオストックや臨時政府の動き(49)」
一九二五年「臨時政府の動き、「三・一」前後とメーデーにおける一斉検挙。共産主義者事件。幾つかの学生スト。二月ソウル、三月平壌で労働スト(50)」
一九二六年「六月前皇帝葬儀での小規模衝突。十二月義烈団の銀行爆破事件(51)」
  全体に、「直接行動」の数が減り未然の摘発・検挙など警察の活動が巧妙になったことが窺える。ほぼ毎年発生していた学生ストはミッション系でも多発したが、(1)抗日運動としての性格と(2)学校「改善」要求(設備や「指定学校」の条件である宗教教育廃止)の性格を持っていた。これに対し英米領事は、特に(2)では学校当局の立場に立っており、必ずしも学生に同情的ではなかった(52)。
  一九二九年発生の学生運動に関して、イギリス報告は原因・運動の拡大・警察の動向について紹介している(一九二九、三〇年報告)。そして@運動参加者は学生であるが、単なる学生運動ではなく朝鮮支配への抗議である、A朝鮮全土への運動拡大はこの運動が組織的であることを暗示している、B大規模な運動でありながら死者が出なかったのは日本側の巧妙さにあったとしている(53)。一方アメリカは、一九三〇年東京からの報告があり、内容はほぼイギリスと同様であるが、学生は独立願望と共産主義の影響を受けていること、検挙者は二五〇〇人にのぼり多くの学校が閉校になったと言及している(54)。
  次に学生ストとも大いに関連するが、共産主義とそれに基づく「陰謀」が二〇年代を通じ増加傾向にあり、イギリスも動向に注目していた。「共産主義」は一九二一年報告で登場したが(55)、二四年報告では学生の思想傾向を「独立と親ボルシェビキに分けられ、両者は反日で結束している(56)」と見ていた。そして二八年報告では、総督府のいう「危険思想」が、教育・経済と共に「三大問題」と見なされ、共産主義拡大の要因(アメリカへの失望、ソ連の宣伝、経済問題)や若年層への浸透、「陰謀」が紹介されている(57)。
  一方、アメリカの報告は、特に一九二〇年以降断片的なものしかない。ただ先述の一九二五年報告では、共産主義拡大について「経済的貧困が原因であり、朝鮮人が本当に共産主義を理解しているとは思えない(58)」とし、三年後の報告では「朝鮮は表面上平和だが、経済的貧困から「不穏思想」が広まっている(59)」と指摘していた。

3 経済不況
  「共産主義」拡大の要因として挙げられた、経済問題について。まずイギリスは、一九二八年報告で経済問題を「三大問題」の一つとして重視し、特に小作人について、総督府の改善策にもかかわらず小作人は苦境が続いているとしている(60)。二九、三〇年報告では、日本人の富の集中、世界恐慌下の不況にも触れている(61)。一方、アメリカは前述の報告で「朝鮮人の多くは生計を立てるのにあくせくしている」「経済困難のため故郷を捨てようとする農民もいる(62)」と触れているが、ミラーは一九二九年農民に関する報告をまとめている。内容はこれ迄の報告と類似しているが、ただ大半が小作人である農民貧困の要因として、過去の世代の「遺産」、そのような状況に長年馴染んだ無気力、近年朝鮮でも発生した経済状況、世界的不況を挙げている。ただし、総督府の対応については経済困難に対する改善策=「努力」面のみを強調している(63)。

4  「同化(assimilation)」について
  総督府が標榜する「同化」についてこの時期の報告は余り触れていない。ただ、特にイギリスは「同化」には懐疑的であった。レイは識字率や日本・朝鮮人間の婚姻数から「日本は「同化」に固執しているが、成果は殆ど挙がってない(64)」としていた。またホワイトは、一九二八年報告で「理論上は朝鮮人が高官に占める割合が高いはずだが実際は異なる。また理論上は言論・出版の自由があるはずだが実際は厳しい検閲下にある(65)」と述べ、又二年後には、朝鮮は長い歴史を持ち慣習も日本と異なるが故に朝鮮が完全に日本の一部になることはないのではないかとする松田拓相発言に注目し、「同化」は日本にとっても建前に過ぎないのでないかと指摘している(66)。以上のように、特にホワイトは「同化」を疑問視していたが、その特徴は「権利の平等」は認めずに文化の強要のみが進められがちであること、また(彼の言う)「同化」ならあり得ない朝鮮人への差別に対する批判にあった。

5 間島・北部国境情勢
  朝鮮と満州の国境である間島は朝鮮・中国間の係争地であったが、国境紛争については一九〇九年の間島条約で一応決着していた。しかし日本の朝鮮支配確立と共に、間島は朝鮮国内から逃れてきた抗日朝鮮人の拠点となった。これに対し総督府は間島を特別地帯として多数の警察を駐留させ、朝鮮人への大弾圧を行った。故に、イギリスは間島を「無法地帯」と見なして(67)、年次報告でほぼ毎年国境情勢について紹介している。ここで詳細に検討する余裕はないが、報告の内容は、日本の弾圧、朝鮮人の動向、中国側動向に整理でき、特に日本の弾圧と朝鮮側の抵抗は詳しく紹介され、間島が極めて危険であることを強調している(68)。一方アメリカは、一九二八年報告で朝鮮の深刻な問題として国境情勢を取りあげていた(69)。
  結局、度重なる弾圧にもかかわらず抗日朝鮮人は根絶できなかった。日本にとり国境地帯の政情不安は、朝鮮支配の安定化や満州の日本利権にも障害になると見なされた。故に三〇年代に日本が満州侵略に走った背景の一つとして国境地帯の政情不安を挙げることができよう。


三  斎藤総督への評価
  最後に斎藤に対する評価を簡単にみていくが、これ迄の報告からも大凡明らかなように英米の評価は大変高い。まず領事の批評を挙げるとミラーは「斎藤は賢明でリベラルな統治」を行ったといい(70)、「同化」に批判的なホワイトも「斎藤が総督に再任されたことは朝鮮にとって幸運なこと(71)」と述べている。さらに三・一運動の目撃者であるロイドも斎藤の統治を「寛大で穏健」と評していた(72)。確かに、斎藤による宣教師との関係改善や諸改革は、これ迄の報告から推測するに英米とも概ね評価していたといえる。また斎藤自身アメリカ滞在の経験を持ち、英米との関係を重視していた。その「成果」もあってか、斎藤は個人的にも信用され、それはたとえ朝鮮を巡る様々な問題が発生しても変わらなかったのであった。
  一九三一年六月、斎藤は高齢と病気等を理由に総督を辞任したが、これに対しアメリカのデイビスは、斎藤引退は残念なことである。彼の統治は効率の良さと朝鮮人の幸福に配慮したものであり、改革は朝鮮発展に寄与するものであったと辞任を惜しんでいる(73)。斎藤はその後五・一五事件直後の「挙国一致内閣」の首相にもなった(一九三二−三四年)が、一九三六年二・二六事件で青年将校の凶弾に倒れた。なお二月二五日斎藤は駐日米国大使グルー(J.C. Grew)の晩餐に招かれ暗殺される数時間前まで団欒の一時を送った。グルーは斎藤について次のように述べている「(彼は)好戦的争闘の時代にあって偉大な叡知と広い自由主義的な意見を持っていた(中略)私は彼が朝鮮の学校問題(神社参拝問題を指す�\引用者)解決に影響力を行使することが出来ればいいと思っていた(中略)斎藤子爵は常に米国の宣教師を支持していた(74)」。

(1)  「文化政治」全般をテーマにした著作・論文については、中塚明「日本帝国主義と朝鮮」(『日本史研究』八三号、一九六六年)、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)、糟谷憲一「朝鮮総督府の文化政治」(『岩波講座  近代日本と植民地』二、岩波書店、一九九二年)等を参照。
(2)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 277. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, April 6, 1920, 895. 13, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 5.
(3)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 273.
(4)  Consul General, Seoul(J.K. Davis),”Extension in the system of local self−government in Chosen and its significance, July 30, 1931, 895. 01/31. Internal Affairs, Korea 1930-1939, Reel. 1.
(5)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 277, 311, 411, 523-524. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 109-110, 126-129.
(6)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 411.
(7)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 276-277, 309, 413-414, 518-522.
(8)  Ibid, pp. 414, 521-523.
(9)  Ibid, p. 522.
(10)  韓国基督教歴史研究所編『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版社、一九九五年)八七ー九二頁。
(11)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1919, 895. 42/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(12)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State. April 14. 1922, 895. 42/29. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(13)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”Education in Chosen (Korea), December. 14, 1923, 895. 42/31. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(14)  L. Cromer, Modern Egypt, VoL. 2 (London, 1908). クローマーについては木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七九ー二八一頁にも紹介されている。
(15)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 130, 180.
(16)  Ibid, pp. 450, 452.
(17)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 276.
(18)  Consul General, Seoul (R, S. Miller) to Secretary of State, December 3, 1920, 895. 00/688, 並びに、Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, November 22, 1923, 895. 00/700. 何れも Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 収録。
(19)  『京城日報』一九二五年十一月二六ー二八日。
(20)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1925, 895. 01/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 4.
(21)  姜東鎮、前掲書、三七九ー三九五頁、駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)二一四ー二一八頁など参照。
(22)  Annual Report Korea 1924-1939 pp. 465-467, 476-477.
(23)  Ibid, pp. 489-490.
(24)  前掲(4)デイビスのレポート(895. 01/31)参照。
(25)  FRUS, 1920, Vol. III, pp. 44-48.
(26)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 281, 314.
(27)  Ibid, pp. 277-278, 313-314.
(28)  Ibid, pp. 314, 411, 412, 525-527. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 120, 175-176.
(29)  Ibid, pp. 163-164. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, October 19, 1925, 895. 413, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(30)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 527
(31)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 118-119.
(32)  Ibid, pp. 299-302.
(33)  Ibid, pp. 471-472.
(34)  一九二二年報告で「平穏」とみている。Annual Report Korea 1906-1923, p. 409.
(35)  Consul General, Seoul (R. S, Miller)”Political and social conditions and organizations in Chosen.−The Public Safety Act, May 25, 1925, 895. 00/705 Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3.
(36)  Annual Report 1906-1923, p. 409.
(37)  Ibid, pp. 311-312, 510-511. 前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(38)  Ibid, pp. 311-312, 409, 507-509. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 172.
(39)  Ibid, pp. 120, 173-174.
(40)  Ibid, pp. 465-466.
(41)  Ibid, p. 450.
(42)  なお朝鮮総督府調査資料『外人の観たる最近の朝鮮』(一九三二年)はこれら「親日的」論評を集めた本であるが、中にはブルンナーの農村調査(S. Brunner, Rural Korea)のような実証研究も含まれる。
(43)  R. Haydon,”Japan’s New Policy in Korea and Formosa. Foreign Affairs 2 (1924) pp. 474-487.
(44)  A. Ireland, The New Korea. (New York, 1926)
(45)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 279-280.
(46)  Ibid, pp. 309, 311-312, 314-315.
(47)  Ibid, pp. 413-415.
(48)  Ibid, pp. 510-511, 522, 532-533.
(49)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 115-119.
(50)  Ibid, pp. 168-170, 178-179. 181-183.
(51)  Ibid, pp. 297-298.
(52)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 414-415. Ibid, p. 247.
(53)  Ibid, pp. 460-461,468-470, 476, 479-480.
(54)  ただしこの報告によると、ソウル領事館からステファン副領事報告が打電されたことが確認できる。Embassy, Tokyo (W.R. Castle) to Secretary of State, January 27, 1930, 895. 00B/2, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(55)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 312.
(56)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 110.
(57)  Ibid, pp. 453-455.
(58)  前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(59)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, June 8, 1928, 895. 00/711, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Rell. 3.
(60)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 450-451
(61)  Ibid, pp. 467-468. 478-479.
(62)  前掲(35)ミラー報告(895. 00/705)並びに前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)
(63)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”The Farmers and farm lands of Chosen (Korea) in 1928, September 7, 1929, 895. 61/5, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 8.
(64)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 235.
(65)  Ibid, p. 451.
(66)  Ibid, pp. 477-478.
(67)  Ibid, p. 482.
(68)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 312, 313, 410, 511. Annual Report Korea 1924-39, pp. 108, 109, 162, 163, 457.
(69)  前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)。
(70)  前掲(13)のミラー報告(895. 42/31)。
(71)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 462.
(72)  Ibid, p. 498.
(73)  Consul General, Seoul (J.K. Davis) to Secretary of State, June 20, 1931, 895. 001/19, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(74)  ジョゼフ・グルー[石川欣一訳]『滞日十年』(毎日新聞社、一九五八年)二二七ー二三一頁。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm

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