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第三段階では、隷属民達が帝国に忠誠心を抱くとともに帝国と自己同一視するようにさせなければならない。日本のエリートも同じだ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/384.html
投稿者 TORA 日時 2010 年 8 月 04 日 16:28:30: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu221.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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第三段階では、隷属民達が帝国に忠誠心を抱くとともに帝国と自己
同一視するようにさせなければならない。日本のエリートたちも同じだ。

2010年8月4日 水曜日

'RUSSIA AGAINST NAPOLEON The True Story of
the Campaigns of ‘War and Peace;Dominic Lieven'
http://books.rakuten.co.jp/rb/Russia-Against-Napoleon-The-True-Story-of-the-Campaigns-of-War-and-Peace[豢区嶌]-Dominic-Lieven-9780670021574/item/6445214/

◆ナポレオンを破ったロシア 太田述正コラム#3940 (2010.4.10)
http://blog.ohtan.net/archives/52010373.html

2 ナポレオンの帝国・・序に代えて

 「帝国の創造は、通常、三段階を経る。ただし、これらの段階は、しばしば重なり合う。
 最初に来るのは、征服による帝国の形成と外からの脅威の除去だ。
 これに関わるのが、一般に、軍事力、外交的職人性、そして地政学的文脈だ。
 しかし、<こうして形成された帝国が>生き残るためには、様々な制度が必要であり、さまなくば、征服者とそのカリスマの死とともに瓦解してしまうだろう。
 これらの制度を確立するのが帝国の創造の第二段階であり、それは、第一段階よりもしばしば困難なことだ。
 とりわけ、巨大なる征服が短期間で行われた場合には・・。
 第三段階では、隷属民達が帝国に忠誠心を抱くとともに帝国と自己同一視するようにさせなければならない。
 とりわけ、前近代的な社会においては、隷属民達中のエリートに・・。
 ナポレオンは帝国形成の第一段階では偉大なる前進をとげた。
 次いで、帝国的諸制度の創造に向けて若干の歩を運んだが、彼の権力を正当化することに関しては、道はこれからだった。・・・
 ナポレオンは、決して全体主義的な支配者ではなかった。
 また、彼の帝国は、それほどイデオロギーで駆り立てられていたわけではない。
 逆に、彼はフランス革命に蓋をし、フランスの政治生活からイデオロギーを消滅させるべく最善を尽くした。
 征服された欧州における地方エリートの根絶についても、それはナポレオン自身の欲求や彼の権力をはるかに超えて行われたものだ。
 多くの欧州の政治家達はこのことが分かっており、そのような認識を踏まえて行動した。
 ロシアの初代米国公使のテオドル・フォン・デア・パーレン(Theodor von der Pahlen)伯爵(注1)は、1809年に任地に赴任するに際して、フランスの累次の勝利とその優越的支配状況にもかかわらず、50年も経たないうちに、<ナポレオンの帝国は、>欧州を覆し圧政を敷いたという空虚な栄光以外、何も痕跡を残していないことだろうと記した。

 それは、フランスに何の真の便益も与えることにはならず、フランスは人材と財産をその諸隣国から確保できなくなった時点で自らの人材と財産を蕩尽することになろう、と。 <更に、>フランスの現在の大きな影響力は、たった一人の個人の存在に全面的に依存している。
 彼の偉大なる種々の能力、彼の驚くべきエネルギーと激しい性格は彼の大志に上限を設定することを許さない。
 その結果、彼が今日死ねばそれと同時に、また、死ななくても30年後までには、彼は、現在における以上に状況を不整序なものへと導くだろう、と。
 こうして欧州で新しい30年戦争(注2)が続いている間に、新大陸の諸国がその力を著しく伸ばすことだろうとパーレンは付け加えた


◆ナポレオンを破ったロシア(その2) 太田述正コラム#3942 (2010.4.11)
http://blog.ohtan.net/archives/52010760.html

3 大敗北に終わったロシア遠征

 「・・・恐らく、歴史上、このような希にみる軍事天才がこれほどの軍事的大災厄を被ったことはないだろう。・・・
 ナポレオンは、ロシア侵攻を450,000人で始めたが、そのうち、家に戻れたのは6,000人だけだった。・・・
 リーヴェンによれば、120,000人の兵士と40,000頭の馬には、一日分の食糧と糧秣だけでも850もの荷車を伴わせる必要があった。
 これに加えて、これよりずっと大きな分量の、火薬、及び病人と負傷者のための医薬品、そして天幕等の需品、が必要だった。・・・
 非正規戦士として育てられるコサック(Cossack)と、それよりはるかに優れたロシアの軽騎兵部隊に対して、フランス軍(ナポレオンはそれらに敬意を抱いており、自分の陣営に彼等のような存在が付いてくれていたらと願った)は最も恐れを抱いていた。
 地方の農民達からフランス軍部隊についての情報を得て、素早く機動することができたため、<コサックや軽騎兵部隊>は、フランス軍のうち糧秣を探し回っていた連中を容赦なく苦しめた。
 ナポレオンがモスクワに到着した時、状況は、彼と彼の枢要なる騎兵にとって、更に悪化した。
 当時、静止している軍は、馬に対するその地域の糧秣の供給を急速に根絶やしにしてしまうものであり、<フランス軍も>糧秣探しの出動を次第に遠征して行わざるを得なくなり、一層パルチザンに対して脆弱となって行ったからだ。・・・
 <結局、>ナポレオンは、ロシアに率いていった兵士の大部分を失っただけでなく、馬を175,000頭も失うこととなる。
 兵士は補充することができたし、実際、翌年の戦闘までにはおおむね補充することができたけれど、馬の方はそうはいかなかった。
 1813年には、フランス帝国中を漁り回ったにもかかわらず、29,000頭しか調達できなかったし、その大部分は最上の質のものではなかった。
 これが1813年の会戦でフランスの足を引っ張り、同年の夏と秋におけるナポレオンの運命を暗転させたかなり大きな要因となった。・・・」

「・・・欧米人が著したロシア対ナポレオンの<戦いの>歴史書の大部分はほとんど1812年だけに焦点をあててきている。
 <その一方で>ロシアの1813〜14年の軍事諸作戦は通常見すごされてきた。
 また、欧米の著者達は、ナポレオンと彼の1812年の巨大な軍、そしてロシアの冬にも焦点をあててきた。
 <しかし、>彼等は、ロシア政府の行動や軍事諸作戦など、ほとんど歯牙にもかけなかったのだ。
 <軍の>戦闘と機動にかてて加えて、この本は、政治的かつ経済的諸要素についても取り扱う。
 リーヴェンは、欧州と米国での本件についての説明においては、レオ・トルストイ(Leo Tolstoy<。1828〜1910年>)が1869年の小説、『戦争と平和』で行ったのと全く同じようにナポレオンに対するロシアの抵抗運動を描いてきたと述べる。
 すなわち、ごくありふれたロシア人達が彼等の古里の地の情熱的かつ愛郷的防衛のために団結したと・・。
 しかし、この著者は、欧米の学者達は、ロシア政府、及びロシア皇帝の軍における統率の貢献度に適正な考慮を与えていない、と述べている。・・・
 この本が提供する新たな諸洞察の一つが、著者がロシアの諜報機関がいかにナポレオンの軍事的かつ外交的秘密を入手していたかだ。
 リーヴェンは、1812年には、ロシアはナポレオンよりも深く考えていたと主張する。
 彼等は、ナポレオンが、勝つためには、在来型の正規戦による機動と火力を用いた撃破作戦を行う必要があることを知っていた。
 だからこそ、その代わりに、彼等はフランス軍に、いやがらせ、終わることなき小競り合い、そして悪路、あるいは道なき道を総計で数百マイルに及ぶ歩行を与えたのだ。
 ロシアは、自分の農場や村に火をかけ、侵攻者に資源を与えないようにした。
 それらすべての結果、巨人たるフランス軍は兵站上の悪夢に直面し、飢餓と敗北がもたらされた。
 リーヴェンは、ロシアの軍事面での進化についても描写する。
 1806〜07年の大災厄的作戦から始まり、ロシアは着実に訓練、編制、統率を改善した。
 1812年の(仏露双方にとっての)凄まじい諸戦闘の後、モスクワで再編成されたロシア政府は、軍の再建に着手した。
 1813年から14年にかけての諸会戦では、ロシアは、訓練場群と補給所群からその多くは600から1000マイルも離れていたところの、東欧において、50万人の兵士を展開し続けた。
 ロシア政府は、この前方展開を、長距離の兵站路沿いに補給所群を設けることと、プロイセン及びポーランドの政治勢力と合意を得ることによって維持したのだ。・・・
 そして最後に、リーヴェンは、1814年のロシア軍は、欧州へ、これまでとは異なった役割、すなわち、解放者として、その西側の隣人達をナポレオンによる圧政的外国支配から解き放ったのだ。
 もとより、ナポレオン及びナポレオン軍の最終的敗北は、英国とプロイセンの兵士達の手で達成されたことは事実だが・・。・・・」

4 終わりに

 要するに、ロシア軍は、ナポレオン軍を、戦略、戦術、情報、兵站のすべてにおいて上回っていたから勝利した、ということです。(装備には顕著な差はなかったのでは?)
 これは、恐らく、ロシアの皇帝や皇帝を支えた軍事・非軍事のエリート層・・その大部分は外国系や外国人との混血・・の集団的な能力が、軍事的天才ではあっても、たった一人であったが故に自ずから限界があり、また長年の活動により精神的に疲弊してきていたナポレオンを凌駕するに至ったからでしょう。
 では、そんなロシアが、どうしてそれから90年弱後の日露戦争には敗れたのでしょうか。
 幕末維新の激動期を経験したエリート層だけでなく兵士や銃後の国民達の力を結集できた自由民主主義的日本には、エリート層しか結集できなかったロシアでは一歩及ばなかった、ということでしょうね。
 ついてに言えば、現在のロシアが見る影もないのは、戦後のドイツが見る影もないのと同じであり、ドイツがユダヤ人に対するジェノサイドによりエリート層の多くを失ったのと同様、ロシアが内戦やスターリンによる粛清を通じ、エリート層の多くを失ったためである、と考えられます。


(私のコメント)
国会中継が行なわれていますが、沖縄の普天間基地問題などで菅内閣がいかにアメリカとの合意を最優先して、日本国民の合意が二の次にされている。鳩山内閣は少なくとも県外に移設しようと努力した事は認められますが、菅内閣は県外移転の意志はないようだ。

アメリカの軍事基地はアメリカの帝国支配の象徴ですが、アメリカの代理人であった自民党政権から民主党政権に政権交代して、何らかの形で変わるかと思われましたが自民党政権となんら変わらぬ形になっている。結局は自民党も民主党も日本支配統治の代理統治機関であり、イラクのマリキ政権やアフガニスタンのカルザイ政権と性質はほとんど変わりがない。

イラクにしてもアフガニスタンにしてもアメリカの軍隊が数万人も駐留していたら、政府はどうしようもない事は明らかだ。おそらくイラクやアフガンの民意はアメリカ軍は出て行って欲しいと言う事でしょうが、泥沼に嵌ってしまって動きが取れなくなっている。日本にも5万人の米軍が駐屯していますが、60年経っても出て行く様子が見えない。

実際にはアメリカが支配統治していながら国民はその自覚がなく独立国と思っている。鳩山首相がちょっとアメリカに反抗的だということで首を飛ばしましたが、菅首相はすっかり骨を抜かれて帝国アメリカの代理支配人として首相に選ばれた。これでは自民党と変わりがないのですが自民党はすっかり人材が払底してしまったので、民主党に代えたのだろう。

「ナポレオンを破ったロシア」という本の中で、「第三段階では、隷属民達が帝国に忠誠心を抱くとともに帝国と自己同一視するようにさせなければならない。」と書かれていますが、日本はもっとも帝国支配が上手く行っている成功例であるのだろう。占領統治費用も日本政府にほとんど負担させているのだからアメリカ政府は笑いが止まらない。

帝国支配統治を長期化するためには隷属国民のエリート支配層を形成して、アメリカの代理人である事が本人にとっては誇りであると思うくらいになれば本物だ。外務省や財務省のエリート官僚はアメリカ留学を通じてエリート階級が約束されて、天下りなどで特権的な地位を築くまでになっている。

戦後間もない頃は自主独立志向の国会議員もいましたが、今では自民党も民主党もアメリカの従属的支配を容認してアメリカ軍の駐留に対しても口出ししないようになってしまった。だから鳩山首相の駐留なき安保と言う理想は理想論として片付けられてしまっている。

ナポレオンは短期間の間にヨーロッパを一つの帝国として作り上げましたが、「フランスは人材と財産をその諸隣国から確保できなくなった時点で自らの人材と財産を蕩尽することになろう」と言う予言はナポレオンの帝国が滅亡してみると結果的に当たっている。ナポレオン戦争によって失われたフランスの有為な人材はあまりにも多く、末期にはナポレオンを支えられる人材がいなくなってしまった。

ナポレオンのロシア遠征は大敗北で終わった訳ですが、45万人の大軍の多くは同盟国軍であり支配下のプロイセン、イタリア、オーストリアなどの国から徴兵されて参加したものだ。無事に帰れたのは僅か6000名と言う事ですが、ナポレオンは兵をロシアに置き去りにしてフランスに逃げ帰ってしまった。多くのフランス人兵も失われたが多くが同盟国軍の兵士だった。

フランス軍は30万人、ポーランド軍は7万人、イタリア軍は5万人、ドイツ軍は8万人、戦死したと言う事ですが、ロシア遠征が大失敗で終わったとしても大陸軍は健在だった。しかしナポレオンが無敗でないと分かった事で求心力が失われて、各地で反乱が勃発してナポレオン軍は孤軍奮闘したが有能な人材を失ったフランス軍は各地で敗退を続けるようになった。

決定的になったのはロシア遠征で20万頭の軍用馬が失われた事であり、トラックのない当時は馬による輸送が主力だったから、騎兵のみならず馬車を引く馬も大砲などを引く馬も失われてしまった。ロシア軍は徹底した焦土戦術で馬の飼料となる餌に不自由する事となり多くの馬が餓死したり、兵士に食料として食われてしまった。

兵士は徴兵すれば何とか集められたが馬は払底してしまって、騎兵のみならず輸送用軍馬もなくなりナポレオン軍の足を引っ張った。大農業国であるフランスをもってしても軍用馬を十数万頭も確保する事ができなかったというのは意外ですが、騎兵が乗る馬と輸送用の馬とは違うから調達する事は難しい。

ワーテルローの戦いなどを見るとナポレオン軍の将軍や参謀に優秀な人材がいなくなったことが大きな敗因となっていることが分かる。帝国が滅びる時に共通する事は優秀な人材がいなくなってしまうことであり、ナポレオン自身も頭の冴えを無くしていった。

アメリカもイラクやアフガニスタンの大遠征を長期間続けていますが、ナポレオン帝国のロシア遠征やヒトラーのロシア遠征やソ連のアフガニスタン侵攻に匹敵するものになるのではないだろうか? いかなる大帝国でも遠征軍を長期間派遣するには莫大な戦費を消耗する。イラク戦争では毎月一兆円もの戦費を使っていますが、既に300兆円以上も使っている。

アメリカの強さは全世界から優秀な人材を集めてきたからであり、キッシンジャーやブレジンスキーもヨーロッパからの移民だった。オランダにしても大英帝国にしても世界覇権を取れたのはヨーロッパ中から優秀な人材が集まってきたからだ。そしてアメリカは二度の世界大戦でヨーロッパからの移民を集めて大帝国を築いた。

アメリカは長期にわたる戦争による疲弊で金融における主導権も失いつつある。アフガニスタンにおけるアメリカ軍の敗北は経済的にばかりでなく精神的なダメージでアメリカを衰退させていくだろう。ちょうどナポレオンがロシア遠征で敗れた後のヨーロッパで反乱が続発する頃と似たような状況になるだろう。中国はいろいろな意味でアメリカに逆らい始めた。やがては日本も真の独立を目指してプロイセンのように立ち上がるだろう。

 

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