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日本軍政当局は、タガログ語の使用教育を奨励するとともに、タガログ語及びフィリピン史の学校教育はフィリピン人教師に行わせた
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/354.html
投稿者 TORA 日時 2010 年 5 月 02 日 15:36:24: GZSz.C7aK2zXo
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu215.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本軍政当局は、タガログ語の使用、教育を奨励するとともに、タガ
ログ語及びフィリピン史の学校教育はフィリピン人教師に行わせた。

2010年5月2日 日曜日

◆白人のフィリピン蹂躙 2008年3月25日 反日ワクチン
http://vaccine.sblo.jp/article/13094545.html

◆スペイン植民地統治と革命

今日の引用本はフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏著の「フィリピン少年が見たカミカゼ」からです。

氏は1930年生まれで、少年時代に日本軍将兵と出会い、戦後特攻隊と日本の歴史研究に没頭。1974年に特攻隊が初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いているという方です。

コラムから引用します。

◆アメリカの同化政策

 マニラから閉め出されたフィリピン人のアギナルド率いる革命軍は1899年2月にアメリカ軍と衝突し米比戦争が勃発。アギナルドは日本に援助を仰いだ。それを受けて有志の義勇軍が出発、武器弾薬は布引丸に乗せたが、途中台風に遭って沈み、革命も潰えてしまった。

 1901年3月アギナルドが逮捕され、7月にアメリカは軍政を廃止し植民地政治を始めた。この時まで軍政長官だったのがアーサー・マッカーサーで、ダグラス・マッカーサーの父である。

 スペインが教会で植民地支配をしていったのに対し、アメリカは教育を用いて支配していった。

 独立運動のくすぶりは徹底的に弾圧し、拷問・虐殺によって消し尽していく反面、「友愛的同化」政策を掲げて、フィリピン人に英語によるアメリカ式教育を徹底していった。これにより、アメリカ精神を吹き込んでアメリカ化を進め、親米感情を植え付けていった。また、フィリピン議会を発足させ、間接的な支配体制を作っていった。

 1916年には独立の基礎となるフィリピン自治法であるジョーンズ法がアメリカで成立した。

 この後、英語が公的に使われるようになり、人々はアメリカにあこがれ、まさにフィリピン人はアメリカ文化に急激に同化していった。

 しかしジョーンズ法成立後、15年以上もアメリカは独立の明確な時期などを示さずにいた。

 40数年に亘るアメリカ時代の経済は、アメリカが要求するものを作りアメリカに輸出して行くという完全な依存体制で、この時代もフィリピンの経済・産業の発展はなかった。

 1930年代、大農園では換金産物を大量生産し営利主義的経営を進め、それが小作人達を圧迫していった。一方、アメリカにとってフィリピンは安い労働力や農産物の流入で厄介な存在となった。これを背景にして、フィリピン独立は自治政府成立後10年という時期がようやく示された。

 フィリピンは日本の敗戦後の1946年7月4日にアメリカから独立するが、その内情は、アメリカ市場に依存し植民地的支配構造を温存するもので、独立とは名ばかりのものだった。

 その弊害は現在も続き、フィリピンは公的場面や学校での英語使用から抜けきれず、また、自国の歴史もアメリカ史観に偏っている。
引用終わり


◆フィリピンにおける米国の植民地政策 2003年12月2日 太田述正
http://blog.ohtan.net/archives/50955632.html

(1)経済の従属化
 「戦前のフィリピンはアメリカの自由貿易政策によって工業化をはばまれ、・・農産物のアメリカへの輸出と、アメリカからの工業製品の輸入に基礎をおく従属的な経済システムを押しつけられていた。」(コンスタンティーノ)(95頁)
 「アメリカ合州国(ママ。以下同じ)の植民地となったフィリピンでは、砂糖、ココナツ油、タバコ、マニラ麻などの対米輸出用の農産物の生産・加工業が飛躍的に発展したのに反比例して、フィリピン人の日々の生活をささえる米穀生産は急速におとろえた。植民地に特有のモノカルチュア型経済の成立である。しかも、その肝心の農産物輸出でさえアメリカ経済の都合にあわせて勝手に制限され、・・フィリピンの大部分をしめる農村の生活はきわめて不安定なものになっていった。この過程でスペイン統治時代以来の地方ボス支配がますます強化され、小作農民は重税と借金のために息もたえだえの状態においこまれてしまう。」(220頁)
 ((上記とほぼ同じ記述の後、)過度に輸出志向の農業となったため、本来食糧輸出国であってしかるべきフィリピンは、食糧輸入国になってしまった。(PP362))

(2)精神の従属化
 「われわれは自分たちだって工業化できるのだとは決して考えなかった。地理的条件と民衆の生来の性格からいってフィリピンは農業国である、と学校で教えられてきたからである。だからこそわれわれは、戦前の日本がすでに欧米と対等の商品を生産できるようになっていたのに、日本商品を軽蔑したのであった。アジアの一国である日本が米国、ドイツ、イギリスなどと並ぶ優秀性を獲得できるなどとは、とてもわれわれには信じられなかった。」(コンスタンティーノ) (96頁)
 (利潤追求を内に秘めた、鳴り物入りのアメリカの利他主義(altruism)は、フィリピン人に自らのものは軽侮し、アメリカのものなら何でも賞賛する、という習性を植えつけた。(PP377-382))
 「フィリピンの民話・・の多くが「すこぶる陰惨で、倫理に乏しく、とりとめのない」ことに嫌悪感をもった、<また、>「私は比島人の性格に一種の残忍性があるのだらうかなどとも考へた。・・友人<のフィリピン人>は、・・それは支配者の虐政に対する風刺であるといった。・・人をうまくだますことのできる者がいちばんえらいのである。」(火野葦平)(146-147頁)
 (警察が武器の供出を日本軍に命ぜられるや否や、日本軍の姿がまだ見えないうちから、マニラでは老若男女を問わず、またその教育程度を問わず、市民が略奪合戦を繰り広げた。略奪はマニラ以外にも広がった。非倫理的行為が蔓延した。医者は身内でないフィリピン人には重症であっても薬を投与せず、その薬を転売して金儲けにいそしんだ。(PP399-400))
 「エリート・・は無用の流血をさけるという名目で、<スペイン、アメリカ、日本と>新しい支配者<がやってくるたびに、そ>の命令にあわせて民衆の欲求をコントロールし、そのことによって従来の経済的、社会的、文化的な特権を維持しつづけようと<してきた>。」(184頁)
 「1960年代のなかばごろから、・・フィリピンの歴史家たちは日本占領下のさまざまな「レジスタンス神話」・・がじつはマッカーサーとアメリカ合州国にたいする忠誠心の表明にすぎなかったのではないかという疑問を提出しつづけてきた。」(34頁)
「他のアジア諸国の抵抗運動とちがって、フィリピン人の抵抗は、ほとんど完全といえるほどに、米軍作戦の必要性、さらには太平洋地域で指揮をとるダグラス・マッカーサー将軍の指令に服従するものであった」(コンスタンティーノ)(35頁)

2 日本の占領がフィリピンにもたらしたもの

 (1)米国の矮小さの露呈
 「マッカーサーの逃走に失望したフィリピン人・・のあいだ<で>マッカーサーとアメリカ合州国の「裏切り」にたいする失望感がひろがっていた。」(38-39頁)
 「アメリカ政府・・は・・アメリカ人の犠牲を最小限にとどめたまま戦争を終わらせるために、マニラその他の都市を無差別爆撃して、・・多くのフィリピン人を殺してしまった」(レクト)(190頁)
 (戦後アメリカはフィリピンに経済・財政援助を行う条件として、フィリピン憲法に、アメリカ人に対し、フィリピンの天然資源採掘権に関し内国民待遇を与える規定を盛り込むことを要求した。(PP427))
 
 (2)フィリピン自立化への動き
 (スペイン人はフィリピン人にスペイン語を習得させないようにしたが、アメリカはフィリピン人に英語の習得を義務付け、政府の行う試験はすべて英語でおこなわれた。(PP371-372)やがてフィリピン人の多くは、フィリピンが東洋唯一のキリスト教国であるだけでなく、東洋で最も西洋化した国であることを自慢に思うようになった。(PP381)アメリカの上面だけを見て、フィリピンは物質主義に染まってしまい、詩人や思想家は馬鹿にされるようになった(PP383))
 「<日本>軍政当局は、日本軍と大東亜共栄圏理念にたいする直接の批判でないかぎりフィリピン人の民族意識をみとめる、と公言した。・・タガログ語の奨励という占領行政のたてまえを文字どおりのかたちでつらぬく努力を惜しまなかった・・。」(122頁)
 (日本軍政当局は、タガログ語の使用、教育を奨励するとともに、タガログ語及びフィリピン史の学校教育はフィリピン人教師が行わなければならないこととした。(PP397))
 (タガログ語で文学作品が生み出されるようになると、田舎を舞台にするものが数多く出現した。これは以前には見られなかったことだった。(PP409))
 「たしかに日本人は利己的な動機によってわれわれを東洋化しようとした。それはアメリカがかれら自身の動機によってわれわれを西洋化しようとしたことと同様である。しかし、われわれを人工的な西洋文化からひきはなそうとする動きにかぎっていえば、それはわれわれにとって正しく、よいものであった。」(コンスタンティーノ)(186頁)
 (日本軍政当局は、フィリピン人のためのフィリピンの確立、を推進した。(PP395))
 
3 とりあえずの結論

 総力戦を戦っていた日本には本格的なフィリピン占領政策、とりわけ経済政策を展開する余裕などなく、また日本がフィリピン占領を占領していた期間も余りにも短いものでした。
それでも以上からだけでも、どうやら、日本の異民族(フィリピン)統治の方法が、異民族(フィリピン)を宗主国(日本)に従属させる方向性を持っていなかったという点で、米国の異民族(フィリピン)統治の方法とは決定的に違っていたらしいこと、は分かります。
 この日本の異民族統治のユニークさが、台湾人や朝鮮人の自立心と自尊心を確立ないし強化し、そのことが日本からの独立後の台湾と韓国の経済発展につながった、と私はとりあえず考えています。
 それにしても、(フィリピンもイラクも、(日本ではない国を宗主国とする)植民地歴の長い国ですが、)日本の占領当時のフィリピンとフィリピン人の姿は、現在米国等の占領下にあるイラクとイラク人の姿とそっくりですね。どうやらその後のフィリピンが苦難の道を歩んだように、イラクもまた主権回復後、苦難の道を歩むことになりそうな予感がします。

(私のコメント)
テレビなどでは上海万博の開会式の実況や紹介などが多くなっていますが、今年中に中国が世界第二位の経済大国になるそうです。しかし中国が大きく経済発展するようになったのは改革解放後であり特に90年代半ば以降のことだ。アメリカの伝統的な西進政策で中国をアメリカの巨大市場として育てようとしたからだ。

戦前において日本の南下政策とアメリカの西進政策がぶつかったのがフィリピンであった。フィリピンはアメリカがスペインとの戦争で勝ち取った植民地であり、中国への橋頭堡でもあった。アメリカの植民地政策がどのようなものであったかを理解すれば、日本におけるアメリカの占領政策の原型のようなものが理解できるだろう。それは教育政策に大きな特徴が見られる。

フィリピンは長い間スペインの植民地であり、スペインはキリスト教でフィリピンを支配して来た。それに対してアメリカは徹底した英語教育で親米感情を植えつけていった。日本はこのようなフィリピンの事情をを知っているから、徳川幕府はキリスト教を禁止して鎖国に踏み切った。秀吉や家康はキリスト教が帝国の支配手段だと見抜いたからだろう。

明治維新以降は開国に踏み切りましたが、欧米列強と対抗して行かなければならず軍事大国化へまっしぐらに突き進んだ。一番の圧力となったのはソ連の共産主義であり、その脅威は1991年のソ連崩壊まで続いた。それと同時に米英主導の帝国主義ともアジア市場をめぐって戦争になった。フィリピンもその市場の一つですが、日米が衝突する場所でもあった。

アメリカのフィリピン植民地支配は四十数年の長いものではなりませんが、英語が公用語として定着している。今でも小学校から英語が教えられて高等教育は英語で行なわれている。それに対して日本のフィリピン支配は数年の僅かな期間でしたが、タガログ語の奨励やフィリピン人教師による歴史教育など民族主義を高揚させるものだった。

このように日本も台湾や朝鮮半島の植民地への教育政策も大きく変わるものではありませんが、植民地への日本語教育が批判の対象に今でもなっている。フィリピンへのタガログ語の奨励にも見られるように、台湾の台湾語や朝鮮の朝鮮語やハングルの使用などを奨励してきたのですが、高等教育は日本語で行なわれてきた。

しかし世界大戦で勝ったのは米英であり、負けたのは日本とドイツであり、世界の公用語としても英語が認められるようになった。言葉の戦争は文化の戦争でもあり、言葉の戦争で負ければ、その国民はその国の歴史を失う事になる。フィリピンが英語圏に組み入れられて現地語が忘れられていくのだろうか?

ヨーロッパにおいてもドイツやフランスの大学では経営学などの理数系の教育は英語でも行なわれるようになってしまった。まさに17世紀頃のキリスト教のような世界的広まりですが、言葉は単なる語学ではなくイデオロギーでもある。インドやフィリピンのように英語を公用語とする限りにおいては米英の文化支配を受け入れざるを得ないのだろう。

最近における日本人の内向きな姿勢は徳川時代初期の鎖国政策にも似ている状況なのだろうか? 最近ではアメリカへの留学生も大きく減って来ていますが、これも日本人の鎖国意識の現われなのだろうか? テレビ番組や映画やヒット曲などを見てもアメリカのものが少なくなっている。日本人の英語離れはハリウッド映画や洋楽離れが原因ではないだろうか?

しかしこれだけグローバル化が進めば世界的に英語が公用語となる流れは進む一方だ。それに対して日本では知的鎖国主義が広がり始めている。携帯電話などではガラパゴス化が言われていますが、文化全体にガラパゴス化が進んでいるような気がする。日本はキリスト教と共産主義を排除してきたように英語文化そのものも排除しようとしているのだろうか?

戦前なら英語もドイツ語もフランス語も外国語として受け入れてきましたが、現代のグローバル化時代になって英語が世界の公用語となり、国際会議でも英語で発言する事が慣例のようになってきた。しかし日本における知的エリートでも英語で対等な議論が出来る人は極めて少ない。これでは国益を損なうのではないかと思うのですが、これでいいのだろうか? 日本人はなぜ英語を拒否するようになったのだろうか?

江戸時代の鎖国も現代の文化鎖国も時代に逆行しているように見える。英会話学校が次々潰れて行くのはなぜだろうか? アメリカ留学帰りの学生は色がついていると企業から敬遠されるのはなぜだろうか? 結論的にはアメリカ文化には日本人には受け入れられない文化があるからだろう。英語自体に責任はないがキリスト教にもそのような受け入れられないものがあった。

それが何であるか、フィリピンの歴史を見れば分かるのではないかと思う。フィリピン人はキリスト教を信じ、英語を公用語とすることで自分たちの民族文化を失ってしまった。フィリピン文化といわれて思いつくものがあるだろうか? 対抗すべき自分たちの文化が無ければ結局はアメリカ人の言いなりにならざるを得なくなるだろう。

大東亜戦争によって日本人がアジアにもたらしたのは独立自尊の精神だった。それまではアジア人は西洋のような工業国になれるとは誰も思ってもいなかった。そのように西洋人から教育されてしまったからだ。しかし最近では日本人がアメリカ式教育に侵されて独立自尊の精神を忘れてしまっている。外交から防衛にまでアメリカに依存するようになってしまった。だから最近ではアジアでは日本よりも中国の方に期待が集まるようになってしまった。

 

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