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以下は「高知新聞記事情報/G-Search」から検索、転載。
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「過熱する龍馬に寄せて」 隠されていた「軍国土佐」 ブームに潜む危うさ 野田正彰(関西学院大学教授、高知市出身)
2009.12.04 朝刊 14頁 学芸 写有 (全2,576字)
もうすぐNHKの連続大河ドラマで「龍馬伝」が始まる。龍馬は28歳(1862年)で脱藩し、京都、大阪、江戸、神戸、下田、福井、長崎、鹿児島などを行き来し、33歳(1867年)で保守勢力のテロに倒れた。あまりにも短い、だが青年から壮年期へ駆け抜けていった人生は、人びとが若さや情熱に憧れるとき、モデルになりやすい。彼が長生きし、政治や実業において紆余曲折をへていれば、後世の人々は自らのあり得たかもしれない奔放で開明な青春の幻想を投影する対象にならなかったであろう。
龍馬はいつも、「第二、第三の龍馬出でよ」として語られる。19歳で剣道修行のために初めて江戸に出、河田小龍(中浜万次郎の聞き書きを著した)、勝海舟、横井小楠ら、これぞと想う先輩の懐に飛び込み、自己啓発をしていった。それは永い年月をかけた学識、思慮ではなく、手の届きそうなところにある理想像である。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』も、そのような龍馬像を利用した。今再び、視聴率のさらなる上昇を願うNHKが、手の届きそうなところにある理想像を利用しようとしている。
すでに、高知と長崎での龍馬利用は過熱している。NHKでの連続放送による人気を予期し、それを利用して観光ブームにつなげようとする企画は目白押しである。長崎市は龍馬の道、亀山社中への道を整備し、龍馬の幟(のぼり)を連ね、高知の龍馬から長崎の龍馬へ、お株を奪おうとしている。長崎に少し遅れたかに見える本家高知市、高知県も、龍馬観光作りに追い込みをかけている。さらに、東京の宣伝会社が龍馬を利用して観光ブームを作りたいと熱望する高知人の心理をくすぐり、龍馬企画を売りこんでいる。作られた手の届きそうなところにある理想像は、司馬によって利用され、さらにNHKによって利用され、さらに高知や長崎によって利用され、その利用しようとする心向けが東京の広告会社とそれに群がる文化人によって利用されようとしている。
1968年の明治維新百周年に始まって徐々に、とりわけ80年代後半より、高知県人は坂本龍馬を消費してきた。空の玄関は高知龍馬空港と改名され、写真撮影の黎明期、上野彦馬の写真館で撮られた龍馬の写真は標章(エンブレム)となって、龍馬グッズとして溢れている。飾り台にもたれ、遠くを見つめる肖像は、若さ、希望、文明開化の象徴である。噛んでも噛んでも噛み尽くせぬ、食べても食べても食べ尽くせぬ龍馬像であるとしても、それを消費し続けている高知人は幻想の青年期に足踏みしていることになりはしないか。
龍馬が生きていれば、どうなったか。彼の「船中八策」には、後の自由民権運動に発展する思考――「上下議政局を設け議員を置きて万機を参賛せしめ万機宜しく公議に決すへき事」と、国権を強化し朝鮮・中国へ出て行こうとする構え――「政令宜しく朝廷より出つへき事」、「海軍宜しく拡張すへき事」、「御親兵を置き帝都を守衛せしむへき事」など、二つの方針がより合わされている。
その後の土佐は征韓論(後者)をへて、立志社を興し、言論(前者)によって政治を動かそうとした。その卓越した思想家は植木枝盛であった。彼は龍馬と同じく、板垣退助ら優れた先輩の懐に飛び込み、福沢諭吉などの明治啓蒙思想家の講義を聴き、彼らを超えて市民思想を創っていった。18歳で、「高知新聞」に部落差別を非難する投書を出している。人権の不可侵を強調し、男女同権を説き、市民の抵抗権、革命権、死刑の廃止、国籍離脱の権利を明文化した日本国国憲案を作り、万国共議政府(国連)と国際法による世界平和の実現を構想した。だが自由民権運動は弾圧され、10年後の1880年末には力を失い、枝盛も1892年、36歳で急死した。
以後半世紀をこえ日本敗戦まで、天皇制君権主義を否定した自由民権運動は知ることさえ許されなかった。例えば土佐中学を出た呉服孝彦は枝盛の著作を出版しようとして、警察に迫害され、26歳の若さで自殺(1938年)したといわれている。
自由民権から天皇制軍国主義へ、高知県はその振幅の最も大きかった県である。封建大名であった山内家は土佐の子弟を軍人にするため海南中学(現・小津高校)を創り、卒業生の多くを陸軍士官学校、海軍兵学校へ送り込んだ。小さな県(現在の人口も80万たらず)で、これほどの将官を出したところはないであろう。太平洋戦争開戦時のシンガポール攻撃、フィリピンにおける敗戦時の司令官、山下奉文(ともゆき)陸軍大将は土佐の山里の人である。彼の軍隊はシンガポールで華僑を大量虐殺、マニラ防衛でも無数の市民を虐殺した。敗戦直後の陸軍大臣、下村定(さだむ)大将も高知市の人である。開戦時の軍令部総長であり、フィリピンのレイテ戦で神風特攻機による攻撃を始めた日本海軍の最高責任者、永野修身(おさみ)元帥も高知市の人である。『高知県人名事典』を開くと、大将、中将、枚挙に暇(いとま)がない。将官だけでなく、徴兵された兵士は攻撃的な軍隊となって中国侵略を支えた。
龍馬が活動した十数年に比べて、遙(はる)かに永い半世紀をこえる軍国主義の時代がある。にもかかわらず、高知県人に軍国土佐について尋ねるとほとんど知らない。政治的に隠されている。龍馬のロマンから一直線に、今日の高知へつづいているわけではない。封建士族の心情は軍国土佐に継承され、国家権力の強化によって一身を確立しようとする権威主義、上下のタテ関係、立身出世、狭い秩序のなかでの几帳面さは戦後の高知文化にも流れ続けてきた。敗戦後、かつての自由民権運動のように涌きあがった民主主義を暴力的に抑圧していったのも、底にひそんだ尚武保守の伝統であった。戦後の進学出世の風潮にもつながっている。
NHKの時代ドラマは作り話である。フィクションによって感情を沸きたたせ、歴史を歪(ゆが)めて見てよいものではない。土佐人こそ、近代高知の歴史を直視し、過去を克服する位置にある。龍馬の精神は自国民向きの語りを止めることを求めているのではないか。
<参照>
大河ドラマ論争「龍馬伝」(土佐高知の雑記帳)
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-1754.html