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平城遷都1300年「奈良時代」から現代日本と世界を考える(3−1)【産経】
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/100103/trd1001031519004-n1.htm
2010.1.3 15:17
奈良の平城京・大極殿前で、本紙編集委員から取材を受ける京都女子大学の瀧浪貞子教授=26日午後、奈良県奈良市(塚本健一撮影) □京都女子大教授・瀧浪貞子氏に聞く
■シルクロード、政変…天平の「光と影」
■厳しい外交に耐え国造り
平成22(2010)年は、平城京への遷都が行われて1300年になる記念の年である。
奈良時代というと、シルクロードと結ばれた国際色豊かな文化が思い起こされるが、一方では現代にも似た激動の時期であり、外交交渉でも緊張を強いられた時代だった。
10年をかけた復元事業が間もなく完成する平城京大極殿(奈良市)を訪ね、古代史研究家の瀧浪(たきなみ)貞子・京都女子大教授から話をうかがった。
教授の語る「奈良時代の光と影」についてのエピソードには、現代にも通じる教訓があった。(論説副委員長 渡部裕明)
◇
−−ずいぶん立派な大極殿(注1)ですね。南を振り返ると朱雀門も見えます
瀧浪貞子 ここは和銅3(710)年3月、約20キロ南にあった藤原京(奈良県橿原市など)から遷(うつ)ってきて建てられた最初の大極殿(第一次)の跡です。
このあたりを散策していると、1300年前にタイムスリップした気分になってきますよね。
≪「日本」の幕開け≫
−−奈良時代というと、「青丹(あおに)よし奈良の都は咲く花の匂(にお)うがごとく今盛りなり」という小野老(おゆ)の歌が浮かびます。
東大寺の大仏や万葉集もある。
文化的できらびやかな時代だったんですね
瀧浪 8世紀は大宝律令(注2、701年)が作られ、翌年に発遣された遣唐使が「日本」という国号を唐に伝えて幕を開けます。
唐の都・長安を模した平城京は、律令国家の完成を内外に高らかに宣言するものでした。
東アジアの独立国として産声を上げたわけです。
仏教を取り入れ、シルクロードを経由したさまざまな文物も輸入し、いわゆる「天平文化」を作り上げます。
しかし一方では、この時代の政界にはさまざまな陰謀が渦巻き、「長屋王(ながやおう)の変」(729年)や「橘奈良麻呂の変」(757年)、「藤原仲麻呂の乱」(764年)、「道鏡(どうきょう)事件」(769年)など政変や内乱も相次ぎました。
自然災害という点では、飢饉(ききん)や地震、さらに天然痘の大流行にも見舞われました。
血なまぐさく、平穏に生きることが難しい時代であったことも忘れてはなりません。
−−この時期、日本はなぜ律令制を取り入れたのでしょう
瀧浪 平城遷都から半世紀前、日本は国家存亡の危機を体験したのです。
有名な「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)ですね。
当時の日本は「倭(わ)」と呼ばれていましたが、朝鮮半島南西部にあった百済と深い交流をもっていました。
その百済が唐と新羅(朝鮮半島南東部にあった国)の連合軍に攻め滅ぼされ、再興を助けるためわが国は2万7千人もの軍隊をはるばる朝鮮半島に派遣したのです。
兵士たちは列島各地からの寄せ集めで、しっかりした戦略もなく、唐・新羅軍に完敗しました。
総指揮官だった中大兄皇子(のちの天智天皇)は、出向いていた前線の博多で知らせを受け取ったのですが、唐・新羅軍はそのまま日本に攻めてくるのではないかと、あわてて山城などを設けて防御体制を整えました。
百済からの亡命技術者の指導で造られた朝鮮式山城(やまじろ)や水城(みずき)(福岡県大野城市など)の跡は、いまでも残っています。
≪敗戦教訓に律令制≫
−−その危機感が、律令国家につながったのですね
瀧浪 そういうことです。
新羅はその後、同盟国だった唐を追い出し朝鮮半島を統一したため、日本侵攻の危機はとりあえず去りました。
しかし、厳しい国際情勢に対応するためには、国家としての力をつけることが焦眉(しょうび)の問題となりました。
政府の方針がきちんと行き渡る中央集権国家の確立こそが先決とされ、唐にならって律令国家の道を歩むことになったわけです。
「壬申の乱」(672年)という回り道もあったのですが、大宝律令を完成させて、制度としての律令体制はできあがりました。
公地公民の制により人民を掌握し、税制を整え、貨幣(和同開珎(かいちん))も発行しました。
平城遷都はその総仕上げの事業だったわけです。
もちろん、以前の藤原京(694年〜)も条坊(じょうぼう)制をもった立派な都でした。
しかし藤原京は飛鳥と近すぎて、豪族たちが都に集住することはなかったのです。
彼らを、先祖以来住み着いた飛鳥から切り離して都に集め、官僚として天皇のもとに出仕させるには、さらに遠距離への遷都が必要だったのです。
平城遷都はいわば、豪族たちを都市民化する措置でした。
それは為政者がイニシアチブをとるための、大きな賭けでもあったのです。
◇
注1 大極殿 古代朝廷の正殿。殿内には高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的な儀式が行われた。
文化庁によって復元された大極殿は、高さ約29メートル、正面約44メートル。
平成13年度から約180億円をかけ、発掘調査で確認された遺構を手がかりに、奈良時代の建築技術と最新の構造解析などを合体させてできあがった。
今春、完成式を行い、一般に公開される。
◇
注2 大宝律令 令は人々を治める諸法律で、律はそれを強制させるための罰則を定めている。
大宝律令は、天武天皇の飛鳥浄御原(きよみがはら)律令を拡大整備させたもの。
文武天皇が刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らに命じて編纂(へんさん)させた。