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年月日 |
ソ連・国際 |
鳩山民主党 |
重光外相 |
吉田自由党 |
1943
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カイロ宣言に、『南樺太と千島列島は日本がロシアから盗んだもの』と明記 |
実際のところは千島列島は日本固有の
→ 領土であり、南樺太はポーツマス条約
によって日本に割譲されている。
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1945
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カイロ宣言の内容を踏襲し、ポツダム宣言を採択。 |
→ 日本は南樺太、千島列島、北方四島を
放棄、ロシアへ譲渡。
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1951
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サンフランシスコ講和会議で、領土問題を放置 |
→ 講和条約で国境線を不確定のままにする
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STYLE="font-size:3.70mm">1953
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スターリン死去。フルシチョフが政権を掌握 |
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朝鮮戦争の停戦が成立 |
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経済が悪化し、支持率低下 |
1954
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10
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中国と共同声明、日本と外交関係正常化の用意があることを発表 |
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11 |
24 |
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日本民主党結成(総裁鳩山一郎) |
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12
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7 |
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内閣総辞職 |
10
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第一次鳩山内閣成立 |
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ソ中共同声明に対し国交正常化歓迎の旨を回答 |
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16
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モロトフ外相が講和条約交渉にはいる用意があることを発表 |
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元ソ連代表部のドムニツキーが重光外相に打診 |
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ドムニツキーの打診を拒否。
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ドムニツキーが鳩山首相に打診 |
ドムニツキーの打診を快諾。 |
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1955
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1
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7
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ドムニツキーが鳩山邸を訪問
アデナウアー方式の交渉を提案 |
アデナウアー方式を了解
ソ連抑留法人の送還などを要求 |
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25
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ドムニツキーが書簡を携え再び鳩山邸を訪問、意見交換を希望 |
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書簡の信憑性の確認を指示、ロ政府正式表明であることを確認 |
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2
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3
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政府与党首脳会談。重光がアデナウアー方式に反論、さらに交渉地を対米配慮でニューヨークと提案。 |
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4
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定例閣議で対ソ交渉開始を決定。重光提案の、交渉地ニューヨークにはロシアが反対し、交渉地はロンドンで合意。 |
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3 |
19 |
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第2次鳩山内閣成立 |
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4
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1
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閣議で対ロ交渉全権を松本俊一に決定 |
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6
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3
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ロンドン駐英ソ連大使館にて第1回日ソ交渉開始。
ソ連大使マリクと日本全権松本の会談は領土問題に入り、双方の主張が食い違い平行線に。 |
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9
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ソ連側マリクが歯舞・色丹の2島返還による妥協案を提示 |
松本、マリクの提案に好感触、本国政府に打診 |
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松本、外務省からの4島返還要求をマリクに伝える。マリクはこれを拒否。ロンドン交渉決裂。
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松本からの打診を外務省内で極秘処理、「4島返還を要求せよ」と返信 |
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9
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アデナウアーの西独政府を承認 |
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11
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15
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自由民主党結成
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佐藤栄作ら新党に不参加 |
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反日ソ交渉勢力に重光率いる旧改進党系のほか、旧吉田自由党が加わり、党内反ソ勢力拡大。 |
「4島返還」を党議決定 |
22 |
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第3次鳩山内閣成立 |
1956
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1
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17
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ロンドンでマリク、松本による日ソ交渉再開も、「平和条約締結時に2島返還」と「4島返還」の意見の相異は変わらず、進展なし。 |
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3
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21
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モスクワ放送、北洋漁業制限についてのソ連政府決定を発表。事実上、ソ連側からの対日報復措置 |
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4
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5 |
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自民党臨時大会で初代総裁に鳩山を選出 |
21
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農相・河野一郎を団長とする、漁業交渉代表団が訪ソ |
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29
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日ソ漁業交渉開始。ソ連・イシコフ漁業相と会談するも全く進展せず。河野はブルガーニン首相との政治会談を要求。 |
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5
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9
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モスクワ・クレムリン宮殿にて、ブルガーニン・河野会談
7月末までの国交回復交渉再開を条件に暫定漁業協定を取り決めることに成功 |
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14 |
日ソ漁業条約調印 |
7 |
31 |
重光全権団、モスクワで日ソ交渉再開するも、失敗 |
10
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12
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鳩山全権団、訪ソ。
国賓待遇としてスピリドノフカ迎賓館へ招かれる。 |
15
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全体会談。
フルシチョフ党第一書記と河野農相の交渉の結果、歯舞・色丹については「ソ連は平和条約発効時に、両島を日本に引き渡す」とソ連側が譲歩、南千島については「両国間に正常な外交関係が回復された後平和条約の締結に関する交渉を継続する」と日本側が譲歩した。 |
19
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日ソ国交回復に関する共同宣言調印 通商航海議定書調印 |
12
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20 |
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鳩山内閣総辞職 |
23 |
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石橋湛山内閣成立 |