多極化と日本(2)北方領土と対米従属 http://tanakanews.com/g0919japan.htm
この記事は「多極化と日本(1)」の続きです。
「北方領土問題」といえば、日本とロシア(ソ連)の間の外交紛争であるというのが常識である。しかし、この問題が日露間の紛争として立ち現れてきた経緯について勉強してみると、実は北方領土とは、アメリカが作った問題であることが分かる。 戦前に日本領だった千島列島は、終戦前後にソ連が占領し、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本の領有権が放棄され、事実上、千島列島のソ連領への編入が容認された(ソ連自体は条約に署名しなかった)。日本は、敗戦後の自国の後見人となったアメリカに対し「ソ連が占領している島々のうち、歯舞・色丹の2つは、北海道に非常に近く、千島列島ではなく北海道の一部であるので、この2島は日本領であると決めてほしい」と頼んだ。 だが、アメリカ国務省は「日本が不満なら、国際司法裁判所に提訴する権利がある」と表明したものの、講和会議でソ連に「歯舞・色丹は日本領だ」と日本の主張を代弁してくれることはなく、日本が領有権を放棄することが講和条約で定められた「千島列島」には、国後・択捉だけでなく、歯舞・色丹も含まれるという解釈になった。アメリカは、第二次大戦でソ連の対日参戦を得るため、ソ連が参戦したら千島列島をソ連領にすることを認めると、1945年のヤルタ会談などで提案していたため、サンフランシスコ講和会議でも、アメリカは北方領土に関してソ連寄りの立場をとった。 日本の政界には、歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉の「南千島」2島も、サンフランシスコ講和条約で述べられた千島列島とは別であり、日本領として国際的に認められるべきだ、という主張があったが、日本政府はこの立場はとらず、講和会議後の国会における政府答弁で、領有権を放棄したことを確認している。この時点では「北方領土問題」の対象は、歯舞・色丹だけだった。(関連記事) 北方領土問題の対象が2島から4島に拡大されたのは、4年後の1955年のことである。この年、米ソ間の冷戦激化を受け、ソ連は自陣営の拡大策の一つとして日本との関係改善を模索し「日本と平和条約を結んだら歯舞・色丹を返しても良い」と提案してきた。 日本政府は翌56年7月、モスクワに代表を派遣して日ソ和平条約の締結に向けた交渉を開始したが、交渉途中のある時点から日本政府は態度を変え「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉も返してくれない限り、平和条約は結べない」と言い出した。交渉は妥結せず「ソ連は、日本と和平条約を締結したら歯舞・色丹を返す」という表明を盛り込んだ日ソ共同声明だけを発表して終わった。 ▼返還を難しくする返還運動 日本が態度を変えたのは、日ソ交渉の最中の1956年8月に日本の重光外相とアメリカのダレス国務長官が会談し、ダレスが重光に「日本が国後・択捉の返還をあきらめて日ソ平和条約を結ぶのなら、アメリカも沖縄を日本に返還しないことにする」と圧力をかけてからのことだったという指摘がある。(関連記事) つまりアメリカは、1951年には日本に「歯舞・色丹もあきらめろ」と言っていたのに、1956年には「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉の返還もソ連に要求しないと許さない」と言ったことになる。アメリカが最初の主張で一貫していたら、日本は、1956年に歯舞・色丹の返還だけで満足してソ連と和平条約を結んでいただろう。 逆に、アメリカが最初から日本の右派の「4島返還」を支持していたら、ソ連は1955年に、日本に4島を返還して和平条約を結ぼうと提案してきたかもしれない。アメリカは、ソ連の出方に応じて日本への圧力のかけ方を変えた結果、日ソ和平条約の締結を阻止することに成功した。 ソ連側から見ると、日本の要求通り2島を返すと1955年に提案したところ、日本は要求を4島につり上げてきたことになる。ソ連からすれば、それなら4島返すと言ったら、今度は日本は別の要求を上乗せしてくるかもしれないと思えてしまう。ソ連が、2島なら返すが4島は絶対ダメだという姿勢になったのは、交渉の流れとしては当然の反応である。 日本では、ソ連の態度硬化に対応するかのように「北方4島が全部返ってこない限り、ソ連との和解はない」という北方領土返還の主張が、世論を巻き込んで声高に叫ばれるようになった。日本が「4島一括返還」を要求している限り、ソ連は譲歩を拒み、領土は一つも戻らず、日ソの和解も不可能になるという膠着した状況が生まれた。1956年以来、日本で展開されている北方領土の返還運動とは、実は表向きの主張とは逆に、北方領土の返還をいっそう難しくする効果をもたらしている。 この運動を展開してきた右翼に対し、アメリカからの資金提供がなされていたという報道もあったが、これらのことから考えると、北方領土返還運動とは、日本に対米従属を維持させ、日本がソ連などアメリカ以外の勢力との関係を持たないようにさせることを真の目的として、日米の上層部によって構築されたものだろう。真に領土の返還を求めている人は、この運動に乗せられるべきではなかった。 北海道には、至るところに北方領土返還要求の看板やポスターが掲げられているが、実は北海道の発展にとっては、努力するほど目標達成が遠のく構造になっている「返還」運動をするより、ロシアと和平条約を結んで経済関係を強化した方が、はるかにプラスが大きい。 ▼冷戦を長期化させる道具としての北方領土 アメリカは、日本にソ連との関係改善を事実上禁止したのと同時期の1955年に、西ドイツに対する連合軍の占領を解くとともに西ドイツを欧米軍事同盟のNATOに入れ、ソ連側と対峙する姿勢を強めた。NATOの結成に対抗するため、ソ連は55年に東ドイツやポーランドなど東欧諸国を束ねる軍事同盟「ワルシャワ条約機構」を作り、冷戦が長期化する構図が決定的になった。世界的な米ソ関係の流れの中で見ると、北方領土問題の「創設」は、アメリカが冷戦を長期化させるために行った工作の一つだったと感じられる。 冷戦とは、先にソ連の拡張的な野心が存在し、米英はソ連の脅威を防御しただけだというのが「通説」だが、私は、実は長期の世界的対立を欲していたのは米英の側であり、ソ連は米英の巧みな「敵を作る」戦略に乗せられて強硬姿勢になったのだろうと考えている。(関連記事) 冷戦開始のわずか数年前、米英の巧妙なプロパガンダ作戦によって「極悪な世界の敵」に仕立てられ、破滅させられた経験を持つ日本にとって、1955年の時点で、アメリカの意に逆らって「極悪」に仕立てられつつあるソ連と親密になることの危険さは十分に分かっていたはずだ。 ▼冷戦後も繰り返されたすれ違い 次に日本とロシアが和解できる可能性が高まったのは、冷戦終結後の1990年代である。共産主義のソ連はなくなり、ロシアは親米的なエリツィン政権になった。アメリカは、ロシアが再び欧米の脅威にならぬよう、自由市場化して西側経済の枠組みの中に取り込むことを目指し、1997年には、米クリントン政権の主導で、ロシアは先進国首脳会議(G8)のメンバーとなった。アメリカにとって、日本がロシアとの関係を改善し、東方からロシア経済を支援することは、むしろ望ましいことになった。 ところが、1993年に行われた日露首脳会談に至る過程では、1956年と同じ事態が繰り返された。日本側からの提案で、平和条約を視野に入れた、北方領土のついての話し合いが行われたものの、ロシア側が歯舞・色丹の2島返還しかできないと表明したのに対し、日本側は4島返還しか受け入れられないと言い、話は決裂して、和平条約の代わりに1956年と似たような共同宣言(東京宣言)だけを出して終わった。(関連記事) ロシア側は以前から、北方領土問題は「法と正義に基づいて解決されるべきだ」と言い続けているが、その意味するところは「日本は、千島列島を放棄したサンフランシスコ条約を批准しているのだから、明らかに千島列島の一部である国後・択捉は、日本に返還される必要はない。国後・択捉は千島列島とは違う南千島であるといった日本側の主張は、条約無視の不正義である」ということである。 ロシアから見れば、日本の4島返還の主張は、アメリカが日ソ(日露)の和平条約の締結を阻止するために、1956年に日本に言わせた主張であり、日本が4島返還にこだわっている限り、日本はロシアと和解するつもりがないのだと受け取られる。プーチン大統領は「(1993年の)交渉は日本の提案で始めたのに、ロシアが4島返還は無理だと(従来通りに)返答したら、日本は交渉をやめてしまった。まったく不可解だ」という趣旨の発言をしている。(関連記事) ▼ドイツとは手打ちしたが日本とは・・・ その後、昨年(2005年)には、こんどはロシアの方から、北方領土問題を解決して日露関係を正常化しようとする動きがあった。この背景には、世界の多極化がある。 03年に米軍がイラクに侵攻して占領の泥沼化に陥って以来、外交的・軍事的なアメリカの覇権力の減退が始まるのと並行して、ロシアやドイツや中国など、アメリカ以外のいくつかの大国が、覇権の拡大を模索する動きを開始し、世界の多極化が始まった。この流れの中でロシアは、ドイツ、中国など、他の大国との関係の緊密化を求める、いわば「非米同盟」作りを行っている。ロシアとドイツの間の海底パイプラインの建設や、ロシアと中国との国境紛争の解決などが、その具体例である。(関連記事) 昨年5月、モスクワで、第二次世界大戦の終結(戦勝)60周年を記念する国際会合が開かれた(独ソ戦は1945年5月に終わった)。そこにはブッシュらG8諸国の指導者のほとんどや中国の胡錦涛主席など、旧連合軍諸国のトップが勢揃いする一方、ドイツのシュレーダー首相も参列し、ロシアとドイツというかつての仇敵が終戦60周年を期に、歴史的な和解と親密な戦略的関係を構築したことを、世界に示す会合となった。いわば、世界の多極化をふまえたロシアとドイツの「手打ち式」が、ブッシュの参加も得て行われたといえる。(関連記事) プーチンは当初、この会合を、ドイツとだけの和解ではなく、もう一つの敗戦国である日本との和解を示す手打ち式にしようと考えていた。プーチンのロシアは、石油やガスを欧米やアジアに売って儲けることで国を発展させようとしており、日独との和解は、エネルギーの販路拡大という意味でも望ましかった。プーチンは、モスクワの戦勝記念会合に小泉首相を招待したのと前後して、北方領土問題の話し合いも再開しようとした。(関連記事) ところが、04年秋にプーチンからの招待状を受け取った小泉は、何カ月も返事を延ばした挙げ句、多忙を理由に誘いを断った。ブッシュやブレアも参加する世界的な会合に小泉が参加しないのはまずい、ということで内外から圧力がかかり、結局は小泉は参列することにしたが、ロシアからの和解の誘いは受けたくないという日本側の意志が感じられる対応となった。(関連記事その1、その2) これとは別にプーチン政権は04年夏、プーチン自身が日本を訪問し、小泉と北方領土問題の解決に向けた首脳会談をやりたいと日本側に打診してきた。だが、日本側の答えは「プーチンが4島全部を日本に返すつもりがない限り、来てもらっても歓迎できない」というものだった。(関連記事) ロシアからの外交攻勢が強まる中で、小泉は04年9月、北方領土を海上から視察し、元島民との対話集会を開き、ロシアからと簡単には手打ちしない姿勢を見せた。結局、プーチンは05年11月に訪日したが、訪問時の話題の中心は、日本側に石油や天然ガスを買ってもらおうとする経済の話で、北方領土問題についてはほとんど話し合われなかった。(関連記事その1、その2) ▼国後・択捉を取り戻すことは不可能 ロシア側は、ソ連崩壊直後の混乱で国力が弱っていた1993年でさえ、国後・択捉の返還については全く応じなかったのだから、その後、経済力や国際政治力が再拡大している今のロシアが4島返還に応じる見込みは全くない。アメリカの覇権の衰退や、エネルギーの需給逼迫とともに、ロシアは今後も強い状態が続くだろう。 日本が国後・択捉を領土として取り戻すには、自衛隊を出撃させて島を武力で占領するぐらいしか手がないが、ロシアと本気で戦争したら、ロシアの死者100万人に対し、日本の死者が2500万人になるような自殺行為であることは、前回の記事に書いたとおりだ。今の情勢では、国後・択捉を取り戻すことは不可能である。(関連記事) にもかかわらず、日本政府が4島返還にこだわっているのは、なぜなのだろうか。アメリカが裏から日本政府に冷戦時代と同じ圧力をかけ続けているのか。そうではないだろう。 すでに書いたように、クリントン時代(1993−2001年)のアメリカは、むしろ日本とロシアが経済関係を強化することを望んでいた。クリントンに比べてロシアへの警戒感が強いブッシュでさえ、ロシアとドイツの「手打ち式」に参列しており、ドイツと同様に日本がロシアとの関係強化を望めば、容認されたはずである。(アメリカの右派マスコミは批判記事を出すだろうが) 「政府が4島返還にこだわるのは、それが日本国民の世論だから」と考える人がいるかもしれないが、これは話の順序が逆である。政府が国民に、国後・択捉の返還が絶望的なこと、ロシアとの関係を正常化すればエネルギー源の確保や北海道の経済再生などの利点が大きいことをきちんと説明すれば、2島返還でも良いという世論が増えるはずである。政府がマスコミを動員して4島返還でなければならないという宣伝をしているから、多くの国民は「そんなもんかな」と思っている。 どこの国でも、国民の多くは外国の事情には疎いから、外交問題をめぐる世論の多くは、政府の宣伝の方向性によって、いかようにも変わる。政府が「戦争すれば必ず勝つ」と宣伝すれば、好戦的な世論が増えるし「戦争はまずい」と宣伝すれば、外交交渉を好む世論が生まれる。 ▼対米従属は官僚の天下 私が見るところ、日本政府が4島返還にこだわるのは、それを言っている限り、ロシアと和解せずにすみ、日本が外交的にアメリカだけと緊密な関係であり続けられ、対米従属戦略を継続できるからだ。 日本は、軍事的にアメリカの「核の傘」の下にあり、自衛隊は米軍の一部のように機能しているが、これと同様に、日本は外交的にもアメリカの世界戦略の傘の下にあり、外務省はアメリカ国務省の分室のように機能しようとしてきたのが、戦後日本の対米従属戦略である。戦後しばらくは、アメリカからの圧力で、日本は対米従属を強いられていたかもしれないが、この体制はしだいに日本側にとって、安心できて気楽で心地よいものとなった。 日本にとって対米従属が安心できる理由の一つは、欧米諸国による謀略が複雑に絡み合う国際政治が、明治維新以来の120年の学習期間しかない日本人にとって不可解なものであり、特に惨敗した第二次大戦後は、自立した外交をやるとまた失敗しそうだという不安があるからだろう。中国やインドなど他のアジア諸国も、これまで欧米が動かしてきた国際政治に首を突っ込むことには慎重である。(関連記事) この点、ドイツは古くから欧州の謀略政治の中にいたから、冷戦後、自国に対するアメリカからの圧力が弱まった機会をとらえて覇権の復活を目指し、ロシアとの手打ちにも積極的だった。日本はドイツとは逆に、アメリカの傘の下から出ない方が安全だと考え、ロシアとの関係正常化を好まなかった。 一方、政治家と官僚という日本国内の権力構造から見ると、戦後の対米従属は、官僚がアメリカと直結し、国内政治家の影響力を除外して官僚が外交政策を決定できる体制である。政治家としては、本来は自分たちが持つべき外交権が「対米従属」の名目のもとに官僚に奪われてしまっていることになるが「アメリカの意志」という伝家の宝刀を振り回す官僚系の勢力にはかなわない。 野心ある政治家としては、内政だけでなく外交でも、自分で考えた戦略や政策を実施したいと考えるのは当然だ。ところが、政治家が外交で独自の活躍をしようとすると、すぐに外務省などから横やりが入る。日露関係では、鈴木宗男氏がその例だ。彼は、北方領土問題に関して「2島返還プラスアルファ」の戦略を提案している。これは、ロシアが認める2島返還をベースにして、日本側の思いも少しはかなうよう、国後・択捉の島の一部、もしくは何らかの追加の権利を、ロシアから日本側に返す方向で話をまとめようとするものだ。 この案は、問題解決の方法としては現実的なのだが、外務省など日本政府内の対米従属派としては、北方領土問題が解決されると困る。そのため2島プラスアルファの構想は無視されるとともに、鈴木を潰そうとする動きが起こり、鈴木は2002年に汚職の容疑で逮捕されたが、その後保釈され、2005年に衆議院議員として復活した。政界に復帰した鈴木がまずやったことの一つは、外務省に対する反撃としての、国会での厳しい質問だった。(関連記事) ▼見ざる、考えざるは続かない 冷戦後「日本は対米従属一本槍を脱し、ロシアや中国などとの関係を緊密化した方が良いのではないか」という意見が国内で強くなったが、対米従属派の劣勢は、2001年の911事件を機にアメリカが「単独覇権主義」を採ったことによって、見事に挽回された。 「世界最強のアメリカは、対抗してくる者をすべて先制攻撃で潰す」というブッシュの姿勢を見て、日本の対米従属派の人々は「アメリカはいずれイラクや北朝鮮だけでなく、中国やロシアなども全部潰すに違いない。日本は、アメリカとの関係だけを強化し、中国やロシアとは関係しない方がよい」という主張をさかんに行い、マスコミの論調も「日米同盟万歳」的な傾向が強まった。 これでアメリカのイラク占領やイラン制裁が成功し、単独覇権主義が長期的な戦略として確立していたら、日本にとっても幸せだったのかもしれないが、事態はそうならなかった。アメリカは単独覇権主義を採ったことによって、逆に覇権を失っており、アメリカの覇権失墜の傾向は今後ますます強まりそうである。日本は、どこかの時点で、対米従属戦略を続けられなくなる。 イラクが大量破壊兵器を持っていないことは侵攻前に指摘されていたし、イランが間もなく核兵器を完成させるという米政府の主張も間違いだということは、欧米の新聞を少し詳しく読めば分かることだった。ブッシュ政権の単独覇権主義は、最初から破綻することを運命づけられていたといっても過言ではない。ブッシュ政権が発するメッセージは、言葉通りに受け取ってはならない何らかの「謀略」であると思われるものが多い。 だが、私が接した限りでは、外務省など日本の対米従属派の人々は、今もまだブッシュ政権の裏側について全く考えていない。たぶん、ブッシュ政権が提示した「単独覇権主義」が、日本の対米従属路線にとってあまりにも好都合だったので、外務省などは、ブッシュ政権の戦略の裏側を、あえて見ないように、考えないようにしてきたのかもしれない。 ブッシュ政権の自滅的な単独覇権行動によって、世界中に反米感情が広がっても、日本政府は親米を貫き、マスコミは国民の反米感情を誘発しかねない国際ニュースをカットし、代わりの穴埋め的に、国内の殺人や誘拐事件を長々と報道している。これらも、対米従属を維持するための戦略の一部なのだろうが、その結果、日本人は世界の動きに無知なまま、何の準備もなしに、対米従属をやめて独自の外交戦略をやらねばならない時期を迎えねばならなくなっている。 石油収入で財政が黒字化したプーチン政権は最近、北方領土の飛行場や道路などの交通基盤にかける政府予算を、従来の20倍に増やすことを決めた。観光業の振興も計画の一つになっており、日本の写真家を北方領土に招いて写真を撮って発表してもらい、日本からの観光客を誘致できないかと考えたりしている。(関連記事) 日本の外務省は、写真家が北方領土に撮影に行くことを禁じたため、計画は頓挫したが、このロシアの動きは、日本がいずれ世界の多極化に対応せざるを得なくなってロシアとの関係も改善することを予期した動きとも思える。国後・択捉は、山と海が迫り、知床半島と似た自然環境にある。日本人が夏休みの旅行先として、世界遺産になった知床を好むのなら、政治環境さえ整えば、国後・択捉にも日本人が大挙してやってくるはずだという読みなのかもしれない。(関連記事)
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