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伊藤博文と安重根     西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/220.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2009 年 10 月 28 日 19:46:43: of0poCGGoydL.
 

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http://mixi.jp/edit_diary.pl?id=1322659694


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−−悲劇は、善と善が戦ふ時に起きるのです。(アンジェイ・ワイダ)−−

私が、初めて韓国を訪れたのは、1986年(昭和61年)の冬の事です。

クリスマスが終はった年末のソウルを訪れたのですが、韓国に着いた翌日、初めて訪れたソウルで、まだ韓国語も下手だった私は、ホテルから出る少人数のソウル市内観光に参加しました。寒い朝でした。そのマイクロバスによる市内観光には、元在日韓国人で、韓国に帰国したと言ふ中年の品の良い女性が通訳として同行して居ました。その女性の日本語の解説を聞きながら、私は、初めて訪れたソウルを見て廻ったのでした。


私たちを乗せたマイクロバスが最初に訪れたのは、南山公園の有る丘でした。そこには、安重根の銅像が有り、彼の書を展示した記念館も有りました。その南山公園で、安重根の銅像の下に立った私は、冬の青空の下、何処か遠くを見つめるその安重根の姿をじっと見つめて居ました。

すると、ツアーの参加者の中で、ただ一人、安重根の銅像の下でじっと彼を見上げる私に何かを感じたその通訳の女性が、私に近ずいて来ました。そして、カメラを持って居る私に、「御撮りしましょうか?」と言ってくれたので、ソウルの朝の冷気の中で、私は、安重根の銅像の下に立つ自分の写真を撮ってもらひました。

その時の写真を見ると、当時のあの冷たい空気と、そこで吐いた自分の白い息を思ひ出します。そして、当時の自分が抱いて居た韓国と安重根に対する思ひをも思ひ出します。

当時、私は、安重根をとても尊敬して居ました。私が、彼を尊敬して居た理由は、その韓国旅行の数年前、私が読んだ小室直樹氏の著書『韓国の悲劇』の影響による物でした。小室氏は、1980年代の、まだ、日韓の「過去」に対する軋轢が強かった時代に、この本(『韓国の悲劇』)を発表して、日本の朝鮮統治再評価しようとして居ました。これは、当時としては勇気有る問題提起でしたが、その一方で、小室氏は、安重根を非常に高く評価して居ました。この本の内容について、ここでは深入りはしませんが、そんな小室氏の本を読んだ事から、当時の若い私は、安重根にとても深い尊敬の気持ちを抱いて居たのでした。

(小室直樹著『韓国の悲劇』カッパブックス)
          ↓
http://www.amazon.co.jp/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%82%82%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9-%E5%B0%8F%E5%AE%A4-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4334011853/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1256726313&sr=1-1

今、思へば、あの通訳の女性は、何も言はずに安重根の銅像を見つめて居た私に何かを感じて、声を掛けて来た様な気がします。恐らく、多くの日本人観光客は、ソウルの市内ツアーの最初に安重根の銅像が有る南山公園に行くと言ふ事の意味も余り分からなかったのではないかと思ひます。そして、安重根の銅像を見ても、特別関心を覚えない人が大部分だったのではないか?と思ひます。そんな日本人観光客の中で、当時の私は、ちょっと目立ったのかも知れません。


あれから、23年が経ちました。そして、今、伊藤博文暗殺から100年を迎えた韓国からの報道を読むと、私は、非常に複雑な気持ちがします。

先ず、23年前の私は、近現代における日韓の歴史について、非常に皮相な理解しか持ち合はせて居ませんでした。小室直樹氏の本(『韓国の悲劇』)に書かれた、日本の朝鮮統治の肯定的側面について気付き始めては居ましたが、それでも、若い頃からマスコミによって吹き込まれて来た日本の朝鮮統治=悪と言ふ観念から抜け出せないで居ました。だからこそ、当時は、安重根をあれほど尊敬して居たのですが、今思ふと、安重根が、日韓併合に反対して居た伊藤博文を狙撃した事の矛盾について、私は、はっきりとした自分の考えを持って居ませんでした。


考えれば考えるほど、安重根の行為は奇妙です。日韓併合を推進した小村寿太郎を狙撃したのなら分かります。しかし、日韓併合に反対した伊藤博文を狙撃したと言ふのは、全く持って不可解です。そして、彼がこの様な不可解な行動を取った背景にこそ、伊藤博文暗殺の背景に有る歴史の闇が有るのかも知れません。

そもそも、安重根は、確かに、ハルビン駅で伊藤博文を狙撃はしたものの、近年、伊藤博文の生命を奪ったのは、別の狙撃手の弾丸だったとする研究書が発表され、安重根がこの事件で果たした役割は、ダミーであったとする見方が提出されて居ます。
          ↓
(大野 芳(著)『伊藤博文暗殺事件/闇に葬られた真犯人』(新潮社))
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103904054/ref=cm_rdp_product_img


多分、そうなのだと思ひます。そう成ると、一体、安重根は何の為に伊藤博文を(ダミーとして)狙撃し、捕らえられ、処刑されたのか?と言ふ、根本的な問ひに行き着くのですが、伊藤博文暗殺100年に関する韓国からの報道を見る限り、韓国人は、この最も根本的な問題−−安重根は何故、伊藤博文を狙撃したのか?−−の再検討に全くと取り組んで居ない様に思はれます。事実を検証しようとしない韓国人の性癖が、この事例にも現れて居る事は、残念極まり無い事と言はざる得ません。


一方、暗殺された伊藤博文は、この国(朝鮮=韓国)に対して、どの様な思ひを抱いて居たのでしょうか?その事について、幼少時を日本統治下の朝鮮で過ごした或る日本人は、以下の様に考察して居ます。


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 戦前、戦中、いわゆる非常時の時代に行き過ぎがあったことは認めなければならないが、私の実見した斎藤総督時代の朝鮮統治はそれなりに良質であった。事には依って来たる由来と事情がある。今日南北朝鮮の人たちの日韓併合以来の日本の行動に対する感情的反発は激しい。その気持ちは分からないではないが、併合当時の事情もまた客観的に捉える必要があろう。韓国統監伊藤博文は朝鮮併合には当初反対していた。これには彼の書簡が残っている。併合を主張したのは外務大臣小村寿太郎であった。なぜ伊藤が不賛成で小村が賛成であったのだろうか。ここには今日十分に検討すべき問題が潜んでいる。
 朝鮮をよく知っていた伊藤はその書簡に、国を愛する者が幾人かでもいれば朝鮮が亡国することはないのだが、と書いている。併合後幼少の元李王世子垠を東京に移すときには、彼は文字通り手を引いて歩いた。維新廃藩に当事者として立ち会った彼には、想い深いものがあったのではないか。日清・日露戦争時代の朝鮮事情を書いた新聞記者や成書、そして写真は今日これを見ることができるが、当時の漢城(ソウル)の乱脈の状況は日本人の想像を遥かに超えたものだった。政治も物理的環境も、韓国統監府は政治、行政、厚生の改革、改善に日本人一流の能率で取り組んだ。これによって中世的停滞と汚辱に塗れた「大韓帝国」は。それまで依怙地に拒否していた近代化に踏み出したのである。今日の朝鮮があるのは総督府政治による上からの社会、政治、精神革命があったからだ。このことは台湾でも同じで、評論家・黄文雄氏はこれを痛論している。朝鮮人士の日本統治批判は、自己の事態を冷静客観的に看る力の欠落を語るのではないか。
 併合の文言、そして明治帝のご意志に沿って、皇室典範に王族を設け李王家を立てた。私の見聞したところでも李王家は丁重に遇されていた。もとより立場によって見方が異なるのは当然だが。
 ここで注意しておくが、私は当時の日本の対韓政策ないし施策がすべて当を得ていたと主張しているのではない。後知恵だが、おそらく併合せず統監府政治を残して、現地人の成熟を気長に謀った方が良かったのではないか。だがそれができなかった事情も考えなければならない。伊藤と小村の対韓政策の当初の違いは、この二人の世界支配中枢のデザインと力に対する認識の違いにあったと現在の私は考えている。当時も今日も世界の政治・経済を人知れず確実に誘導しているのはこれである。鹿鳴館を取り仕切った伊藤は親露政策を取りつつも、この世界勢力についての認識に甘いところがあった。小村はポーツマス会議に出た外交官として、国権派として、この世界勢力の現実と日本への危険を知っていたのではないだろうか。

(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版・2000年 64〜66ページより)


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(馬野周二著『朝鮮半島の真実』フォレスト出版)
           ↓
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%AD%82-%E9%A6%AC%E9%87%8E-%E5%91%A8%E4%BA%8C/dp/4894510944/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1256726478&sr=1-1


馬野氏のこの文章を読んで私が確信する事は、伊藤博文は、朝鮮を愛して居たと言ふ事です。


23年前、初めて韓国を訪れた時の自分には、それが分かりませんでした。そして、韓国人の大部分は、23年前の私と同様、今もそれが分からないのだと思ひますが、私は、伊藤博文は、朝鮮を愛し、朝鮮の未来を心から憂いて居たと確信します。


一方の安重根も、もちろん、朝鮮(=韓国)を愛して居たと思ひます。(安重根は、同時に、日本を愛して居ました。安重根は、戦後の韓国人が思って居る様な反日思想の持ち主ではありません。)その意味では、ダミーであったとしても、安重根な伊藤博文を狙撃した100年前のあの事件は、立場は違ひますが、朝鮮を愛した二人の人間が生死を賭けて対峙せざるを得なかった悲劇だと言ふ事が言へます。例えて言ふなら、アンジェイ・ワイダ監督の映画『灰とダイヤモンド』の様な出来事だったと言へなくはないと、私は、思ひます。


この事件の真の悲劇性は、そこに在ると、私は思ひます。


同時に、伊藤博文が朝鮮(=韓国)について書き遺した観察の中に、100年が経って、今も全く変はらないと、思ふ事が有ります。それは、伊藤博文のこの観察です。


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 朝鮮をよく知っていた伊藤はその書簡に、国を愛する者が幾人かでもいれば朝鮮が亡国することはないのだが、と書いている。併合後幼少の元李王世子垠を東京に移すときには、彼は文字通り手を引いて歩いた。維新廃藩に当事者として立ち会った彼には、想い深いものがあったのではないか。

(馬野周二著 同上より)


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私も、全く同感です。韓国人(=朝鮮人)は、韓国(=朝鮮)を全く愛して居ません。

そう言ふと、皆さんの中には、韓国人の過剰なナショナリズムを指摘して、私や伊藤博文の観察に疑問を唱える方もおられるに違い有りません。しかし、私は、伊藤博文に同感です。韓国人(=朝鮮人)は、自国を愛して居ないと、私は思ひます。


韓国人は韓国を愛して居ない。−−この事に気が付いて居る日本人は、少ない、と私は思ひます。


2009年10月28日(水)


                 西岡昌紀

http://blogs.yahoo.co.jp/nishiokamasanori/

(関連する日記です)
    ↓
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1095339310&owner_id=6445842

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1145079711&owner_id=6445842

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■伊藤博文暗殺から100年、韓国で記念式典
(読売新聞 - 10月27日 00:17)

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1001597&media_id=20

伊藤博文暗殺から100年、韓国で記念式典
(読売新聞 - 10月27日 00:17)


 【ソウル=森千春】韓国の独立運動家、安重根(アンジュングン)が日本の政治家、伊藤博文をハルビン駅で暗殺して100年にあたる26日、ソウルで韓国政府主催の記念式典が行われた。


 鄭雲燦(チョンウンチャン)首相や独立運動家の遺族ら約1200人が参席し、鄭首相は、暗殺事件が「民族の独立の意志を世界中に知らせた」と意義づけ、安重根を「民族の魂の表象だ」とたたえた。


 安重根は韓国で、日本の植民地主義に抵抗した人物として英雄視されており、暗殺事件は「義挙」と呼ばれている。ソウルでは今月に入って安重根を主人公としたミュージカル公演や学術会議、遺墨展などの関連行事が続いている。ただ、国民の反応は冷静で、ブームや反日感情の高まりは見られない。


 有力紙では、安重根が事件後、獄中で書き始めて未完成に終わった「東洋平和論」や裁判所での主張に着目し、「東アジア共同体」論の先覚者としてとらえる記事が目立つ。朝鮮日報は26日付の社説で、安重根は、韓国、中国、日本が「弱肉強食」の帝国主義を超克し、共同繁栄する道を追求したと評価。「3国共同銀行」の設立など具体的な提案をしていたと指摘した。


 

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コメント
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この論文の筆者は重大な誤りを犯している。
伊藤博文が日韓併合に反対した?
伊藤が王宮で韓国国王や韓国政府首脳を、併合に賛成するよう如何に恐喝したかを知らないようだ。
2009/10/28 20:05
伊藤の、死体検死調書では、安重根が放った下からの銃弾ではなく、哈爾濱駅の2階からの狙撃のようです。
死体懸案調書は実在します。
よって、安はダミー。
旅順刑務所の所長はこれを知っていたので、何くれとなく面倒を見た。
多分、忠臣蔵のような感覚でしょう。

2009/10/30 23:03
明治日本の朝鮮併合の一番根っこのところにあるのは、吉田松陰の思想ではないかと思っています。 松蔭は英米露仏の侵略に対抗する手段として、朝鮮を足がかりとした大陸侵略を考えていたことは明らかです。(松蔭の来原良蔵宛の書簡参照。中公新書「大村益次郎」)この思想は長州閥に伝わり、それが維新成立後の朝鮮征伐論となって行ったと考えられます。 (西郷が朝鮮出兵を主張したとされている解釈は誤り) 大陸侵略を国策としたのは長州閥の中でも山県有朋が中心的人物であり、伊藤博文は同じ長州閥ではあっても少しばかり穏健な思想だったのではないか。 大陸侵略を国策とする思想に反対したのは、薩摩閥の山本権兵衛を中心とした海軍で、佐藤鉄太郎の海洋国家論にそれが示されています。 幕末の思想家の中で、大陸侵略を主張したのは松蔭だけのように思います。 安重根は山県一派によって差し向けられたもので、伊藤暗殺の背後に山県がいた疑いが捨て切れません。
N.T
2009/11/22 12:03
04. 2010年9月03日 11:19:09: nVN7G6UNDM
★ 韓国という国
 韓国は、なぜテロリストを礼賛するのか?
 それは、韓国が「テロ支援国家」という
 証明です。

★ もう少し、歴史を勉強してください。
 韓国の歴史捏造は世界の常識です!


05. 2013年11月19日 12:40:56 : DNMLzL2xcA
靖国をそれまで清々と個人で参拝してきた歴代の総理大臣、大臣、代議士達だったが、遺族会の票欲しさに事前に大宣伝して参拝した男が中曽根だった。当時、かつて満州で特務機関員だった私の父親はテレビで参拝の姿をみて、「なんとバカなことを」と言って、出かけていった。ぐでんぐでんに酔っ払い、近所の若いおまわりさんにおんぶされて帰ってきたことを覚えている。墓を政治の道具にするなど、私も情けないと思う。
安重根は、看守に尊敬され、その看守は郷里の宮城に帰った後、慰霊碑を建てた。宮城に行けばわかる。実際に会った人だから重みがある。
今、話題の本がある。「永続敗戦」だ。必ずしも書いている内容は賛同しない。引用が多すぎるためもある。だが、いまだにアジアのリーダだと自負している日本人は驕り高ぶりすぎる。品性を取り戻してほしい。今の韓国大統領は品がなさすぎるが、放っておくべきだ。彼女も票集めに安重根の銅像を使っているだけだ。韓国の国民だって、私の父が靖国参拝を政治の道具にしたのと同じようにみている韓国の教養ある人々がいるに違いない。今の日本の総理大臣もかなりずれているし、知性も教養もないことはあきらかだ。どっちもどっちなのだ。くらいに思っておけばいいと思っている。

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