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@愛国者ゆえに殺された! 大杉栄の故郷・新潟県新発田市で大杉栄について講演してきた。光栄だ。主催は「大杉栄の会」。後援が何と、新発田市教育委員会。ありがたい。しかし、よく後援してくれたものだ。勇気がある。 大杉栄はアナキストで、日本で最も危険な男だ。だからこそ魅力的な思想家だ。関東大震災の時に、憲兵によって虐殺された。1923年(大正12)9月16日のことだ。今年は没後86年だ。虐殺された9月16日の前後に、ここ新発田市では毎年、「大杉栄メモリアル」を開催してきた。今まで大杉豊(大杉栄の甥)、松下竜一、佐高信、秋山祐徳太子などを講師として呼んでいる。 そして今年は私だ。大杉栄にはとても及ばないが、チョッピリ危険な男。そして、誰からも嫌われている男・私だ。こんなテーマで、こんな講師で。よく、教育委員会が後援してくれたものだ。新発田市は全員がアナーキーなのかもしれない。 9月12日(土)の午後1時から行われた。会場は新発田市生涯学習センター。名前もいい。死ぬまで勉強だ。闘いだ。月30冊のノルマを決めて、それだけを生き甲斐に闘っている私にはピッタリの場所だ。でも、大杉の故郷なんだから、「新発田市生涯アナキスト・センター」にしたらいい。駅前には大きな「思想塔」を建てて、「アナキズム宣言都市」と書く。よく、「非核宣言都市」とか「護憲宣言都市」とか、あるじゃないか。それを真似て、やるんですよ。 民主党政権で、地方分権、地域主権が進む。国家権力にしがみつく時代ではない。中央一極支配を脱し、地方へ。そして個人へ。さらにその先は無政府主義(アナキズム)ですよ。 無政府主義、アナキズムというと、何やらおどろおどろしくて、怖ろしそうだが、そんなことはない。「怖い」と思うのは国家権力に「洗脳」されているのだ。謀略だ。本当は、個人個人が、自由で、平等になることを夢見る、心優しい思想だ。最も魅力ある考え方だ。国家権力はそれが怖くて、大杉を虐殺したのだ。やはり反権力で自由を求める小林多喜二も、幸徳秋水も、そうした残虐な国家権力の手によって殺された。多喜二は小樽に育った。幸徳は高知県中村に生まれ、育った。(今は、四万十市になっている)。 だから、小樽市、新発田市、四万十市は「姉妹都市」になったらいい。悪辣な国家権力によって殺された3人を出した、名誉ある都市だ。反逆の都市だ。大逆の街だ。名誉なことではないか。暗い時代の日本に呻吟し、「こんなものは日本ではない!」と絶叫し、殺された3人だ。人が自由に、平等になることを夢み、実践しただけで殺される。そんな日本は、「本来の日本」ではない。「お前は非国民だ!」と言って殺した憲兵や警察。お前たちの方こそが「非国民」だ。「大逆」だ。人殺しめ! 大杉栄、小林多喜二、幸徳秋水の3人こそが、「愛国者」だ。〈本来の日本〉を見据えていた。 幸徳秋水たちが捕まった「大逆事件」は、何人かの「計画らしきもの」はあった。しかし、幸徳を含め、圧倒的に多くの人間は無関係だった。なのに皆殺しにされた。この報を聞き、大杉栄は詠った。 〈春三月 縊(くび)り殺され 春に舞う〉 大杉はこの時、別の事件で獄中にいた。それで助かった。この大逆事件の時、明治天皇は驚いて、これは自分の責任だ、と詠っている。 〈罪あらば われをとがめよ 天つ神 だったら、幸徳以下全員を釈放してやったらいい。天皇がそう言ってるのだ。しかし、天皇の意志すらも無視して、幸徳らを皆殺しにした。酷い話だ。大東亜戦争の時だって、昭和天皇の平和の意志を無視し、踏みにじって戦争に突入した。天皇に忠だといいながら、最も不忠な連中だ。日本は、不忠な連中の歴史だ、と北一輝は言ってたが、その通りだ。その北一輝も国家権力によって殺された。 A大杉栄と北一輝の“黙契” その北一輝と大杉栄は、実は、友人だった。いや、一番心を許した盟友だった。 大杉は北を信頼し、期待した。「愛国者」に期待した。今は、「左右を弁別すべからざる状況だ」と言った。この言葉を私は、竹中労を通じて知った。 1975年だ。私の『腹腹時計と〈狼〉』(三一書房)が出た直後だ。それを聞き、大杉を見直し、再評価した。そこから「新右翼」は生まれた。だから「新右翼」は大杉栄が作ったようなものだ。 北一輝と大杉栄は、「老壮会」でよく会っていた。「老壮会」は、老いも若き(壮)も、集まるという意味だ。同時に、右も左も集まった勉強会だった。そこから左右の運動体が巣立ってゆく。 我々が一水会を1972年に作った時、偶然だが、この老壮会がイメージにあった。三島事件(1970年)の後、昔の活動家仲間が集まって酒を飲み、語り合った。その中から、自由な勉強会を作ろうと思った。そして一水会が出来た。 『ぼくは精神が好きだ』の中で大杉は言っている。 〈思想に自由あれ 私だって、そうだった。奇妙に思われるかもしれないが、〈自由〉を求めて右翼運動に入った。大学に入った時、全共闘の天下だった。革命が起こったら、日本はソ連や中国のような国になる。自由のない全体主義の国家だ。天皇制も、日本文化もない。大変だ、と思った。それで左翼と対決した。〈自由〉を求めて闘ってきたのだ。ベクトルは少々違っても、動機は大杉と同じだ。自由を求めて、だ。私も大杉だった。 大杉は1921年1月に『日本の運命』を書いている。 〈多くの日本人はいま目ざめつつある。其の資本主義と軍国主義との行きづまりに気づきつつある。そして殊に注意をしなければならないのは、若し、此のままで行けば亡国の外はないと云ふところから、此の旧い日本を根本的に変革して、新しい日本を建設しようと云ふ思想が、有力な愛国者の間に起こりつつある事だ。 大杉は「愛国者」に期待をかけているのだ。大杉の言う「有力な愛国者」とは北一輝のことを指す。と、竹中労は『断影 大杉栄』(ちくま文庫)の中で言う。(注:この本は先に出した、フォアビギナーズの『大杉栄』(現代書館)を大幅に加筆したものだ)。竹中はさらに大胆なことを言う。 〈来るべき『其時』、分裂の時代を大状況として捉え、まず一つの円を描く。すなわち、社会主義者の結束である。コンパスはさらに脚を拡げて、極東にまたがる。その同心円に連鎖する“同時革命”、裏返して言えば包囲されるニッポン。かくて、“日本の運命”は決定する〉 さらに、こう竹中は言うのだ。 〈それが、大杉の戦略であった。「俺は左をまとめてみせる。君は右だ」という黙契を、大杉と北との間に想定することは、時代のリアリズムである。このような革命家を、国家権力はもっとも危険視する。震災のドサクサにまぎれて大杉栄を暗殺したのは、彼が単に革命の思想家だったからではなく、実際家であったからだ。同様に、2.26事件の首魁として、“国賊”北一輝は処刑されたのだ〉 B今こそ、“左右を弁別すべからざる状況”だ そうか。2人は“国賊”として同志だったのか。大杉と北との「黙契」。これを竹中は信じた。信じるに足る証拠があったのだ。大杉は「愛国者」に期待し、「左右を弁別すべからざる状況」を説いた。しかし、その後の左翼やアナキストは、この問題にずっと触れなかった。タブーだった。竹中労1人が声を大にして言った。そして1975年、我々、民族派の青年たちにも、(大杉にならって)今こそ、左右を弁別すべからざる状況だ、と言ったのだ。そこから、右翼の中にも新しい血が注ぎ込まれた。そして「新右翼」が生まれた。この経過は「レコンキスタ」(一水会機関紙)のバックナンバーを見てもらえば分かる。 『断影 大杉栄』の中で、竹中は言う。北と大杉の「黙契」は何故、タブーにされてきたかと問う。2人の親交は、考えてみたら不思議ではない。北は『国体論及び純正社会主義』を発刊し、いわば、「社会主義者」としてデビューした。社会主義者との親交は多い。又、老壮会では大杉や堺たちとの交友も知られている。しかし…。 〈戦後、“左翼”はアナキストを自称する人々を含めて、これを禁忌とする。俗に言う“右翼”愛国者との交渉を、暗黒面と切り棄てて緘黙するのである。だが、時代は左右を弁別しなかった。気質を一脈おなじくする大杉と北は、単に友情のみではなく、共に事を図ろうとしたのである〉 そうか。「俺は左をまとめてみせる。君は右だ」ということか。しかし、その危険な企ては、国家権力によって潰された。残念だ。 話を戻す。9月12日(土)の講演会だ。実は、初めは、『大杉栄と小林多喜二』というテーマだった。サブタイトルは「国家に虐殺された思想家」だ。うん、これはいいと思った。『「蟹工船」を読み解く』も今年、出版したし。と思っていたら、これじゃ、「新右翼」らしくないと思ったのだろう。せっかくだから、「三島がらみ」にした方がいいと思ったのだろう。 テーマは、 「大杉栄と三島由紀夫 になった。その案内チラシには、こう書かれている。 〈今年没後40年目を迎える三島由紀夫の自決をきっかけに反米愛国を掲げる「一水会」を設立した鈴木は「左右を弁別すべからざる状況」と語った大杉栄に強いシンパシーを感じ続けている。「あらゆる強制に反対」する立場から、「日の丸」「君が代」の強制への反対を唱え、昨年は、映画「靖国」の上映に賛同のメッセージを送り、右翼から攻撃された。 なかなかセンセーショナルだ。1時間、話をした。「生長の家」から、早大闘争、そして三島由紀夫。さらに竹中労に出会い、大杉栄を「再評価」する。そして新しい民族派運動を開始する。又、竹中労を通し、多くの新左翼人脈も生まれ、広がった。その中での、〈運動〉の進歩、進化について語った。終わって、質疑応答。そのあと、サイン会。さらに、会場を移して二次会。 次の日は、早朝から、主催者の斎藤徹夫氏が、大杉栄ゆかりの地を案内してくれる。大杉が子供の時、遊んだイチョウの木は今もある。又、新発田は、大倉財閥の大倉喜八郎の出身地だ。又、画家の蕗谷虹児(ふきやこうじ)の出身地だ。記念館もある。さらに、「忠臣蔵」の堀部安兵衛の出身地であり、銅像がある。又、今村均大将も一時、ここに居たこともある。又、吉屋信子、加藤楸邨(俳人)、木島力也(「現代の眼」発行人)、寺田ヒロオ(漫画家)、大庭みな子の出身地でもある。三大サーカスの「シバタサーカス」もここが本拠だ。さらに何と、「よど号ハイジャック事件」のリーダー、田宮高麿さんの故郷でもある。ここのお寺にお墓がある。お参りしてきた。 全ては回れないが、田宮さんのお墓参りをメインに、何カ所か、出身者ゆかりの地を回った。午後は、新潟市に移り、駅前のジュンク堂で講演。昨日と同じ話になっちゃマズイと思い、斎藤氏にインタビュアーになってもらった。地元の「新潟日報」には雨宮処凛さんが月1回、連載してるそうで、雨宮さんのことから聞かれた。その他、天皇制について、現代右翼について…。 質問のコーナーでは、「鈴木さんの自伝的な本はありませんか?」と聞かれたので、『失敗の愛国心』かな、と答えた。そしたら、すかさず書店の人が、持ってくる。凄い。私の本は随分とある。終わって、又、サイン会でした。ありがたいです。そして、地元の新聞社の取材を受けて、夕方、帰京しました。斎藤さんたちには本当にお世話になりました。又、戦前からやっている吉原写真館も見学させてもらいました。大杉栄が子供の頃、ここで写した貴重な写真も見せてもらいました。まるでタイムスリップしたようでした。私も大杉の時代に生まれたようでした。 ともかく、収穫の多い旅でした。来週も、続きを書きます。お楽しみに。 |