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@トマス・ブレイク・グラバー伝
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本書は来日して住み着き、日本を愛して止まなかった西欧人の物語を、英文との対訳本で綴っている。
フランシスコ・ザビエル、ルイス・フロイス、ウィリアム・アダムス、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、トマス・ブレイク・グラバー、ヘボン博士、快楽亭ブラック・ウィリアム・エリオット、グリフィス、ヘンリー・フォールズ、クララ・ホイットニー、クラーク博士、ジョサイア・コンドル、アーネスト・フランシスコ・フェノロサ、ヴェンセスラウ・デ・モラエス、ラフカデイオ・ハーン、ウイリアム・メリル・ヴォーリズ、フランク・ロイド・ライト、カール・ユーハイム、オイゲン・ヘリゲル、ブルーノ・タウト
以上20名の物語である。
※英文もなぜかすらすらと読め、自分の英語力捨てたものでないと勘違いさせるのが、この対訳本の魅力である。
日本の国際化につくした「冒険商人」
トマス・ブレイク・グラバー Thomas Blake Glover
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私は日本の大名と何十万、何百万と取引したことがある。しかし、ここで強く言っておきたいことは、ワイロは一銭も自分は使ったことがない。自分は立派な日本のサムライの根性でやった。また相手方もワイロを使う人はいなかった。
(ブライアン・バークガフニ、平幸雪訳『花と霜』長崎文献社)
グラバーといえば一般的には、彼が長崎の海の見える高台に所有したグラバー邸が日本最古の木造洋館として、観光名所に在っていることで知られている。他方、幕末日本の諸藩に対し武器を売りっけたことで悪名も高い。だが、彼が無類の世話好きで、日本の近代化に大きく貢献したことも忘れてはならないだろう。
トマス・ブレイク・グラバーは1838年6月6日、英国スコットランドの漁村フレーザーバラで、イギリス沿岸警備隊に勤める父トマス・ベリーと母メアリーの5男として.生まれた。
[[attached(5,left)]]1849年、グラバーは父の赴任先である造船と北洋漁業で知られる港町アバディーンに引っ越した。
当地のギムナジウムを卒業後、兄のチャールズやジェイムズにならって地元の商会で働くことにした。その商会で扱う伝票には世界各地の都市が書かれており、港からは遠い異国をめざして大型帆船や蒸気船が次々に出て行った。自分も海外貿易で一旗あげたくなったグラバーは、兄ジェイムズとともに上海に向かって渡航した。
アヘン戦争で敗れた清国が開港した上海は、ベテランの欧米商人がひしめき合い、経験の浅いグラバーに商売の好機は訪れそうになかった。だがそこヘビッグ・ニュースが飛びこんできた。長いあいだ鎖国を続けていた日本の徳川幕府が長崎、神奈川、函館を開港し、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアの5ヵ国との貿易を許すことにしたというのだ。新天地へ行くリスクは大きいけれども、試してみるだけの価値はあるとグラバーは考え、兄と別れて日本の長崎をめざした。当時、彼のような商人を「冒険商人」とよんだ。
1859(安政6)年9月19日、グラバーは長崎に到着して・東アジア地区第一の業績をほこるジャーディン・マセソン商会の代理人ケネス.マッケンジーのもとで働くことにした。当時の日本のイギリスヘの輸出品は生糸や日本茶が主要なものであり、輸入品の中心は綿織物と毛織物であった。彼は外国人居留地に住みながら、日本の社会に溶け込もうとして日本語会話の習得に努力し、もちろん商杜員として日常の業務も誠実に勤めた。
やがて1861(文久1)年、マッケンジーが清国に渡るのを機に、みずからグラバー商会を立ち上げて独立。同時にジャーディン・マセソン商会の代理人となり、長崎外国人商業会議所の代表委員も引き受けた。
独立したばかりのグラバーは、イギリス人が好む日本茶の輸出に取り組もうとしたが、日本は湿気が多く、茶にカビが生えやすい。そこで彼は茶の再製工場を作り、九州各地から買い求めた茶に熱処理をして、乾燥させてから船積みした。このような良心的方法をとる貿易商はこれまでにいなかったので、彼の評判は一気に高まった。
1863(文久3)年、グラバーは商談に訪れる多くの来客のために、南山手の長崎港が一望できる高台に、後年、グラバー邸としてきこえるゲストハウスを建てることにした。
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その場所には、一本松とよばれる老松が高く伸びていた。彼はこの松を中庭に取り込み、天草の有名な大工、小山秀乃進に依頼して、バンガロー式の平屋を建てた。グラバーの人生を象徴するように、この建物は和洋折衷であった。
その頃から、徳川政権は混乱をきわめ、幕府、各藩ともに、将来の争いを見すえて、ひたすら武装整備するようになる。グラバーは銃砲や艦船が売れることが分かると、幕府のみか、薩摩、長州、土佐など倒幕諸藩にも武器を売った。
この節操のなさにより、彼は死の商人と軽蔑された。だが、彼は次第に薩摩藩に肩入れしていく。撰夷(外国人を打ち払う)の思想を捨てつつある薩摩が徳川慕府を倒して政権につくことによって、日本は近代化すると考えたのだ。グラバーは晩年、「徳川政府の反逆人の中では、自分が最も大きな反逆人だと想っていた」と誇らしげに回想している。
もともと世話好きだったグラバーは、1865(元治2)年4月、薩摩藩のなかでも、とりわけ親しかった五代友厚の率いる19名の藩士を、イギリス留学に送り出している。当時、洋行は国禁だったので密出国であるが、グラバーは自分の持ち船を提供し、ロンドンにいる兄ジェイムズにも連絡をとって、損得抜きで協力した。
維新後には、その留学生のなかから、外務卿の寺島宗則、文部大臣の森有礼、外務官僚の鮫島尚信、帝室博物館長の町出久成ら、優れた人材が輩出した。ただ、グラバーと同じ世界観を持っていた五代友厚のみは、政界や官界には進まずに、大阪商法会議所を設立して関西財界を育てた。
留学生を送った同じ年にグラバーは、日本最初の株式会社、亀山社中を作った坂本竜馬の考えにしたがい、幕府と対決している長州藩に、薩摩藩名義で鉄砲を売っている。その結果、長州藩は幕府の第二次長州征伐で勝利し、薩長同盟が結ばれることになった。グラバーがその同盟の黒幕だったと言われるゆえんである。
1866年(慶応2)年7月、グラバーはイギリス公使を説得して、ともに薩摩藩主の島津久光を訪問した。過去においてイギリスと薩摩の間には、生麦事件や薩英戦争などのトラブルがあったが、これ以後、両者に協力関係ができた。そして彼は、長崎小菅ドック(現・三菱造船所)の建設や'高島炭坑の開発といった日本の近代化のための事業を着実に進めていく。グラバー自身、貿易商から企業家へと変身しようとしていたのだ。
徳川幕府から明治政府へと移行するときの、最後の内戦である戊辰戦争では、グラバーが新政府軍に売ったアームストロング銃やミニー銃の威力が、幕府軍を圧倒した。その一方で、彼は最後の将軍、徳川慶喜の助命運動もしている。
グラバーは賭けに勝った。だが、戦乱の時が過ぎると、グラバー商会はぐらつき始めた。彼は先行投資として大名たちに人金を前貸ししていたが、明治維新によって地位が低下した彼らに、ほとんど返済能力はなかった。また、イギリスから買い付けた武器も平和の訪れとともに余ってしまい、その支払い代金も滞ってしまった。1870(明治3)年8月グラバー商会は倒産する。しかしそれ以後も、グラバーは高鳥炭坑の面倒をみながら、長崎在住の外国人たちのリーダー的役割を果たした。
ところで、グラバーと幕末に結婚していた日本人の妻ツルは、二人の子どもとともにグラバー邸を自宅にして住んだが、後年、長男トミーは倉場富三郎と名のって長崎の経済界に貢献し、日本で初めてのトロール漁業を試みている。
グラバー庭園には、オペラのプリマドンナ三浦環の銅像とプッチー二の白い大理石の全身像が立っていることから、とかく『蝶々夫人』とツルを関係づけがちであるが、現実のツル夫人とグラバーはきわめて仲の良い夫婦であつた。
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1886(明治19)年、グラバーは東京の芝に転居し、司法省のお雇い外国人だったM・カークウッドらと、ビール会社ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立した。自分の周りにいた海軍関係の外国人たちが盛んにビールを飲んでいるのを目にして、日本人のあいだでも流行するにちがいないと考えたのだ。
企画はみごとに当たり、この会社を現在引き継いでいるのがキリンビールである。さらに三菱の顧間として日清戦争のさいには、長崎から戦地に向かう軍需物資輸送の中心を担い、海軍の技術革新に貢献した。
1911(明治44)年12月16日東京麻布の自宅で死去。墓はツル夫人とともに長崎市の坂本国際墓地内にある。
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私の愛読書とは?と聞かれると、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」「坂の上の雲」は外せない。
最近、加治将一というバカヤロウの『あやつられた龍馬』により突如トマス・グラバーと坂本龍馬はフリーメーソンに仕立て上げられ、知的反論力を持たない陰謀論信者の間では先人達の偉業である明治維新を、フリーメーソンの陰謀により成功したという、与太話を信じる輩が後をたたない。
明治維新をメーソンの陰謀と貶める思想は、戦後教育が育んだ反日教育の歪んだ心理が醸成したもの私は思う。
トマス・グラバーの人格は確かにメーソンの思想である博愛主義で啓蒙的である事は確かであるが、その傾向は本書に取り上げた人物すべてに共通することである。グラバーの人生を鑑みれば彼がユダヤ国際金融資本の走狗であったのならば、1870(明治3)年8月グラバー商会が倒産した客観的事実は整合性がとれない。
フリーメーソンには入会名簿がある。「生前」は本人の希望で非公開にするのが普通だが、「故人」になった場合は、遺族への断りなく、フリーメーソンであった事実を公表するのは自由である、という。ウィキペディアは10人を上げているが、坂本龍馬に関しては、フリーメーソン入会の証拠がない。
グラバーは父親と兄と一緒に、2年間上海に滞在しており、上海で入会した可能性は無くはないが、グラバーがフリーメーソンであったという証拠はない。フリーメーソンの入会儀式は「20才以上の男子」に限られており、スコットランドを離れた19才当時に、入会していた可能性は低い。
日本人のフリーメーソンは、1864年、留学先のオランダで入会した西周(徳川慶喜の政治顧問)と津田真道(法学博士、教育者)が最初という。
西周(にし・あまね)は、江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者である。「権利」「義務」「哲学」「芸術」「文学」「心理」「科学」「技術」といった、西洋の抽象概念を次々に訳出した、明治時代の先覚的な知識人である。
しかし、第二次世界大戦以前の日本では、日本人の会員はほとんどいなかった。
もし、明治維新がメイソンの策謀であるならば、薩摩留学組み17名、五代友厚(大阪商工会頭)の他の命じの元勲、寺島宗則(外務卿)、森有礼(文部大臣)、鮫島尚信(外務官僚)、町出久成(帝室博物館長)そして有名なロンドンへ密航した長州ファイブ、長州藩士の井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助がメーソンであってしかるべきのはずだが証拠は何一つ無いのだ。
メーソン陰謀説を唱える人間達が根拠としているのは、トマス・グラバーの後ろ盾でもあった、ジャーディン・マディソン商会の船で出航したことにすぎない。
まあ、陰謀論信者諸君、トマス・グラバーの人生を俯瞰し、本当にフリーメイソンの走狗であったのか自分の頭で判断してみろ!
【Ddogのプログレッシブな日々】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28813947.html
付録
A『「日本を愛した外国人たち」内藤誠 内藤研 著』を読む。快楽亭ブラック Henry James Black伝
2009/7/19(日) 午後 11:09 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28814874.html
快楽亭ブラック Henry James Black伝
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名作落語「試し酒」を創案した
快楽亭ブラック Henry James Black
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外国人が日本に参りまして三月も四月も逗留致して漫遊いたしました後に国に帰ると、日本に於ては真の窮民は無い、あまり不潔の処はございませんと書いまするが、まったく東京見物に参ったお方は表通りのみ通ってそれぞれの名所ばかり拝見致しまするゆえにこう云うことを言いまする。もしも芝の新網四ツ谷鮫ヶ橋或いは浅草松葉町辺りの有様を見たなれば、なるほど日本にも随分不潔の処が有ると云う事が解りましょう。
(『快楽亭ブラック集』ちくま文庫)
[[attached(2,left)]]快楽亭ブラックは、高名なジャーナリスト、ジョン・レディ・ブラックの息子として、開港したぱかりの横浜で育った。日本最初の円盤レコードを制作したり、歌舞伎の播隨院長兵衛役で人気を博したりもする、外国人マルチタレントであった。
へンリー・ジェームズ・ブラックは1858年12月22日、サウス・オーストラリアのアデレードでスコットランド人の父ジョン・レディと母エリザベスの長男として生まれた。父はブラック家代々の慣習でいったんは海軍への道に進んだのだが、軍人には向かず、実業家をめざして、1854年、新天地オーストラリアに渡ったのだった。しかし彼の仕事は順調ではなかったようで、ゴールドラッシュにわく金鉱掘りを前に、テノールのコンサ一ト歌手までして生計を立てていたという。ちなみに母エリザベスもピアノが得意だった。
1863年、父のジョン・レディはイギリスヘ帰国することを決意。その途中、船が寄航した日本の風土に魅かれて開港2年目の横浜に上陸し、住みつくことになる。以後、彼のジャーナリストとしての活躍はめざましく、1865(慶応1)年春にはA・W・ハンサード経営の英字新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集人になる。同年11月8日には、母エリザベスとヘンリーも横浜に到着した。
ジョン・レディはエンターテイメントが好きで、しばしばホーム・コンサートを催し、歌や朗読を披露した。一家そろって、近くのゲーテー座に芝居を見に行くこともあった。
ある日、ジョン・レディの知人宅で、日本人の奇術師が紙を蝶に変えるマジックを実演した。それを熱心に見ていた息子ヘンリーに向かい、父のジョン・レディはこの技に挑戦してみないかと言った。ヘンリーは受けて立ち、何回かの失敗ののち、みごと成功した。観客が盛大な拍手を送ったので、これを機にヘンリーは人前で芸をする喜びを知った。
1872(明治5)年、ジョン・レディは日本語の日刊新聞「日新真事誌」を創刊し、社説で自由民権を訴えた。新聞社を芝増上寺内の源光院に置いたので、彼の家族も東京に転居。翌年さらに、ジョン・レディは社屋を銀座4丁目に移転する。ヘンリーはその新聞社に出入りしている間に、流暢な日本語を話せるようになった。
やがて1878(明治11)年頃になると、日本では議会開設や憲法制定を訴える自由民権運動が起きた。ジョン・レディの新聞の主張に日本人が追いついてきたのだが、運動とともに東京や横浜などの大都市では演説会が盛んになった。ヘンリーも父の友人である元海軍将校の堀竜太に誘われて演壇に上がり、天下国家を論じた。
かたや同じ頃、彼は講談師の松林伯円の弟子になり、寄席に出て、「チャールズ1世伝」や「ジャンヌ・ダルク伝」を語った。
青い目のイギリス人が日本語を巧みに話すという珍しさに加えて、観客の知的好奇心を満たす斬新な内容により、ヘンリーはたちまちのうちに舞台の人気者になった。
1880(明治13)年6月11日、父ジョン・レディが、幕末から明治維新にかけての貴重なドキュメントである『ヤング・ジャパン』をまとめている途中で、亡くなった。その後の約10年問、ヘンリーは母の願望に従い、東京学館などで英語教師として働いた。1887(明治20)年には、『容易独習英和・会話編』という英会話の本まで出している。
一方で彼は、寄席の高座で浴びる拍手が忘れられず、講談師として舞台にも立ち続け、自分の語ったものを本にして出版した。ヘンリーの噺を聞いた速記者が文章にまとめていくという方法で、その最初の作品は1886年刊行の『草葉の露』である。それはイギリスの作家、メアリー・ブラドンの『花と雑草』の翻案で、孤児出身の家庭教師である女性が恩人の娘と一人の男性をめぐって争い、ついには自殺するという物語だった。
1890年代早々の東京では、井上馨(元外務大臣)らの極端な欧化政策に対する反発から、急速に英語学習熱が冷めていった。そこで英語教師という職業に見切りをつけたヘンリーは、好きな芸の道に生きようとして、落語界の名門、三遊亭に入る。
その頃の三遊亭でいちばん勢力をもっていた落語家は円朝だった。彼は河竹黙阿弥、仮名書魯文といった異業種のもの書きとも交流し、『怪談牡丹灯籠』など知的な噺を創作した。そのかたわら、モーパッサンの短編『親殺し』を翻案して、『名人長二』という落語を作り、西洋文化も巧みに受け入れていた。そんな円朝だったから、ヘンリーを喜んで一門に加えて可愛がつた。
1891(明治24)年3月24日、ヘンリーは快楽亭ブラックという名をもった。この名前を選んだことで、周囲の人々や観客に快楽を与えることが、それ以後の彼の使命になった。しかし、快楽亭ブラックの名はすぐには一般に浸透せず、しばらくは「英人ブラック」という名称で新聞に掲載された。
[[attached(3,left)]]ところで、ヘンリーが快楽亭を名のった当時は、落語家や講談師たちが歌舞伎に挑戦する機会が多かった。彼も『播隨院長兵衛』で、江戸時代のヒーロー長兵衛を演じて好評を得た。調子にのった快楽亭は『妹背山』のお三輪や『義経千本桜』のお里なども演じたが、青い目の女形に観客は仰天した。さらに落語家としての彼は、自分の新作を文章にして残すことにこだわったので、『流の暁』、『車中の毒針』、『幻燈』などが活字になっている。
だが、快楽亭ブラックがこのようにマルチ・タレントとして大いに売り出し、話題になるたびに、母エリザベスや9歳年下の弟ジョン、11歳年下の妹ポーリーンが神経をとがらせて心配した。現代とちがい、芸人が軽く見られていた時代だったからである。あるときなど、弟のジョンが高座にいる快楽亭に向かって、「この恥知らず!」と罵声を浴びせ、舞台を中止に追い込んだことさえあった。ジョンは快楽亭と異なり、イギリス本国で教育を受け、模範的な英国紳士の実業家となって、神戸クラブの会長もつとめた人物である。
1892年、彼は浅草の菓子屋、石井ミネと養子縁組した。ヘンリーはこのことにより、日本人石井ブラックとなり、日本中どこでも自由に旅することができるようになった。翌年にはミネの娘アカと結婚したが、2年ほどで2人は離婚。アカがどういう女性であったかを詳しく伝える資料はない。
1900(明治33)年8月11日、ブラックの心の支えであった三遊亭円朝が亡くなる。円朝は快楽亭と同じく、新しいものを落語に取り入れることが好きな改革派だっただけに、彼の死は快楽亭に衝撃を与えた。
1903(明治36)年春、イギリスのレコード会社グラモフォンの社員、F・W・ガイスバーグが来日。快楽亭ブラックは彼の求めに応じて、『蕎麦屋の笑い』という、自分が浅草の蕎麦屋を訪れたときの体験をネタにした噺を録音した。
翌04年には、代表作『ビールの賭け飲み』を発表。これはビールを15本飲めるかどうかを友人と賭けた男が、飲めるかどうかを確かめるために、賭けの直前に近所の酒屋で15本飲んできたというストーリーだ。現在でも人気の高い『試し酒』のもとになる噺である。
こうして一見、充実した芸能生活を送っているように見える快楽亭ブラックだったが、現実は「どさまわり」と言われる地方巡業が多く、収入面でも全盛期に比べると、かなりの程度きつくなっていた。
そして1908(明治41)年9月23日、兵庫県西宮に巡業中の彼は、芸人としての将来に不安をおぼえ、発作的に砒素を飲んで自殺をはかったが、さいわい一命をとりとめた。快楽亭はその後も寄席に出て、アクロバットや奇術を披露した。しかし、円朝と競うようにして新作を発表していた頃の勢いは、ついに戻らなかった。
晩年の快楽亭ブラックは東京の白金に住み、自分の芸能活動は控えて、養子の芸人石井清吉、その妻のフランス人ローザと子どもたちと一緒に生活した。1923(大正12)年9月19日、脳卒中で逝去。現在、横浜外国人墓地で眠っている。
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学生の時に新宿駅でまだ若かった二代目快楽亭ブラックを見つけ、握手して抱擁したことがあります。
[[attached(4,center)]][[attached(5,center)]][[attached(6,center)]]二代目快楽亭ブラック
「相変わらず馬鹿ですねー!」これは芸人に対してはこれは褒め言葉。TVで見かける若手芸人より快楽亭ブラックの一席を聴きたいものです。
本書のなかに登場する人物は甲乙つけがたいほど魅力的人物であるが、初代快楽亭ブラックには惹かれました。初代快楽亭ブラックは、日本オタク第一号ではないだろうか?明治のデーブスペクターかもしれません。おそらく二代目と同様のバカバカしいことをしていたのかもしれませんね。
今日世界を席捲する日本サブカルチャーの魅力を発見した先駆けであると思います。
明治時代に外人が落語で好評を博していた・・荒俣宏の宮武外骨の本に快楽亭ブラックが触れられていたことを思い出し、本棚を探したが、本棚の裏側のダンボールの中かも知れないので諦めた。それにしてもブラックが日本国籍を取得していたとは知らなかった。
当時日本国籍を取得するのは容易であったのだろうか?そのへんの事情を次調べてみたくなった。