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反証・山口貴生著「日本の夜明け」
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投稿者 野田隼人 日時 2009 年 4 月 05 日 05:50:39: rgym1W9ZU3nMk
 

慶応大学の高橋信一准教授から、フルベッキ写真を取り上げた『日本の夜明け』(山口貴生著 文芸社)という単行本が発刊されたという連絡を受け、早速ジュンク堂に発注して取り寄せてみました。そして同書が到着したので早速目を通してみましたが、内容的に間違いだらけの酷い本であり、当初は取り上げる価値もないと思っていました。しかし、フルベッキ写真の背景を知らない一般の人たちが読めば、間違った知識を身につけてしまうことになりかねず、面倒ではあるもののこうした類の本が出るたびに、蠅たたきをしておく必要があると考えを改めました。よって、高橋先生に書いて戴いた同書の書評、今回も本ブログに公開させていただくことになりました。

反証・山口貴生著「日本の夜明け」

慶應義塾大学 高橋信一

 久方振りに加治将一氏の「幕末維新の暗号」について行った検証と同じことをやる破目になった。2009年3月文芸社から刊行された「日本の夜明け フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」の著者、山口貴生(隆男)氏が「フルベッキ写真」の陶板額を売り出した張本人である。彼の前著は、陶板額に付けて販売された解説書だが、「フルベッキ写真」自体の解明に纏わる事柄は記述されていなかった。これらについて最初に説明していないのは一種の情報操作である。彼に会ったのは3年前のことだが、その際にブログに掲載している私の「フルベッキ写真の調査結果」の草稿を送って、「陶板額の修正版を出すように」と言ったのに、無視されている。本書は、たくさんの歴史の記録を集めて来て、幕末・明治維新の周辺状況を詳述した労作には違いないが、そんな暇があったら、「古写真の歴史」についての学習を徹底的にした方がよかった。「古写真」を論じているのに、「古写真の歴史」がほとんど語られていない。参考文献として引用されているのは、渡辺出版の「上野彦馬歴史写真集成」のみである。それも、掲載する写真の引用に使っただけのようだ。「上野彦馬歴史写真集成」の巻末には「フルベッキ写真」に関する東京大学の倉持基氏の論考があるのに、それを読んだ形跡が認められない。読んだのなら、故意に無視しているとしか思えない。「古写真の歴史」の解明は、これまで限られた研究者によって行われて来たので、確かに不明な点は未だに多く、間違って解釈されてきたことが現在でも踏襲されているということがあることも否めない。「上野彦馬歴史写真集成」にも多くの修正すべき記述がある。しかし、「フルベッキ写真」が撮影されたスタジオが上野彦馬のものでないということには断じてならないのである。そのことは、「古写真の歴史」をちょっと勉強すれば理解出来るはずである。

 偽説の信奉者たちは、秘密の会合の目的を主張しながら証拠写真撮影の目的を説明していない。坂本龍馬が持っていて近藤勇に見せたという土佐勤王党の血判状のようなものだというのか。では、でっち上げられた人物の誰が「フルベッキ写真」の保管者になったのか。現状、偽説に名前が上げられている人物の内、森有礼が所蔵したアルバムに大判のオリジナルでなく、名刺判の複写が残されていたのが、唯一である(平凡社刊 石黒敬章・犬塚孝明著「明治の若き群像」参照)。オリジナルと考えられるのは、フルベッキ自身が持っていたものと、長崎留学の記念写真を撮った岩倉具視の息子たち具定・具経兄弟の家にあったもののみである。これをもって、岩倉具視が最大の黒幕だったと言うのか。「フルベッキ写真」は秘蔵の写真ではなかったことが、2008年秋に明らかになった。横浜開港資料館に寄贈された明治前半のスチルフリード写真館が販売した写真アルバムの余白のページに、所有者オール氏が長崎の上野彦馬写真館で購入した数枚の長崎の写真の中に、「フルベッキ写真」のオリジナルが貼り付けられているのが見つかった。明治7年ごろには、上野写真館の店先で売られていたのである。明治初年における名刺判写真撮影の費用は現在の価格にして10万円くらいと推定される(図@に白米10kgの値段と比較した写真の値段の推移を示した。朝日新聞社刊「値段の明治大正昭和風俗史」と「続値段の明治大正昭和風俗史」参照)。1枚数万円はした大判の高価な写真を買えるのは、来日した外国商人たちくらいだった。このアルバムの複製は誰でも見ることが出来るようになっている。興味のある方は確認のこと。

 以下に、「日本の夜明け」に見られる明らかな間違い・疑問点を順を追って指摘した。大筋は基本的に「フルベッキ写真の調査結果」以来、いろいろとブログで述べて来たことの再確認であるが、自費出版に近く、発行部数の少ない「日本の夜明け」は一般の書店に並んでいない。過去のブログを参照しながら、お読みでない方々にも、改めて「フルベッキ写真」に対する正しい認識を持っていただきたいと願っている。

 (1)  口絵説明・・・「フルベッキ博士の子孫と言われている中村保志孝氏」が所蔵する写真    や資料を基にして「日本の夜明け」を編纂したとしているが、私は中村保志孝氏と平成18年3月にお会いして話しを伺った。ご両親の写真も複写させてもらった。父親は中村氏が3歳の時に亡くなっているので、記憶は定かではないとのこと。長崎外人墓地の墓碑を詳細に調査した長崎総合科学大学のブライアン・バークガフニ教授の「時の流れを超えて−長崎国際墓地に眠る人々−」によれば、中村氏の父 ペーター・グースワード氏はフルベッキの次女エマが生れた翌年の1864年ごろオランダで生まれ、1932年に長崎で68歳で死去した。顔もフルベッキとは似ていない。中村氏本人は当初から、子孫であることを認識しておらず、戦後知人から言われた。「フルベッキ写真」もオリジナルでなく、ゼロックス・コピーを人からもらったと証言した。偽説のでっち上げに利用されたのである。そうでないなら、フルベッキとの血縁を証明するべきであろう。

 (2)  p.4・・・「フルベッキ写真」のオリジナルに近いものは、平成9年岩波書店が刊行した「上野彦馬と幕末の写真家たち」に掲載された産能大学所蔵の写真で初めて一般に公開された。それ以外は複写写真である。「日本の夜明け」の「フルベッキ写真」の出所を明らかにすべきである。「上野彦馬と幕末の写真家たち」のコピーであろう。

 (3) p.5・・・「緻密な研究による」というが、その根拠はこの本の何処にも書かれていな い。「明治二年説」以外に「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏や私の「明治元年説」がある。「調査してまわったそれらの資料」の中に、名前が上げられた人物を識別出来るようにした、比較のための参照写真がまったく集められていない。どのようにして、「フルベッキ写真」に該当する人物を当て嵌めることが出来たのか、何の説明もない。

 (4)  p.39・・・フルベッキの「次女エマ・ジャポニカ」の誕生日を2月4日としているのは、「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏の解釈であるが、エマの誕生日は1863年2月7日であることがクララ・ホイットニー「クララの明治日記」から読み取れる。フルベッキの手紙(横浜開港資料館蔵「The Reformed Church in America, Japan Mission」)の原文を正確に解釈すると、マリアの陣痛が始まり出産の床に就いたのが2月4日である。

 (5)  p.46・・・1869年3月23日フルベッキの東京出発に「長崎から36人の生徒が付き添い」とあるが、佐賀藩士27名に東京等留学の許可が下りたのは、3月31日であり、フルベッキと行動を共にしたわけではないし、全員が大学南校に入学したわけでもない。

 (6)  p.48・・・横井小楠の甥「横井左平太・大平兄弟」は密航者であり、変名で渡航したが、「日下部太郎」は幕府の渡航許可証を持ったれっきとした留学生である。変名ではなく、新天地へ赴く意思をあらわすために改名した。

 (7)p.63・・・「フルベッキ博士の足跡」の日付けは村瀬寿代氏の「日本のフルベッキ」の年表に従って西暦で書かれているが、p.163からの「幕末維新の年表」は和暦で書かれているので注意が必要である。山口氏自身も混乱・混同しているようだ。肝心の(10)p.66に出て来る「西郷隆盛の空白期間」はどっちの暦年で考えるべきかによって、長崎でのアリバイがある人物とない人物が変って来る。いい加減な話である。

 (8) p.65・・・「2月4日」でなく、1863年2月7日に次女エマは生れた。

 (9) p.66・・・ここに上っている人物たちが済美館で学んだ記録はない。石橋重朝、丹羽龍之助、中島永元、江副廉蔵、中野健明らは致遠館、陸奥宗光、高橋新吉は何礼之の私塾、大隈重信と副島種臣は致遠館設立以前にフルベッキの住居に通って個人教授を受けた。村瀬寿代氏の研究論文(2000年「桃山学院大学キリスト教論集」と2006年「関西英学史研究」)を参照されたい。

 (10)p.66・・・「2月14日から3月4日頃」というのは、(48)p.187で私が扱っている西郷隆盛の行動の記録のない空白期間を根拠にしているが、p.187の記述は和暦で書かれているので、ここでは西暦に換算する必要がある。正しくは、1865年3月11日から30日となる。それとも、西暦の2月14日から3月4日なのか。いい加減な記述である。記録がないのは、意味があってのことだと断定することは出来ない。単なる偶然である可能性が高い。空白期間を作るには、残っている記録の改竄が必要になる。安易に改竄を主張するのは極めて危険である。

 (11)p.66・・・「3月22日」は和暦である。薩摩藩士たちが密航したのは、1865年4月17日である。

 (12)p.67・・・「明治元年8月、庄村助左衛門が横井兄弟について相談にフルベッキを訪れた」のは、慶応元年のことではないか。兄弟の留学希望を叶えるために、横井小楠が庄村経由でフルベッキに頼んだ。

 (13)p.68・・・「折田彦一」は「折田彦市」の間違いである。折田彦市は岩倉兄弟といっしょに長崎留学した人物で、「フルベッキ写真」に写っているはずの人物である。三高同窓生の板倉創造著「一枚の肖像画−折田彦市先生の研究−」を参照されたい。

 (14)p.75・・・「慶応元年説では問題ない」というが、この時期に長崎にいることの出来ない人物がいないかどうかについて何ら説明されていない。明治二年がだめで、慶応元年がなぜいいのか。

 (15)p.76・・・「上野スタジオで撮影したと断定されていない」というが、明治元年から6、7年ごろまでに使われた上野写真館のスタジオは、専らこのスタジオであることは、現在の古写真界の常識である。以前のブログの繰り返しになるが、昭和9年に永見徳太郎が「長崎談叢」第14輯に「白い塀垣の脇に黒幕を垂れ、ロクロ細工の手摺飾りを置き、その背景前で青天井のもと撮影していた」とあり、白壁が築造された明治以降のものであることがわかる。参考になる撮影時期が明らかな写真をいくつか紹介する。1.長崎歴史文化博物館が所蔵する明治2年1月10日撮影の振遠隊凱旋記念写真(ブログに添付した写真@ 振遠隊凱旋記念)と同じ日に幹部だけで撮られた集合写真。大正7年隊士の生き残りたちによって編纂された「振遠隊」にも掲載され、上野彦馬撮影と明記されている。この写真を見れば、このころ専ら使われていたスタジオであることが瞭然である。後者は石黒敬七編「写された幕末3」にも掲載されている。2.明治2年6月撮影の山縣有朋・西郷従道洋行記念写真(「決定版 昭和史1」掲載)。(21)p.85に示されている「広運館」の「フルベッキ写真」でもみられるように、スタジオの背景には欄干飾りの置物が置かれている。これが、このスタジオの特徴である。「致遠館」の「フルベッキ写真」では、大人数のため影に隠され、欄干飾りは見ることが出来ない。3.明治3年4月26日撮影の毛利元徳・木戸孝允ら集合写真。「写真の開祖 上野彦馬」に掲載、撮影日は「木戸孝允日記」に記載がある。4.広運館教師レオン・ジュリーを囲む生徒集合写真 (写真A レオン・ジュリー)、「日本の開国 エミール・ギメ あるフランス人の見た明治」掲載の2枚。上部の写真は明治3年10月にジュリーが広運館の教師になった際の記念に撮ったもの、下部の写真は明治4年10月に退任して京都のフランス語学校に赴任する前に撮ったものと思われる。スタジオの中央の敷石が外された時代の写真である。5.明治5年11月14日撮影の「明治初年頃の外賓と外交官大隈侯」集合写真(写真B 外交官大隈侯)。この写真は一般にほとんど知られていないので、詳しく紹介したい。大正11年2月に大隈重信が亡くなった時に雑誌「実業之日本」の「大隈侯哀悼号」が出て、多数の写真が口絵に取り上げられたが、その中で大隈夫妻を囲んだ外国人たちの写真が掲載された。「大隈侯一言一行」には、明治5年に大陸と長崎間に電信ケーブルが敷かれたのを機会に各国の外交官と鉄道・灯台・電信関係者を引連れて長崎まで視察に行った際の大隈の述懐が載っている。写っているのは大隈重信夫妻、山尾庸三夫妻、佐野常民、石丸安世、石井忠亮、フレッシャー、ジョージ、カーギル、ボイルとアーネスト・サトウらである。横浜開港資料館「図説アーネスト・サトウ幕末維新のイギリス外交官」、萩原延壽「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」、「灯台巡回日誌(「大隈文書」)」、「杉浦譲全集 第5巻」の「燈台電信巡視日記」を見れば大隈たちは明治5年の11月12〜15日の4日間だけ長崎に滞在していたことが分かる。11月14日の「巡廻日誌」には「この日、記すべき事なし」と書いてあり、仕事は休みとなったので、上野彦馬写真館で集合写真を撮った後、会食している。このように、このスタジオは専ら、明治以降に上野写真館で使われていたのである。その他、山口氏が引用する「上野彦馬歴史写真集成」にもスタジオの様子が分かる写真が掲載されている。

 (16)p.76・・・「フルベッキ博士と一緒に写っている子供」が男の子か女の子かの解釈については人間の感性が同じでないことの証左であり、見解の相違は埋められない。断定して、それに基づく推測をするべきではないと考える。(29)p.91で、再度触れる。

 (17)p.77・・・「名前なども判明しているはずが不明」なのは、「フルベッキ写真」が佐賀藩の生徒たちには渡らなかったことが原因であろう。手元になければ、誰が写っているかの情報は残らない。岩倉兄弟の長崎到着を京都の親元に知らせるための記念撮影だったので、フルベッキと岩倉兄弟の分以外に焼き増しされなかった。留学生の身である岩倉兄弟たちが、佐賀藩士たち全員に配ったとは考えられない。当時は一枚のネガからの拡大・縮小焼付けは出来なかったし、1枚数万円もする高価な大判写真は極少数しか作られなかった。「フルベッキ写真」の名刺判が存在するが、後年の複写である。江副廉蔵が持っていた複写は明治初年の鶏卵紙判ではなく、明治後半以降の銀塩写真である。

 (18)p.80・・・「フルベッキ博士の送別記念写真」ではないというのが、前述したように、私の見解である。岩倉家に残っていたオリジナルは残念ながら戦災で焼失し、昭和の始め岩倉具視50回忌「岩倉公記念祭」の際に複写したものが京都・岩倉記念館に残っている。

 (19)p.81・・・「フルベッキ写真の写場」については、私の論考「書評 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』」(2007年「民衆史研究」掲載)を参照されたい。ブログでも「上野彦馬の写真館と写場の変遷」として詳しく扱っている。慶応3年の後半に上野邸の敷地を囲む白壁の塀が新築された。その際に、今まで使われていた慶応年間の狭いスタジオの一つが改造されて広いスタジオになったと推定しているが、断定出来るところまで煮詰まっていないのが現状である。しかし、「明治15年、ビードロの家」というのは、従来の研究者の見解を修正する必要がある。屋根にビードロ(ガラス)を張ったスタジオの様子は石黒敬章氏の「幕末・明治のおもしろ写真」に掲載の写真で知れる。その床に敷かれた絨毯の模様を日本カメラ博物館刊行「写真館『上野撮影局』誕生 上野彦馬が愛した長崎」に掲載されている明治10年までに成立したことが明らかな外国人所有の写真アルバムの写真と比較すると、明治15年よりかなり早くから「ビードロの家」のスタジオは完成していたと見なせる。このスタジオは先の欄干飾りを置いた「フルベッキ写真」のスタジオとは別に上野写真館の敷地内に作られたのである。同様な写真は「上野彦馬歴史写真集成」にもあり、この新しいスタジオは明治7、8年ごろから既にあったと結論出来る。また、詳細は別の機会に取り上げるが、中島川沿いの塀際に建てられた上野写真館の二階家は明治5年には完成していたようだ。このような推測が出来るのは、近年たくさんの幕末・明治の古写真が公開、研究者の目に入るようになったお陰である。古い常識で、誤った妄想を正当化するのは、その内にぼろが出ることが必定なのでそろそろやめた方がよい。

 (20)p.81・・・「植木と草履」のところには、植え込みを囲う置石も見えているが、広運館の集合写真ではなくなっている。これが意味するところは、致遠館の「フルベッキ写真」は明治元年の後半、広運館の「フルベッキ写真」は明治2年の前半と、撮影された時期の違いを示している。因みに「振遠隊凱旋写真」では植木の枝が残っている。

 (21)p.82・・・「勤務先の洋学所」は文久年間には江戸町にあった。その後の校舎の場所の変遷は洋学所を引き継いだ現在の長崎市立長崎商業高等学校が刊行の「長崎商業百年史」で辿ることが出来る。元治元年正月、大村町に移転し「語学所」に校名を改めた。フルベッキはこの年の6月に教師として雇われた。(23)p.85のBの写真は、このころのものであろう。慶応元年2月に新町の元長州蔵屋敷跡に校舎を竣工、8月に移転して「済美館」となった。慶応元年2月に、p.86の@の「フルベッキ写真」が撮影されたとすると、その場所は「洋学所」でも「済美館」でもなく、「語学所」である。「洋学生」でなく、「語学生」でなければならない。「広運館」の前身「語学所」の教師と生徒が写る方のp.87のBの「フルベッキ写真」がこのころ撮られたのであれば、大村町の校舎がスタジオとして妥当かもしれないが、(28)p.89にあるようにA「広運館」の「フルベッキ写真」は明治2年に撮られた。その時、広運館は明治新政府によって移転させられ、外浦町の西役所跡にあったのである。慶応元年と明治2年では、別々の場所にあったはずの学校の校舎に同じ構造のスタジオがあり、両方で撮影されたというのか。訳の分からない話である。@とAの二つの「フルベッキ写真」は同じスタジオで撮られていることは疑いないので、「致遠館」の「フルベッキ写真」にはさらに相応しくない。このスタジオは日常的に写真を撮るために上野写真館の敷地内に作られた場所であり、たまたま特別に用意されたものではないことは、(15)p.76の項で示したとおりである。

 (22)p.84・・・「薩摩藩の蔵屋敷」では、尚更のこと非常に特別な場所になる。考慮の他である。秘密の会合から秘密のスタジオへと妄想が広がっているが、「古写真の歴史」だけでなく、「長崎における洋学の歴史」が理解出来ていないことは明らかである。

 (23)p.85・・・「@」が致遠館の「フルベッキ写真」、Aが広運館の「フルベッキ写真」、 Bは朝日新聞社刊行「読者所蔵 古い写真館」に掲載されたもので、元の所有者から板橋区立郷土資料館に寄贈された。郷土資料館は明治2年の写真とは認定していない。根拠もなく、勝手に決め付けている。こちらの写真はフルベッキが洋学所(語学所)で教え始めた元治元年6月以降のもので、中列の右端に英語教師の岡田好樹(Aの広運館の写真にも写っている)、同じ列の左から二人目に柴田昌吉(岩崎克己「柴田昌吉傳」)がいるが、柴田は慶應3年3月、江戸の海軍伝習所の通詞として、柳谷謙太郎とともに出仕したので、明治以降の撮影は考えられない。尚、この写真は長崎大学経済学部武藤文庫にも複製が所蔵されている。ともに済美館に学んだ人物や教師が残したものであろう。2007年版名古屋大学附属図書館研究年報掲載の中井えり子「『官許佛和辭典』と岡田好樹をめぐって」を参照してほしい。3枚の写真の内、これが最も古い写真なのである。

 (24)p.86・・・「見事なまでの髭」はフルベッキの長崎時代の初期の姿そのものである。長崎歴史文化博物館には、フルベッキの肖像画(「図説 大隈重信:近代日本の設計者生誕150年記念」を参照)が所蔵されているが、それには髭が描かれている。フルベッキは晩年にも髭を生やしていたので、時々そうしていたと考えた方がよい。「日本のフルベッキ」の原書「Verbeck of Japan」には妻マリアと二人で写る晩年のフルベッキの写真(写真C フルベッキ夫妻)が掲載されているが、これには「立派な髭」が見られる。

 (25)p.87・・・「A」のキャプションの「大隈重信、江藤新平、副島種臣」はどこにいるというのか。好意的に見れば、誤植である。偽説では@にこれらの人物が写っていることになっている。Aにもいるなら、その位置も示すべきである。

 (26)p.88・・・「立派な髭」で年齢を考察するのは、笑止である。

 (27)p.89・・・「佐賀藩士としたら一体誰」かを追求するのが、地元の研究者の最大の課題である。それを蔑ろにして妄想に耽っている場合ではない。「江藤南白」や「開国五十年史」を読むべきである。致遠館に入学した佐賀藩士は岩松要輔氏によって杉本勲編「近代西洋文明との出会い」中の「英学校・致遠館」にリストされている。山口氏はそれを読んで、(37)p.123に名前を上げているのに、なぜ彼らの顔写真を集める努力をしないのか。

 (28)p.89・・・「Bの写真が一番新しい」根拠は髭のようだが、武士たちの多くが、月代を剃りあげている点はどう説明するか。月代をやめたのは、大政奉還以降であり、慶応元年の時点では藩士たちの大部分は月代を剃っていた。「Aの写真は明治2年、広運館教師フルベッキ送別記念写真」と正確に記述しているので、世の中の常識に合わせている。この時、広運館は外浦町の西役所跡にあった。秘密のはずの@の「フルベッキ写真」がなぜ、Aの「フルベッキ写真」と同じスタジオで撮影されたのか。自己矛盾を取り繕えなくなっている。

 (29)p.91・・・「男の子のようにショートカットはあり得ない」というのは、単なる思い込みに過ぎない。平凡社刊行の石黒敬章・犬塚孝明「明治の若き群像」には明治11年家族全員で米国へ発つ前に浅草の内田写真館で撮影されたフルベッキの家族写真(写真 D フルベッキとその家族)が掲載されている。後列には当時15歳の次女エマがショートヘアで立っており、フルベッキが抱き寄せているのは、三女のエレノアである。フルベッキ家は妻マリアも含めて髪を短くするのが伝統だったのではないか。「フルベッキ写真」の子供のチェック柄の服は女の子のものであろう。

 (30)p.96・・・秋田角館から出て来た「大礼服を着た謎の人物」は尾崎忠治であることが、東京大学馬場章研究室の研究で解明済みである。日本写真芸術学会平成15年度年次大会研究報告予稿集で「歴史写真における新たな人物比定方法について」と題して報告されている。倉持基氏の東京大学大学院情報学環・学際情報学府2003年度修士論文「『歴史写真』における人物比定方法の基礎的研究」を参照のこと。尾崎家にも角館と同様の写真が残っている。「フルベッキ写真」とは無関係である。「フルベッキ写真」の西郷隆盛と名指しされた人物は鱈子唇ではない。

 (31)p.99・・・「只もちを延べたる如きめずらしき耳」の解釈は、耳タブが長い釈迦の耳のようだと言ったに過ぎないのではないか。「もちをちぎったような」とは言っていない。

 (32)p.116・・・「フルベッキ小伝」は明治28年に刊行されてはいない。まだ草稿の段階であった。決定稿は1909年に軽井沢で開催されたオランダ改革派教会の集会でワイコフによって読まれ、出版された「Biographical Sketches read at the Council of Missions」(明治学院大学所蔵、2009年4月に明治学院大学から翻訳が刊行される)である。これには「日本のフルベッキ」からの引用が多く見られ、グリフィスの誤解の影響を受けているところもある点に注意すべきである。

 (33)p.118・・・戸川残花の「氏の交際せし人」以下の文章は正確に記述すべきである。後世の研究者の誤解の元になった文章である。「氏の交際せし人、或は其門下の学生には岩倉侯(具視でなく、具定のことである)、大隈、大木、伊藤、井上の諸伯、加藤弘之(博之ではない)、辻新次、杉亨二、何礼之、中野健明、細川潤次郎(陶次郎ではない)の諸君あり、故大久保侯あり、江藤新平氏あり、横井小楠あり、英和字典を著しし柴田(昌吉)氏等のあれば美談逸事多しといえども氏の恭謙なる敢えて当年の事を語らず」。特に秘密や世間をはばかったわけではない。

 (34)p.119・・・「長崎洋学生」や「維新前」についての厳密な議論に意味はない。(21)p.82で述べたように、広運館は慶応元年2月の時点では「洋学所」でなく、「語学所」だった。戸川残花は総て分かって書いていたわけではないだろう。彼はフルベッキが米欧回覧を提案したブリーフ・スケッチの存在を知らなかった。侍姿をほとんど見ていない残花には、明治以前の写真に思えたと解釈出来る。

 (35)p.120・・・「致遠館の学生たち」と書かれても、反論しなかったのは、それが真実だったからである。

 (36)p.122・・・「誰一人として反論しなかった」のは、p.121に上げられた人物が「フルベッキ写真」に写っているとは戸川残花が主張していないからである。彼は人物の特定を行っていない。勘違いすべきではない。

 (37)p.123・・・「香月経五郎」と「山中一郎」は写っている位置が、「中島永元」、「丹羽龍之助」、「石橋重朝」、「江副廉蔵」、「大庭権之助」、「中野健明」は写っていると大正3年刊行の「江藤南白」に明記されている。その他の歴史の中に消えて行った人物は50年が経過して、特定が困難になったということである。写真が高価でなく、佐賀藩士の子孫たちに伝わっていれば、状況が変っていただろう。2008年、佐賀県立図書館が刊行した佐賀藩の長崎における対外交渉役伊東外記(次兵衛)の日記(「佐賀県近世史料 第5編第1巻幕末伊東次兵衛出張日記」)の明治元年10月27日の記録に「今晩から岩倉兄弟が致延(遠)館に寄宿することになった」と書かれている。この時、岩倉兄弟が長崎に到着したのであり、その後に「フルベッキ写真」は撮影されたわけである。また、それより少し前の10月8日に「中島写真館に副島要作らフルベッキ一同と出かけ、写真を撮った後、藤屋で西洋料理を会食した」という記録があり、恐らく大判でなく、名刺判で撮られたであろう。この写真が現存すれば、「フルベッキ写真」解明の大きな手掛かりとなるはずだが、未だ発見されていない。私にはこちらの方が大変不思議である。佐賀の乱で佐賀市内一帯が焼けたこととも関係があろうか。

 (38)p.124・・・「致遠館の名前が分かっている」証拠は、「上野彦馬歴史写真集成」の巻末にも取上げられた篠田鉱造の「明治百話」に載っているフルベッキの証言である。「長崎の日本第一の写真師が撮った。一方は佐賀藩の侍、一方は幕府の侍」とあり、前者は致遠館を、後者は広運館を指している。

 (39)p.130・・・「構図法」を島田氏が確かに実行したかは検証されていない。西郷隆盛は対照写真が存在しないので、実行しても信頼性のある結論は出なかったはずであるが、それをまことしやかに説明しているのに写真の素人の歴史論文査読者が引っ掛かった。彼の方法が真に科学的なら、その手法を山口氏自身が、対照写真の残っている人物に適用してみせるべきである。恐らく、三者三様の結論が出るであろう。警視庁の科学研究所は、鑑定に責任を持つべきである。鑑定が正しいのなら、46人全員に適用してみせる責任がある。

 (40)p.131・・・「@大隈侯八十五年史」には「フルベッキ写真」は登場しない。「開国五十年史」の間違いである。「A江藤南白」は大正3年刊行である。「致遠館の教師とその門弟、明治初年記念撮影・・・・・」はちゃんと記述すべきである。「慶應年間長崎に設立したる佐賀藩英語学校致遠館の教師及び其の門弟等が明治初年に於ける記念の撮影中段の中央に在るは教師フルベッキ(米人)にして左側の少年は其長男右側は公爵岩倉具定なり向って右より上段の第五に立てるは香月経五郎之に隣りして其六に在るは山中一郎なり中島永元、丹羽龍之助、石橋重朝、江副廉造、大庭権之助、中野健明等亦此中に在り」。江藤新平と大隈重信の名前は何処にも入っていない。江藤や大隈の存在を隠したいのなら、写真自体載せなければよいのである。「フルベッキ写真」には真に彼ら二人は写っていないのである。情報操作すべきではない。「江藤南白」には「フルベッキ写真」以外に佐賀藩士の集合写真が数枚挿入されており、同定の参照写真として極めて貴重である。

 (41)p.134・・・「Verbeck of Japan」には致遠館の「フルベッキ写真」は掲載されていない。「広運館の写真」が、「フルベッキ写真」についての記述の近くに挿入されている。グリフィスの日記によれば、フルベッキの息子のウィリアムは「Verbeck of Japan」出版前にグリフィスと原稿の読み合わせを行っており、その際に「広運館の写真」をグリフィスに貸したが、返却された。「Verbeck of Japan」に使われた写真のほとんどはラトガース大学のグリフィス・コレクションに保管されているが、これらの二つの写真は現存しない。

 (42)p.135・・・「大隈侯」が写っているとしたのはグリフィスの勘違いである。大隈との面識はほとんどなかった。産能大の「フルベッキ写真」を拡大すれば、大隈とされる人物の額に凹凸が見られるが、真の大隈重信にそのようなものがあったことはない。島田氏は江副家の解像度の低い複写写真を基に同定を行っており、信頼性に大いに疑問がある。

 (43)p.136・・・「江副暢子女史の手紙」が本物であるかどうかについて、論文では保証されていない。女史の筆跡を鑑定出来る、肝心な証言の部分を写真に撮って論文に掲載していれば、こんな疑念は生まれないが、そんなことは出来なかったのだろう。島田氏のでっち上げでないと言えるか。女史の記憶違いも含まれているであろう。大隈重信の最初の妻美登は江副廉蔵の姉であり、関係が深かったので、大隈が写っていれば、どの位置にいるかはっきり示せたのではないか。そうではなかった。

 (44)p.159・・・「集合場所は秘密が漏れずに安全な場所」というが、「フルベッキ写真」のスタジオは日常的に使われて来た。

 (45)p.160・・・「中村先生の資料」が中村保志孝氏自身に渡ったのが、いつなのか、説明してもらいたい。全員の名前と、撮影時期を明記したのは誰なのか。中村保志孝氏の資料を基にして「日本の夜明け」を書いたなら、山口氏はそれらを明らかにすべきである。

 (46)p.160・・・「顕著な疑問点」についての反証は、前述までに既に論じて来たので繰り返さない。

 (47)p.187・・・「西郷隆盛は太宰府で五卿と会談した」なら、なぜ、三条実美は長崎の秘密会合に加わらなかったのか。岩倉具視が「フルベッキ写真」に写っているなら、三条もいたはずではなかったか。

 (48)p.187・・・「西郷隆盛の空白期間2月14日から3月4日」に誰が何処にいたか、もっと徹底的に調査すべきである。そうすれば、歴史の記録を改竄しなければ、辻褄が合わない人物が大量に出て来るであろう。この空白期間を西暦で考えると、薩摩藩の密航留学生は1865年2月15日から4月17日まで、鹿児島羽島に潜伏していた。残っている記録(「森有礼全集」には密航の詳細な記録が収められている)は捏造されたものなのか。「大久保利通日記」によると、大久保利通と吉井友実は1865年2月23日(慶応元年1月28日)に博多に着き、27日に博多から西郷隆盛に手紙を出し、3月4日に京都に着いた。一方、空白期間を和暦で考えても、薩摩藩留学生は長崎に行っていない。大久保利通は慶応元年2月から3月は京都におり、京都を発ったのは3月22日(西暦4月17日)であり、鹿児島に4月3日(西暦4月27日)に着いた。坂本龍馬と中岡慎太郎は京都にいて、2月22日(西暦3月19日)に大久保利通と会っている。小松帯刀はこの年4月まで京都二本松の私邸におり、鹿児島へ帰るのは4月後半である。後藤象二郎も慶応元年には鹿児島におり、長崎滞在の記録は存在しない。みんなで情報を持ち寄れば、如何に空白期間に意味のないことなのかよく分かるのではないか。

 (49)p.222・・・「人物の断定」の作業は放棄されている。杜撰な研究である。「本物」といっても、所謂有名人が写っている写真と同じ顔が「フルベッキ写真」に写っているかどうかは別である。その判断の材料はまったく提供されていない。偽説に上げられた有名人の内で、実際に幕末期に上野写真館で写真を撮り、名刺替りに配っていた藩士たちは、伊藤博文、大隈重信、木戸孝允、後藤象二郎、坂本龍馬、副島種臣、高杉晋作、中野健明、陸奥宗光、横井左平太・大平兄弟とかなりいる。萩原延壽「陸奥宗光」には、陸奥宗光の遺族が持っていた慶応元年当時の狭いスタジオで写る陸奥宗光と横井左平太・大平兄弟らの集合写真が掲載されている。しかし、それ以外の人物も同時期に長崎にいたことが偽説では想定されているのに、写真が残っていないのはどうしたことか。このことは長崎に行っていないことを示すのではないのか。振り返って致遠館で学んだ佐賀藩士たちの写真も現存するものは少なく、先に上げた「江藤南白」の口絵に数枚見るのみである。そうしたことから、佐賀藩士たちの人物像を現代の我々はほとんど知ることが出来ない。それをもって、佐賀藩士ではないと決め付けることは出来ないのである。山口氏がやらない以上、ブログの読者にこちらから情報を提供するしかないと思い、主な人物の参照写真の出所を以下に上げることにする。人間の顔は年齢と共に変化し、髭や髪形でも印象が変る。出来るだけ慶応元年に近い年代に撮影された写真を集める必要があるが、日本で写真撮影が始まって数年しか経っていない時期の写真はほとんど現存しない。島田氏らは不完全な写真を基に同定を行ったはずで、同定というよりも、似通っている人物の当て嵌めを行ったに過ぎない。それを実証するためにも、読者の方々も同定作業を試みてほしい。

 (50)p.224・・・「フルベッキ」:「フルベッキ書簡集」、「図説 日本医療文化史」、「明治の若き群像」。

 (51)p.226・・・「ウィリアム・フルベッキ」:「明治の若き群像」中のフルベッキの家族写真に次女エマと並んで写っているが、二人はよく似ている。小さい頃の写真は男女の区別がつかなかっただろう。

 (52)p.227・・・「石橋重朝」:「佐賀 幕末明治500人」。

 (53)p.228・・・「伊藤博文」:「伊藤博文傳」、「幕末明治の肖像写真」、「伊藤公実録」、「写された幕末3」。大正2年刊行の「歴史写真」には明治元年神戸で撮影の鮮明な伊藤の写真が掲載されている。

 (54)p.230・・・「井上馨」:「世外井上公傳」、「幕末明治の肖像写真」。

 (55)p.231・・・「岩倉具視」:「幕末明治の肖像写真」。彼の公家の結髪姿は日本カメラ博物館刊行「よみがえる幕末・明治 写真で楽しむ ときの流れ」の裏表紙に掲載されている。彼は明治4年、米欧回覧でアメリカに行くまで、髪を伸ばすことはなかった。

 (56)p.233・・・「岩倉具定」と「岩倉具経」の留学は当時の「Japan Weekly Mail」などで調べがついている。明治3年2月22日にAmerica号でサンフランシスコに向け出航した。1月にアメリカに向けて出発した船はない。岩倉兄弟の写真は岩倉具忠「岩倉具視−国家と家族−」、「写真集日本近代を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション」を参照。

 (57)p.234・・・「岩倉具綱」:「雑誌 太陽 明治30年2月号880ページ」。彼の写真はほとんど知られていない。

 (58)p.237・・・「大室寅之佑(祐)」の名前が「フルベッキ写真」に登場するのは、近年になってからである。島田氏は関係していない。平成14年ごろからではないか。明治天皇すり替え説を補強するためにでっち上げられた人物である。写真など存在しない。

 (59)p.238・・・「江副廉蔵」:「佐賀 幕末明治500人」、「大隈重信と江副廉蔵」。彼が慶応元年から長崎に留学していた記録はない。「佐賀県教育委員五十年史」によると、致遠館の前身蕃学所設立当時の人物は、大隈重信、副島種臣、小出千之助、石丸安世、中牟田倉之助、馬渡八郎、中野健明、副島要作、中島永元、堤喜六、中山九郎、相良知安、綾部新五郎、本野周蔵、山口尚芳らである。江副廉蔵は慶応3年12月12日に致遠館伝習生として登録されている。ここでは、江副家からいただいた青年期の写真を掲載する。

 (60)p.239・・・「江藤新平」:「江藤南白」、「幕末明治の肖像写真」。

 (61)p.240・・・「大木喬任」:「日本人物百年史」、「近世名士写真」、「幕末明治の肖像写真」。

 (62)p.242・・・「大久保利通」:「日本人物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。

 (63)p.244・・・「大隈重信」:「実業之日本 大隈侯哀悼号 大正11年2月」、「日本人物百年史」、「幕末明治の肖像写真」。彼の最もよく知られている肖像写真は明治5年12月にウィーン万博に出品するために横山松三郎によって撮影されたものである。「東京国立博物館所蔵 幕末明治期写真資料目録」参照。彼は明治元年10月から11月にかけて長崎にいたことが「大隈重信関係文書」の中の大隈の手紙で知れるので、「フルベッキ写真」が真に撮影された明治元年10月後半には長崎にいて、撮影に参加した可能性は否定出来ない。しかし、(42)p.135で述べたように、大隈の顔とは一致しない。この「フルベッキ写真」の人物を「写真の開祖 上野彦馬」のp.55に写る人物と比較してほしい。皆さんにはどのように見えますか。「日本のフルベッキ」のグリフィスは「フルベッキ写真」に大隈が写っていると書いているが、彼が大隈と会ったのは1871年1月以外に知られていない。グリフィスの来日当時の日記に大隈は登場しないし、「大隈重信関係文書」や「グリフィス・コレクション」には彼らがやり取りした手紙は残っていない。グリフィスが大隈について研究するようになったのは、1900年に「日本のフルベッキ」を刊行したのが切っ掛けである。物事の順序を間違えてはいけない。内海孝「大隈重信とW・E・グリフィス(「大隈重信とその時代」)を参照のこと。後年の大隈の顔しか知らなかったことは十分考えられる。彼が正しいとすると、「フルベッキ写真」には柳屋謙太郎が写っていなければならない。柳屋は何処にいるのか。

 (64)p.245・・・「大村益次郎」の写真は現存しない。

 (65)p.247・・・「岡本健三郎」:「幕末・明治美人帖」

 (66)p.248・・・「勝海舟」:「勝海舟」、「幕末明治の肖像写真」。

 (67)p.249・・・「香月経五郎」は「本物」として、写っている位置が同定されている数少ない人物で、「江藤南白」に掲載の「フルベッキ写真」の説明の中に明確な記述がある。(40)p.131の項を参照してほしい。この本には、他のページに佐賀藩士たちの写真が何枚も掲載されており、「フルベッキ写真」との照合の格好の参照写真である。試みられたい。

 (68)p.250・・・「木戸孝允」:「幕末明治の肖像写真」。

 (69)p.252・・・「日下部太郎」は慶応元年9月に長崎に留学した。福井県立図書館に記録が残っている。3月には長崎にいなかった。彼の顔写真はほとんど知られていない。1982年と近年刊行の「よみがえる心のかけ橋:日下部太郎/W.E.グリフィス」以外は、ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクションに留学中の写真を見出すのみである。どうやって同定したのか。単に当て嵌めただけだろう。

 (70)p.253・・・「黒田清隆」:「幕末明治の肖像写真」。

 (71)p.255・・・「五代友厚」:「幕末明治の肖像写真」。偽説を信奉する人たちは常に強弁しているが、本当は山中一郎であり、(67)p.249でも述べたように「江藤南白」に位置も明記されている。それを認めないなら、「香月」も削除されるべきだが、辻褄合わせのため、どうしても「五代」を加えたいのであろう。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (72)p.256・・・「後藤象二郎」:「上野彦馬歴史写真集成」、「伯爵後藤象二郎」。

 (73)p.258・・・「小松帯刀」:「近世名士写真」。

 (74)p.260・・・「西郷隆盛」の写真は現存しない。どんなにそれらしい写真や肖像画を持って来ても照合は意味がない。似顔絵で指名手配の犯人を逮捕するようなものである。同定はあくまでも、本人の写真と確認出来ているものを用いて行われなければならない。

 (75)p.262・・・「西郷従道」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「元帥西郷従道伝」。

 (76)p.263・・・「坂本龍馬」:「クロニクル 坂本龍馬の33年」、「上野彦馬歴史写真集成」。

 (77)p.264・・・「鮫島誠蔵」:「日本名家肖像事典」、「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (78)p.266・・・「品川弥二郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」。

 (79)p.267・・・「副島種臣」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「蒼海遺稿」、「副島種臣全集」。慶応元年ごろ、上野彦馬のスタジオで撮られた写真が「鍋島直正公伝」に掲載されている。副島は明治天皇が洋髪になる明治5年まで丁髷をけっしてやめようとはしなかった。

 (80)p.268・・・「高杉晋作」:「東行:高杉晋作」、「伊藤博文傳」。

 (81)p.269・・・「寺島宗則(松木弘安)」:「写真集 甦る幕末」、「幕末明治の肖像写真」。    慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (82)p.271・・・「中岡慎太郎」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「勝海舟」。

 (83)p.272・・・「中島信行」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「近世名士写真」。

 (84)p.273・・・「中村宗見」:「明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム」。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (85)p.274・・・「中野健明」:「佐賀 幕末明治500人」。森重和雄氏の指摘によれば、明治5年ごろ米欧回覧で岩倉具視らと渡英した先で撮影された若い中野の写真(中野家寄贈になる東京大学史料編纂所 古写真データベース所蔵)を基にすると、岩倉具経の前に坐る人物、つまり「岩倉具視」の本当の姿の可能性がある。

 (86)p.276・・・「広沢真臣」:「写真集 近代日本を支えた人々:井関盛艮旧蔵写真コレクション」。

 (87)p.277・・・「別府晋介」:「西郷隆盛」。

 (88)p.278・・・「陸奥宗光」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、萩原延壽「陸奥宗光」。彼が中島信行、横井左平太・大平兄弟らと長崎に行ったのは慶応元年3月18日、神戸の海軍操練所の閉鎖が決定した後である。陸奥は面長で知られていた。

 (89)p.280・・・「村田新八」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」。

 (90)p.281・・・「森有礼」:「森有礼全集」。これには森の若い頃の写真や両親の写真があり、森の顔の特徴が遺伝によることがよく分かる。慶応元年薩摩藩の密航留学生。

 (91)p.282・・・「横井小楠」:「日本人物百年史:幕末・明治・大正・昭和」、「横井小楠傳」、「勝海舟」。

 (92)p.284・・・兄「横井左平太」と弟「横井大平」が米国に発ったのは慶応2年4月28日である。西暦と和暦の混同がある。陸奥宗光らと上野写真館で撮った集合写真が萩原延壽「陸奥宗光」にある。ここではラトガース大学留学中の写真をグリフィス・コレクションから示す。

 (93)p.286・・・「吉井友実」:「北海道大学 北方資料室 明治大正期北海道写真目録」。吉井の写真も非常に少ない。

 以上のように参考として上げた文献から抽出した参照写真を使って、偽説に名前が上っている人物について画像工学的な評価を少しずつ進めている。顔の何処の部分が一致して、何処が違うかを感覚でなく、画像認証の立場で見極める作業は容易でなく、感性に頼った同定作業に陥らないように古写真から人物同定するには何が必要かを検討している。いつか、まとめて報告したいと思っている。一般受けのするキャッチフレーズに惑わされずに、一つ一つの事実の記録を確証していくのが、本当の歴史の探求である。古写真(歴史写真)の分野でも同じことをやらなければならないことを理解していただきたい。何度も言うようだが、無名の佐賀藩士たちにも規模の大小はあれ、時代の変革期に生きたロマンがあったはずである。それを掘り起こすことにご協力いただける方が出て来ることを期待している。島田氏は西郷隆盛への思い入れが嵩じて偽説を創造した。「幕末維新の暗号」の加治将一氏はフリーメーソンへの幻想を脚色するために「フルベッキ写真」を利用した。偽説の総集編を書いたが、何を主張したいのか分からないいい加減な本だった。山口氏は大変革時代の日本の若者へのメッセージを形にしたかったかもしれないが、方法が間違っている。正しいことを論じるには正しいことの積重ねが必要であることを真摯に受け止めて間違いを訂正してほしいと思う。

(平成21年4月1日)  

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