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<続・裁判員元年:1>冤罪を生まないために
2010.01.12 東京朝刊 3頁 3総合 写図有 (全3,423字)
(写真は「無実の富山さんの再審無罪をかちとる会」から)
●誤判は起こる、謙虚に耳傾けて
いまから59年前、1951年1月に山口県のある村で起きた強盗殺人事件。老夫婦の殺害に関与したとして5人の若者が逮捕された。その土地の名前から「八海(やかい)事件」と呼ばれるようになった事件の裁判は、日本の刑事司法史に残る大きな過ちの一つだ。
4人は無実を主張したが、残る1人の供述などを根拠に一審、二審では5人とも有罪と認定された。事件を題材にした映画「真昼の暗黒」(56年)で、「主犯格」として死刑判決を受けた被告が面会に来た母親に叫ぶラストシーンの言葉は、流行語になった。「まだ最高裁があるんだ!」
モデルとなった阿藤周平さん(83)=大阪市此花区=は判決を7回受けて3度、死刑とされた=表。最終的に阿藤さんを含む4人の無罪が確定したのは68年。事件から17年がたっていた。
「裁判員も誤ることがあるだろう」。阿藤さんはいま、市民が刑事裁判に参加することについて、こう語る。「誤ったときに、それを正して謝る仕組みが必要だ」
一審で死刑判決を出した裁判長は、56年に「裁判官の弁明」という本を出版し、阿藤さんを死刑にしたことについて《3人の裁判官の意見が完全に一致した》と明かした。
《死刑の判決をするときほど不愉快なものはない》と述べつつ、阿藤さんへの死刑宣告は《当然過ぎるほど当然と考えていたから割合冷静に言い渡せた》と記している。
無実を訴える被告を前に、裁判官が「評議の秘密」まで明らかにして確信を持って有罪だと明言し、謝りもしないのは、どうしてなのか。阿藤さんは、拘置所でこの本を読んで憤った。「人の意見に耳を貸さない姿勢の表れだ。こっちは命をかけているんだ」。裁く側に対する不信は、いまもぬぐえずにいる。
●アマチュアだから見えること
昨年4月。阿藤さんが、同じように無実を訴えている男性の支援集会に出席していると、声をかける女性がいた。
「祖父の判決でつらい思いをさせてしまいまして、何と申し上げたらいいか……」
作家の橘かがりさん(49)の祖父、故・下飯坂潤夫(ますお)氏は62年、最高裁が阿藤さんの無罪判決を破棄し、審理を差し戻す判決を言い渡したときの裁判長だった。初対面の橘さんに、阿藤さんは「よくぞ、いらして下さいました。しかし、あなたに言われても仕方がありません」と応じた。
法曹一家に育った橘さんは一昨年3月、自伝的な小説「判事の家」を出版した。祖父は戦後最大の冤罪事件といわれる「松川事件」の審理にもかかわり、のちに無罪が確定する被告たちのことを「有罪」だと最後まで主張していた。事件で自由を奪われ、命を失いかけた元被告たちのことを調べ、小説のテーマにした。
祖父も晩年には、死刑廃止論者に変わっていたと家族から聞かされたエピソードも、この小説で明かしている。
八海事件で「5人犯行説」を語って有罪判決が確定した1人の供述は、一貫していたわけではなかった。
常識で考えて有罪とするのに疑問が残るのならば被告を無罪にする――。刑事裁判の鉄則だ。それを専門とするプロでも陥ってしまう「誤判」を裁判員が避けて通れるのか。橘さんは「多くの裁判の森の中で、プロの裁判官が見落とすこともあるのではないか。アマチュアの市民だからこそ、見えることがあるはず。一本の木の、枝葉まで隅々見渡して、ちょっとした疑問でも、ぶつけてもらいたい」と話す。
阿藤さんは、拘置所で7人が死刑台に送られるのを見た。絞首刑の瞬間に、死刑囚の足元の板がバタンと開く音も聞いたという。いまも冤罪はなくなっていない。被告に対する死刑の判断が誤りだったら……。
「人の命は地球より重く、1人に一つしかない。裁判員になられた方は、全員の意見が一致しない限り、軽々しく死刑にしないと私は信じている」。阿藤さんはそう語る。
●「日本の巌窟王」が託した思い
「人権の神 ここに眠る」
栃木県小山市を流れる川べりの墓地に「日本の巌窟(がんくつ)王」と呼ばれた故・吉田石松さんの石碑がある。吉田さんと一緒に暮らした縁者の新井貞夫さん(82)は1カ月に1度、ここを訪れる。
吉田さんは13(大正2)年に起きた殺人事件で、真犯人のうその証言を根拠に「主犯」に仕立てられ、無期懲役の刑を受けた。獄中から無実を訴え、仮釈放後は自ら真犯人を捜して歩いた。61年になって名古屋高裁が再審開始を決定。事件から50年たった63年に無罪判決が出て、その年に84歳で亡くなった。
裁判員制度が始まったいま、新井さんは「おじいさんが裁判をしていたころに市民が入っていれば別の結論もあったかもしれない」と語る。
《裁判官は、賢者とか何とか位(くらい)だけかぶっていて、もののあわれを知らぬ。国民の命を左右する役目ができるか》。62年2月の衆院法務委員会に参考人として呼ばれた吉田さんは、こう訴えた。裁判員に託すかのような吉田さんの「遺言」。新井さんは、過ちがなくならない現状を市民が変えていくことに期待する。
◇
昨年5月に始まった裁判員制度。初年に行われた138件は、被告が罪を認める裁判がほとんどだった。今年は件数が大幅に増え、被告が死刑を求刑されたり全面的に否認したりする事件が登場するのも確実だ。制度開始前に社会や文化への影響をうらなった連載「裁判員元年」の続編として、裁判員がより難しい判断を迫られる2年目の課題を探る。(市川美亜子、岩田清隆、河原田慎一が担当します。掲載は5回の予定です)
◆自白を過信、繰り返された過ち
無実なのに犯人とされてしまう「冤罪」。最大の原因は、捜査当局による密室での取り調べでつくられた「自白」を、裁く側が過度に信用してしまうことにある。
1949年に福島県で起きた「松川事件」では、労働者20人が脱線転覆にかかわった疑いで逮捕され、うち5人が一審で死刑を宣告された。全員が無罪を勝ち取るまで、14年を要した。
有罪判決が確定しても、新たな証拠がみつかれば裁判のやり直し(再審)をする仕組みがある。しかし、再審はかつて「開かずの扉」「針の穴にラクダを通すようなもの」と言われた。75年に最高裁は「白鳥事件」の決定で「疑わしきは被告の利益に」のルールが再審でも適用されることを明示。その後、80年代には「免田」「財田川」「松山」「島田」の4事件の再審で死刑囚の無罪判決が相次いだ。
こうした冤罪を防ぐために、「有罪判決慣れ」した裁判官を批判する弁護士や学者、市民から「まっさらな目」による新しい刑事裁判のかたちを求める声があがったことが、政府の司法制度改革審議会(99〜2001年)で裁判員制度の導入が実現する一因ともなった。
近年も、02年に富山県で起きた強姦(ごうかん)事件「氷見事件」や、03年の鹿児島県議選に絡んで12人全員が無罪判決を受けた「志布志事件」といった冤罪事件は起きている。
90年代以降は再審請求が認められないケースが続いていたが、昨年は栃木県足利市で90年に女児が殺害された「足利事件」や、67年に茨城県で男性が殺害されて現金が奪われた「布川事件」で相次いで再審開始が認められた。
「裁判員時代」に市民が適切な判断を下せるよう、取り調べの全過程を録音・録画する「全面可視化」を求める議論も高まっている。
■7判決の結論
1952年 山口地裁岩国支部 死刑
53年 広島高裁 死刑
57年 最高裁 差し戻し
59年 広島高裁 無罪
62年 最高裁 差し戻し
65年 広島高裁 死刑
68年 最高裁 無罪
■冤罪をめぐる主な出来事
1963年 「巌窟王」吉田石松さんに名古屋高裁が再審無罪判決
同年 「松川事件」で最高裁が無罪判決
68年 「八海事件」で阿藤周平さんらに最高裁が無罪判決
75年 最高裁が「白鳥事件」で「疑わしきは被告の利益に」の鉄則が再審でも適用されると言明
83年 熊本地裁八代支部が「免田事件」で死刑囚に対する初めての再審無罪判決
84年 「財田川事件」で高松地裁が死刑囚に再審無罪判決
同年 「松山事件」で仙台地裁が死刑囚に再審無罪判決
89年 「島田事件」で静岡地裁が死刑囚に再審無罪判決
99年 「甲山事件」で大阪高裁が無罪判決
2007年 「志布志事件」の被告12人に鹿児島地裁が無罪判決
同年 「氷見事件」で富山地裁高岡支部が再審無罪判決
09年 「足利事件」の再審が宇都宮地裁で開始
同年 「布川事件」で最高裁が再審開始を決定
※上記の判決はいずれも確定
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【関連サイト】
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