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(回答先: 参考資料:連続幼女誘拐殺人事件 犯行声明文−−−−全部は映らないと思います。URLでたどってください。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2009 年 12 月 06 日 19:48:12)
自衛隊影の部隊 山本舜勝
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/JieitaiKageNoButai.htm
自衛隊「影の部隊」
三島由紀夫を殺した真実の告白
山本舜勝
2006.12.24
三島由紀夫はその衝撃的な割腹自決によって今なお多くの人に記憶されている作家である。その最期が何故市ヶ谷の東部方面総監部への突入でなくてはならな かったのか、漠然と「愛国と武士道と美学」であろうか、などと考えていた。しかし、本書を読んでそれよりも遙かに衝撃的な「クーデター未遂計画」だったの だと知った。
その伏線としては、
1960年安保闘争激化
6月15日、18日に岸信介首相が赤城宗徳防衛庁長官に治安出動を要請するも拒否さる。
本書に依ればこの時、自衛隊にクーデターの意志が有ったとある。随分きな臭い事である。ところが、その絶好の機会を、「自分たちの力でクーデターをやる」とばかりに拒否したのだ、と本書では書いている。様々な立場で異なる様相に見えるのだろうか。
1961年 三無事件(さんゆうじけん)
旧日本軍将校らが画策したクーデター未遂事件。現職の自衛官の関与も疑われていたが表面化せず。
という大事件が有って、安保条約が10年ごとに更新であったので左翼勢力は1970年前の闘争を予定しており、60年安保と同じ状況が現出することが広 く世間でも予見されていた。そうなると三島由紀夫としては、機動隊では暴徒を鎮圧できない状況が起こり、60年安保時に岸信介首相が治安出動を要請した様 に、再び自衛隊に治安出動の機会が訪れるのではないか、と予想していたらしい。ここからはちょっとついて行けないが、三島氏としては10年に一度のビッグ ウェーブである70年安保闘争を逃して次にチャンスは無い、と思い定めていたのだろう。なにしろ80年になったら三島氏は50歳を超えていることになるの だから。70年安保で自衛隊が治安出動要請されたその時、三島氏は皇宮に突入し、暴徒と戦って撃退し、何でだか分からんが責任を負って割腹、そして共に決 起する筈の著者である陸上自衛隊調査学校教官の山本舜勝陸将補も自決、陸軍中野学校卒業生でインドで活躍したF機関の機関長であり、陸上自衛隊調査学校長 となっていた藤原岩市陸将も自決、H陸将も自決、という計画だったという・・。そして自らが武士道を貫いて自決し、後に続く者を誕生させ、天皇中心の日本 へ回帰させる、というものだったらすィ・・。
のだが、このプロットは天才三島由紀夫には蓋然性が有ったのかも知れないが、ここまで文学的な流れには凡人には到底ついていけない。世の中、そんな文学 的には出来ていない。無理である。筆者は藤原岩市陸将から三島由紀夫氏を紹介され、調査学校の”対心理情報課程”として訓練を施したという。時は70年安 保で騒然たる情勢。1969年1月には東大安田講堂事件、10月21日には国際反戦デーという安保闘争の頂点、1970年3月31日にはよど号ハイジャッ ク事件である。そしてこの年の11月25日に突入、自決となる。この期間に調査学校の訓練として安保闘争の渦中に飛び込んだり、情報機関員の実地演習と いったことも行っていたというのだから驚く。本来はこうした訓練内容は秘密の筈であるが、元々の調査学校が消滅し、対心理情報課程も消滅し、しかも著者が 死期が近いのを悟って語る事にしたようだ。この本が出版された2001年に著者は逝去している。
著者は繰り返し、三島氏が何かを心に決め、事態は切迫していると想像しつつも、しかしそれに同調できず、かといって強引に引き留めたり説得したりも出来 ず、次第に心が離れて行き、最期を迎えた事を後悔している。著者は三島氏を志を共にする同志であると言い、最も優れた生徒であったとも表現している。そし てその感性の鋭さ、人間性にも大変心引かれていたようだ。それだけに自分が最期を共にしなかった事が後ろめたくてならなかったらしい。しかし、情報将校と しては自決すべきではなかった、三島氏は文人として生きて影響を及ぼし続けるべきだった、と三島氏のライバルであり現在の都知事である石原慎太郎氏を例に 挙げて惜しんでいる。
当時の世相からして、どれだけ三島氏の死が批判されたことだろう、と思う。また、これに同調していようものなら社会的に抹殺されてしまっただろう。その 影響であろうか、藤原岩市陸将の参議院選も落選に終わっている。だが、本書で紹介されている国民による「祖国防衛隊」構想なるものは、形を変えて予備自衛 官や即応予備自衛官、予備自衛官補などの制度で実現しているようにも思える。三島氏の構想はどうしても非現実的というか、民間防衛、間接侵略に対する防衛 を目的にするとしても、志操堅固な国民に武器を持たせる、という辺りがどうも上手くクリアー出来ないと思うのだ。そもそも、予算が無いとなかなか維持でき るものではない。そこが現在の予備自衛官というシステムならなんとかなりそうでもある。三島氏が生きていたら大いに不満を言うことだろうけれども、現実的 にはこの方が良いと思われる。
既に広く知られている事なのだろうけれども、その全貌を詳しく読んだのはこれが初めてでやはり衝撃的だった。自分なりには三島氏はこの最期によって自分 が「江戸時代の武士」になりたかったのだろう、そして江戸時代の武士j道に殉じる事によって日本に武士道、天皇中心の価値観を復活させよう、ということで あったのだろう。この象徴的な死は日本人に向けての強烈なメッセージだった。ただ、当時の日本では到底受け容れられるものではなかったが。三島氏は対心理 情報課程のゲリラ戦的な戦術に対して「弱者の戦術ではないか?」と武士道的な見地から疑問を呈していたという。それはそうであろうと思う。自分が思うには これは武士のやることではなくて”忍者”の任務だったからだ。武士道ではなく、忍者として、そしてその為の”正心”、”将智”を説けば良かったのではない か、と今の自分は思う。或いは陸軍中野学校における「謀略は誠なり」なのだと。そこで三島氏が、謀略戦ではなくて正規戦の研修を積みたい、訓練を受けた い、ということであればあのような最期を選ばなかったかも・・・知れないなんていうのは間違いだろうか。やっぱり割腹を選んでしまうのだろうか。
三島氏の行為は余りにも過激であって到底共感出来ないが、70年前後の騒擾状態の中で一際鋭く光っている事件ではある。未遂に終わったから良かったものの、これはクーデター未遂事件だった、というのはやはり衝撃的である。
序章 三十年目に届けられた遺言状
第一章 ノーベル文学賞を捨てた男
第二章 影の軍隊
第三章 武士道と不正規軍
第四章 自衛隊調査学校「青桐グループ」
第五章 横の連携から「楯の会」へ
第六章 自衛隊に突きつけた刃
終章 誰が三島を殺したのか
自衛隊の国民監視は旧軍時代からの伝統芸
http://www.mypress.jp/v2_writers/gazpacho/story/?story_id=1617397
カテゴリ: 戦争と平和 / 政治と経済 / 報道・言論統制
投稿日時:07年06月09日(土) 16:05
投稿者:ガスパーチョ | 印刷用頁
自衛隊の監視活動は過去にも問題になった
最近ニュースを賑わしている陸上自衛隊情報保全隊の国民監視。実はこれ以前の1970年代にも、自衛隊による国民監視は問題になっていた。金大中事件や三島由紀夫自決(盾の会事件)の裏などで自衛隊の秘密組織が暗躍していた事が問題となり、国会でも追求されていたのだ。この時も、共産党に自衛隊関係者からたれ込みがあって発覚した。
存在しないはずの組織“別班”
『影の軍隊 ― 「日本の黒幕」自衛隊秘密グループの巻』
「赤旗」特捜班
当時の事は、1978年に出版された『影の軍隊 ― 「日本の黒幕」自衛隊秘密グループの巻』に詳しく記述されている。共産党嫌いの方はアレルギーが出るかもしれないが、後述する柳内伸作氏によれば、陸上自衛隊調査学校において自衛隊の諜報活動を示す資料として紹介される事があったという。しかもその内容は、相当正確なものらしい。なかなか興味深い内容なので、ぜひ古本屋か図書館などで探してお読みいただきたい。この本で自衛隊秘密グループとして名前が挙がるのが、陸幕二部別班、通称“別班”である。
それは米軍の日本国内調査の為に、陸自が協力して作った情報機関とされ、赤軍派・極左・市民団体などを監視する秘密組織として始まったものだという。また、各政党内部には別班のスパイが入り込んでいたらしい。拠点は座間分屯地(在日米陸軍司令部があるキャンプ座間敷地内)にあるという。活動資金は米軍からも流れており、CIA日本支部日本人部隊というおもむきだ。実態が漏れるたびに組織替えや名称変更をしているので、現在も何らかの形で存続しているようだ。
【6/11追記】
『オルタナティブ通信』の記事「日本は既に核兵器を持っている・・日本人全てを監視する米軍」によれば、別班の後継組織と思われるものが現在も存続しているようだ。その名は東部方面隊第一施設団“第三施設群”だという。調べてみたところ、東部方面隊第一施設団には、第四施設群と第五施設群のみ存在し、座間分屯地にあるのは第四施設群である(『陸上自衛隊東部方面隊』公式サイトの「配置と編成」参照)。第三施設群なるものは存在しない事になっている。『オルタナティブ通信』は次のように記述している。
この部隊の下部組織として、日本人の個人個人の銀行口座の中味、株式投資の中味、家族構成、勤務先企業、友人関係等を監視、情報蓄積しているのが、自衛隊東部方面隊第一施設団第三施設群と呼ばれるスパイ軍事組織である。
この部隊も米軍キャンプ座間内部にある。
この記述が本当ならば、別班は今も70年代当時から何ら変わらず存在し続けている事になる。
陸軍中野学校の後継者達
当時、陸上自衛隊調査学校(略称“調校”。平成13年に業務学校などと統合され、現在の陸上自衛隊となる。→公式サイト)という養成施設が設置されており、そこで別班の教育もなされていた。その中にCPI(カウンター・サイコロジカル・インテリジェンス)=“心理戦防護課程”なるものがあり、講師として旧陸軍中野学校出身者が呼ばれたり、米軍グリーンベレーに生徒を派遣したり教官を呼んだりもしていた。中野学校時代の教科書も使用されていたという。そこでは爆弾の作り方から団体に入り込むスパイ活動、ゲリラ戦、さらにはテロの方法まで教えていたようだ。
また当時は学生運動が盛んな時期であり、自衛隊が治安出動演 習を行ったりもしている。演習は相当大規模に行われていたらしい。1969年秋に行われたものが最大のもので、暴徒と化したデモ隊を排撃しつつ道路封鎖な どを行い、新聞社や放送局や電力会社の建物に突入して占領するというものだった。なぜデモの排除に放送局の占拠が必要なのかは不明だ(革命で民衆が武装蜂 起した設定ならまだわかる)が、この際の群衆誘導や暴動組織の情報収集などでCPIで身につけたものを役立てるらしい。
CPIはその名前の通り、戦術的なものではなく心理戦を中心としたもので、地域状況の研究が重視されているという。非常時の為に、あらかじめ地域の道路状況から電気・電波管理、地域住民の様々な性質が分析されているという。その一環として、我々は監視されている訳だ。
自衛隊のクーデター未遂
『自衛隊「影の部隊」 ― 三島由紀夫を殺した真実の告白』
山本 舜勝
ちなみに1969年の演習はどうやら三島由紀夫の事件に連動したものらしく、調査学校で三島に諜報教育を施していたという。その首謀者はCPI出身者で構成された、通称“青桐グループ”と呼ばれるエリート集団。だが青桐のクーデター計画は実行には至らず、失望した三島が市ヶ谷駐屯地に乗り込み、割腹自殺した。当時調査学校副校長で、三島に諜報教育を施した故・山本舜勝氏による、三島と自衛隊との関係を告白した手記もある。
情報保全隊は自衛隊の防諜組織
『世界のスパイ 〜驚くべき真実〜』
別冊宝島1355
一方、今話題の情報保全隊はこれとは別の組織である。『世界のスパイ 〜驚くべき真実〜』で「情報機関Special 日本の情報機関」を執筆した柳内伸作氏によると、情報保全隊とは防諜組織であり、出入り業者の身元調査から対象勢力(自 衛隊を敵視する政治勢力)の監視、自衛隊内部の不穏分子の調査などを行うものだという。彼によれば、情報保全隊は監視対象の団体に協力者を作り、内部情報 を買う事で入手しているという。尾行は警察ほど上手ではないらしい。ちなみに柳内氏は自ら別班に所属していたと記事の中で明かしている。
イージス艦の情報流出事件が発生した当時は“調査隊”という組織で、内局の調査が出来なかったという。また各方面の調査隊や中央調査隊との連携が充分ではなかった。2000年にロシアのボガチョンコフ大佐に機密文書がわたる事件が発生したのを契機に、情報保全隊として再編された(『ウィキペディア』より「情報保全隊」参照)。そういう事情から、最近まで相当情報漏洩がひどかった可能性がある。彼らに見えていたのは外からの働きかけばかりであったようだ。
『警備地誌』による国民監視
『影の軍隊』によれば、調査隊は極秘に『警備地誌』なる文書を作成していたという。その内容は、次のように記述されている。
『警備地誌』といっても一般には知られていない。それだけではなく、自衛隊内でもなじみが薄い。もちろん極秘文書扱いである。憲法に保障された思想の自由や人権に関する諸条項にことごとく反するからだ。
『警備地誌』とは――。
警察の協力を得て調査隊が作成するもので、目的は自衛隊が治安出動した場合の行動方針にかかわるものだ。国民を 「敵」と「味方」に区別する一種の“人別帳”であり、敵性分子には平素から監視の目を注ぐための“治安地図”といっていいだろう。全国の警備地域ごとに、 共産党など革新政党や労働組合、民主団体の動向、地方議会での議員の発言から在日朝鮮人の思想・行動にいたるまで、実に細かく調べあげている。「危険人 物」リストもある。治安出動や戦闘作戦のさい、この、『警備地誌』が利用され、「危険人物」は弾圧の、そしてその組織は壊滅の対象とされる。
(『影の軍隊』46ページ)
どうやら今回発覚したものは、この『警備地誌』の一種のようである。『影の軍隊』の時点において、共産党は『警備地誌』を調査隊(後の情報保全隊)が制作しているらしい事は把握していたようだ。そして今回、その現物が持ち込まれ、公表するに至ったようだ。
自衛隊は旧軍の性質から抜け出す気があるか
そんなわけで、自衛隊の国民監視活動は相当昔からこっそりと行われ続けていた。今回のものは、証拠資料として我々の前に姿を現したほんの 一部である。自衛隊が集めた情報は自衛隊上層部と日本政府、そして米軍に流されているのだ。彼らの側からすれば、こんな事は常識であり、必要悪なのであろ う。しかし、過去に軍事クーデターを画策し、その事実もうやむやにしてしまい、情報管理能力が低く、旧軍の思想を引き継いだ教育をなし、なおかつ米軍と一 体化している自衛隊である。少なくとも冷戦下の当時はそんな組織だったのである。
スパイの防止や工作員対 策として国民の情報が気になるのはわからなくないが、現在の日本国の主権者は国民である。自衛隊の影の部分は相当深い。自衛隊は祖国と国民を防衛するため の組織であるはずだ。極右を支援する武装組織ではないはずだ。国民の信用を取り戻すには、いかに旧軍の思想的な影響を排除しているかを上層部が国民に示さ なければならないだろう。示すにしてもお得意のプロパガンダでは困るのだが…。天皇を守ろうとするのは構わないが、主権者である国民も同じようにしっかりと守っていただかなくては、今後自衛隊の存在意義が国民に疑われるようになるであろう。
自衛隊の情報はどれだけ米軍に流れているのか
【6/16追記】
国民監視でもう一つ気になる事がある。現在、自衛隊は米軍とほぼ一体化している。常に一体で動く体制が整えられている。その体制はもちろん自衛隊設立時か ら存在するが、最近の米軍再編でますます緊密になっている。同時に政治的にも近年ますます緊密になっている。その中で、自衛隊の集めた個人情報は、どれだ け米軍に流されているのだろうか。
国内の治安対策として集められた、政治家から一般市民に至る個人情報は、どの程度アメリカに渡されていたのであろうか。特に、政治家のス キャンダルや汚職の情報などが流されていれば、弱みに付け込んで米国の駒として我が国を操る事はたやすい。小泉政権以降は特に、あからさまに米国に従順な 政策を実行し、イエスマンのようだ。右翼勢力も、どういうわけか一気に親米勢力が増殖し、反米勢力が衰退しているようである。最近の日本の情勢は、実に奇 妙である。
自衛隊の情報は、本当に治安維持や祖国防衛のためだけに活かされているのであろうか。いくら同盟国とはいえ、必要以上の情報が流されて は、日本の富を吸い上げられ、米国の奴隷として使われるだけである。そこのところは本当に大丈夫なのだろうか。…それにしても自衛隊は不思議な組織だ。天 皇を戴く国粋的思考があるかと思えば、そこに米国を復活の恩人として崇めるかのような側面を併せ持つ。
国を成り立たせているのは、一人一人の国民である。国が国民を成り立たせているのではない。国民の信頼を得られない国家組織 は、長くは存在出来ない事を忘れてはならない。これは自衛隊・政治家・官僚・公務員…その全てに当てはまる。しっかり国民の側に立った活動を行っていただ きたいものである。
(1)「平岡」でくくる共通項=「頭部切断」
平岡都、三島由紀夫(本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ))
平岡都はやがて20歳(今年は19歳、大学1年生)。三島由紀夫が割腹自殺してからこの11月で39年経過、やがて40年。
40年とは、「豊饒の海」の輪廻転生20年説では二周りを終える時期にあたる。
(2)ホンダシゲクニの小細工
ホンダシゲクニにしてみれば、平岡都さんの謀殺を、三島の死亡から40年目にあたるころを選んで、わざわざ「三島由紀夫」「豊饒の海」(どちらかにウエイトをおいているのだろうが、今は並列的に扱う)を彷彿させるための細工を仕組んだのだろう。そこでストレートに「三島」を彷彿させる必要はないので、謎めかせ、謎解きをさせるために「平岡」を選んだのだ。
三 島 由 紀 夫 割 腹 余 話
http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
昭 和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫(四五)が東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。 その際、三島と行動をともにした楯の会会員四人のうち、森田必勝(二五)も、最後には古賀浩靖の手を借りたとはいえ、三島を介錯したのち割腹し、その森田 の首をさらに古賀が刎ねた。いわゆる≪三島事件≫である。当時のある新聞が、三島の首と胴体が転がっている生々しい写真を掲載して非難を受けたことを記憶している。
【事件のあらまし】 −省略可−
死についての三島の計画の立てかたは、その小説の結構と同様、手が込んでいた。彼は細心の注意を払って、身辺をきれいに整理した。十一月に先立つ半年の 間に、彼は順を追って執筆その他の約束を果たした。「豊饒の海」第四部である「天人五衰」の最終稿を、彼は期日どおりに出版社に渡せるように完成した。三 島が締め切りを守らないことはなかった。
彼 はまた、彼の私兵である「楯の会」会員から、計画に参加する数名を慎重に選んで準備した。この特別班は、滞りなく事が運ぶようにリハーサルさえ行った。そ して、二十四日の夜、三島は最終的な手配に取りかかった。友人のジャーナリスト二人に連絡し、米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯 の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いた。
翌 朝、彼は軍刀と、二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど、必要な品々を揃えた。長篇の結びを書き終え、出版社宛ての封筒に入れて、自宅の広間に置い た。二人のジャーナリストに再び電話をかけて或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んだ。そして、楯の会の会員四人とともに自宅を出 た。
楯 の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を 申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、な んの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。
そ して、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自 分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数 人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島 の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した。
正 午直前に、三島は総監室の外のバルコニーに姿を現わした。彼は定刻になるのを待って歩き回り、一方、森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。十二時きっかり に、三島は足下に集まった隊員たちと、ふくれ上がってきた報道陣に顔を向けた。隊員たちに向ってマイク無しの肉声で、興奮した身ぶりをまじえつつ、真の 「国軍」として目覚め、われわれの決起に参加せよ、と訴えた。
演 説 全 文
し かし演説の大半は、頭上を旋回する警察のヘリコプターの音にかき消されてしまい、ようやく聞きとれた言葉に対しては、隊員たちは野次をとばして反発し、か らかった。戦力放棄を謳った憲法を否定し、自衛隊に対して「共に起ち、義のために死のう」と呼びかけた「檄」がバルコニーから撒かれたが、隊員の誰一人と して、三島のもとに駆け寄ろうとはしなかった【檄文】。彼らは、作家の熱烈な訴えに嘲笑で応えただけだった。三十分間予定されていた演説は、七分間の茶番劇で終わった。三島と森田は、型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し、総監室に姿を消した。
三 島は長靴を脱いで上着のボタンを外し、ズボンを押し下げて、床に坐った。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。名誉ある介錯人に選ばれた 森田は、主人の背後に立ち、刀を振り上げて、三島の首を打ち落とす瞬間を待った。内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方か後方のどちらかに傾いた。森田は 二太刀打ち下ろしたがうまく切れず、目的は果たせなかった。彼より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離 れた。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れない。
つ いで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至ら なかった。これも切腹の一つの儀式であった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。後に残った三人の会員は、このとき涙を流していたが、総監の縄を解き、胴体 と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられた。血生臭い事件は終わった。
自 演 す る 三 島
十一月二十六日付「朝日新聞」の報道によると、牛込署捜査本部は二十五日同夜二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。
三島の短刀による傷はへソの下四aぐらいで、左から右へ十三aも真一文字に切っていた。深さは約五a。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。
森田は腹に十aの浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は「楯の会」の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい六尺″ふんどしをつけていた。
検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。
も う一つ、十二月十三日付「毎日新聞」掲載の「解剖所見」を引用すると、(三島由紀夫・十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院 法医学解剖室・斎藤教授の執刀)。死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。 頚部は三回は切りかけており、七a、六a、四a、三aの切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五aの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部 はへソを中心に右へ五・五a、左へ八・五aの切創、深さ四a、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三a、四十五歳だが三十歳代の発達した若々 しい筋肉。
森 田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に 水平、ヘソの左七aに深さ四aのキズ、そこから右へ五・四aの浅い切創、ヘソの右五aに切創。右肩に〇・五aの小さなキズ。身長百六十七a。若いきれいな 体をしていた。
三島の切腹で一つだけ<奇異な感じを抱かせられた>のは、あの腹の切り方は一人で死ぬ場合の切り方であったということである。三島が作品「憂国」や「奔馬」で描き、映画「人斬り」で自ら田中新兵衛に扮してみせた切り方であって、介錯を予定した切り方ではない。
しかし三島はこの挙に出る前に、森田あるいは古賀が介錯することを打合せているのである。そうとすれば、他人による介錯、すなわち<斬首>ということを予定した腹の切り方をすべきではなかったか。
三島のように、あれほどの深さで真一文字に切った場合(これは常人のなしえざるところである)、肉体はどういう反応を示すのであろうか。刀を腹へ突き立てたとき二つの倒れ方が想定される。
それは切腹の際の身体の角度による。瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により、膝の関節で折れ曲っていた両脚がぐっと一直線に伸びるためか、角度が深いときはガバとのめるように前へ倒れ、角度の浅いときは後へのけぞるのである。
これは切腹なしの斬首のばあいも同様で、押え役がいるときは前へ倒れるように押えているからよいが、支えがない場合の多くは後へ立ち上るようにして倒 れ、そのために首打役もその介添人も血をあびることがある。(斬首のさい<首の皮一枚を残して斬る>とよくいわれるのは、押え役のいない場 合、そうすることで前にぶら下った首が錘となって身体を前へ倒れさせるからで、これは幕末の吟味方与力・佐久間長敬が『江戸町奉行事蹟問答』のなかではっ きりと述べている。)
三 島の場合、どちらの倒れ方をしたかわからないが、いずれにしても腹から刀(この場合は鎧通し)を抜く暇もなく失神状態に陥り、首は堅く肩にめりこみ、 ひょっとしたら両眼はカッと見開かれ、歯は舌を堅く噛み、腹部の圧力で腸も一部はみ出すといった凄惨な場面が展開されたかもしれない。それはとても正規の 介錯のできる状態ではなかったと思われるのである。
介錯人としての森田の立たされた悲劇的立場が思いやられる。なぜなら、介錯人というものは<一刀のもとに>首を刎ねるのが義務であり名誉であって、もしそれに失敗したとなれば、かつては<末代までの恥>と考えるくらい不名誉とされたからである。
昔の首打役の不文律として、斬り損った場合、三太刀以上はくださないとされ、したがって二太刀まで失敗したときには、死罪人を俯伏せに倒して「押し斬 り」にすることさえあった。死罪場においてちゃんと死罪人を押えて首をのばさせ、斬首のプロが斬るときでさえ失敗することがあるのである。まして三島のよ うな身体的反応が起った場合には、一太刀で介錯することは不可能といってよかったのではあるまいか。
昭 和四十六年四月十九日および六月二十日の第二回と第六回の公判記録によると、右肩の傷は初太刀の失敗であった。おそらく最初三島は後へのけぞったものと思 われる。森田は三島が前へ倒れるものとばかり思って打ち下ろしたとき、意外にも逆に頚部が眼の前に上がってきたため手許が狂い、右肩を叩きつける恰好に なったのであろう。
そのため前へ俯伏せに倒れた三島が額を床につけて前屈みに悶え動くので首の位置が定まらず、森田はそのまま三島の首に斬りつけたか、それとも三島の身体 を抱き起して急いで斬らねばならなかったかはわからないが、いずれにしても介錯人には最悪の状態でさらに二太刀(斎藤教授の「解剖所見」によると三太刀 か?)斬りつけ、結局は森田に代った古賀がもう一太刀ふるわねばならなかったのは、致し方なかったと思われる。
最後はあるいは「押し斬り」に斬ったかもしれない。現場写真で三島の倒れていた部分の血溜りが、ほぼ九十度のひらきで二方向に見えているのはその結果で はあるまいか。森田は自分の敬慕してやまない先生を一太刀で介錯できなかったことを恥じ、「先生、申し訳ありません」と泣く思いで刀をふるったことであろ う。
し かしここで愕くべきは森田の精神力である。普通の介錯人は初太刀に斬り損じた場合、それだけで気が転倒し、二の太刀はさらに無様になるか、別な人間に代っ てもらうものである。そのために介添人がいるのである。それほど斬首ということは極度の精神的緊張とエネルギーの消耗をともなう。
それなのに三太刀(ないし四太刀)も斬りつけ、しかも介錯を完了しえなかった人間が、三島の握っている鎧通しを取って続いて自分の腹を切るということ は、これまた常人の到底なしえないことなのである。しかも腹の皮を薄く切って、一太刀で自分の首を刎ねさせている。腹 の傷が浅いということでこれを「ためらい傷があった」と報じた新聞もあるが、それはあたらない。人間の腹はなかなか刃物の通りにくいもので、むしろこれを はじき返すようにできている。さらしでもきっちり巻いているなら別だが、直接皮膚に刃物を突き立てたのでは、相当の圧力がなければはじき返されるものであ る。
森田の場合は初めから薄く切って介錯を見事にしてもらおうという考えであったと思われる。切腹する人間は首を斬られて死ぬのではなく、介錯人に首をうま く斬らせるのである。それが昔の武士たちが実際の経験の積み重ねから作り上げた一番<見苦しくない>切腹の美学であった。そういう意味では、森田のほうが 昔の切腹の美学にかなっていたといえよう。さすがに三島が最も信頼した人物にふさわしい腹の切り方であったように思われる。
三島は生前、映画「憂国」【小説・憂国(抄)】を製作したさい、二・二六事件で決起に遅れて自宅で割腹自殺をとげた青島中尉(「憂国」のモデルといわれる)の割腹現場に駈けつけた軍医から、そのときの実見談を聴取していたといわれる。
そして青島中尉が割腹後五、六時間たってもなお死にきれず、腹から腸を飛び出させたまま意識を失い、のたうちまわっていた有様をよく知っていた。した がって介錯がなければ切腹が見苦しい死にざまを曝すおそれのあることを十分に認識しており、そのために介錯を予定したことは正しい計算であった。
それなのに敢えてあのような深い腹の切り方をしたのは、なぜなのであろうか。三島ほどの綿密な計算をする人にも、切腹後の肉体的変化までは計算しえなかった千慮の一失なのであろうか。<奇異な感じを抱かせられた>と述べたのはそのためである。
これはなにも三島の切腹を貶しめようとするものではない。三島はその文学においても、必ず自己を主張しなければやまぬ人間であった。そのエゴの強さ、抜きがたい自己顕示性からあの赫奕たる文学が生れたのである。そして切腹の場にいたるまでそのエゴを押し通したのである。【評論・仮面の戦後派」】
【三島由紀夫 『憂国』、加藤周一他 『日本人の死生観』、綱淵謙錠 『斬(ざん)』、他】