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新藤兼人さん死去=映画監督、100歳―「原爆の子」「午後の遺言状」
時事通信 5月30日(水)15時53分配信
「裸の島」「午後の遺言状」などで知られる映画監督で脚本家の新藤兼人(しんどう・かねと、本名新藤兼登=しんどう・かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。100歳だった。広島市出身。葬儀は6月3日午前11時30分から東京都港区芝公園4の7の35の増上寺光摂殿で。喪主は次男で近代映画協会社長の新藤次郎(しんどう・じろう)氏。
独立系映画監督の草分けとして戦争や原爆をはじめ社会性の高いテーマを積極的に映画化したことで知られ、自らの体験を基に戦争に翻弄(ほんろう)される庶民の悲劇を描いた昨年の「一枚のハガキ」が遺作となった。2002年文化勲章受章。
広島市郊外で生まれ育ち、22歳で京都の新興キネマに入社し、美術の仕事の傍ら脚本を担当。溝口健二監督に師事し、松竹大船撮影所の脚本部に移るが1944年に召集され、戦後、本格的に脚本家として活動を始める。46年の「待ちぼうけの女」(マキノ正博監督)が評価され、翌年の「安城家の舞踏会」以降は吉村公三郎監督とのコンビでヒットを連発。50年、独立プロダクションの近代映画協会を設立、吉村監督と共に「偽れる盛装」「自由学校」などをヒットさせ、51年には亡くなった妻をモデルにした「愛妻物語」で初監督を果たす。この時に主演した乙羽信子さんと後に結婚した。
原爆は生涯のテーマで、「原爆の子」「第五福竜丸」などを監督。他にも溝口監督の実像に迫った「ある映画監督の生涯」や「鬼婆」「竹山ひとり旅」「絞殺」などの秀作を手掛け、海外でも高く評価された。
95年の「午後の遺言状」では、ユーモアを交えながら老いを正面から見据え、テーマの重さをはね返すようにヒットし、日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞。同作品には妻の乙羽さんががんを押して出演、映画の完成を待つように亡くなった。
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