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米最高裁は、18歳未満に対する暴力的なビデオゲームの販売を禁止した州法は合衆国憲法に違反すると判断した。しかし、規制賛成派と反対派それぞれの研究者の業績を比較すると、賛成派のほうが圧倒的に学術的信頼性が高いという調査論文も発表されている。
米連邦最高裁判所は6月27日(米国時間)、18歳未満に対する暴力的なビデオゲームの販売とレンタルを禁止したカリフォルニア州法は合衆国憲法に違反するとの判断を下した(日本語版記事)。
この裁判では、研究者らによるふたつのグループがそれぞれ、暴力的なビデオゲームの影響に関する文書を最高裁に提出している。これらの相反するふたつの報告書を分析した調査論文によると、現実の暴力との関係を警戒している研究者らのほうが、これに異を唱える研究者らに比べて、学術的な信用性がはるかに高いことが明らかになったという。
一方の文書(pdf)は、問題のカリフォルニア州法を支持する立場で、署名したスティーブン・グルーアル弁護士の名前から「グルーアル文書」と呼ばれている。暴力的なビデオゲームのプレイは攻撃性につながるし、テレビを観たり読書をしたりする場合の影響とは異なる、という内容だ。暴力的なビデオゲームに関係する130本の研究論文が引用されており、暴力的なゲームは青少年をより暴力的にしうると論じている(この文書には102人の研究者が署名しているが、全員が州法を支持しているわけではない)。
もう一方の文書は、署名したパトリシア・A・ミレット弁護士の名前から「ミレット文書」と呼ばれている。州法に反対の立場で、ゲームと暴力の関係は存在しないと主張する82人の研究者が署名しているが、このグループの主張が最高裁に影響を与えたようだ。
最高裁は7対2で、ビデオゲームが及ぼす影響は特別であるとの主張は「説得力を持たない」と判断した。アントニン・スカリア最高裁判事が書いた多数派意見(pdf)には、ビデオゲームの研究は「それらとの接触が、未成年者が攻撃的に振る舞う原因となることを証明するものではない」とある。
しかし、オハイオ州立大学の社会心理学者で、グルーアル文書にも名を連ねているブラッド・ブッシュマン教授によると、この相反するふたつの主張を支持するそれぞれのグループの学術的水準はひどく不均衡なのだという。
5月27日付けの『Northwestern University Law Review』に掲載された、ブッシュマン教授ら3人の共著による論文では、それぞれの文書に署名した研究者らの業績を集計し、世界最高レベルの学術雑誌への掲載件数と被引用回数に基づいて研究者らを分類している。
その結果、グルーアル文書に署名した研究者らは、攻撃性や暴力について、平均約7本のオリジナル論文を、査読付きの学術雑誌に発表している。ところがミレット文書に署名した研究者では、この数字がわずか0.48件だ。
またブッシュマン教授によると、グルーアル文書の支持者には、ビデオゲーム以外のメディアの中の暴力についても平均1.45件の既発表論文があるが、ミレット文書の支持者の場合は0.28件しかない。
ただしこの論文については、「論文の量で研究内容を判断することはできない」という反論もある。なお、米国心理学会(APA)と米国小児科学会(AAP)のいずれもが、暴力的なビデオゲームと攻撃性の関係を認めている。
この翻訳は抄訳です
日本語版:ガリレオ-江藤千夏/合原弘子
http://wired.jp/2011/06/30/暴力ゲーム:「学術的信頼性が高いのは規制賛成/
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米国では国や州が市民生活に影響する何らかの規制を行なおうとすると、必ずと言っていいほど「自由への侵害」だとしてこれに反対する勢力が存在する。それらの勢力の中核は富裕層で占められている。オバマ大統領は国民の6人に1人が無保険状態におかれている現状を変えようとして「ヘルスヘア改革法案」を成立させたが、議会の多数を占める共和党の反対により、法案の中身は骨抜きにされ、ほとんど意味のないものになってしまった。リーマンショック以降、米国では中間層の没落が顕著となっている。住宅バブルに投資した多くの中間層がバブルの崩壊で貧困層に没落した。またバブルの崩壊は中間層の大量失業をもたらすとともに、職にある者たちも民間保険の保険料が払えず割安な最低保証しかない民間保険に加入する例が増えている。こうした人々は無保険者ではないが、ひとたび病気に罹ると、保険の補償範囲から逸脱するため多額の医療費を請求されることから、必要があっても医療を受けられない実質的な無保険者の状況にある。
共和党は主として富裕層の利害を代弁する政党である。反対派の主張の主要な論点は、法案が成立すると「社会主義的な管理医療が行なわれる」というものだった。法案により、国民には一律の医療が保証されるようになるが、富裕層にはこれが気に入らないのだ。自分たちの支払った税金が自分たちのために使われるのではなく、税金を払っていない貧困層のために使われるのに我慢ならないのである。富んだ者がその利益の一部を貧しいものに与えるという所得移転の考え方を富裕層は嫌っている。そこで持ち出されるのが「個人責任」の論理と、個人の「自由の尊重」である。貧しいものが貧しいのは、豊かになるための努力を怠ってきたからであり、自分たちはそのための努力を払って豊かになったという考え方だ。したがって怠け者のために自分たちの税金を使うことは「自由の侵害」であり、自分たちは、自分たちのために自分たちのお金を使う「自由」があるというのが富裕層の考え方である。
この考え方の間違いは、日本人であれば誰でも簡単に指摘することができるだろう。いやヨーロッパ人でも同様だ。米国において、貧困層の人たちを取り巻く社会的制約(収入、教育、住宅、職業など)はあまりにも大きく、貧困層の人たちが豊かな生活を手に入れるには、個人の努力ではどうにもならないハンディがある。一方、富裕層に生まれた人には親から受け継いだ莫大な資産が存在する。それほど努力しなくても富裕層出身のものには豊かな生活が約束されているのだ。そうした社会的・経済的条件の違いを無視してすべてを「個人責任」に還元させてしまうところに米国富裕層の一方的に自分たちに有利に解釈しようとする歪んだ現実認識を見ることができる。
米国には、「寄付の文化」とでもいうべき慣習が存在する。それはこういうことだ。お金持ちは貧しいもののために定期的に一定額を自主的に寄付する、という慣習である。これは文化といっていいものであり、富裕層の間では常識となっている。これは一見すると、富裕層が貧困層のために税金を払うのを拒否することと矛盾しているように受け止められるかもしれない。しかし富裕層の人たちにとっては矛盾ではないのである。税金の場合は、国や州から一方的に収奪されるが、寄付は自分の自由意志で行なうものだからである。ここでも個人の「自由尊重」の考え方が徹底している。Microsoftのビル・ゲイツが世界の貧しい者たちのために何兆円もの私財を提供するのも、スケールが並外れているが、米国の寄付の文化があればこそである。寄付は富めるものが貧しいものに対して「自由意志」で行なう「施し」であり、そのことによって富めるものの「自尊心を満足」させるものである。だから富裕層は税制による所得移転が、自分たちの寄付行為と同様に貧困層を助けることが分かっていても、それに反対するのである。
さて話しが長くなってしまった。今回の、米最高裁が、18歳未満に対する暴力的なビデオゲームの販売を禁止した州法は合衆国憲法に違反すると判断した、その背景は、米国富裕層に普遍的に存在する「個人の自由尊重」の観点から解釈することができる。この判決においては、科学による事実よりも個人の自由が優先されている。科学者としてほとんど論文を発表したことがない者たちによって提出された「暴力的なビデオゲームの影響は存在しない」という主張が取り入れられ、その一方で科学者として多くの論文を発表した者たちの研究結果は「証明がない」として却下されてしまった。もちろん、論文発表の多寡が直接に主張の正しさを担保する訳ではないが、両者の余りに大きい落差は無視できるものではない。
歪んだ「個人の自由尊重」のイデオロギーは、科学的論争の場でも事実をねじ曲げることができたということだろう。
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