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コンピューターとブラックホールの違いは何だろう? まるでマイクロソフトが作ったジョークの出だしみたいだが、これは今日の物理学における最も深遠な問題の1つなのだ。「コンピューター」という言葉から多くの人々が思い浮かべるのは、机の上に置いてある味気ない箱か、ハイテク家電に搭載された爪の先ほどのチップだろう。だが物理学者にとっては、石ころ、原子爆弾、銀河など、あらゆるものがコンピューターだ。これらはLinuxで動くわけではないが、コンピューターと同じように情報を蓄え、処理している。電子や光子といった基本粒子は1つ1つ情報を記憶しており、基本粒子2個が相互作用するたびに、その情報が変化する。物理的な実体と情報は密接に結びついているのだ。プリンストン大学の物理学者、ホイーラー(JohnWheeler)の言を借りれば「It from bit(情報から実体が生まれる)」のである。
あらゆる物体がコンピューターだとしても、ブラックホールだけは例外のように見える。ブラックホールに情報を入れるのはたやすいが、取り出すのは困難だ。アインシュタインの一般相対性理論によれば、一度ブラックホールに入った物体は中で吸収され、細かい情報はなくなってしまって取り戻せない。
英ケンブリッジ大学のホーキング(StephenHawking)は1970年代に、量子力学を考慮すると、ブラックホールは石炭が燃えるようにエネルギーを放射する、つまりブラックホールも出力していることを示した。だがホーキングは、この放射はランダムで、入力された物質に関する情報は含んでいないと考えた。もしゾウを放り込んだとすると、その分のエネルギーは出てくるが、そこから再びゾウを構築することは原理的にできないということだ。
この場合、情報は明らかに失われる。このことは私たちに大きな謎を突きつけている。量子力学の法則によれば情報は保存されるはずで、消滅することはない。スタンフォード大学のサスカインド(Leonard Susskind)とカリフォルニア工科大学のプレスキル(John Preskill)、オランダのユトレヒト大学のト・ホーフト(Gerald‘ tHooft)らは、ブラックホールから出てくる情報は実はランダムではなく、ブラックホールに投げ込まれた物体の情報を持っているのだと主張してきた(L.サスカインド「ブラックホールと情報のパラドックス」日経サイエンス1997年7月号)。そして2004年夏、ホーキングもかつての主張を撤回し、彼らに同意した。ブラックホールも情報を処理し、取り出すことのできるコンピューターだったのだ。
この宇宙にあるすべてのものは、情報を記録し、処理している。これは一般的な法則で、ブラックホールはその最も風変わりな例にすぎない。
この法則自体は目新しいものではない。19世紀には統計力学の創始者たちが、熱力学法則を説明するため、後に情報理論と呼ばれるようになる新しい理論を開いた。熱力学と情報理論は一見、まったく別のものに見える。熱力学は蒸気機関を説明する理論、情報理論は通信を最適化する理論だ。しかし熱力学におけるエントロピー(蒸気機関が仕事をする際の効率を決める量)は、実は物質中の分子の位置と速度によって記憶されている情報のビット数に比例することがわかった。
物質と情報の関連性は、20世紀に確立した量子力学によって厳密に定量化され、量子情報科学という画期的な新分野を開いた。宇宙を構成する情報は単なるビットではなく量子的なビット、いわゆる「キュービット(quantum bitの略)」を単位として表される。キュービットは通常のビットよりも、はるかに豊富な内容を持っている。
宇宙を情報理論の観点から調べることは、力やエネルギーといった従来の道具立てによる解析に取って代わるものではない。しかしこれまで知られていなかった、驚くべき新事実を浮かび上がらせてくれる。例えば統計力学の分野では、「マクスウェルの悪魔」と呼ばれるパラドックスの謎を解いた(編集部注:この悪魔は一見、永久運動を実現するかに見えるが、情報科学の観点から見ると、なぜ実現できないのかが明らかになる)。
最近では私たちを含めたいくつかの研究グループが、同様の手法を宇宙論と基礎物理学の分野に適用しようとしている。ブラックホールの性質、時空の微細構造、宇宙の暗黒エネルギー、究極の自然法則などだ。宇宙は巨大なコンピューターだが、ただのコンピューターではない。量子コンピューターだ。伊パドバ大学のジッジ(Paola Zizzi)の言を借りれば、「It from qubit (量子情報から実体が生まれる)」のである。
1ギガヘルツの1000億倍
物理学と情報理論は、ともに「自然は根本的に不連続である」という、量子力学の中心的性質に根ざしている。どんな物理系でも、有限のビット数で記述できるという意味だ。系に含まれる粒子の1つ1つが、コンピューターの演算素子に相当する。粒子のスピン(自転に相当する)の回転軸が2方向のどちらを指すかによって、1ビットの情報を記録できる。スピンは反転もするので、単純な計算操作も可能だ。こうした系では、時間も離散的になる。時間の最小単位は、ビットを反転させるために必要な最低時間だ。実際の長さは、情報処理の物理学の先駆者、マサチューセッツ工科大学のマーゴラス(Norman Margolus)とボストン大学のレヴィティン(Lev Levitin)の名にちなんだ「マーゴラス・レヴィティンの定理」から導かれる。この定理は、物体の位置と角運動量、時間とエネルギーなどは同時に正確に測ることはできないというハイゼンベルクの不確定性原理に関連している。
マーゴラス・レヴィティンの定理によれば、ビットを反転させるのに必要な時間tは、加えられたエネルギーEに依存する。エネルギーが大きいほど反転にかかる時間は短く、t≧h/4Eという関係式で表せる(hはプランク定数と呼ばれる量子力学の主要パラメーター)。例えば、陽子に情報を記録し、磁場を利用してビットを反転させる量子コンピューターが研究されているが、この反転操作には最低限、マーゴラス・レヴィティンの定理を満たす最小の時間tがかかる。
マーゴラス・レヴィティンの定理からは、時空が取り得る形から宇宙全体の計算処理能力まで、実にさまざまな結論を引き出すことができる。
まずウォーミングアップとして、通常の物質の計算能力をみてみよう。1kgのガス状物質が1リットルの箱の中に収まっているとする。この物質を、ここでは「究極のパソコン」と呼ぶ。究極のパソコンのバッテリーは物質そのもので、アインシュタインの有名な公式E=mc2にしたがってエネルギーに変換される。この物質が持つエネルギーをすべてビットの反転に用いたとすると、究極のパソコンは当初、1秒に1051回の計算を実行できるが、使えるエネルギーが減っていくにつれて、処理速度は徐々に落ちていく。
メモリーの容量は熱力学法則から見積もれる。1リットルの容積を占める1kgの物質が完全にエネルギーに変換されると、その温度は10億K(Kは絶対温度の単位ケルビン)になる。エネルギーを温度で割ってエントロピーを計算すると、1031ビットの情報量に相当する。箱の中を飛び回る基本粒子のミクロな運動や位置によって情報が記憶され、熱力学法則が許す限りのビットを総動員して計算を実行する。
基本粒子が相互作用すると、互いにビットが反転する。この物理過程を、C言語やJavaと同じようなコンピュータープログラムとして考えよう。すると基本粒子は変数であり、その相互作用は足し算や引き算と同様の演算過程とみることができる。それぞれのビットは1秒に1020回反転でき、これは1ギガヘルツの1000億倍のクロック数に相当する。
実際には、究極のパソコンはあまりに速いので、全ビットに共通の時計では制御できない。ビットの反転に要する時間は、1つのビットから、その近くにある別のビットに情報が伝わる時間にほぼ等しい。究極のパソコンは、膨大な数のプロセッサーを持つ高度な並列コンピューターなのだ。各プロセッサーはほとんど独立に演算し、その間の情報のやり取りは比較的遅い。
比較のために現在のコンピューターについて言えば、ビットは1秒間に109回しか反転できず、メモリー容量は1012ビットで、プロセッサーは1つだけだ。ムーアの法則(編集部注:半導体チップの集積度は3年で4倍になるという経験則)が今後もずっと成り立つと仮定すると、私たちの子孫が究極のパソコンを買えるのは23世紀の半ばになる。だがそれを実現するためには、太陽の中心よりも高温のプラズマ中を飛び交う粒子間の相互作用を正確に制御する方法を編み出さなくてはならないし、通信帯域のほとんどはコンピューターの制御とエラー処理のために取られることになるだろう。超高温のプラズマをチップの中に収容する方法を開発するという、頭の痛い問題もある。
だが、もしちょっとしたツテがあれば、今でもこんなコンピューターを買うことはできる。「1kgの物体を完全にエネルギーに変えるもの」といえば、20メガトン級の水爆そのものだ。核兵器の爆発は莫大な情報処理過程であり、その入力は爆弾の初期設定で、出力は爆弾からの放射線だ。
ブラックホールもコンピューター
どんな物質の集合もコンピューターだというならば、ブラックホールは極限まで圧縮された超高密度コンピューターにほかならない。コンピューターが小さくなるにつれ、その構成要素を結び付けている重力が強くなり、ついにはいかなる物体も脱出できないブラックホールに変わる。ブラックホールの大きさはシュバルツシルト半径と呼ばれ、ブラックホール全体の質量に比例する。1kgのブラックホールの半径は10-27乗mだ(ちなみに陽子の半径は10-乗15m)。コンピューターを小さくしても含まれるエネルギーは変わらないので、先の場合と同様に計算すると、毎秒1051回の演算が可能になる。変わるのはメモリー容量だ。先の例のように重力の影
響が問題にならない場合には、系全体のメモリー容量は基本粒子の数、すなわち体積に比例する。しかし重力が非常に強いときは、粒子が互いにくっついてしまうために、記録できる情報量が減る。
ブラックホールの記憶容量は、その体積ではなく、表面積に比例する。1970年代にホーキングとイスラエルにあるヘブライ大学のベッケンスタイン(Jacob Bekenstein)は、1kgのブラックホールの記憶容量が1016ビットであることを示した。これは、ブラックホールに圧縮される前のコンピューターの記憶容量に比べ、ずっと少ない。
記憶容量は減ってしまうが、その代わりブラックホールの演算速度は極めて速い。事実、ビットが反転するのにかかる時間は10-35乗秒で、半径10-27乗mのブラックホールの端から端まで光が走る時間しかかからない。つまりブラックホールは、超並列コンピューターである究極のパソコンとは違って、1つのプロセッサーで超高速に計算する単体のコンピューターなのだ。
ブラックホールを実際にコンピューターとして機能させるには、どうすればよいのだろうか?データの入力は簡単で、物質やエネルギーによってデータを表し、ブラックホールの中に投げ込めばいい。投げ込む物質を適切に設計すれば、ブラックホールをプログラムして、望みの計算を実行させることができる。
だが、いったん投げ込んだ物質は永久に戻ってこない。いわゆる「事象の地平」が、戻ってこられるかどうかの境目を定めている。ブラックホールの中に急激に落ち込んでいく粒子は、ブラックホールの中心(特異点と呼ばれる)に至るまでの有限時間内に相互作用して演算し、中心に達すると消滅する。特異点で物質がつぶれるときに何が起こるのかは量子重力理論の法則によって決まるが、量子重力理論の詳細はまだ不明だ。
ブラックホール・コンピューターの出力は、ホーキング放射の形をとって出てくる。1kgのブラックホールがホーキング放射を起こすと、エネルギー保存則を満たすために質量が減少し、わずか10-21乗秒で消失する。ホーキング放射のピーク波長は、ブラックホールの半径に等しい。1kgのブラックホールなら、ピーク波長は非常に強いガンマ線になる。この放射線を検出器でとらえれば、出力結果を読み取ることができる。
ホーキングが、後に彼自身の名で呼ばれるようになったこの放射について行った研究は、ブラックホールからは何物も逃れることができないというそれまでの見方を覆すことになった(S.ホーキング「ブラックホールと量子力学」日経サイエンス 1977年3月号)。ブラックホールが放射する速さはブラックホールの大きさに反比例するので、銀河の中心にあるような巨大なブラックホールでは、放射によってエネルギーを失うよりも、物質をのみ込んでいく速さの方が速い。
しかし将来、粒子加速器で微小なブラックホールを作ることができるかもしれない。そんなブラックホールは爆発的な放射を起こし、一瞬で蒸発する。ブラックホールは安定して存在するものではなく、最高速度で演算を実行する、物質の一時的な集合状態なのだ。
出力のメカニズム
ブラックホールをコンピューターとして考える際の本質的な問題は、ホーキング放射は本当に計算結果を示しているのか、それともわけのわからない情報の羅列なのかということだ。この論争にはまだ決着がついていないが、現在ではホーキングを含めた多くの物理学者たちが、ブラックホールに投げ込まれた情報は放射の形成過程で高度に処理され、その結果が出てくるのだろうと考えている。物質自体がブラックホールから出てくることはないが、物体が持つ情報は出てこられるのだ。どのようにして情報が出てくるのかは、現在、物理学における最もホットな話題の1つだ。カリフォルニア大学サンタバーバラ校のホロヴィッツ(Gary Horowitz)とニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所のマルダセナ(Juan Maldacena)は2003年、情報が出てくるメカニズムとして、ひとつの可能性を提唱した。複数の系が時間的、空間的に遠く離れていても相関する「量子もつれ」という現象によって、情報が外に出てくる可能性だ。量子もつれがあると、量子テレポーテーションを行うことができる。これはある粒子から別の粒子に情報を伝送する操作で、一方の粒子を他方の場所に、最大で光速と同じ速さで飛ばすのと実質上同じことになる。
量子テレポーテーションはすでに研究室では実現している。これを実際に行うにはまず、2つの粒子を量子もつれ状態にしなくてはならない。次に粒子の片方を、テレポーテーションで送りたい情報を含んだ物質と一緒に測定する。測定によって情報は元にあった場所からは消えてしまうが、量子もつれがあるために、もう一方の粒子に現れる。もう一方の粒子が、どれほど遠くにあっても構わない。こうして現れた情報を、最初の測定で得られた結果を使って解析し、元の情報が何かを知ることができる(A.ザイリンガー「量子テレポーテーション」日経サイエンス2000年 6月号)。
ブラックホールでも、よく似た現象によって情報が外に出てくると考えられる。事象の地平上で、量子もつれになった光子ペアが生成したとする。一方の光子はホーキング放射として外に飛び出し、観測される。もう一方の光子は中へと落ち込み、もともとブラックホールを形成していた物質と一緒に特異点に達する。特異点での消滅は量子テレポーテーションの場合の「測定」に相当し、物質が持っていた情報がホーキング放射(外に飛び出した光子)に伝わる。
量子テレポーテーションの実験では情報を解析する際に最初の測定結果が必要だったが、ホーキング放射に伝わった情報を読み取る場合は測定は不要だ。ホロヴィッツとマルダセナは、消滅によって生じる結果はたった1種類だと主張する。観測者は基礎物理学理論を用いて観測結果を解析し、情報を読み出すことができるという。この仮説は量子力学の通常の枠組みからは導けないので議論は分かれているが、あり得ないことではない。宇宙の始まりであるビッグバン特異点がたった1つの状態しか取り得ないのだから、ブラックホール内で行き着く最終特異点が唯一の状態しか取らなくてもおかしくはない。
著者の1人であるロイドは2004年6月、最終特異点の状態が多少変化しても1種類しかない限り、ホロヴィッツ・マルダセナが提唱した機構が機能することを示した。それでも、情報はわずかに失われてしまうようだ。
このほかにも、奇妙な量子現象に基づく情報出力のメカニズムが提唱されている。ハーバード大学のストロミンジャー(Andrew Strominger)とヴァッファ(Cumrun Vafa)は1996年、ブラックホールはブレーンと呼ばれる多次元の構造体の寄せ集めだとの考えを提唱した。ブレーンはひも理論から出てくるもので、ブラックホールに落ち込んだ情報はその内部に生じる波として記憶され、最終的にそれが漏れ出してくるという考えだ。
2004年にはオハイオ州立大学のマーサー(Samir Mathur)らが、ブラックホールは多数のひもがからみ合った大きな塊であるとする新たなモデルを提唱した。この「ファジーボール」が、ブラックホールに落ち込んだ物質が持っていた情報を保存し、ホーキング放射に乗せて出す。
ホーキングも最近、事象の地平は量子揺らぎのためにはっきりとは決まらないと主張している(「自説を修正したホーキング」日経サイエンス2004年11月号TOPICS)。どのアイデアが正しいのか、まだ決着はついていない。
サイバー時空
ブラックホールの性質は、時空の性質と密接に絡み合っている。ブラックホールがコンピューターならば、時空そのものもコンピューターであるはずだ。量子力学によれば、時空もほかの物理系と同様に不連続で、距離と時間間隔の測定精度には一定の限界がある。一定の空間に記録できる情報量は、ビットがどれくらい小さくなり得るかによって決まるが、微小なスケールでは時空も泡のような構造になっており、1ビットを泡の1個よりも小さくすることはできない。泡の1つ1つの大きさは、これまでプランク長(lp:10-35乗m)程度だと考えられていた。量子揺らぎと重力効果の両方が大きく効いてくるような長さだ。時空の泡構造の大きさが本当にプランク長程度だとすれば、あまりに小さすぎて到底観測できない。
しかし著者の1人であるノースカロライナ大学チャペルヒル校のエンとファン・ダム(Hendrik van Dam)、そしてハンガリーのブダペストにあるエトヴェシュ・ロラーンド大学のカロリハジー(Frigyes Ḱarolyh́azy)は、泡は実際にはずっと大きく、しかも決まった大きさを持たないことを示した。時空の領域が大きいほど、それを構成する泡も大きくなる。
この主張は一見無理があるように思える。ゾウを作る原子はネズミの原子よりも大きいと言っているようなものだからだ。しかしロイドはこの結論を、次のようなコンピューターの演算性能限界の考察から導いた。
見ている時空が大きいほど時空の泡も大きい
時空の幾何構造は、情報の伝達と処理を通じて距離を測定するという一種の計算操作を通じて描くことができる。方法の1つは、測定する時空の領域に、時計と無線通信を備えた全地球測位システム(GPS)衛星をくまなく配置することだ(次ページのイラスト参照)。距離を測定するために、衛星は互いに信号を送り、相手に到達するまでにかかる時間を測定する。測定の精度は時計の刻み幅で決まる。時計を刻むのは計算操作なので、その最高速度はマーゴラス・レヴィティンの定理によって決まり、時計が1回刻むのにかかる時間は衛星のエネルギーに反比例する。
ただしそのエネルギーにも限界がある。加えるエネルギーが大きすぎたり、衛星があまりに密集しすぎたりすると、衛星はブラックホールになってしまい、時空の測定に使えなくなる(こうしてできたブラックホールもホーキング放射を出しているが、その波長はブラックホール自身の大きさと同等なので、それ以上細かい構造を調べるのは不可能だ)。衛星全体が持つことのできるエネルギーの最大値は、測定している領域の半径に比例する。
だから測定する領域を大きくすると、衛星全体のエネルギーの増加が領域の体積の増大に追いつかない。領域が大きくなってくると、計測者は二者択一を迫られる。衛星の密度を減らす(すると衛星間の距離が大きくなる)か、各衛星が持つエネルギーを小さくする(すると時計が刻むスピードが遅くなる)かだ。どちらにしても、測定の精度は悪くなる。
数学的に表現すると、半径Rの領域を測定し終えるまでに、衛星の時計は合計でR 2乗/lp 2乗回の時を刻む。もし、各衛星がこの間に1回ずつ時を刻むとすれば、衛星間の平均距離はR 1/3乗 lp 2/3乗となる。一部の領域で測定精度を上げることはできるが、そのためにはほかの領域で精度を下げなくてはならない。この理屈は、空間が膨張していても変わらない。
上の数式から、測定可能な最小距離、つまり測定精度がわかる。たとえ衛星がブラックホールになる寸前でも、この式は成立する。この最小距離以下では、時空の構造はもはや存在しない。この最小距離はプランク長よりはずっと長いが、日常的なスケールに比べれば、もちろん極めて短い。観測可能な宇宙の大きさを測定する際の精度限界は約10-15乗mとなる。この距離なら、将来建設される重力波観測装置などの精密な測定装置を用いれば観測が可能だろう。
理論物理学者の立場から言えば、この数式は観測の可能性だけでなく、ブラックホールに対する新しい見方を与えてくれるという点で重要な意味を持つ。エンは時空の揺らぎが測定する距離の1/3乗に比例し、そこからブラックホールの記憶容量を表すベッケンスタイン=ホーキングの方程式を導けることを示した。またこのことは、ブラックホール・コンピューターには一般に、メモリーのビット数が計算速度の2乗に比例するという制限があることも意味している。その比例定数はGh/c5で、cは光速、Gは重力定数、hはプランク定数だ。cは特殊相対性理論、Gは一般相対性理論、hは量子力学のそれぞれ基本定数で、この式は数学的に、情報理論がこれらの理論と関連していることを示す。
最も重要なことはおそらく、この結果から直ちに「ホログラフィック原理」が導けることだ。ホログラフィック原理は、私たちの3次元宇宙が深遠な、しかし極めてわかりにくい形で、2次元として記述できることを示している。そしてある領域の時空に記録し得る情報量は、その領域の体積でなく表面積に比例するとしている(J.D.ベッケンスタイン「ホログラフィック宇宙」日経サイエンス2003年 11月号)。ホログラフィック原理は、まだ全体像が見えない量子重力理論の細かい部分の反映だろうと予想されているが、測定精度の量子限界から直接に導出することもできるのだ。
宇宙は何を計算するか
これまでに見てきた計算の原理は、ブラックホールという超高密度コンピューターや、時空の泡という最小サイズのコンピューターだけでなく、最大の物質系にも当てはまる。宇宙そのものだ。宇宙は無限に大きいのかもしれないが、少なくとも今のような姿では、有限の時間しか存在していない。現在観測できる宇宙は直径数百億光年の範囲に限られ、私たちはこの領域で実行されてきた計算結果しか知ることはできない。 先に衛星の時計が刻んだ回数を推定したが、この手法を用いて宇宙が誕生してから今までに実行し得た最大の演算回数を計算すると、その値は10123回にもなる。この数字を、私たちの身の回りにある普通の物質、暗黒物質、そして宇宙の膨張を加速しているとされる暗黒エネルギーの演算能力と比べてみよう。
観測によれば、宇宙のエネルギー密度は1m3あたり10-9乗ジュールで、宇宙全体の総エネルギーは1072ジュールとなる。マーゴラス・レヴィティンの定理によれば、このエネルギーで毎秒10106回の演算を実行でき、宇宙が存在している間に実行できた演算回数の合計は10123回になる。言い換えれば、この数字が物理学法則に照らして、宇宙がこれまでに実行できた最大の演算回数なのだ。
原子などの普通の物質が記憶できる情報量を計算するには、統計力学と宇宙論の標準的な方法を用いればよい。物質は、質量がなくエネルギーだけを持つニュートリノや光子などの粒子に変換された時に、最大の情報量を記憶できる。その場合のエントロピー密度は温度の3乗に比例する。温度は演算の回数を決める粒子のエネルギー密度の1/4乗に比例するので、メモリーの総ビット数は、最大演算回数を3/4乗すればよい。この関係を用いて宇宙全体のメモリー容量を計算すると、10の92乗ビットになる。
もし粒子が何らかの内部構造を持っていれば、この数字はさらにいくらか大きくなる。これらのビットは、互いに情報を伝達しあうよりも速く反転する。つまり普通の物質は、先に紹介した究極のパソコンと同様の並列コンピューターで、ブラックホールとは異なるタイプのコンピューターとなる。
暗黒エネルギーはまだその正体がよくわかっておらず、ましてやメモリー容量を直接計算するのは不可能だ。しかしホログラフィック原理によると、宇宙は最大10123ビットの情報を記憶できると考えられる。これは先に計算した、宇宙がこれまでに実行できた最大の演算回数にほぼ等しい。
この一致は偶然ではない。私たちの宇宙の密度は臨界密度(編集部注:宇宙が今のような形で存在し得る最大の密度)に等しいことがわかっている。もしもう少し密度が高ければ、宇宙はブラックホールに落ち込むのと同様に、自らの重力によってつぶれてしまっていただろう。別の言い方をすれば、宇宙は演算の回数が最大になるような条件を(ほぼ)満たしている。最大の演算回数はR2/lp2で、ホログラフィック原理が示唆する値に等しい。宇宙の歴史の各時点において、宇宙に存在していたビット数の最大値は、それまでに宇宙が実行し得た演算の回数とだいたい同じなのだ。
通常の物質は大量の演算を実行しているが、暗黒エネルギーはそうではない。もし暗黒エネルギーが、ホログラフィック原理が示す最大のビット数を持っていたとしたら、そのほとんどは、宇宙の歴史全体を通じてせいぜい1回しか反転したことがないはずだ。
これらのビットは、少数しかない普通の物質のビットが高速で忙しく演算するのをただ見ているだけということになる。暗黒エネルギーの正体が何であっても、演算はほとんどしていない。その必要がないのだ。宇宙で行方不明になっている質量を担い、膨張を加速するというのは、演算という観点から見れば簡単な仕事なのだ。
宇宙は一体、何を計算しているのだろう?私たちが知る限り、SF映画の古典的名作『銀河ヒッチハイク・ガイド』に出てくるスーパーコンピューター「ディープ・ソート」のように、1つの質問に対して1つの答えを出しているわけではない。宇宙は宇宙それ自身を計算している。「標準モデル」と呼ばれるソフトを使って、宇宙は量子場を、化学物質を、バクテリアを、人間を、星を、そして銀河を計算している。宇宙は計算することで、それ自身の時空の構造を、物理法則が許す最大限の精密さで描きだしていく。宇宙は計算によって自身の存在を生み出しているのである。
これまで見てきた一連の結論は、私たちの身近にあるコンピューターから、ブラックホール、時空の泡構造、そして宇宙全体にまで適用できる。このことは自然の一貫性を示している。物理学の基礎理論の間にある考え方の関連が、そこに表れているのだ。特殊相対性理論、一般相対性理論、そして量子力学という3つの基礎理論を結びつける量子重力理論の全貌は、現在はまだ見えていない。だがそれがどんなものであるにせよ、量子情報科学と密接に関連しているはずだ。It from qubit──量子情報から実体が生まれるのだから。 (翻訳協力:関谷冬華)
監修細谷暁夫(ほそや・あきお)
東京工業大学教授。専門は相対性理論と量子情報科学。
著者 SethLloyd/Y.JackNg
2人は量子情報理論と重力の量子論という、非常に興味深い理論物理の2つの分野を結びつけた。マサチューセッツ工科大学で量子工学の教授を務めるロイドは、実現可能な量子コンピューターを初めて設計した。彼は量子コンピューターや量子通信システムの構築と運用を目指す多くのチームで活動してきた。一方、ノースカロライナ大学チャペルヒル校の物理学教授であるエンは、時空の基本的性質を研究している。彼は時空の量子構造を実験的に調べる方法を多数提案してきた。彼らの意見に最も懐疑的なのは家族だそうだ。ロイドが娘に「あらゆるものはデジタル情報からできているんだよ」と話したところ、彼女はそっけなくこう答えた。「パパは間違ってるわ。光以外のあらゆるものは原子でできているのよ」。エンもこの手の話題についてはまったく信用されていない。コンピューターでトラブルが起きるたびに、彼が息子たちに助けを求めるからだという。
原題名
Black Hole Computers (SCIENTIFIC AMERICAN November 2004)
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