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(回答先: IDに対する見方で千早さんの科学リテラシーのレベルが良く分かりました。 投稿者 ダイナモ 日時 2009 年 12 月 27 日 20:06:30)
科学リテラシという言葉が一人歩きしているのなら残念だね。
IDと進化論についても、どうなんかな、ちとダイナモ氏にも他の方にも誤解と推定されるコメントがあるだけに、ちょいとまとめてみようと思う。
言うまでもなく、創造主である神がいるか、否か、は科学の範疇からすこしだけ外れている。少しだけ、とゴマかしているのは「IDと進化論」のような議論があるからで、ハッキリいえば全く関係ない。なぜなら、神は、科学の適用できる範疇ではないからだ。
(ここではわかりやすくするため古典的な自然)科学の手法は、簡単に言えば、観測に始まって、仮説を立て、予測し、検証することだ。しかし、「神」は見えないから観測できない。メタな存在だから人間の範疇を超えている。ゆえに「仮説も予測も」できない。だから、神は、科学の適用できる範疇ではない。いるか、いないのかを判断するも、「科学的に」考えることもままならない。従って、神は、科学の適用できる範疇ではない。(ちなみに、この主張も自然科学の言語で述べていないことに注意すべき。)
だから、人が、神を信じていようがいまいが、科学的な考え方にそって推論しているその場合に限り、その一連の行動は科学的といえる。
つまり、神がいると考えて、ある事実からある結論に至ったとしても、神がいないと考えて、ある事実から別のある結論に至っても、それが科学的な考え方にそって推論されたものであれば、どちらも科学的である。どちらが真理に近いか、はまた、別問題である。それはお互いに議論すればよろしい。(ここで事実と真理を混同すべきではない。)
一方、神がいると考えて、事実を曲げたり、神がいないと考えて、説明のつかない不合理から顔を背けるなら、それは何れも、科学的ではない。それだけの話だ。
(ここで、神がいると考えるのは宗教だと結論する者がいるが、自然界を観察して神がいると推論するものもおり、これは崇拝の方式を意味する宗教とは異なる。ちなみに、神がいないと信じるのも、「科学」ではなく信仰の問題であるということは言うまでもない。)
もうすこし具体的に書こう。
以前、書いた通り、進化論は十分に検証されていない、自然科学の手法で十分に確立されているとは言い難いというのは、事実である。そこは、謙虚に認めて検証する手法を模索するのは「科学的」な態度である。もちろん、IDを唱える人も、higher beeingsがいると決め込んで、事実を歪曲したり取捨選択したり反証を怠っているのなら「科学的」ではないが、そうで無いなら科学的であるから、科学的に批評しなければならない。
同じことは温暖化にも言える。地球は人間の経済活動に起因して温暖化していると決め付けて、事実を歪曲したり取捨選択したり反証を怠っているのなら「科学的」ではない。それは、単なる妄信である。
そんなに難しい話しじゃない。