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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090204/184970/
多角的に「ストレス」を科学する
2009年2月5日(木)
「一緒に食べる」の革命性
霊長類学が映し出す人間コミュニケーション--山極寿一氏(前編)
* 尹 雄大 【プロフィール】
山極 寿一(やまぎわ・じゅいち) 1952年生まれ。京都大学大学院理学研究科教授。日本霊長類学会会長。長年にわたり、野生のゴリラやチンパンジー、ニホンザルの社会的行動を調査するとともに、その保護活動を行ってきた。主な著書に『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)、『ゴリラ』(東京大学出版会)、『家族の起源』(東京大学出版会)、『人類進化論−霊長類学からの展開』(裳華房)、『サルと歩いた屋久島』(山と渓谷社)など多数。
日々のニュースを見れば分かる通り、世界から戦火が絶えたことはない。国家同士、あるいは個人同士、利害損得をめぐり火花を散らすことは日常茶飯事だ。
人間から争いの種を取り除くことができないのは、自己の生存を実力で獲得せざるをえない局面があるからだ。人間に限らず、自然界に生きる動物も同じだろう。
動物の生存をめぐる争いの火種を突き詰めていくと、“食”と“性”という要素に行き当たるようだ。どちらも生きることに深く関わっている。彼らは、どのように食と性をめぐる“葛藤”すなわち“争いごと”に対処しているのだろうか。人間もまた動物である以上、彼らの食と性をめぐる葛藤の解消法を知ることは、人間独特の争いを回避する上で参照になるのではないだろうか。
今回、ご登場いただくのは野生のゴリラやニホンザルの観察を行ってきた京都大学教授の山極寿一さんだ。前編では、食における葛藤を動物や人間はどう乗り越えたかについてうかがった。人間だけが誰かと食を共にする。これは極めて奇妙な光景であるらしい。
−−山極先生は長年、野生ゴリラの研究をされていますね。著作の中で、動物は、“食物”と“性”にかかわる葛藤によってストレスを受けているとご指摘されています。食と性がどのようにストレスと結びつくのか。まず食をめぐるストレスからご説明ください。
山極:霊長類の話からしましょう。もともと霊長類は単独で暮らし、住んでいる空間を他者とは分かち合いませんでした。つまり群れなかった。彼らが好む食物は、生息場所を自由に変えられない植物だったからです。場所を移動できない植物のありふれた食物だから、勝手にひとりで食べられる。霊長類は食をめぐる葛藤を抱えないで済むよう、食を専有できるテリトリーを作り、それを互いに認め合おうとしました。
ところが進化の過程で、霊長類が社会生活を作り上げ、群れで暮らすようになると、食に関して群れどうし、そして群れの中での葛藤が生まれるようになります。
霊長類の食で起こるストレスというのは、「どういう仲間とどんな食物をいかにうまく食べるか」にかかわってくるといえます。
食はコミュニケーションの手段
−−集団生活のほうが外敵から捕食される危険は少なくて済みますが、同じ食への嗜好をもつ仲間と暮らさなくてはなりません。つまり同じ食物をめぐっての争いにもなりうる。霊長類は、大きなストレスになりかねないこの問題をどう解決したのでしょうか?
山極:食べる順番を決めました。いわば集団内に“勝ち組”と“負け組”を作ったのです。集団内の優劣順位を決めてしまうことが、食物に関する葛藤を解決するいちばんいい方法ということです。
勝ち組・負け組といっても、人間の考えるような優勝劣敗といった厳しいルールではありません。霊長類は、どこにでもあるような植物を食料にしているため、負け組であっても、場所を移動すれば食料は手に入ります。
しかも集団自体が定住生活をせず、転々と動き回っています。場所を変えれば、新たな食にまたありつけるので、食をめぐる争いは長くは続きません。
−−社会生活をしながらも食に関しては、個人で調達するシステムがあったため、ストレスは集団や構成員の移動によって解消されたわけですね。
山極:はい。しかし、ゴリラやチンパンジーといった類人猿になると、あくまで個のものであった食が、コミュニケーションの手段として使われ出したのです。
−−「食はコミュニケーションの手段」ですか。具体的には……。
山極:相手に食物を「ねだる」という行動が出てきました。これが食物の分配行動になります。ゴリラやチンパンジー、ボノボなど、メスが集団間をわたり歩く社会生活を送る類人猿に見られる現象です。
−−勝ち組・負け組を決めたりして、互いに距離を置くことで食をめぐる葛藤を解消したんですよね。なのに、敢えて関係を持とうとするとは。新たな争いを招き入れることになりませんか?
山極:どこでも手に入れられる植物性の食物をわざわざ相手にねだるというのは、「他ならぬあなたから貰いたい」というコミュニケーションの発生を意味します。これによって、互いの連合関係なり協力関係が確認されるようになりました。
−−なぜ、連合関係や協力関係の確認が必要になったのですか?
山極:自分にとっての仲間が必要となったからです。たとえばゴリラ同士で喧嘩が起きたとき、「どちらが強い・弱い」という態度を表明しないので、争いは収まりません。そこで必ず第三者が割って入り、“引き分け”にさせることで、争いを解決します。
両者とも面子を保って引き下がれるため、「第三者を要する」という争いの解決方法をゴリラは持っています。だから自分のことをきちんと認知してくれる仲間が必要となる。そうやって、互いに連合関係を確認する「ねだる」というコミュニケーションが生まれたのです。
さらにチンパンジーの場合は、ゴリラより優劣順位を意識した集団による社会生活を送っているため、ひとりの力だけでは社会的地位を守れません。連合関係を組んだ仲間を確認する必要があるので、さらに積極的な食物分配が行われます。「私はあなたのサポーター」と認識してもらうため、力関係で弱いほうが強いほうにねだり、強いほうは自分の食欲を抑制し、相手に食物を譲ります。
人間は食を“公開”するようになった
−−「食物をねだる」「食物を分ける」といった行為は、仲間を作る必要から生じたのですね。人間も特別意識せず食べ物を分配します。これもやはり食を手段にしたコミュニケーションなのでしょうか?
山極:ええ。ただ、ゴリラもチンパンジーも分配を要求されなければ他者に与えません。そこには“惜しみ”があります。
いっぽう、人間のコミュニケーションでは、わざわざ自分から食物を相手のところに持って行き、そこで「一緒に食べませんか」と交渉を行って共食するのです。
もっとも原始的な食のコミュニケーションは、類人猿のように二者間で行う食物分配ですが、人間は食物を相手と自分との関係性の確認だけでなく、第三者との関係調整に食物を使ったり、新しい関係を食物で作ったりと、多様な意図を持つコミュニケーションの手段にしています。
人間は食べる場所をしつらえて、席の順番を決め、食卓に着くためのエチケットをつくり、食をデコレーションしてといった具合に、食に意味を付与していきました。
つまり人間の社会性とは、「食を公開する」ことにあります。だから、どの民族も食事は気前よく振る舞うものであって、独り占めはしません。他者と分かち合い、譲り合い、一緒に食べます。食をけちる者は卑しい者と見なされます。
人はまた、自分が相手に奢ったからといって見返りを要求しません。「共に食べる場」をつくり上げることが重要なのです。
他者との信頼のために
−−ゴリラやチンパンジーの単純な「ねだる」「分ける」から進んで、なぜ人間の食では、わざわざ集めた食料を並べ替え、調理までして一緒に食べるといった多様性を帯びたのでしょうか?
山極:おそらく人間が大きな集団をつくり、維持する必要から、食を公開し、仲間とのコミュニケーションの手段にしたのでしょう。
実は、一緒に食事をとる「共食」は、非常に不思議な行為です。人間の身体の消化システムは、ありきたりの植物を食べる類人猿と同じです。植物だと食いだめが効かないから毎日食べないといけません。しかし、肉食動物の消化システムでは、食いだめが効くし、獲物が限られているから複数で食べ合います。人間は貯蔵できない食べ物をわざわざ取っておいて、分かち合います。
人間の食が多様性を帯びたもう1つの理由は、1日のうちに家庭から会社へ、会社から友人同士へといったように、組織を渡り歩く「集団遍歴」にあります。人間以外の霊長類は、1つの集団に加入すれば、その集団から出られず、いったん離れたら二度と元の集団に戻れません。しかし、人間は毎日異なる集団間を移動しています。これは人間だけが持っている特質です。
−−確かに人は、平日は会社へ、休日は地域サークルへなど、日々渡り歩いていますね。こうした集団遍歴と、食の公開には、何か関係があるのでしょうか?
山極:食べ物が1つの“パスポート”になるということです。新参者が他の集団を訪ねるとき、食べ物を土産として持っていく習慣が昔からあります。迎える側としても一番都合がいいのは、一緒に食事をすることです。共に食べるだけで和むことができる。それだけ見知らぬ人同士の出会いは、緊張感や警戒心を伴っているといえます。
私がプラットホームに立っていても「後ろから押されない」と安心できるのは、他人を信じられるからです。けれど、これはルールを信じているのではなく、他者を信頼してのことです。周囲は「敵ではない」という思いがないと信頼は成立しません。そこで重要なのは、互いが「同じようなものを食べている」ということです。
味覚は確認しあいづらい
−−同じようなものを食べることが信頼につながるという作法を、人間はどのように身に付けていったのでしょうか?
山極:食を他者と分かち合うことは、進化の過程でつくり上げられた新しい行為ですから、なかなか身体に馴染むものではありません。
その証拠に五感の中で信用を置けるのは目、次が耳です。「百聞は一見に如かず」といったように、見聞が評価の対象になりえるのは、自分だけのものではなく、他者と共有できる対象だからです。だから文字や言葉は大きな道具になっている。
しかし、嗅覚や味覚は非常に個人的な感覚です。犬や猫は嗅覚や味覚で危険を察知し、親密さを嗅ぎ分けます。それらは他者と分かち合えない自分だけの感覚です。
だから食について「おいしい」とは言えても、視覚や聴覚を除くと、テーブルを囲む人は、味覚について共通の事柄を確認できません。
しかしながら、食はコミュニケーションでもあるから無理にでもその場を分かち合わないといけない。
要はテーブル上で“幻想”を共有しているため、人は大きなストレスを感じてしまう。同じものを食べても、同じことを感じていない。しかも食べながら食事と関係ないことを話し、話題を共有しあおうとしている。食という手段でコミュニケーションを取っている私たちは、大変難しい行為を自らに強いているのです。しかし、逆にその難しい行為を通じることで「他者と同じ価値を共有する世界にいる」という信頼が生まれるのです。
会食から見えてくる国際政治
−−人は食を通じ、かなり複雑なコミュニケーションをやり取りしているわけですね。幼少からしつけられる食事に関するマナーは、そういう困難なことを学ぶ過程を包含しているのでしょうか?
山極:食がコミュニケーションである以上、エチケットを伴います。相手の表情や雰囲気を読みながら、テーブルの上での様々なやり取りに合わせなくてはいけません。これは両手両足を使ってピアノを弾くくらい難しいことで、本来ならば、それを子どもの頃からしつけないといけないはずです。
けれど、いまは幼児期の排泄のしつけは盛んでも、食についてはあまりうるさく言われません。
なぜならそれぞれの仕事のスケジュールに従って効率のよい食事をするという経済的な理由で、家族バラバラに、好きなものを好きなときに食べる「個食」の時代になってしまったからです。みんなで食べるという作法そのものが崩れてしまったと思います。
事実、周囲の学生を見ていると、食べることに熱意を抱いても、みんなと食べることに際しての作法に関してあまり注意を払わない傾向があります。
−−みんなで食べることに重きが置かれなくなったせいでしょうか、異性を食事に誘うことも特別なことでなくなりました。食におけるコミュニケーションの価値が弱まったと言えますね。
山極:私の世代だと、男女が食事をしているのは“意味深”でしたよ(笑)。いまは一緒に食事することは、関係づくりの上での意味は薄くなってきました。けれど、そうはいっても、ある局面では、いまだに重要なことであり続けています。
小泉純一郎元首相が金正日氏と平壌で会ったとき、互いに握手はしました。しかし、食事は一緒にしませんでした。あれを見て誰もが「両国の関係はまだまだだ」と思ったはずです。
国家の首脳同士が一緒に食事をすることに大きな意味があるのは、どうやって食事をしたか、どういう席順で、どんなものを食べたかが、写真であっても周囲に目撃されるからです。
晩餐会みたいなプリミティブなことがいまだ行われているのは、「食を分かち合っている」という事実に信頼というすごく大きな意味が付与されているからです。
(後編に続く)
(文/尹 雄大、写真/佐藤 類、企画・編集/漆原次郎&連結社)
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