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何故、同じ「ムラ社会の構造的問題」を掲げたのか
ーのんぽりさんに応える http://www.asyura2.com/09/nametoroku5/msg/804.html
私は、無党派だが、政権交代の旗印であった、国民主導・生活第一・地域主権の新しい日本を支持している。国民主導とは、トップダウンからパートナーシップへのチェンジ。生活第一とは、国際競争力・収益追求から生活経済優先への転換。地域主権とは、集権体制の変革だ。 私は、室戸台風で被災した在日の人々、雪の2.26.事件を記憶している。 <一つ目は、前述したように善悪二元論的なものの見方をする投稿(特にコメント欄)が増えていることだ。それも、自分自身の主張が認められず、誹謗中傷や印象操作に主眼を置いた投稿が多過ぎる。> 検察・野党・マスコミの鳩山・小沢攻撃を、政治とカネの司法分野に矮小化し、ご指摘の反論には政治的な権力闘争の視点を欠く弱点がある。だが検察・野党・マスコミの鳩山・小沢攻撃は、これまで経験したことのない凄まじいものだ。反論は、弱点はあっても、国民の政治的な成長と考える。 <ただ、参院選・衆院選を通して、ここでの共産党叩きは凄まじかった。その論理も民主主義を否定するかのような、共産党が候補者を立てると民主党の候補者が落ちる可能性がある故、自民党の別働隊だというものだった。今の小沢批判に対するものも小沢擁護・検察・マスコミ批判・野党批判とコメント欄が設けられたせいもあり凄まじいものがある。それも、誹謗中傷やレッテル貼りといった議論以前のものが大半を占めている有様である。以前民主党を支持し、今批判に転じている幾人かの常連さんに対してもである。> 共産党叩きの実体は、あまり知らない。ただナチスに対するレジスタンス、京都・東京の革新知事を生み出した時代と、健全野党を掲げ他の野党とともに、政治とカネに終始する現在の共産党は、社会主義の崩壊に学んでいないのではないだろうか。検察の政治とカネの正義を疑わない共産党を、小林多喜二はどう思うだろう。 < 二つ目は、小沢の最近のやり方に疑問があるからだ。仙谷が事業仕訳(このやり方にも疑問はあるがここでは省略する)に新人議員の幾人かを当てようとしたが1年生議員は再選することが大事と引き上げさせたり、民主党支持に鞍替えした歯科医師会の診療報酬を旗幟を鮮明にしない医師会より優遇してみたり、農協を取り込むために農協関係者を擁立するなど選挙一本に絞った活動があまりにも露骨で、政策が歪められるのではないかという危惧だ。> 新人議員の問題は、私も妥当と考え、民主党内でも了承されている。豪腕とか露骨とか危惧は自由だ。だが政治は国の舵取りだ。その手腕は、内外に知られ、訪中団に続き訪米が伝えられている。事態の進展が明らかにするだろう。 <無論、選挙に勝たなければ政権は取れないし、数が力であることは否めない。しかし、政治家(屋ではない)の本分はなにかといえば、政策を如何に遂行するかにあるのではないのか。選挙は彼らの理想を実現するための手段に過ぎない。それが、逆転しているのではないのか。これが小沢の本心ならば、政治資金の問題と併せ考えると自民党の手法から一歩も出ていないという風に思わざるを得ないということだ。> 選挙と政策の関係は、現実と理念の問題だ。複眼で、現実から未来を切り開くしかない。それが、小沢と自民党の違いではないだろうか。 <仮においらの危惧が中りだとすると、伊予次郎さんの育った時代にあった大政翼賛会が想起されるようになり、ますます危惧が募ることになる。> 冷戦終了で生まれた細川政権は、自民党政治家の画策で引きずり下ろされた。国民も政治家も先が見えなかったからである。政権交代が挫折すれば、日本の未来に展望が消え閉塞感が深まるだけだ。2.26.は、大恐慌の閉塞感が生みだし、大政翼賛会、敗戦につながっている。 <これは何故なんだろうか?結論から言えば、これはムラ社会という日本の隅々にまで浸透している構造にあるのではないだろうかと考える。政治家には政治家のムラ社会、官僚には官僚のムラ社会、経営者には経営者のムラ社会・・・があり、排他的な行動原理が支配している。今回の小沢問題でも、民主党(支持)というムラ社会が自浄作用を働かすこともなく、組織防衛に走ったのではないだろうかと感じられるのである。これは何も民主党に限ったことではない。 何故同じ「ムラ社会の構造的問題」を掲げたか。ムラ社会は、排他的な行動原理、自浄作用の欠如、武士の情け、甘えの構造、危機管理能力のなさ、経営者の隠ぺい体質、政治屋の脇の甘さ、かばい合いなど、負の側面だけが、日本社会の本来的な特性と捉えられている。だが光と影の複眼から、また歴史の流れと屈折を見れば、ムラ社会チェンジの方向が明らかになる。 万葉の歌人山上憶良は、百済からの渡来人という説がある。古代から日本社会は、開放的で、漢字と仮名の日本語をつくりだした。繰り返すが、聖徳太子の十七条憲法は「和を以て貴しと為し…」、天正少年使節は西欧に中世の安土桃山文化を伝え、坂本龍馬の船中八策は近代日本を描き、戦後の憲法は国民主権が謳われている。 だが鎖国・太閤検地・石高制で、近世は武家統治の重農主義に、維新の版籍奉還・地租改正で近代は富国強兵の集権国家に、その官僚体制を敗戦で三割自治に継承し、対米追随の経済大国に屈折した。平成の政権交代は、国民主導、生活第一、地域主権の新しい日本の一里塚と位置付けたい。 平成の船中八策を、次に記しておこう。 一策 象徴天皇制と国民主権 原口総務相は、政権交代後の抵抗勢力への対応を、ギルドと言う言葉を使って語っていた(上杉隆司会アサヒニュースター)。ギルドは、ゲルマン共同体から派生した職人の社会システムだ。日本のムラ社会は、稲作農耕文化を担ってきたイエ家族・ムラ(集落)共同体の一部なのである。 一方で、ガンジーの「塩の道」−非暴力・不服従の独立運動は、インドの独立につながった。国の独立、家族・地域社会の延長としての国家は不可欠である。私は、侍ジャパンに替わり、内政と外交を集約して、「和の国」日本・ピースジャパンを提唱している(http://www.geocities.jp/kirino3330/)。 < 教育委員会や学校というムラ社会、御用学者と政治屋・官界・経済界からなるサロンetc.etc.津々浦々に存在している。この日本的文化を変えなければならないのではないかという思いからだ。> 文化を担うのは、社会。文化と社会の規範を、つくるのが政治、という枠組みで捉えている。 <無論、常に緊張を強いられたら人間おかしくなってしまうから、安らげる場が必要であることは言うまでもないが、それは公私が混在したムラ社会ではない。公と私これをすみ分けた社会を作る必要があるのではないかと考える。> <たまに誤解されるのだが、おいらは別に共産党を支持しているわけではない。ただ、資本主義の対立軸として社会主義があるという風に捉えている。そしてEUに見られるような社会民主主義のどこかに落ち着きどころがあるのではないかと考えている。> 社会主義は自壊し、資本主義もリーマン危機で仕組みが問われている。社会民主主義のEUも、例外ではない。人類は、経済モデルのチェンジを必要としているのだ。 私は、次のヒト・モノ・カネの黄金三角形を提起している(http://www.geocities.jp/kirino3330_sekai/)。 同感。複眼の視点を。政権交代の受け止め方は多様だが、目先の事象に囚われては、容易に既成概念から抜け出せない。 <そしてもう一つ大切なものはノーブレス・オブリージュである。> ノーブレス・オブリージュとは、フランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。 新渡戸稲造は、『武士道』で武家社会の規範を説いているが、不変なものとは捉えていない。だが戦前には、武士道や「大和魂」は富国強兵の価値観となり、戦後も藤原正彦は、『国家の品格』で武士道を軸に日本人の価値観を書いた。また台湾前総統李登輝は、武士道の本質をノーブレス・オブリージュ―高貴な身分の者に課せられた義務に見出し、共感する「識者」もいる。 早坂暁は、夏目漱石が西欧文明への対応を、『三四郎』・『それから』・『門』に書いたが、その答えは示されず新渡戸稲造の『武士道』ではないとする。そして日本人のアイデンティティー(拠り所)は、聖徳太子の「和の精神」だと語った。その「和」は、ガンジーの非暴力・不服従運動に通じるという(NHKラジオ「心の時代」09.4.8.)。 ガンジーの「塩の行進」は、インドの独立につながった。そこで聖徳太子に立ち返り、「和の国」日本を提起している。その意図は、自然と人間を「活かし」・「つなぎ」、国と国を「和」で結ぶ、ピース・ジャパンである。衣食住を始め和の生活文化と、イエ・ムラ・クニ社会、寛容な人間愛は、日本独自のものだ。
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