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【司馬遼太郎】(今の小沢・鳩山誤報道を連発している産経ハゲタカ新聞・記者達の先輩です)
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak31/msg/766.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 12 月 08 日 21:31:07: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E#.E7.B5.8C.E6.AD.B4
司馬遼太郎
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司馬 遼太郎
(しば りょうたろう)
誕生 福田 定一 (ふくだ ていいち)
1923年8月7日
大阪府大阪市
死没 1996年2月12日(満72歳没)
大阪府大阪市
職業 作家
国籍 日本
活動期間 1955年 - 1996年
ジャンル 歴史小説、推理小説、戯曲
主題 紀行文、随筆、評論
代表作 『梟のいる都城』(改題『梟の城』)(1958年)
『竜馬がゆく』(1962年)
『国盗り物語』(1963年)
『坂の上の雲』(1968年)
『街道をゆく』(1971年)
主な受賞歴 受賞歴参照
処女作 福田定一名義:
『名言随筆・サラリーマン』(1955年)
司馬遼太郎名義:
『ペルシャの幻術師』(1956年)
公式サイト 司馬遼太郎記念館
ウィキポータル 文学
表・話・編・歴
司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日) は、日本の小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。

産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。以後、俗に「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて数多くの作品を執筆、歴史小説に新風を送る。代表作に『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評を行った。

目次
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 記者時代
1.3 小説家時代
2 作家評
2.1 作風
2.2 人物イメージの影響
2.3 歴史観
2.3.1 司馬の考え方
2.3.2 司馬作品の時代性
2.3.3 歴史観への批判
2.3.4 実証性(ないし創作的行為の混入)への批判
3 人柄
4 年譜
5 受賞歴
6 全集・選集
7 小説・戯曲一覧
7.1 長編
7.2 短編集
7.3 戯曲
7.3.1 単行本・全集未所収
8 エッセイ・対談
8.1 発行部数ランキング(単行本・文庫本の合計)
9 関連作品
9.1 映像化作品
9.1.1 映画
9.1.2 テレビドラマ
9.2 ビデオ
10 脚注
11 文献
12 外部リンク

[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。父方の祖父母は兵庫県出身であり、祖父・惣八は現在の姫路市広畑の農家に生まれ明治の初め上阪して菓子製造で成功した人物。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。昭和17年4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。さらに翌年、本土決戦のため新潟県、さらに栃木県佐野市に入り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。その後すぐに図書館通いを始める。

[編集] 記者時代
戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[1]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらい出来るだろう」と誘われ、英語が全く出来ないにもかかわらず「出来ます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。

翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を勤めた。

同年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではと、思われる。

1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。この「司馬遼太郎」というペンネームは、「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味であるという。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち「梟の城」に改題)の連載を開始。

1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る。

[編集] 小説家時代
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。だが、1962年(昭和37年)より「竜馬がゆく」「燃えよ剣」、1963年(昭和38年)より「国盗り物語」を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を始めた。この辺りの作品から、作者みずからが作中で随筆風に解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終の棲家となる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居しているが、「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続く『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓。1971年(昭和46年)から、紀行随筆「街道をゆく」の連載も始めた。1972年(昭和47年)には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。

『翔ぶが如く』『胡蝶の夢』『菜の花の沖』『箱根の坂』などを書いた後、『韃靼疾風録』を最後に小説から遠ざかる。エッセイ「風塵抄」「この国のかたち」「街道をゆく」の連載に絞り、日本とは、日本人とはなにかを問うた文明批評を行った。1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者に選ばれ、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも、台湾に渡り李登輝との会談を行ったり、青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[2]。

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく」のシリーズ「濃尾参州記」取材を終える。直後の2月10日深夜、吐血して倒れ国立大阪病院に入院、12日の午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。72歳だった。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院(現:大阪医療センター)は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆の「濃尾参州記」は未完となった。3月10日に「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれ、3000人が参列した。法名は、「遼望院釋淨定」。また従三位を追賜される。翌年には司馬遼太郎記念財団ができ、司馬遼太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に司馬遼太郎記念館が開館。司馬遼太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼太郎メモリアル・デー」を開催している。なお、NHK大河ドラマの原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」と称する「坂の上の雲」を含めると7作品である。

[編集] 作家評
 

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