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http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2006/09/post.html
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「闘う政治家」の「闘う相手」(1) »
ロッキード事件の真相
30年前の7月27日早朝、私は東京地検の玄関前にいた。暑い夏の日差しが照りつけてきた午前7時20分、黒塗りの車が地検の玄関前に止まり、中から日焼けした顔の田中角栄前総理(当時)が降りてきた。直ちに無線機で社のデスクに一報を入れたが、すぐには信じてもらえなかった。「田中角栄が東京地検に入りました」と三度繰り返してやっとデスクも納得した。戦後最大の疑獄事件と言われるロッキード事件の田中逮捕の瞬間である。
誰もが予想しない前総理の逮捕に日本中が衝撃を受けた。以来、ロッキード事件は「総理大臣の犯罪」となり、金権政治の象徴として田中角栄が糾弾された。それまで「庶民宰相」、「今太閤」と田中を持ち上げてきたマスコミは、手のひらを返したように田中批判に転じた。
しかし事件の発覚当初から取材してきた私には、この日の田中逮捕が事件の全容を見えなくする「目くらまし」に思えてならなかった。
1976年2月にアメリカ議会上院の多国籍企業小委員会で発覚したロッキード・スキャンダルは、アメリカの航空機メーカーであるロッキード社が自社の航空機売り込みのため、多額の工作資金を海外の要人にばらまいたという国際的な汚職事件である。
工作の対象は日本だけでなくイタリア、ベルギー、オランダなど15カ国におよび、ロッキード社は各国の秘密代理人を通して工作を行っていた。日本の秘密代理人は右翼民族派の領袖で自民党の前身である自由党に結党資金を提供した児玉譽士夫である。
当時ロッキード社が日本への売り込みを図っていたのは民間航空機トライスターと対潜哨戒機P3Cオライオンで、それぞれ30億円と25億円の工作資金が政府高官に流れていた。
資金の流れは児玉ルートの他に、トライスターの販売代理店である商社丸紅のルート、トライスター購入を決めた航空会社全日空ルートがあり、我々はこの3つのルートを取材対象にしていた。ところが本命の児玉ルートは、本人が病に倒れたことと児玉とロッキード社との通訳を務めた福田太郎が急死したことを理由に全く手がつけられず、防衛庁が導入を決めた対潜哨戒機P3Cの売り込み工作についてはすべてが闇に葬られた。
田中角栄はトライスターの導入に絡んで丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとして起訴されたが、それは政府高官に流れたとされる金額のほんの一部に過ぎず、事件の全容は全く解明されていない。解明されていないにもかかわらず、前総理の逮捕という衝撃が目くらましとなって、ロッキード事件はあたかも田中角栄という特異な人物の「政治とカネ」の話にすり替わっていった。
おそらく全容が解明されれば、この事件が田中個人ではなく日本政治の構造的な問題であることが明らかとなり、自民党は壊滅的な打撃を受けて政権維持が難しくなったと思われる。ところがこの国には自民党に代わって政権を担当できる野党が存在しなかった。野党第一党の社会党は政権を取る構えがなく、自民党という日本国の「経営者」に要求を突きつけて若干の修正を勝ち取る「労働組合」の役割に徹していた。その証拠に社会党は選挙で過半数を越える候補者を擁立することをしなかった。初めから政権を取らないようにしていたのである。
このため当時の日本の政治構造は、国民が選挙によって政権を交代させるのではなく、万年与党である自民党の中の派閥の権力闘争によって擬似的な政権交代が行われ、野党は自民党のそれぞれの派閥の「隠れ応援団」にすぎなかった。社会党左派と公明党は田中角栄の応援団、社会党右派は金丸信、竹下登の応援団、民社党は中曽根康弘の応援団といった具合である。
日本にも政権を担当する野党を作らなければならないと言われ始めたのは、このロッキード事件の直後からであった。
政権を担いうる野党がない以上、捜査当局は全容を解明したくとも踏み込むことは出来なかった。それをすれば日本の政治は混乱し、国民生活の安寧秩序を損なうことになる。事件発覚直後に児玉譽士夫が病に倒れ、福田太郎も急死した事を奇貨として、対潜哨戒機売り込み工作の解明は消え去り、ロッキード事件は田中角栄の犯罪に「矮小化」されていった。
1976年2月から9月までロッキード事件を取材した私の見方はそのようなものである。
いったんは日本の最高権力者の地位に上り詰めた田中角栄にとって、7月27日の逮捕は決して認められるものではなかった。彼にとって逮捕は自民党内の権力闘争の延長上にあり、三木総理による政敵潰しに他ならなかった。田中は全身全霊をかけて自民党内権力闘争に勝利し、再び権力を手にすることを決意する。
ロッキード事件から8年後に私は政治記者となり、有罪判決を受けた後「自重自戒」と称して目白の私邸にこもっていた田中角栄と月に一度昼食を取りながら話を聞く機会を得た。「話の聞き役」は田中角栄が病に倒れる直前までおよそ一年間続いた。
「65歳で政治家を辞めようと思っていたが、ロッキード事件があるため辞めるわけにはいかなくなった。これも神の思し召しだと思っている。私は辞めない。天は私が安住することを許さない」。そう言って田中は無罪を勝ち取るため、自らの派閥からは決して総裁候補を出さず、他派閥の候補を総理大臣にすることで、最高権力者を裏からコントロールする「裏支配」の仕組みを作り上げた。
三木政権に続く福田政権は「角影内閣」と呼ばれ、大平、鈴木、中曽根内閣も「直角内閣」、「田中曽根内閣」などと呼ばれて田中角栄の影響下にあった。無罪を勝ち取ろうとする執念によって田中は総理大臣の時以上の強い権力を手中にした。自民党は田中の思うままになり、日本の権力構造はかつてなくいびつなものに変形した。そうさせたのはロッキード事件である。
1985年、田中は無罪を勝ち取ることなく病に倒れた。しかし田中が病に倒れた後も「裏支配」の構造は生き続ける。中曽根康弘は自らの政治路線を継承する事を条件に竹下登を後継者に指名し、竹下政権が短命に終わると宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一と続く政権はいずれも田中角栄の流れをくむ最大派閥によって裏からコントロールされた。
しかし田中なき後の「裏支配」政治は次第に自民党の活力を奪っていく。政治改革を巡って自民党が分裂し、1993年の選挙で初めて非自民の細川政権が誕生すると、自民党最大派閥は今度は社会党の村山富市を総理に担いで復権を果たすなど、日本の政治は混迷に混迷を重ねてきた。
30年前、自民党政治を破綻させないために事件の全容を解明せず田中角栄一人を人身御供にしたことが、その後長らく日本の政治を歪めて閉塞状態に陥らせる不幸を招いた。
それがかつてロッキード事件を取材し、その後政治家田中角栄を直接取材することになった私の見方である。
2001年4月にはじめて自民党最大派閥が総裁選挙に敗れた。積もり積もった閉塞状況がついに沸点に達したかのように、自民党で支持されるはずのない小泉純一郎が総理に就任した。それまでの閉塞感が強かっただけに国民は熱狂的に小泉総理を支持した。
その小泉政権もまもなく終わる。ポスト小泉を巡る自民党総裁選挙が始まるところだが、かつてのような擬似的政権交代を演出することは難しい情勢だ。小泉路線を継承する安倍官房長官の独走態勢は揺るぎそうにない。かつての自民党なら小泉政権と対極に位置する政治家が次の総理になることで、あたかも政権交代が実現したかのような錯覚を国民に与える必要があった。それが長期政権を維持するための秘訣でもあった。しかし政権に意欲を示す野党が出てきた以上、自民党の中だけで擬似的政権交代を続けることは難しい。今回の自民党総裁選挙はそうしたことを示しているようだ。そうであるならば次の自民党総裁は自民党員に選ばれた後、速やかに国民による選挙の洗礼を受けるべきだ。そうすることが権力に正統性を与え、政権運営をゆるぎないものにする。
ロッキード事件から30年、ようやく擬似的政権交代ではなく、国民が選挙によって日本のリーダーを決める時が近づいてきている。
投稿者: 田中良紹 日時: 2006年9月28日 22:46 | パーマリンク