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(回答先: 日航ジャンボ123便 核物質が挟んであって自己発熱する核ミサイルの破片。このような民間機に対する地獄を繰り返してはならな 投稿者 愉快通快 日時 2009 年 10 月 12 日 16:56:30)
地球上の岩が日航ジャンボ123便乗客乗員の姿形になっています。世界中で追悼しなければなりません。
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/9961.jpg
http://www.asyura2.com/bigdata/up1/source/9960.jpg
http://johnbenson.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-a3d1.html
http://johnbenson.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-3143.html
ブログ「日航機墜落事故の真相」
1985年8月12日、JAL123便は群馬・御巣鷹山に墜落、
乗客509名、乗員15名合わせて524名の内、520名が帰らぬ人となりました。
単独の航空機事故としては世界航空史上最悪のものとして、今もなお語り継がれています。
ずっと心に引っ掛かっていた事件ですが、さいきんネット上で幾つか、事件の真相を示唆するようなお話を拝見しましたので、以下にご紹介する事と致します。
まず下のPDFファイルに、真相に可なり近いと思える話が幾つも載せられていますので以下に引用を行います。
・・・後部圧力隔壁破損は起こっていない、事故調は、なぜ、何かが尾翼にぶつかったという外部原因説をとろうとはしないのでしょうか。どんな矛盾があろうとも、今もって内部原因説を捨てていないのです。・・・.生存者の機内の状況目撃証言でも急減圧はない・・・
無人標的機『ファイア・ビー』の衝突説(JAL123便が操縦不能になった原因は、飛行機の垂直尾翼が3分の2程度破壊されたことにあります。事故調査委員会は内部原因説を結論としていますが、ごく素直に考えれば、何らかの飛行物体がJAL123便の尾翼に衝突したのではないかということを疑うのが自然)、
しかし、高度24000フィート(7200メートル)の上空で飛行機の垂直尾翼にぶつかるものといったら、何があるでしょうか。それは、飛行機かミサイルのようなもの以外は考えられないのです。
飛行機は考えられないので、ミサイルのような謎の飛行物体ということになるのですが、場所は相模湾上空であり、もっとも飛行機の往来の多いところなのです。なぜ、そのような物騒なものが飛んでくるのでしょうか。普通では考えられないことです。
しかし、ひとつだけ気になることがあります。それは、JAL123便の墜落事故が起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったことです。
護衛艦は、昔のことばでいえば戦艦です。戦艦の試運航というのは、単に海上を航行するだけではなく、兵装運用実験を行うことが大切な目的なのです。
当時「まつゆき」といえば、最新の高度ミサイル防空システムを備えたシステム艦であり、実験項目もかなりあったと考えられます。「まつゆき」の任務は、来襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空することにあり、当時のこの軍事技術が後のイージス艦の開発につながっていくことになります。
この「まつゆき」の実験の一環で、たまたま相模湾上空にさしかかったJAL123便のところに何かが飛んできたのではないか――こういう推定も成り立つのです。・・・
ここで、1985年当時の日本の防衛に関する状況を振り返っておく必要があります。1985年といえば、
時の総理大臣中曽根康弘氏が米国で「日本列島は不沈空母」と発言して、大騒ぎになっていたときです。
米国がレーガン政権のときの話です。・・・ミサイル誘導システムの精度をチェックするために使われるものに「無人標的機」というものがあります。航空評論家の関川栄一郎氏は、JAL123便の垂直尾翼にぶつかったのは、この無人標的機ではないかといっているのです。
・・・重要なことは、JAL123便事故の1985年8月12日には、このEC−1は納入前のテストをしており、試験飛行をしていていたこと、それに護衛艦「まつゆき」も納入前の試運航をしており、EC−1、「まつゆき」の両方とも厳密には国有財産として未登録であったことです。
・・・そこで、謎の飛行物体として現在考えられているのは、1985年当時鋭意開発が進められていた沿岸防衛用国産巡航ミサイル「SSM−1」のプロトタイプ、すなわち、爆薬を搭載していない演習用ミサイルではないか――と考えられるのです。
・・・JAL123便の尾翼が吹き飛んだとみられる地点の南40キロメートルの高度1500フィート付近は、R−116という自衛隊の演習区域になっているのです。雫石で全日空機が自衛艇のF86F戦闘機と衝突して墜落したのも、自衛隊機が民間航路へ侵入した結果なのです。けしからん話ですが、自衛隊戦闘機パイロットの中には、
民間航空機を敵機とみなして訓練する者もいるということです。
・・・衝突6分前から気付いていた操縦クルー、なぜ横田基地着陸阻止になったか、墜落場所は早くからわかっていた..
自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか、生存者の一人・落合由美さんの証言..など(注目)・・・
あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。 ・・・
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。・・・・・・
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかくらいの男の子の声で、それははっきり聞こえました。
やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)
落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で123便に乗り合せていました。
http://www.fims.co.jp/fumitaka/osutaka.pdf
また他のページにも次のようなお話が載せられていました。
この事故が自衛隊、政府の圧力により引き起こされた可能性が高いのでは?という点です。
現場の御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっており、
もしも隠蔽工作を想定の上で、JAL123便御巣鷹山に導いたのであれば…。
単に証拠隠滅のために、保身のために引き起こしたテロ行為に他ならないのでは?
・・・・・・
自衛隊とは、日本ではなく、”自”分達を”衛”るという意味で「自衛隊」なんでしょうか。
(そういったご意見もありました。)
http://d.hatena.ne.jp/thyself2005/20061004/1159905303
最近公開された映画「クライマーズ・ハイ」へのコメントとして、次のような示唆に富んだ内容もありました。
・・・映画の中で、それも囁くように真意に迫る台詞がありました。「国が入山を許可しない。報道関係者を墜落現場へ行かせたがらない」。「圧力壁の破壊に墜落なんて、おかしいだろう」。「我々は墜落現場は分かっていたのに、どうして、朝まで行かせてくれなかったのか」。最後のテロップも「再調査を願う」というもの。ただ、この台詞から憶測すると日航ジャンボ機・JAL123便の墜落原因は誰もが報道関係者なら分かっていると思われます。それを暗にほのめかす台詞で、微妙に訴えているのでしょう。当時の内閣総理大臣を「中曽根」と報道するところにも、訴えています。「クライマーズ・ハイ」は、謙虚に、静かに、本質を隠しつつ、日航ジャンボ機・JAL123便の墜落原因を訴えていました。
不思議だったのは、”教えて!goo”において(次のような疑問・質問への回答として)完全にデマだと決め付けるー政治的な意図が横溢するー
意見に対して「良回答20pt」という評価が(根拠も示さず靖国や中国問題を持ち出して)与えられていること。逆に言うと、それが政府の立場等を(よく使われる手である)すり替えにより擁護し、代弁する者の話であるかも、と感じた・・・。
1、日航機墜落事故は、海上自衛隊が打ち上げた巡航ミサイルが衝突したことが原因であること。
2、墜落後すぐに米軍が救出に向かったが引き返してしまったこと。その時救出をしたら生存者が4名以上になった可能性があること。
3、現在まで情報操作が行われており、真相は闇に葬られつつあること。
また日航機撃墜事件は、自衛隊機による撃墜ではなくて、米軍機F19による撃墜事件だとする説を唱えるページもありました。
http://ameblo.jp/worldforumnet/entry-10164427406.html
それからWikipediaには今は削除されているみたいだが、少し前まで次のような記載もあった。
日本航空123便墜落事故の陰謀説
日本航空123便墜落事故の事故原因は圧力隔壁の破壊による垂直尾翼、油圧の喪失と発表されたが、事故調査委員会が公表した内容と生存者の情報に明らかな矛盾点がある、急減圧も起きなかった事が証言されているとして、自衛隊機の衝突説や在日米軍が誤射した対空ミサイルによる過失撃墜説、ボーイング747型機の気密安全の構造上の問題(圧力漏れがあった際に働くはずの弁が働いていなかった可能性)を隠し、世界中で運行されていた747型機を飛行停止にしないために、事故原因を単なる修理ミスによる圧力隔壁の急激な破壊として事故の早期解決を図ったとの説(事故後に747-400型へと改良された際に、気密安全構造の一部が改修されている)等の陰謀説がささやかれている。
最後に非常に興味深い一文をご紹介することと致します。
・・・状況証拠からかなり真相に近いと思われるものだ。
日米共同開発の巡航ミサイルの実験中に、ミスか故障によりミサイルが民間機の123便を追尾し始める。日航機は数分間高度を上げて振り切ろうとするが、ミサイルは尾翼に命中。乗客乗務員524名を乗せたジャンボ機は横須賀に緊急着陸しようと航路を変更するも受け入れてもらえず、途中から自衛隊機2機の誘導で方向を変更。そのままダッチロールを続け、自衛隊の秘密部隊の訓練所のある御巣鷹山に墜落。すぐに米軍ヘリが援助に向かい発見するが手を出さないように命令される。
自衛隊は証拠隠滅のために夜中まで活動。夜中の2時頃までマスコミには行方不明と発表させる。
夜中に発見したことにし、救助活動を開始。生存者4名を残し、520名の命を奪った航空史上最大の惨事となった。(ブログ「日航機墜落事故の真相」参照)
さて、真実には知っていい場合と知らないほうがいい場合があるので、政府の生存者を無視して(というよりはむしろ死んでほしかった?)隠蔽工作をした態度にはコメントできないが、ここで言いたいのは、御巣鷹山にまつわる不思議な偶然の一致である。
事故現場になったのは群馬県・上野村の御巣鷹山だったが、墜落した飛行機の機内誌「ウイング」9月号のインタビューページには、上野村の黒沢丈夫村長が登場していた。もちろん事故とは全く関係がなく、群馬県のユニークな活動家を紹介するという目的で、すでに6月には取材が行われていたという。それにしてもこの記事は、全国47の都道府県を交替で紹介するもの。その中で、このときたまたま群馬県に順番が回り、しかもなぜよりによって上野村が選ばれたのかオレには不思議でならない。「まさに天文学的な偶然の一致です。この記事によって乗客や遺族の方が事故のことを思い出したら申し訳ない」という日本航空の意向で、「ウイング」9月号は回収・廃棄されたそうだ。
このような偶然の一致は確率の世界をあざ笑うかのように頻繁に発生する。タイタニック号の遭難の前には「タイタン号」が氷山にぶつかって遭難するというそっくりな小説が存在していたし、9・11の
同時多発テロの前には、夢に見て絵を残しておいた日本の女性もいる。このような出来事を科学者たちは、いつまでも偶然の一致ということばで片付けるのだろうか?・・・・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/haguregumonoyouni/13010113.html
ブログ「日航機墜落事故の真相」 (2)
以下に123便事件と少なからず関連のありそうな話題、そして前回の続きを掲載します。
・事故当夜、基地で待機していると「相模湾で魚雷が行方不明になったので捜せ」との命令があり僚友を含む数機が飛んだ。僚友は見つけなかったが、「別の機が海上の浮遊物を発見した」と語った。―元航空自衛隊パイロットの証言
自衛隊に出動の確認を取ったところ「機密である」とし回答はなかった(証言の裏付け確認の著者)
・・・いずれは分かると思うんだけど(直ぐに真の原因が分かると言う意味だったんだと思います)...と言って話してくれた事は、「123便の事故は、本当は○○隊が○落させたんだよ。当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ」と言っていました。当時まだ事故から数週間しか経っていない時にそう言ったのが当時、凄く印象的でした。もちろん当時私は半信半疑でしたが、今考えても彼が私に嘘を語る理由もないし、嘘の話をしたところでなんにもないのです。ただ、彼も自分が知っている事を誰かに話したかったんだと思います。
・・・・ジャンボ機のあとを、戦闘機みたいなのが2機追いかけていった
・マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の 透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。―浦和市に住む住民の目撃証言
(垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです)
・飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。―長野県南相木村中島地区の住人3人
・生存者救出のために山腹に到着した時、既に自衛隊員が到着していて生存者救出そっちのけで、(証拠隠滅に)機体の一部を回収していた。(先の特殊部隊と思われる)
・奇跡的に生還した川上慶子さん(当時12歳?)の証言。
同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。「墜落したあと、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。しばらくすると前方から懐中電灯の光が近ずいてきたので助かったとおもった。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。」 慶子さんから上記の話を聞いた祖母はご近所のひとに伝えたらしい。しかし「慶子は夢でも見たんじやろう。」で終わってしまった。
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=180
http://ja8119.iza.ne.jp/blog/entry/589773/
日航123便事件の約14年前、1971(昭和46)年7月30日に発生した全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)時、
事故当日の7月30日午後9時に、教官が松島基地でマスコミとの記者会見に応じたが、その場で『この時(空中衝突地点を)定期航空路近くだと思う。航路を考えながら飛んでいるが、上の方にはジェット機、下のほうがプロペラ機が飛んでおり、いちいち考慮していては訓練にならない』と不機嫌な感情を込めて発言した。
また 事故に対する裁判で自衛隊側は「過失は全て全日空側にある」と主張したが、
刑事裁判において、第一審の盛岡地裁(1975年3月11日)は、『全日空の過失を論ずるまでもない』として、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑判決を言い渡した。
最高裁は「航空路に隣接して訓練空域を設定したうえに、被告人らに特段の説明もなく」「杜撰な計画に基づく上官の命令による訓練」であり「被告人らは訓令命令を拒否できなかった」として、上司の基地幹部の怠慢があったことを認定した。
そして、刑事裁判で被告人は、訓練指示が古い航空地図に手で指し示しただけのものという漠然としたものであったと証言した。
作家の柳田邦男氏は「組織としての航空自衛隊の過失は明らかであるが、裁判は現場の人間を血祭りに上げただけで、背景にある事故原因については何ら問われていない」と批判している。
大韓航空機撃墜事件・乗客生存説
日航123便事件の約2年前、1983年9月1日未明、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空(KAL)007便ボーイング747ジャンボ機が樺太(サハリン)沖のモネロン島上空で、ソ連戦闘機のミサイル攻撃により撃墜され、乗員乗客合わせて269
名が死亡したとされる謎の多い事件での生存者情報
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/daikannkoukuukigekitui1.html
また日航123便事件の約5年前、1980年 アメリカ・ウィチタのマコーネル空軍基地で、ICBMタイタンIIが訓練中に誤って発射シーケンスに入った事もあった。
「ハイジャック機撃墜法」の違憲判決 2006年2月20日独
ドイツで一つの法律が、施行後わずか1年で違憲・無効とされた。・・・
連邦国防大臣が、ハイジャックされた民間航空機を撃墜する権限をもつ法律改正が行われたのは2004年9月だった(直言「あのエアバスを撃墜せよ!」)。この法案には連邦参議院が異議を唱え、これを連邦議会が加重された多数決で再可決して、かろうじて成立したものである。だが、法律公布にあたり、連邦大統領が、違憲の疑いを示唆しつつ署名するという異例の展開となった。
このいわくつきの法律が15日、連邦憲法裁判所で違憲・無効とされた。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2006/0220.html
実際問題として撃墜の為に中性子爆弾が使われなかったとしても、
123便が事故時輸送中だった医療用ラジオアイソトープ(放射性同位元素)や、動翼(フラップなど)のマスバランサーとして使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染について周知された事実が無かったのは大問題だったと言える。
・・・墜落からおよそ1時間半後の20時すぎ、日航からではなく日本アイソトープ協会から事故機にラジオアイソトープ72個が積まれていることが警察庁に届け出された。一部報道機関によれば、後日の調査の結果わかったとされているが、日本航空幹部によれば事故機の部品としてウランが使われていることも事故直後に当局に伝えたという。科学技術庁も当初からウランについては承知していたと話している。
事故後、現場の地表面で最大3ミリレントゲン/時の放射能があり、現場の土は自然界の数十倍に放射能汚染していることが明らかになっている。しかし、この値は、ある程度時間がたったときの測定であり、事故直後では、もっと高い測定値であったことがうかがえる。
・・・
さらに、事故機にウラン重りが使われていて、これがなくなっていたことが明らかになったのは8日経った8月20日だった。しかも、新聞のスクープだった。日本航空社内では公表すべきかどうかの議論がされたが科学技術庁の意向により公表を控えることになったという。この間、事故現場にはウランの存在を知らされぬまま、救助隊・事故関係者・取材、報道関係者など何千という人々が足を踏み入れていた。
問題のジャンボ機にもこのラジオアイソトープを含め合計92個、容器も含めた重量約239キログラムの放射性物質が積まれていた。
・・・事故後数年して公表されていなかった核の種類が判明した。そのなかには、プルトニウムと同様、原子力施設での取り扱いにおいて極めて高度の危険度を有するため、設備および量が制限されているアメリシウム241という放射性物質が含まれていた。
http://gooyan.kitaguni.tv/e375098.html
最後に引用する中性子爆弾使用説についても否定し切れない面もあるが、仮にそれが事実を完全に伝えるもので無かったとしても、上記のような事情を考えると事故現場の放射能汚染や環境への影響についての論説は説得力もあり自然な発想だと理解出来、真実の一端を伝えるものであると感じます。
〓1985年8月12日の月曜日JAL123便事件〓
18:12:10離陸テイクオフ(前後方向加速度3G)
18:12:30。800feet通過 18:12:35機首方位180度指示 18:15:55機首方位200度 (事故調査委員会報告では18:18) ニューヨーク報道 「離陸3分後問題発生」 18:16:22「日航123便SIDコースの2マイルより右寄りだ通常の航法に戻せ」 ※ハイジャック対策リモートコントロール技術開発中で民間航空化する前の123便がターゲットに ゆっくり山岳地帯にコースを逸脱させられる。 添付写真(2、3〜5)犠牲者小川哲氏機内から撮影で朝日新聞1990年10月14日朝刊掲載三浦半島が手前に有ります。奥に富士山が有り相模湾の上空に入りつつ有ります。矢印はFIREBEEです。其のボディには日本開発の(米ステルス機用ステルス塗料のオレンジ色※塗料が塗られてます)やはり日本開発で純国産ミサイル(ターボジエット方式に切替。低周波発生する。ブースター付。ASM-1発展型)開発中の頭脳搭載してます。撃墜事件後ステルス爆撃機を開発中の発表してます。護衛艦まつゆきファイアービーを移動式発射台から打ち出します。
■写真(小川哲氏撮影)
http://file.ascensionnote.blog.shinobi.jp/uhguihiu.jpg
▼ファイアービー
http://intec-j.up.seesaa.net/image/070831.jpg
日航ジャンボ機墜落事故 JAL123便はミサイルにより撃墜された・・・・決して真実が明かされる事はないだろう・・・。
http://nikkeiheikinsakimono.cocolog-nifty.com/nikkoujmbonosinnjitu/2008/06/post_1984.html
JAL123便 JA8119号機航空事故調査報告書に基づく操縦室用音声記録装置の記録
http://www.geocities.jp/jal123_19850812/CVR/CVR.htm
・日本航空123便事故 御巣鷹山悲劇の真相(圧力隔壁主犯説への反論)
http://www1.odn.ne.jp/ ̄cck42770/
墜落したJAL123便の遺品の中から座席中央部分の最後部から5番目に座っていた小川哲氏(当時41歳)は、尾翼が吹き飛ぶ6分前、飛行機の窓から123便を追尾するように飛行してくる物体に気がつき、それをカメラに収めています。
http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://file.ascensionnote.blog.shinobi.jp/uhguihiu.jpg&imgrefurl=http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/Date/20090123/&usg=__cFKBDoZ6SIO-eEn_g8tyz3HleZg=&h=735&w=535&sz=79&hl=ja&start=1&sig2=JjCKhRhi2_cgCOPC9qlupg&um=1&tbnid=lvZDA4VnEixDvM:&tbnh=141&tbnw=103&prev=/images%3Fq%3D%25E5%25B0%258F%25E5%25B7%259D%25E5%2593%25B2%2B%25E6%2597%25A5%25E8%2588%25AA%25E6%25A9%259F%2B%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F%26hl%3Dja%26lr%3D%26sa%3DN%26um%3D1&ei=hTfLSdLKKsyIkQWOuenyCQ
1985年8月12日の月曜日JAL123便事件
http://ja8119.iza.ne.jp/blog/entry/603802/
・以前起きたカナダ航空の事故では、内圧に耐え切れず「圧力隔壁」に大人2人分の穴が開きました。
この時、「急減圧」と呼ばれる急激な内圧の解放【内→外】の力が一気にかかり、給仕するワゴンはあっという間に機外へ吸い出されるように吹き飛びました。
スチュワーデスも吹き飛ばされそうになりました。乗客も阿鼻叫喚の大パニックです。
しかし、同機は奇跡的に無事に帰還し、死傷者は一人もでませんでした。ちなみに、
このカナダ航空の事件では垂直尾翼には何の問題もありませんでした。
垂直尾翼が吹き飛ぶには、圧力隔壁に大きな穴が開き、急激な内圧の解放【内→外】の力が一気にかからないと起こりません。
それならば、今回の123便がカナダ航空の事故より圧倒的な急減圧が起こっている筈です。
もちろん圧倒的な急減圧が起これば機内の荷物や乗員は一瞬にして外に吸い出されるように吹き飛び大パニックになる筈です。
しかし、そのようなパニックは先ほどの生存者である吉田さんの証言やコクピットボイスレコーダーからはまるで確認できません。
では、一体どうやってJAL123便の高さ9メートル、3階建てのビルにも相当するも垂直尾翼の3分の2もの鉄の塊が吹き飛んだのでしょうか?
吹き飛んだ垂直尾翼は、当時相模湾・伊豆沖で試運航中で艦対空追尾型巡航ミサイル演習訓練をしていた自衛隊の護衛艦「まつゆき」によって、翌日の1985年8月13日午後、偶然発見、回収したと発表しました。
・・・・・・
事故から、20数年経過した現在も、事故原因の再調査、真の原因究明が遺族をはじめ、多くの人々から叫ばれています。この世界最大の航空機事故はあまりにも不可解、解せない事が多すぎます。
背後に真相を握りつぶす、巨大な陰謀を感じます。そう、911の航空機テロのように・・・。
ascensionnote.blog.shinobi.jp/Date/20090123/
・izaで真相に迫ると思えるブログを見つけました。以下に引用を行います。
◆ 日航機墜落の原因として圧力隔壁の破壊が発生し垂直尾翼が破壊されたとされている。
しかしその後の各種検証や生存者の証言によって急減圧がなかった疑いが強く決定打に欠け、数多くある「仮説」の一つであるのが実情である。
この事故の原因調査については各種書籍やメディアで論じられているので細かくは触れないが要約すると事故調査委員会としては下記2条件に合致する事故原因が望ましいということだろう。
条件1:この機のみの特殊要因である。
条件2:米軍や自衛隊の関与は認めない。
・・・
123便は米空軍専用空域「横田エリア」に近い相模湾上空で垂直尾翼をなくした。
慌てふためいた上層部は墜落した後も意図的な誤報を流し墜落場所を混乱させ時間を稼ぎ、先行空挺部隊に現場を確認させた。
証拠隠滅は不可能であったとしても、現場を確認したかったのだろう。
10年後の証言で米軍ヘリが現場にすぐに到着しレンジャーが降下し人命救助に当たろうとしたところ基地から要請で引き返すように命令されたのもこれで合点が行く。
あの時点で川上慶子さんや落合由美さんの証言によると他の多くの乗客と「これで助かるね」と話し合っていたそうである。
何しろ自分の真上にヘリはホバリングしていたのだ。
しかし、その後ヘリは去っていった。
人命救助よりも優先される「何か」があったと考えるのが自然だ。
事故の決定的証拠になるはずの相模湾の垂直尾翼の回収作業は3日で終了し、結局回収されなかった。ここも怪しい。
最も重要な証拠物件の捜索をたった3日で終えるのはあまりに不自然である。
だがそれもミサイル誤射説であれば納得がいく。垂直尾翼が回収されれば外部から何かがぶつったことが判明するであろう。
そうなれば必然的に米軍や自衛隊の関与の話が出てくる。何としてでもそのシナリオは避けたい。
・・・
実際に遺族が望むのは頬かむりではなく、事故及びその後のずさんな対応の真実の究明だ。
ミサイル誤射説といえば、突拍子も無い暴論と一笑されそうであるが、旅客機と戦闘機のニアミスやミサイルの訓練中の誤発射事故等決して珍しくない。現実に雫石にて1971年に全日空機を訓練で「敵機と見立てた」自衛隊機と衝突し墜落している。
ここ10年を見ても類似事例は存在する。
1995年11月 小松基地にて訓練中のF15がミサイルを誤射し、僚機を撃墜。F15イーグルの唯一の撃墜事例となった。
1996年6月 自衛隊護衛艦ゆうぎりが、米空軍A−6を誤射し撃墜。
2001年には広島でF4ファントムによるバルカン砲誤射により20ミリ弾丸が188発も発射された。
この事故に限った話でなく、私は自分の仕事においても原因が分からない問題がある場合様々な仮説をまずは立ててみる。
そしてそれら一つ一つを検証していく。これは問題解決の基本である。
・・・事故の救出を意図的に遅らせた動きがあったことも事実である。
つまりこの世には救出できた生存者を見殺しにし、真実を隠蔽する罪人が存在しているということだ。
罪人は裁かれなければならない。しかし我々一般の無力な市民には何も出来ない。これがこの社会の権力構造の現実だ。
20年後の今頃は天下り先を引退して悠々自適な勝ち組の暮らしをしているかもしれない。
もう時効が成立したこの事件の罪をあがなうべき者たちは今頃ほっとしていることだろう。
「俺は逃げ切った」と。
権力者にとって自分の名声や地位、利権に比べれば人の命など虫けら同然だ。
優秀な権力者としての評価は問題が発覚するプロセスの初期の段階で火消しをする手腕で問われる。
・・・
その後の関係者の証言などからは通説とは異なるミサイル誤射説なども検証されるべきだと思うのですが、残留物の徹底的な検証は行なわれていない・・・・・・
http://ja8119.iza.ne.jp/blog/entry/501879/
・中性子爆弾使用説へのコメント
日航ジヤンボ機123便は、中性子爆弾によって、撃墜されたと書いておられます。
その理由を、いろいろの事実をあげて書いておられます。
その一つとして、「123便飛行中の機内の様子が中性子線で地上にも転写されている」があります。これと同じものかどうか分かりませんが、広島に落とされた原爆の資料をいくつか見ていますが、記憶にあるものがあります。確か、当時、住友銀行の玄関に居た人の姿が階段のところに写っているのを見た記憶があります。
「中性子線で地上にも転写されている」は考えられることではと思いました。
筆者は 「中性子爆弾の放射化の影響は21年経ち、むしろ線量が強くなってきている傾向がうかがえます。広葉樹を中心に中性子線が当たるところにある樹木はかれ始めています。樹皮には123便の地獄の瞬間がプリントされ、半径50Kmの埼玉県内では乗客の形に焦げている樹木が散見されます。21年経ってからこの距離で焦げてしまう中性子爆弾の恐ろしさにはただただ驚嘆するばかりです。電柱の張り紙の跡は乗客の形に残り、電柱や街路柱が地獄絵になっています。これは都心や横浜付近でもいくらでも無数に確認できます。事態は深刻です。関東に人が住めなくなります」
と記し、中性子爆弾の恐ろしさを警告されています。
21年経ち、むしろ線量が強くなっているということは、能力のない私には、理解できないところですが、御巣鷹山に墜落したときには、私も撃墜されたと思いました。コントロールを失って山に激突、その時にも、中性子爆弾が使われたと思いますが、その時の機内の様子が地上に転写されていると書いておられます。
もし、このことが本当であれば、毎年、慰霊のために、御巣鷹登山をされておられる遺族の方は、死にに行っているようなものです。
このような内容は、今後も、絶対報道されることはないと思います。なぜかと言いますと、あることがきっかけで、日航ジャンボ機123便のことを知るために、少し、朝日新聞の報道を調べてみました。そして、おかしいなと。調べをすすめますと、他社の報道もおかしいと。これは、政府が報道規制を行ったと思いました。
それからというものは、毎日、図書館に通い、新聞記事をコピーし、帰宅後、すべてをコンピュータに打ち込み、保存、分析しました。当時は文章を読みとるソフトがありませんでしたから、大変でした。その結果を3回に分けてある会合で発表しました。
これはアメリカ軍と自衛隊が関与しているなと思っていますと、同じようなことを書いた本が出版されました。
調べたことを会合で発表するたびに、みなさんにお願いしました。私が交通事故とか、なにかで急死したときは、殺されたと思って調べてくださいと言いました。3回目の報告後は、危険ですので、この事件から離れることになりました。
以上が、報道関係が、今後、「日航ジヤンボ機123便が、群馬県の御巣鷹山に墜落」の原因に関連することは、報道することはないであろうと推察する根拠です。
当時の新聞報道に隠した部分があるということは、間違いないと思います。そのことを知るために、それまでに、起こった飛行機の事故を各新聞社はどのように報道したかを比べました。
各新聞社の縮刷版というのがありますから、今からでも調べて頂ければ分かると思います。
相模湾から引き揚げた残骸や御巣鷹山からの飛行機の一部は、全部処分されたと聞きましたが、証拠は残しておくべきだったと思われます。この飛行機事故の処理に加わった人の健康診断もすべきでしょう。
この方が主張されていることが本当としますと、やはり、政府は謝らなければならないでしょう。そして、この方の言われるとおり、世界に向けて中性子爆弾の使用を止めるように訴えなければなりません。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-84.html
最後に(上記と同じページから)引用します。
中性子爆弾使用説 (アメリカ軍の巡航ミサイル?)
123便は開発段階のアメリカ軍の巡航ミサイルの照準実験のターゲットにされたと考えている。
不明飛行物体が前からつけ回している、と機長が気づいていて非常な不安があったから大音響のあと
スコーク77を発した。富士山近くでCVR音声が途絶えているのは不明の戦闘機との交信に費やされ
その正体を見るために旋回していたと推測される。墜落直前には羽田に戻るための右旋回を妨害され、直後にミサイル攻撃されたと航跡からも推測される。その妨害する戦闘機との交信や飛行妨害に 対処するためイライラしていたためあのような言葉使いになったと考えるのが経験豊かな機長に対しては 妥当な考え方であろう。住民が何人も火を噴きながら落ちていくのを目撃している。また、遺体の遺骨は 3センチ刻みでザクザクに骨折したものが多くあったというがこれはミサイルでしかありえない。
当時のレーガン、中曽根の西部劇でもやっているかのような幼稚で好戦的な反共主義と1パーセントを 何としても越えたい防衛費枠など時代背景をよく記憶しているものとしてはうなずける背景がある。
アメリカ軍産複合体などはありとあらゆることをやりかねない狂気の集団である。コソボにおいてもありもしない 大量虐殺をでっちあげて巡航ミサイル攻撃を敢行している。ベトナム戦争の契機となったトンキン湾における事件もでっちげ、謀略であったことが今はわかっている。この集団に対してはクリントンなども抵抗できない。
抵抗すればケネディの二の舞となろう。・・・
アメリカの走狗となっている自衛隊が事件の後始末をすることは当然であり墜落後のその不自然な行動はそのせいである。
何と加藤防衛庁長官が当日にへりで陣頭指揮をした可能性がある。へりで飛んだことは間違いない証言がある。氏は、山形にひっこんでいるが中性子線から逃げているのだろう。 トヨタも名古屋に引っ越した。20年経ち御巣鷹の伏流水が当時のものに入れ替わり中性子線の放射線量が強くなってきた。関東はもはや住めない。広島、長崎、第五福竜丸と、実験体にされ、御巣鷹も起こった。所詮我々はイエローモンキーであり実験道具でしかない。
いずれにしても諸般の事情を総合的に鑑みれば、アメリカ、自衛隊の秘密実験の標的とされ故意に 撃墜、虐殺されたことはほぼ間違いないことである。
状況証拠から見た123便
123便はプロペラのついた飛行体が垂直尾翼にぶつかり尾翼の大部分が欠損。(相模湾から回収された垂直尾翼の残骸にはプロペラの形)
ぶつかった飛行体は小型中性子爆弾搭載。機は中性子線を浴びる。(伊豆半島東側海岸線の岩が放射化、乗客の姿に風化)
機長らは比較的もうろうとしているが急減圧の影響ではなく「急性原爆症」の症状。(CVR)
機は横田もしくは羽田に着陸しうる状況にあった。着陸可能だったと推定される。(ギアを出してから平地上空では機体は安定している。 CVR)
乗客に放射線障害が出る可能性から着陸を阻止。御巣鷹方向へコントロールされる。
空峠の先で中性子爆弾を被弾。その瞬間の機内の地獄は大地に強く放射される。21年経っても放射化された大地から放射される中性子線はなかなか減少しない。
もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言があります。それが真実であるか否かは闇の中。その中の言葉に官邸からの矢の催促の撃墜命令要請に対して。「私はこんな事のために総理大臣になったわけじゃない」......総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐れて許可する条件として言い出した。「国民に撃墜を知られないようにできるなら許可しよう」、目撃者が出たらどうしますかに対して「何とかしろ」「殺せという意味ですか」に対して「私をこれ以上人殺しにするつもりか」と怒鳴り「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴っていた。