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足利事件 「巌窟王」引き合い「再審は名誉回復の場」
10月20日15時0分配信 毎日新聞
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成田薫さんが起案した、原稿用紙88枚に及ぶ判決文の控え。「過誤を只管陳謝する」と記されている=名古屋市中区で安高晋撮影
栃木県足利市で90年に4歳女児が殺害された足利事件で菅家利和さん(63)の再審が21日、宇都宮地裁で始まる。弁護団は、15日に地裁に提出した上申書で、63年に名古屋高裁で再審無罪が言い渡された「巌窟王(がんくつおう)事件」を挙げ、冤罪(えんざい)を生んだ捜査の検証や「誤判」の責任の明確化を求めている。実際に捜査を検証したり被告に謝罪した先例で、判決を起案した主任裁判官は「再審とは名誉回復の場」と話しているという。
【当時の毎日新聞紙面】「巌窟王再審無罪」夕刊一面トップでした
巌窟王事件の再審で名古屋高裁は、強盗殺人罪で服役後に仮釈放され、当時83歳だった吉田石松さんに無罪を言い渡した。判決は最後に「当裁判所は被告人、否ここでは被告人というに忍びず吉田翁と呼ぼう。われわれの先輩が翁におかした過誤を只管(ひたすら)陳謝する」と述べている。
主任裁判官(右陪席)を務めたのは成田薫さん(99)。次男で弁護士の清さん(62)が取材に応じ「父は『再審では被告の望む手続きを取るべきだ』と語っていた」と話す。
清さんによると、主に民事裁判を担当していた成田さんは、病気で同僚が死亡したため刑事裁判を担当し、巌窟王事件の再審にかかわった。裁判記録は戦火で焼失したとされていたが、戦中に名古屋勤務経験がある成田さんは「記録が保管されていた倉庫が燃えた記憶はない」と検察に記録を探すよう依頼。「共犯者」の工員の調書など捜査段階の記録が発見され調書には吉田さんが、うその供述で主犯にされていく過程がつづられていた。
再審公判では捜査などを検証し、判決には工員の供述に信用性がないことや吉田さんにアリバイが成立することが詳細に記された。当時高校生だった清さんは「父はこたつで判決の文案を練り、資料は廊下を隔てた別室にまで広げられていた」と振り返る。
判決言い渡しの直前と直後の法廷は、報道陣の撮影が許可されテレビやスチールカメラが並んだ。法廷で万歳を繰り返す吉田さんの姿が報じられ、撮影許可について最高裁からクレームが付いた。しかし、成田さんは「構わんじゃないか。被告が望んでいる。再審とは名誉回復の場」と語ったという。清さんは「判決での謝罪も名誉回復のためだったのだろう」と推し量る。
足利事件の弁護団も上申書で「再審に対する考えを聞きたい」と宇都宮地裁に求めた。【安高晋】
◇ことば 巌窟王事件
1913(大正2)年8月、愛知県千種町(現名古屋市千種区)の路上で繭商人が殺害され、逮捕された工員2人の供述で主犯として吉田さんが逮捕される。吉田さんは一貫して否認したが、1審判決は死刑。2審で無期懲役に減刑され14年に確定、35年に仮釈放された。吉田さんは工員から「わび状」を得て、戦前から戦後にかけ再審請求を5回繰り返し、61年に名古屋高裁が再審開始を決定した。無実の罪で監獄に送られた主人公が脱獄し、自分を陥れた者たちに復讐(ふくしゅう)するデュマの小説「モンテ・クリスト伯」の日本語訳「巌窟王」になぞらえ、吉田さんは「昭和の巌窟王」と呼ばれた。
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