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経歴
東京都に鳩山威一郎の次男として生まれる。学習院初等科、学習院中等科、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を経て、東京大学法学部卒業。父・威一郎は反対するも[1]、早くから政界入りを志望し、田中角栄の秘書として政治家修行を積む。
1976年、新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し当選するが、その後新自由クラブを離党。1979年の総選挙では苦杯を喫するも、翌年の総選挙で復帰。自民党・木曜クラブを経て竹下派に所属。1992年には文部大臣に就任し、一斉業者テストの廃止を行なった。
政治改革をめぐり1993年に自民党を離党、無所属で選挙を勝ち抜いた後、日本新党、新生党、公明党を中心とした非自民連立政権に参加。1994年4月、羽田内閣で労働大臣に就任し、同年12月には新進党結党に参加する。
1996年に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結成、副代表に就任したが、党の路線をめぐり兄弟間で対立が目立つようになっていった。東京都知事選挙に立候補。引退表明した青島幸男都知事の後継指名を受け、「無所属で闘いたい」として民主党を離党した。選挙戦では乱立する有力候補の1人となるが、石原慎太郎の前に次点に終わった。選挙戦は実質的に民主党の支援を受けて戦ったが、落選後は民主党と距離を置き、やがて自民党に復党(この立候補については、民主党を離党するための口実であったとする見方もある)[要出典]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙では、自らは比例東京ブロックに単独出馬し、小選挙区(東京2区)では長年のライバルであった深谷隆司を支援した(鳩山は当選したが、深谷は落選)。2002年に衆院議院運営委員長に就任。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では突然、「あのような人物を一国の総理にするわけにはいかない」と、民主党代表・菅直人の選出選挙区である東京18区に転出し立候補。民主党の創設者同士の戦いとして注目され、一時は「逆転」と報道されるほど猛追したが及ばず、小選挙区は落選したが、比例東京ブロックの名簿順位で優遇されていたことから復活当選した。
2005年の第44回衆議院議員総選挙から、母方の祖父・石橋正二郎(ブリヂストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡6区へ選挙区を移し、小選挙区で当選を果たした。
2006年9月の自民党総裁選への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を断念。麻生太郎の支持に回った。
自民党復党以降無派閥を通していたが、2006年10月、かつて所属した経世会の流れを汲む平成研究会に入会した。
2007年の安倍改造内閣で法務大臣に就任。自民党総裁選にて、立候補者の麻生太郎(自民党幹事長)の20名の推薦人のうち、推薦人代表となる。麻生支持に回ったことから福田康夫内閣への入閣はないと思われていたが、引き続き法務大臣に再任された。
2008年5月の平成研究会役員人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。同年9月には麻生内閣で総務大臣、内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)に就任。