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【wiki、考古学】(団塊暇人親父は、テレビ文明・新聞文明・霞ヶ関文明を不必要なくらい調べ尽くしてしまうと思います)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2009 年 5 月 17 日 18:45:53: 4sIKljvd9SgGs
 

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考古学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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考古学(こうこがく)は人類が残した痕跡(例えば、遺物、遺構など)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。文字による記録以前(有史以前)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時期(有史以後)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。

考古学は、遺物の型式的変化と遺構の切り合い関係や前後関係による層位から出土遺物の通時的変化を追う個々の遺跡の編年を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の施文技法や製作技法、表面調整技法などの比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。

考古学という名称は、古典ギリシャ語のアルヒャイオロジアから生まれ、英語でアーケオロジー(archaeology)といい、それを訳して「考古学」とした。

日本では、考古学という言葉自体は明治初期に古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。[1]

佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがハインリッヒ・シーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという。[2]

目次
1 考古学の位置づけ
2 考古学の歴史
2.1 日本の考古学
3 現代考古学の特徴
4 考古学のジャンル/さまざまな考古学
5 考古学の方法
6 考古学の成果
6.1 世界の古代文明・先史文化
6.2 考古学からみた日本
6.3 日本列島の北と南
6.4 トピック
7 文化財の保護と活用
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
10.1 資料
10.2 年代
10.3 方法
10.4 周辺領域
10.5 関連団体
10.6 その他
11 リンク


[編集] 考古学の位置づけ
アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流であるが、日本では従前より歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。


[編集] 考古学の歴史
考古学は比較的新しい学問であり、18世紀末から19世紀にかけて地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ[3]やウイリアム・フリンダース・ペトリ[4]らによって組織的な研究が始められた。特筆すべき業績が重ねられいき、20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。


[編集] 日本の考古学
日本では、動物学者であったエドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。第二次世界大戦が終わるまで日本の歴史学は、天皇制国家権力の厳しい監視下にあった。なかでも考古学は、皇国史観の歴史と真っ向から対立する客観的資料を学問の基礎に置くため、異常なほど厳しい社会的・政治的・イデオロギー的に制限が加えられていた。国立大学における考古学の講座は京都帝国大学にただ一つ存在した。帝室博物館などは、美術的・珍希的品々の収集と展示の場としてのみ存在した。このような環境において研究者は、皇国史観に積極的に妥協・追随する者も出た。しかし、一方皇国史観に反対し弾圧される者もいた。その他の大勢は、思想性を抜きにして、個々の事実に対する研究に終始した。そして、ごく少数であったが、戦後の考古学に継承するに足る成果を収めるものもあった。

考古学は皇国史観歴史や日本歴史とはまったく別個の存在であったために、天皇制と軍国主義は、考古学を活用する場を探し出すことができなかった。こういう中で、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧の中に「自由」を享受した。

それに対して、アジア各地へ出て行く日本人学者の考古学研究はどうであったか。そこには、興亜院・外務省・朝鮮総督府・当時の満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、また、神国的・侵略的史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの開放を願い、進んで大陸に出かけていった。 [5]

宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都大学に考古学講座がおかれた。浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。考古学における大正時代は、古墳研究の基礎資料の集積時代であった。

20世紀の間に、都市考古学や考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。


[編集] 現代考古学の特徴
現代考古学の特徴としては、

他の学問分野(原子物理学、化学、地質学、土壌学、動物学、植物学、古生物学、建築学、人口統計学、冶金学、社会学、地理学、民俗学、文献学、認知科学など)との連携がいっそう進んでいること
考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていること
があげられる。


[編集] 考古学のジャンル/さまざまな考古学
水中考古学、海洋考古学
水中にある遺跡や遺物などを調査する考古学。19世紀スイスの杭上家屋跡の確認を契機に、フランスのクストーが世界各地の海底遺跡の調査を開始したのが始まりである。日本でも、地すべりで琵琶湖湖底に沈んだ古代の集落や、長崎県鷹島沖の元寇の際の沈没船などの研究が行なわれている。
宇宙考古学(衛星考古学)
1972年にランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測の技術は、気象、災害、環境、海洋、資源など、さまざまな分野の調査や研究に応用され、これまでに多くの成果をあげてきた。衛星に搭載されるセンサの解像力が高度化し、マイクロ波センサや赤外線により地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきた。この宇宙からの情報技術を考古学研究に応用したのが宇宙考古学である。坂田俊文は、この方法によってエジプトの未知のピラミッドを発見している。
環境考古学
考古遺跡から出土する遺物の中でも、特に動植物遺体などの分析から、当時の食生活や漁獲対象、延いては周辺の気候・植生を復元する考古学。分析する遺体は、貝殻・獣骨(動物考古学と限定することもある)などの比較的大きなものから、土壌を選別(篩掛け)することによって得られる花粉・寄生虫卵などがある。1980年代以降、考古学における理化学研究の進展に伴い提唱された。渡辺誠・松井章らによる研究が詳しい。
地震考古学
地震の痕跡を考古学の遺跡からさぐる学問。1980年代に寒川旭らの研究者により提唱された新しい研究領域である。
産業考古学
詳細は産業考古学を参照

実験考古学
道具の製作・使用を実験することによって、製作の原理や方法・製作技術、使用方法や利便性・効用、製作や使用にあたっての留意点・問題点などを探ろうとする研究領域。例えば、実際に原石を割って石器を作ったり、粘土から土器を作って調理までする研究などがこれにあたる。
第2考古学
従来の考古学で主流をなしている編年研究、過去についての知識ではなく、考古学独自の思考方法を探ろうという研究。
戦跡考古学
近現代における国内の戦争の痕跡(戦争遺跡)を扱う我が国の近現代考古学の一分野。対象となる戦争遺跡は単に戦闘の跡に留まらず、師団司令部や航空機の墜落跡、水没艦船、防空壕、軍需工場、さらには現存する当時の精神的支柱(八紘一宇の塔・忠魂碑)などと、非常に多岐にわたる。1984年に沖縄県の當眞嗣一氏が提唱した。戦跡考古学に対しては、民俗学や建築学など様々な方面からのアプローチが可能である。一部では外国の戦跡の研究(中国の虎頭要塞・731部隊施設の研究、南洋諸島に点在する旧日本軍の軍事兵器など)も行われている。研究者として、坂誥秀一らがあげられる。
認知考古学
認知科学、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。
歴史考古学
考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。主に奈良時代以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例(法隆寺再建論などが顕著な例)もある。

[編集] 考古学の方法
データの収集
年代の決定
総合的解釈

[編集] 考古学の成果

[編集] 世界の古代文明・先史文化
四大文明
古代エジプト文明
エジプト神話
メソポタミア文明
インダス文明
中国文明
黄河文明
長江文明
メソアメリカ文明
オルメカ文明
テオティワカン
マヤ文明
トルテカ文明
アステカ王国
アンデス文明
チャビン文化
モチェ文化
ナスカ文化
ティワナク文化
ワリ文化
チムー王国
インカ帝国(タワンティン・スウユ)

[編集] 考古学からみた日本
旧石器時代
縄文時代
弥生時代
邪馬台国
古墳時代
前方後円墳
歴史時代

[編集] 日本列島の北と南
オホーツク文化
大学合同考古学シンポジウム
沖縄県の歴史
グスク

[編集] トピック
巨石文化(巨石記念物)

[編集] 文化財の保護と活用
学術調査と緊急調査
文化財保護法

[編集] 脚注
^ 『日本考古学を学ぶ人のために』泉森こう(しろにまじわる)編 世界思想社 2004年
^ 「考古学史を語る」佐原真『考古学への案内』金関恕・春成秀爾編 岩波書店
^ (1827-1901) 組織的な計画と方法、記録を伴う発掘を実施、世界初の実験考古学も試みた。
^ (1853-1942) エジプト土器編年の体系をうち立てた。
^
「戦後日本考古学の反省と課題」近藤義郎 考古学研究会編『日本考古学の諸問題』1964年

[編集] 参考文献
『考古学ハンドブック』小林達雄編 SHINSHOKAN 2007年 ISBN 978-4-403-25088-0

[編集] 関連項目

[編集] 資料
考古資料
遺跡
標式遺跡
遺構
遺物
地層
化石人骨
埋蔵文化財

[編集] 年代
相対年代
絶対年代
理化学的年代
暦年代
編年

[編集] 方法
層位学的研究法
切り合い関係
地層累重の法則
型式学的研究法

[編集] 周辺領域
金石学
民族考古学
年輪年代学
歴史学
人類学
文化人類学
民俗学
歴史民俗学

[編集] 関連団体
日本考古学協会
考古学研究会
日本考古学会

[編集] その他
考現学(対義語)

[編集] リンク
日本の考古学リソースのデジタル化
考古学のおやつ
Yahoo!News考古学
考古学情報広場
考古学オンライン


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