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http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2009042602000046.html
【社説】
検察の説明責任とは 週のはじめに考える
2009年4月26日
小沢一郎民主党代表の公設秘書逮捕事件では検察捜査への批判がくすぶり続けています。検察は世論に敏感で嫌疑は払拭(ふっしょく)してもらわねば困ります。
西松建設の違法献金事件で、検察に投げられたのは「公正公平な捜査なのか」「官邸の意向や政権与党との連動がないといえるか」などの疑問の声でした。
総選挙間近。それまでの政権交代と小沢総理誕生必至ムードは、公設秘書の逮捕・起訴で一気に吹き飛んでしまったとはいえないまでも、相当怪しくなっているのですから、政権交代待望論者の切歯扼腕(やくわん)や小沢代表周辺の「仕組まれた陰謀だ」の発言も無理からぬところでしょう。
形式犯か悪質犯罪か
公設秘書逮捕は三月三日。直前の二月、西松建設事件絡みで検察の事情聴取を受けた長野県知事の元秘書が自殺しています。身柄拘束はこの事件の二の舞いを避けたかったともいわれ、一部に公訴時効も迫っていました。事件は容疑が浮かび証拠がそろい次第の捜査着手が原則です。時機を逸すれば事件そのものが不発に終わる恐れがあるからです。
この時期、衆院解散は遠のいたとの観測がもっぱらでしたから、捜査着手自体は不自然とはいえないまでも、適用罪が政治資金規正法違反、しかも身柄拘束の強制捜査だったことはやはり大きな賛否論争を呼ぶものになりました。
同じ東京地検特捜部OBでも宗像紀夫元特捜部長のように「政治資金規正法は事件の最終目的とはなりえない」との否定的見解を示す人もいれば、堀田力元特捜部副部長のように「規正法は国民の悲願に応える法律。形式犯の一言で軽視するにはその意義はあまりに大きい」と積極評価を下す人もいるデリケートさです。
世論こそ何よりの武器
実際にも二〇〇〇年以降、政治資金規正法違反での逮捕者が増える一方で、〇四年の日本歯科医師連盟の献金疑惑では、検察審査会から「捜査不十分」の批判を受けました。政治資金規正法違反事件では検察の恣意(しい)性が入り込むといえるのでしょう。
公設秘書起訴は三月二十四日。その起訴事実は確かに小沢代表を追い込みました。
ダミーの二政治団体を通して小沢氏側が西松建設から受け取ったカネは三千五百万円、時効分を含めると三億円。小沢代表はゼネコンからなぜ、なんのために巨額献金を受けたのか十分な説明ができず、支持率は低下の一途です。
東京地検は規正法違反が「看過し得ない悪質重大な事案」で、その悪質性は公判で明らかにすることを予告しましたが、だからといって検察の正義が証明されたわけではありません。
むしろ西松建設からは多数の与野党議員が献金を受けながら、なぜ摘発は小沢事務所だけなのかの大きな疑問が残り、検察こそ、その「不偏不党」「公平公正」を説明する責任と義務を負ったといえます。小沢代表が政治的窮地に陥っただけになおさらです。
検察の説明責任は捜査結果と法廷での犯罪証明によって果たされます。なお捜査の途上、全容解明を尽くし、かつて異例の捜査開始宣言があったように、捜査終結宣言と国民への説明が考えられてもいい重大な局面です。検察は岐路にあります。その武器は証拠と法律、そして何より世論であることを忘れてほしくないものです。
今回の一連の事件報道をめぐっては「検察リーク」なる言葉が飛び交わされ、新聞各紙が戦時下の大本営発表さながらに検察情報を垂れ流しているかのようなイメージが広げられているのがちょっと残念です。
凡庸な記者の悲しさでリークなど絶対にないというほどの自信はありませんが、今も昔も「検察は語らず」は徹底されていて過酷な取材現場であることは変わりありません。紙面化される情報は記者が真実と確信するもので虚報はないはずです。各紙の報道に無責任報道があるとも思えません。あえて言っておきたいことです。
ダミー団体を通すという偽装までして西松建設が政治家たちに流していた企業献金は公共事業受注が目的だったとされます。もともとワイロまがいの企業献金は、一九九五年に政党助成金制度が発足した時点で、やがては禁止されるはずのものでした。政治がカネでゆがめられないように、リクルート事件やゼネコン汚職の苦い経験からでした。
聞き飽きた「カネかかる」
それからほぼ十五年、政治家たちは政党助成金を受け取りながら企業献金をやめようとしません。何のための税金投入だったのか。企業献金禁止で普通の人々が政治を。政治にカネがかかる、はもう聞き飽きました。